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学校災害と安全教育(5回シリーズその1)

2013年09月09日 00時00分01秒 | 紹介
学校災害と安全教育(5回シリーズその1)

 以下の文章は昭和40年9月号学校時報に投稿した叔父の執筆内容である。基本的な考えは現在でも継承しており、学校における安全の重要性は言を待たない。最近の耐震化や、交通安全教育等当時と格段の相違もあるが、災害が皆無になったとは言い難い。技術の進歩によって、新たな災害も散見される。当時の状況が克明に記述されていたため、現在に至る考え方が明らかになり、災害被害の未然防止に向け、その一助になればと思い掲載することにした。

 近代社会の発展に伴い、日常生活はますます複雑となり、高度の機械化の発達はオートメーションを生み出し、人間を機械の奴隷とした。しかし、科学的管理の研究の進歩によって、能率の向上は物理的な合理性のみでなく、人間を人間として認める精神主義も欠くべからざる要素であることが判り、人間関係論が主張されるようになった。このことから人間の尊重が再認識されたのである。

 戦後の日本にもたらされた民主主義の思想は、実に封建制度の瓦解と人権の尊重であった。最もめざましい発展をしたのが社会保障諸制度であろう。しかしながら、「滅私奉公」といい、「身の鴻毛の軽きに比し」の戦前思想が一朝一夕にして180度転換できるものではない。与えられたものであって、自ら体得したものでなかったからであろう。例えば、最近も、炭坑爆発(炭塵爆発)によって、多数の尊い生命が失われ、傷ついている。災害の発生のたびに、「安全第一」が大きく叫ばれ、しかも旬日を出ないでまた災害が起こる。

 危険の存在が判っていながら適切な処置が執られていない。経営者は採算を考え、労働者は賃上げだけを叫ぶ。その結果、採算や賃上げを上回る災害が労使双方を見舞う。あまつさえ、社会的評価は下落し、操業中止により賃金収入も止まる。有形無形の莫大な損失である。結局、いうところの安全は見せかけであり、観念論の形骸に過ぎなかったわけである。こういう事件から厳しい反省が生まれるのは良い傾向である。(次回へ続きます)