鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

教材作成の経験から(8回シリーズその1)

2013年02月28日 00時00分01秒 | 緑陰随想

この投稿文章は筆者がかつて経験した教材作成業務の一端をご紹介するもので、現在では組織の名称、根拠となる法、教材作成方法等についても変更や改定されていることをお断りしたい。職業訓練をご理解していただくために当時書いた文章(1979年4月技能と技術誌)を、あまり手を加えずに掲載します。

1 はじめに
 いつの時代にも、後継者の育成は、文教政策・労働政策等の政策として、ある時は華やかに、ある時は地道に、我が国の社会の近代化に適応する人材の育成として行われてきた。
 明治以来現在に至るまでに、多くの先人が経験し、体得した困難な内外の条件は、現在も形が変わっても本質は殆ど変わっていない。職業訓練は技術・技能・知識の教育訓練であり、一生涯に及ぶ社会生活の羅針盤とも言うべき位置づけであるといえる。これらについて後継者にどのようにして伝授し、後継者自身の物にするか、そして育んでいくか、このテーマは永遠のテーマであり、関係者ばかりでなく、誰しも無感心でいるわけにはいかない。

 職業訓練が教育の営みを持つ以上、過去の遺産を継承し、それを礎として創造性を附与させることであるから、継承させる内容が的確に伝わり、理解させなければならない。このために教科書・教材は一定の教育目的を達成するために、また学習に適するように編成されている。しかし、作成側と使用側では、教科書・教材の目的・使用方法等に意思疎通を欠く面がある。

 そこで今回、専修訓練課程左官科の教科者作成を担当してみて、少しでもギャップを埋めることができればと考え、執筆した次第である。本文では、まず教材使用側のニーズと作成する側の対応が、現在の職業訓練の場で果たして満足できる物であり、役割として完成しているかどうかを問題の糸口としてとらえ、現在の訓練体系の中で、使用されている教材の在り方と作成側の意図を明確に示したいと思う。(次回へ続きます)

環境汚染問題と対応(4回シリーズその4)

2013年02月27日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 確かに塗布手段として有機溶剤の代わりを水にすれば麻酔性や引火しやすい性質を持つ有機溶剤と比較すると安全であるが、水溶化したことで安易に汚染した排水が下水へ放流されるなどの二次的汚染の問題もある。塗膜となる基材や顔料が人体に有害であれば乾燥塗膜も有害であるのは当たり前のことである。劣化すれば、埃(ホコリ)となって空気中に放出されるし、雨水によって地表へ拡散する。

 環境汚染の問題の解決は環境汚染物質の使用制限、規制数値の範囲内や除去ばかりを問題とするのではなく、環境を汚染する原因物質の発生メカニズムに遡って、発生要因を探求し、原因物質の発生を極力抑え、人体への影響を限りなく少なくしていくべきだ。厳密な施工管理の点で言えば、施工材料の全数量と施工後の全量、廃棄業者へ出した量とが一致しないとどこかへ流出したことになる。従来、考慮してこなかった部分の対応が必要となれば、それによる損失は価格への転嫁もやむを得ないとした勇気ある対応も必要であろう。一般消費者のイメージダウンをアップさせるベクトルは持っていないが、必要以上の不安を取り去る努力がいま必要と思われる。業界が一丸となって全国展開すべき安全性宣言のキャンペーンや、万が一、環境汚染が発生した場合の瑕疵担保の問題も早急に着手すべき最優先課題だと思う。(このシリーズ最終回です)

環境汚染問題と対応(4回シリーズその3)

2013年02月26日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 汚染発生の未然防止の観点に立てば、もっと経験者である我々ができることがあるように思える。 環境測定が安全衛生作業で規定されていても忠実に実行している現場は大手に限られるなど、作業に当たる環境についても施工前後と一定の期間を置いた測定などの厳密さにかけている現状を見過ごすわけにはいかない。危険性に対する意識向上と周知が進んでいないように見える。健康を気使う一般消費者は心理的な部分も含め、過剰に反応し、敏感となり、アレルギー原因や環境汚染などの批判の矢面に立つ業界諸氏への風当たりの強さはここ数年、目を覆うばかりである。環境規制の厳しさに対し、対策の遅れを憂慮している状況ではなく、何とか打開できればと願う一人である。
 
 元来、塗料原料である原油は太古の時代に植物のシダ類や、ユウカリなどの芳香族炭化水素を持つ大型植物が、地中に埋もれ、その成分が原油となったといわれている。未知のヴィールスが身体を冒し、原因や対処療法が分からないというレベルの現象と異なるという意味において、分留抽出した物質がすべて有害ではなく、無毒の物質も多い。自然から得られる物質は人間の叡智により、その特性から適材適所に人類の生活に貢献してきた。

 有害な物質が医療に使われ、薬として目的を達するがごとく、使用環境の改善や手段の改良を通じ、また、塗料や溶剤は無毒化・無害化への適切な処理にもっと努力を傾注すべきで、つまり施工管理の徹底が重要となる。貴重な自然からの恵みを害があるからとか、使用状況の不適切さが原因となっていても、不要物として、存在を否定する姿勢が見受けられるのはかえって由々しき問題である。水溶性塗料のすべてが安全であり、硬化塗膜内の有機溶剤や添加剤等が全く発散しないものではない。水溶性であれば安全であるといったたぐいの宣伝はピュアな水のイメージが作る妄想である。(次回へ続きます)

環境汚染問題と対応(4回シリーズその2)

2013年02月25日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 専門領域での研究、研究対象の多様化や高度化が進み、対応が試みられてきている。特に、厚生労働省健康局生活衛生課が進める政策についてはシックハウス対策として、原因分析、健康基準値と測定法の基準、防止対策、相談体制整備、医療・研究対策、汚染住宅の改修の6項目を政策の柱として、関係省庁が連携して、推進している。

 筆者の反省を含め、読者の皆様には他山の石と思っていただきたいこととして、従来、多少なりとも、塗料・塗装作業者の中には劣悪環境を肯定する者もおり、監督者においても現場の環境の悪さを「慣れれば問題なし」とするむきもあった。つまり、先入観として溶剤の臭気や原料の臭気は除去できない、毒性もさほど影響がないと勝手に判断してきた。

 このことは職業が持つ諦めがあったように思える。指摘したい点は症状があったとしても医療現場との結びつきが希薄で、専門医師は皆無に等しく、労働福祉事業団から移管された独立法人労働者健康福祉機構の労災病院においてすら、実証的治療のデータや療法の基準はほとんど公開されていないということである。東京労災病院に環境医学研究センター(シックハウス科)が平成14年5月に設置され、本格的な診療を行っているが、残念ながら全国的には展開されていない。重い症状が出てから病院へ駆け込んだとしても、現場での経験の乏しい医師が原因究明に当たり、分析に手間取っている間に症状の悪化や、慢性化する例もあるようだ。原因がはっきりしない分野は責任の所在を見つけにくいし、緩慢な症状で推移する場合など、個人的体質の問題として片づけられやすい。(次回へ続きます)

 環境汚染問題と対応(4回シリーズその1)

2013年02月24日 00時00分01秒 | 緑陰随想


 今回は生活に直接関係する環境問題について、私見を述べてみたい。環境汚染の問題は古くは有機水銀中毒、カネミ油、光化学スモッグの発生原因である大気中窒素酸化物や、二酸化硫黄等の排気ガスに含まれる有害物質、工場からの汚水等の排出を制限する規制である。

 一昨年の3月に発生した東日本大震災によって破壊した東京電力福島第一原子力発電所から発生した放射能による環境汚染である。震災自身は自然災害であるが、原子炉を緊急停止しても炉の温度上昇は継続し、装置の故障で冷却のための注水用電源が確保できないといった最悪の状態となった。原子炉発電が安全であるという神話は見事に覆された。しかし、問題となっているのは、排出された放射能除去の対策がそう容易いものではなく、汚染された海水の拡散、土壌の除去や処分場の確保、未解決である拡散した放射能による二次・三次汚染がある。また、現在も仮設住宅等へ避難した家族が元の住居地へ帰れないといった帰宅困難状態が続いている。人体への被害は、チェルノブイリの事故による先例でも、甲状腺の異常やガン発生の高さなど半世紀を経ないと結果がわからない状況もある。

 最近では、築地卸売市場の移転で候補地の土壌汚染が問題となった。また、喫煙たばこの分煙化や食品成分表示、生活の場である建物から排出される有害物質まで、生活環境の安全性確保が強く叫ばれるようになっている。石油製品である有機溶剤が塗料の粘度調整や乾燥に欠くことができない状況の中で、水溶性化への転換や無害化への研究の努力やその成果は、顕著であるが、シックハウス症候群の原因となる残留有機溶剤や尿素系接着剤のホルムアルデヒドの影響による、大気中への拡散防止の取り組みはここ数年に始まったと言える。(次回へ続きます)

生と死(4回シリーズその4)

2013年02月23日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 最近読んだ本に「十楽の夢」(著者 岩井三四二、文春文庫)があるが、戦国時代の伊勢の長島を中心に、廻船問屋が主人公で、織田信長との戦の物語である。長島一揆のことがよく書かれており、興味深く読んだ。僧侶が民衆に対し行う救済は、一向宗門徒でなければ地獄に堕ちるという教えに疑問を持ち、親鸞聖人の本意を知り、信心の在り方を求める話も含まれている。

 物質的に見れば、死によって、身体を構成している諸元素が自然界へ帰るので、炭素や窒素や水素等が質量保存の法則によって、異なった物質となって存在し、自然界へ放出されるため、身体を構成した物質の絶対量は変わらない。死んだ身体はなくなるのではない。むしろ、魂は質量がないため、死によって精神は無になる。何とも味気ないが、生と死を物質面から見れば単純明快である。

 食物連鎖の頂点に君臨する人類が、繁栄してきたのは、多くの生物を死に追いやることによって、衣食住の環境を手に入れてきた。決して人の生死だけを問題にするのではなく、人類が生きるために犠牲となったあまねく生物の生死へも、もっと想いを馳せるべきだと思う。(このシリーズ最終回です)

生と死(4回シリーズその3)

2013年02月22日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 古代エジプト文明のミイラが精神(魂)は永遠に生き、死体は復活の時の魂が戻るところと考えていたようである。多くの古代文明でミイラ作りが行われていたようで、肉体が滅びても精神は生き続けることは輪廻転生をいう仏教でもそうであった。仏教においては出生率が変化しない時代には説得力を持ったが、人口が大幅に増えることで、疑わしくなる。輪廻転生は必ずしも人間だけではないようなので、絶滅種が増えれば、との考えもあるが、あまり突き詰めても意味がない。最近流行った歌の中で、死後は千の風になるようで、墓参が大幅に減ったようだ。
 そればかりではなく、樹木葬や散骨が話題になった。死後の世界観が多様化してきたことは、かつては考えられないことであったが、時代とともに葬儀や死者への形代(かたしろ)の在り方についても変化してきている。決して死者への追悼の想いは変わってきたわけではなく、形代の在り方の変化だと思われる。

 在職中岩手県に赴任していたとき、古い時代に、こけしは「子消し」であり、生活が困窮時に親が子供を間引きし、その形代が人形として祀られたと聞いたことがある。残酷であるが、亡き子供に対する親の慚愧に堪えない思いが伝わる話である。核家族化が進み、檀家制度も崩壊の危機にある。また、宗教色のない葬儀、葬儀の規模や方法が変わってきたのも最近の流れである。死後の世界観に関する諸説の批判はタブー視されてきたが、直面する死の問題を残された者に任すことが果たして良いのか疑問が残る。残された者へは何らかのメッセージを送る方が、むしろ良いのではないかと思われる。

 お遍路で四国八十八箇所の寺に巡礼することは、現在も続く習わしの一つであるが、自らが精進し、死後の世界へ向かう心の準備が巡礼となっている。巡礼衣装はそのまま死装束であり、死者への道標なのであろう。釈迦如来信仰が仏教にはあるが、読んで字のごとくで、「来るが如し」が如来である。精進すればするほど相対的に如来が来てくれるまたは如来に近づくことができることを意味するそうである。(次回へ続きます)