鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

スポーツの弊害その3

2016年08月25日 00時00分01秒 | 紹介

 スポーツ選手が、プロ・アマを問わず、世間から注視されているのは確かないところであろう。オリンピックもプロ選手が登場することになり、プロとアマの差が以前より縮まっている。特別な差がないということであろう。芸能界とは異なる側面を持つが、有名人になることには違いがない。以前入賞してメダルを取った多くの方が、スポーツ解説等にあったっている。それは良いことの部類に入るが、どうも引っかかるところもある。たまたま条件があっての勝者のレッテルが張られても、それが時代にマッチするかといえば、多くの点で異なっている。二番煎じは聞いていて面白くはない。

 

 自分と比較するのは意味がないことで、関係ない世界と割り切っている。人としての生き方は、世間の目が絶えず付きまとう煩わしさなのであるが、それもその人の選択であろう。かえってそれによる行動の狭さを形作られ、自由な行動も制限されるかもしれない。犯罪等に手を染めると必要以上に尾ひれがつき、ゴシップ記事の世界へと発展しやすい。そこが野次馬としての見方である。一般人にとっては、妬みがそのような行動を引き起こすのかもしれないし、それによって、他山の石としてみている面もある。

 

 確かにスポーツ選手のイメージは、単なる一分野の能力にたけているだけであり、狭い世界なのであるが、全人格者として見られる側面には行き過ぎの傾向はあるし、仕方ないところである。これが逆に有頂天を戒める反作用として意識を持って行動することであれば、確かに人格者としての尊敬を勝ち取ることも可能であろう。

 

 人生は誰にでも幸運が与えられている。その幸運を如何にして掴むかは人それぞれの選択に任されている。その判断は個人によって異なるが、諦めてしまえばその道は閉ざされる。しかし、チャンスは何回もあるし、すべての道が閉ざされるわけではないので、そう深刻に考える必要もない。わらしべ長者ではないが、偶然のなせる業で、人それぞれの個性に応じて努力すればよいこととおおらかに生きようではないか。人それぞれが集まっての世界である。

 

 今まで見てきたように、スポーツにもメリットとデメリットがある。そこをわきまえて人生に取り込むという視点が大切なことと思っている。我が国伝統の精神性を大切にする古武道の世界は、今や海外からの愛好者が増えているといわれている。次のオリンピックを目指す若者に期待しながら思いを綴ってみた。


スポーツの弊害その2

2016年08月24日 00時00分01秒 | 紹介

 オリンピックは運動競技ばかりではなく、技能を主として競う国内・国際技能オリンピックがある。産業分野の技能力を競う大会である。そのほかにも最近の傾向として工業高専や技術系の大学、専門学校同士が競うロボットコンテストがあり、チームで競う競技である。課題についても複雑で難解な動作をプログラミングして、一定時間内に完遂することや、対戦ゲームや、決まった場所にボールを投げ入れるいわゆる玉入れなど、趣向を凝らし、見ている方も夢中になる。変わったところでは人力飛行機コンテストがあるが、これは、琵琶湖を会場に、人力よってプロペラを回し、飛行時間と飛距離を競うものである。

 

 さらには、ソーラーカーによる燃費を競うものも登場している。それぞれは技術的要素とそれを駆使し人間が取り組む技術・技能系のコンテストである。優勝を意識して、若者が取り組む姿勢は、興味深い。当然一定のルールの下で、行われるという特徴がある。ルールの中には時間で制限する。素材や重量、メカニズムを制限する参加人員を制限する等それぞれによって異なり、反則は失格となる。

 

 さて、今回のリオでのオリンピックに関してセンセーショナルな問題を投げかけたのは、オリンピックのルールを無視したドーピング問題である。ロシアの国を挙げての威信は、この問題で失墜し、かろうじてドーピング検査をクリアした者だけが出場したという異例の事態となった。薬物による体力増強、中でも瞬発力や持続力などが薬物に依存していたと判明すれば、取得した成績や受賞は破棄され、以後、大会への出場ができなくなる。場合によっては大会組織から永久追放となり、選手生活を諦めざるを得なくなる。この問題は後味が悪い。

 

 もともと、競走馬に注射をして不正に掛け金を増やしたことが行われていたが、戦争等へ出兵する兵士に麻薬を与えて、意識を高めるなどの目的で使用されたこともあるようで、その歴史は古い。医学の進歩でドーピング剤でなくても、新種の興奮剤や、精神安定剤等の服用が行われやすい。体調が不漁であれば、滋養強制剤なども市販されているので無意識のうちに摂取しやすい環境にあるのも事実である。

 

 将に鼬(いたち)ごっこの世界でもあり、選手には血液採取や、検尿等を過去のデータと比較しているようで、風邪薬も飲めないといた制限が課せられている。薬剤の合成は比較的簡単に変性できるし、今後の推移を見守らなければならないが、国家が関与したとなると、モラルの問題が根底にあることは間違いない。


スポーツの弊害

2016年08月23日 00時00分01秒 | 紹介

 スポーツと技能、スポーツの持つ効用の面から取り上げたがスポーツがはらむ弊害についても触れておかなければならない。スポーツは万能ではないことである。特に近年、スポーツを通じて、いじめや暴力が多発していて、密室での悪行は数えれば相当数に上るであろう。クラブ活動や私的なジム等が、温床となった犯罪は少ないとはいいがたい。なにゆえにそのようになるかといえば、多くは監督不行き届きが指摘されている。

 

 生身の身体は体調が均一ではないし、人によっても千差万別である。スポーツという名において行われる強化合宿や、ムリな運動強化策は、経験豊富な指導者の下で行われればよいのであるが、必ずしもそうではない。体力の限界を知らずにいじめまがいの行為は、反発や抵抗できない環境の中ではまさにリンチが平然と行われるのである。これを忍耐力の強化、持続力の強化、運動能力の強化などの誤った行動が行われ、年数のさほど違わない先輩や指導者など何の資格もない上級生が下級生のいじめに利用されるのである。

 

 つまりスポーツの世界は、自分の身体や他人との関係が分かり、判断力がつき、自発的に行う年齢から始めればよいのであって、それに至らない年齢で強制される無理強いは決して良い結果をもたらさない。よくスポーツ一家で生まれ育った子供が親の言いなりで行う姿を見ることがあるが、よほど第三者の関与がDVに終わるであろう。

 

軍隊が初年兵に無理難題をふりかけ、抵抗すると半殺しにしたなどの例は数限りないし、現在の自衛隊においても形は変わっても同様な行為が行われていることは新聞紙上で散見するところである。集団リンチは止むことはない。残念ではあるが、行き過ぎた制裁がどの世界にもある。つまり、集団が目的をはき違え、治外法権と錯覚する場面が形作られるスポーツの負の世界があるということである。

 

厳しいスポーツの世界もあるであろう。極点到達、エベレスト登山や、鉄人レースと称されるトライアスロンなどは、人間の限界に挑み、成功すれば世界中からの賛辞が贈られる。それは自発的な成人が十分な準備があって挑戦するからであり、強制で行われることではないからである。

 

オリンピックはスポーツの華やかで人類の鏡といわれる反面、ドロップアウトし、脱落した人生もあることをご承知いただきたい。暗い面も述べたが、犯罪すれすれまたは危険覚悟の綱渡りは真のスポーツではないのである。


スポーツから学ぶ能力

2016年08月22日 00時00分01秒 | 紹介

 継続は力なり、石の上にも3年、心技体、健全な精神は健全な身体に宿る等、多くの格言が存在する。スポーツを通して培われる精神性である。中でも、持続力、運動反射能力、壁に当たったときの克服力・工夫、ルールを守るという忠誠心、グループで行う相互協力、精神力、などは、実生活における企業戦士としても必要とされるものである。

 

 その理由は、目前に見本があり、まねることができやすく、自己の動作との違いを見分けられることにあるからで、抽象的な概念ではない将に実践から発見できるため、目標を達成させやすいからである。勝負で勝つことが最終目標となるし、敗者は勝者を手本にでき、勝つための最短距離を進むことができる。勝者の行為をビデオで録画し、それも角度を変えることによって、次の取るべきスタンスまでもはっきりとさせることが可能である。

 

 簡単にステップにすると、動作の全体を見る⇒要素に分割する⇒要素ごとの手順を見る⇒要素をやってみる⇒カンやコツを飲み込む⇒次の要素をやってみる⇒何度か繰り返す⇒初めから各要素を連続する

 

 ここで指導者の登場である。カンやコツは独自ではわかりにくい。更に、次の要素作業との連続性(段取り)を意識することも難しい。ここを指導者に教わるのである。単純な動作から複雑な動作へ至るのは、単純な動作をクリアしないと進めない。繰り返すのはただ単に繰り返すのではなく、最も効率が良く、成功度が高い動作にステップアップするためであり、同じ動作ではないことも分かる。巧(たくみ)といわれる方の技は、無駄がなく、流れるように作業を行う。道具の良し悪しにも関係するが、無駄は力の配分の仕方が悪いのであり、最適なリズムがある。

 

 精神を統一することも必要である。雑念がよぎると成果に現れる。無心で行うなどといわれることもあり、平常心を保つことであろう。どのようなスポーツでもこれらのことは共通するし、人間が行うあらゆることにも共通する。

 

 大学生の就職活動が始まる時期であるが、企業戦士の基本はスポーツ選手と共通するせいか、学生時代に経験したスポーツの経験は総じて高く、評価の対象となっている。時代の変遷は止めようもないが、企業が欲する人材は、企業という組織の中で人間関係をどのように進めていくかの答えが飛躍するが、スポーツ精神にあるともいえそうである。


技能とスポーツ

2016年08月21日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 以前から感じていたことであるが、スポーツはどんな種目にしても、人間の五感を働かせ、訓練によって、あらゆる能力が向上する。能力といっても、運動能力といった方が適切かもしれない。チームプレーについては、チームの構成員と息を合わせ、目的とする勝負に挑むのである。

 

 職業能力とは必ずしも同一ではないが、繰り返し行う技量はまさに職業能力の習得と同じ過程を踏んでいる。つまり、繰り返し練習することによって、体で覚える。スポーツの方はむしろ単純化されているかもしれない。今回、開催されているブラジルのリオデジャネーロでのオリンピックは個人に内在する運動能力を競うものである。ギリシャで発祥したといわれるオリンピックの当初は器具などを用いることなく(用いたとしても砲丸であり、円盤等である)、人体が持つ、走る、跳ぶ、投げる、持ち上げる、などの個人競技、レスリングやフェンシングのような戦さに必要な運動能力であった。近代になれば、その様相は変わってきてはいるが、基本は同じである。

 

 習熟は、繰り返すことによって、身体を構成する筋肉の力加減、反射能力、感覚能力を高め、瞬時に反応できる能力であろう。もちろん競技には種目ごとに必要とされる部位があり、加えて、精神力も重要な要素となっている。競技といわれるゆえんは、技を競うのであり、技とは、人体が持つテクニック、すなわち、無意識にコントロールできる昇華した技能としてのカンであり、コツなのである。

 

 これらの能力は、後天的な要素だけではなく、先天的な生まれながらに持っている能力が影響する。医学者ではないので断定できないが、これら先天的能力は誰しも同じだけ持っているわけではないであろう。そうなると、誰かが内在したそれらの能力を引き出す必要性が出てくる。よき指導者に師事することも大切となってくる。

 

 今回の競技で特徴的であったのは、個人競技だけではなく、団体競技の能力である。ダブルスといわれる競技は選手がペアとなって参加する。ペア同士の息が合わないと失敗する。これには精神性が問われていると思える。1プラス1が2ではなく、3や4となる世界を見た。精神性、連帯感が勝負を左右するのである。相性というのか、相手との連係プレーが、相手の能力を引き出しているようであった。仕事との共通性を見出し、スポーツであっても、原点に人間関係が重要な要素としてあることを改めて感じている。

 


さまざまな帰省その2

2016年08月20日 08時00分05秒 | 紹介

 夏の暑さは防ぎようがないが、航空機もその手配でフル稼働である。どうも納得がいかないが、同じ系列である航空機会社が、申し込み時はすでに分かれているが、いざ乗る飛行機は同じ便であり、共同運航などといっていたのが気にかかる。申し込み時の航空機運航会社が事故等の責任問題が出たときに対処するのであろうが、これも混雑時の対策の一つとして捉えたが、同系のグループであれば可能なのかもしれない。

 

 飛行場の駐車場も混雑していて、地方空港ではめったに発生しない渋滞が何度かあった。幸い第2駐車場が少し離れているがあるので、混雑時にはそちらへ誘導されるため、さほどの待機時間はない。食堂も混雑しているし、久しぶりに混雑したターミナルビルを見ることができた。

 

 観光客もいたと思うが、お盆の時期に活況を呈する飛行場、普段では見られない混雑さは、過疎の地方の特徴かもしれないと思いながら、出迎えの高齢者に目を向けると、喜ばしい顔が印象的であった。駐車している車のほとんどは黄色いナンバーを付けた軽自動車である。道路でもすれ違う車もほとんどが軽自動車であった。

 

 帰省するたびに街中の商店がシャッターを下ろし、空き地も目立つ。今回、特徴的であったのは、山間部のミカン畑の大部分がソーラー発電の施設に様変わりしていたことである。この地域は温暖なため、一時はミカン畑が多かった。最近は、カボスやゆずに変わったと聞くが、後継者不足も深刻のようである。

 

  おそらく、農協の指導で、収益の上がる作付けへの転換が進んでいるようであるが、一時、ハウス栽培でのネギが推奨された時期があったが、最近の状況は不明である。地方での雇用の場が変わりつつあるのも事実で、液晶や精密加工部品生産は、飛行場を背にして、輸送にはうってつけであり、多くの大手企業が工場を建ててはいるが、企業が進出しても、従業員の大量雇用には結びついてないようで、生産方式が高度化し、人手を必要としない傾向が強いようである。

 

 地域の技術レベルからすると少子化の影響もあるし、次男や女性は都市部へと転出し、の高長男も、農業の後継者となるため、雇用に直結しないミスマッチが起きているのかもしれない。介護関係についても働き手不足が浮上しているとのことを特養施設の所長が語っていた。

 


さまざまな帰省その1

2016年08月19日 00時00分01秒 | 紹介

 夏休みを利用して故郷に帰る方も多い。特にお盆を故郷で過ごす方は、恒例となっているし、子供連れでの規制は、都会では味わえない、地域の夏祭りや海水浴、登山等様々な計画が行われたことであろう。お盆が済めば帰京ラッシュでの渋滞に巻き込まれてしまう。それが分かっていても、帰省にはそれ以上のメリットがある。

 

 数年ぶりに一人旅であったが女房の実家へ、愛犬が自宅にいるため、夫婦ではなかなか出づらい。近所に住む嫁いだ先の娘と孫に犬のえさやりと散歩をお願いして、出発した。女房は一足早く空き家になった実家へ戻った。自分は1日遅れで直行便に乗った。帰省客で満席の状態であった。移動には大きめのデイパックが便利である。

 

 空路で1時間半であるので、前後を入れても3時間あれば実家に到着する。飛行場ではレンタカーを借りて女房が迎えに来てくれた。日中は35℃を超す猛暑の中であったが、日陰に入ると熱気は感じられず、やはり九州の夏である。夕方にはクーラーなしでも過ごすことができる。それでも大いに扇風機が役に立った。

 

 特別養護老人ホームに義母が入所しているので、挨拶がてら出かけた。車で20分ぐらいかかるが、帰省期間中は日課となった。実家は空き家になっていて、3か月ごとに帰る女房が、その都度、窓を開けて風を入れているが、何となく湿っぽく感じた。今回の帰省の目的は、大形のいらなくなったものの片づけである。分類と持ち出しにほぼ1日を要した。家具類、布団、ベッド、家電製品、長年放置されていた発明品、電線、こたつ等雑多である。おおよその見当で、2トントラック1~2台分なので、早速、レンタル会社に予約した。

 

 翌日までに、大方の廃棄物を庭に出し、レンタル会社に行き、トラックを借用する。1回の使用時間は6時間ということで、時間が経過すれば2倍の料金が発生する。前もって処分場の場所については女房が調べてくれていた。2回往復しても十分時間があると算段していた。実際には1回で済んだのであるが、家庭用の廃棄物以外の品物が含まれていたことで、係員の指示により、それらは産業廃棄物として最終処分場所が異なっていたため、そちらで処分を済ませた。

 

  この処理にかかった総時間はぎりぎり、6時間以内で終わることができた。道路は混雑していなかったが、最終処分場の位置はカーナビのお世話になり、新たな場所であったため、予定外であった。担当した処分場の作業者も総じて親切であったことが印象として残っている。