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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

戦争の実体験 帰営時間遅刻(2回シリーズその1)

2013年09月20日 00時00分01秒 | 紹介

 昭和18年12月29日豊橋第二予備士官学校を修了、見習士官に昇進した。見習士官になると、今までの牛蒡剣と違い、軍刀を吊し長靴を穿き、誇りがましい気がしたものである。修了と同時に、南方に転属する者、航空隊や船舶工兵に転属する者と原隊に復帰する者とに分かれた。

 自分は幸いにも原隊復帰組であった。入校のため金沢を出発したとき、360余名を引率する輸送指揮官であった自分は、復帰組では僅かに一割の36名の副輸送指揮官であった。在校中の成績によって、教育総監賞を貰ったM君が輸送指揮官であった。厳しくしごかれても、想い出の残る高師・天伯原や岩屋観音に別れを告げ、第二予備士官学校を後にして、原隊に帰った。

 初年兵・幹部候補生隊で厳しく指導された教官・班長・班付き上等兵たちはどういう顔で迎えてくれるかを想像しながら、懐かしの東部49部隊の営門を通った。連隊長に申告した後、第三中隊付けとなり、雨天体操場を改装した場所に入った。応召間もない少尉に話を聞くと、元の第107連隊は動員されてニューギニアに出征し、第107連隊補充隊が編成されていた。知っている人たちは皆動員されてしまったのだ。僅かに、補充隊の基幹要員としての将校・下士官・兵と身体の悪い兵が残っていた。

 12月31日初めての外泊許可が出て、東京に帰れることになった。見習士官といえども、将校勤務を取るまでは、曹長並で自由行動は許されなかった。二泊三日の外泊許可であるから、一月二日午後12時までに帰営することと許可書に記されていた。久しぶりで、家族と水入らずの正月を過ごした。本家の伯母に挨拶に行くと「まあ、立派になったこと」と喜んでくれ、早速伯父の仏前に挨拶した。アッという間に休暇が終わり、二日早朝に家を出て、帰営のため金沢行きの急行に乗った。10時発だから午後5時には帰営できる予定であった。

 折悪しく、北陸方面は大雪のため、列車のダイヤが乱れ、所々で停車する始末。時間は刻々と過ぎて行く。この調子では大幅に遅れるかも知れない。帰営時刻の12時を過ぎたら、早速営倉入りで一等兵に降等されることもあり得る。折角、今日まで一日一日を努力してきたことも水の泡になってしまう。複雑に入り組んだ想像が時間の経つにつれて次第に現実に近づきつつあった。(次回へ続きます)