鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

デジタルカメラに魅せられて(3回シリーズその1)

2012年11月30日 05時40分11秒 | 緑陰随想
 誰しも仕事の他に、熱を入れて打ち込める趣味の1つや2つは持っている。趣味が転じて実益となり、名声を博している方も多い。趣味の中でも、デジタル写真やビデオ撮影は、年齢や性別を問わず、愛好者は広い世代に渡っていると思われる。我が家でも子供の誕生とともに、機会あるごとに映した、今は書棚に滅多に開くことがないカラー写真アルバムの成長記録の山積みである。今日では、手軽さと画素数が銀塩写真にひけを取らないデジタルカメラの出現と普及で、多くの愛好者を産んでいる。
 固定焦点式のデジタルカメラの世界とデジタル一眼レフの世界は似ているようで、どちらも奥が深く、興味は尽きない。今回はデジタル一眼レフについて日頃感じていることについて触れたい。

 写真は光の芸術といわれている。光源は太陽光ばかりでなく、蛍光灯や白熱電球、ストロボや花火など人工光のすべてを含む。光の反射で感光体に記録され、それを印刷(印画)して表現するが、一瞬の画像はシャッター速度で調整し、光の量は虹彩(アイリス)、つまり、絞りによって変化する。画像の鮮明さはピントを合わせることで、レンズの役目である。詳細は多くの出版物や解説書があるのでそちらに譲るが、「写真は目で見た被写体がカメラを通して画像としてメモリーに記録され、写真用紙に印刷して再現する」。これでは味も素っ気もない。写真愛好者が工夫し、芸術性を追求するおもしろさとは何であろうか?人によってその答えは様々で、ベストアンサーは、デジカメや携帯電話についたカメラ機能を頻繁に使い、うまくシャッターチャンスをとらえ、記録として表現することなのかもしれない。(次回へ続く)

札幌で描く夢(3回シリーズその3)

2012年11月29日 09時34分07秒 | 緑陰随想
 数年前の11月上旬に札幌に行く機会があった。この時期の不安定な天候が続く合間の好天気に誘われ、古くからの友人ご夫妻に連れられて、丘珠空港の近くにあるモエレ沼公園へ行った。モエレ山頂上から、札幌市内が一望でき、360度の視界が広がるパノラマを見ることができた。この公園は札幌市の「緑化環境グリーンベルト構想」の一環として、1988年に着工し、2005年7月に完成。1.89平方キロメートルの広大な敷地を持つ公園である。日系米国人の彫刻家イサム・ノグチ氏の設計による。彼は完成される前に他界しているが、沼の埋め立てばかりでなく、標高50メートルはある人工的に作った山(モエレ山)や幾つかある丘陵には、10年間をかけて札幌市が集めた廃棄物、約270万トンが使われたそうだ。埋め立てによる公園施工の材料として廃棄物を使った札幌市のアイディアは称賛に値し、廃棄物が多くの市民に愛される公園という別の生命が吹き込まれ、見事に生き返ったことは印象深く、設計者イサム・ノグチ氏の功績を称えるとともに、このアイディアが緑化を進める原動力として、全国的に展開が図れないものかと思った次第である。
 
 製品や材料の製造には不要な原料や在庫期間が過ぎた製品等の廃棄物があり、それぞれは微量であっても、多量生産や工事規模によっては、「ちりも積もれば山となる」の格言どおりとなる。
 産廃業者に処理を任せたとしても、投棄や焼却が一般的である。焼却による処理は油煙やダイオキシンの発生による二次汚染を引き起こす可能性がある。廃棄製品や材料のリサイクルが試みられているが、容器の耐久性や、処理等にはコストや廃棄場所等未解決の問題もあるようで、業界は資源再利用のサイクルが完成されているとはいえない。廃棄物を最小限にする知恵とモエレ沼公園のように廃棄物が見事に変身することを初夢に託したい。(今回最終回です)

札幌で描く夢(3回シリーズその2)

2012年11月28日 09時25分09秒 | 緑陰随想
 一方、歓迎される行為として、国内の多くの生産現場では社内の安全性を確保するとともに、消費者に対する安全を第一優先に掲げ、生産性の向上と生産現場の3kイメージの払拭に努力してきている。さらに、対外的には企業が率先して環境破壊因子を取り除き、環境破壊防止の気運が高まってきた。多くの企業がHP等で自社の取組みについて、目標を設定し、実施とその評価を行う等の実態を公表していることは、いかに企業にとって環境問題が、重要な課題として位置づけられているかを示しているといえる。

 企業イメージを高める目的で、CSR(企業の社会的責任)やコンプライアンス(法令遵守)を全社的に実践しているのも事実で、企業や従業員の意識は高くならざるを得ない。
消費者においても長く続いた消費文化の否定や健康志向等が原因してか、有機農法の限界、自然食品の信頼性、サプリメントの効能等、今までスポットが当てられなかった部分にも光が差し込むようになってきた。 産業廃棄物の再利用や環境悪化を懸念する意識の高まりは、消費行動を変え、日常生活を一変させるほどの強烈な力を持っている。「もったいない」の思想は、限られた地球資源の有効活用につながるとともに、原発廃止や枯渇する石油資源の代替えクリーンエネルギーを模索する研究や開発にも目が向けられる。(次回に続く)

札幌で描く夢(3回シリーズその1)

2012年11月27日 08時38分45秒 | 緑陰随想
 環境悪化の改善が進んでいる反面、依然として、不法投棄等による環境破壊行為が続いていることは嘆かわしいことである。地球規模での環境変化は地球温暖化によって、アフリカ大陸では砂漠化が一段と進み、南極や、北極地帯の凍土や氷が融け、海面の水位が上がり、ベニスや南洋諸島など標高の低い都市や地域は水没する危機が発生している。温暖化の影響はさらに波及し、カナダでは例年にない森林火災の発生が報ぜられ、東南アジアでは集中豪雨や河川氾濫の規模が拡大し、被害が増大、被害額が急上昇している。我が国でもゲリラ豪雨による都市機能の麻痺や大型台風の被害が報道されている。
 人工的に作られたフロロカーボン(フロン)によるオゾン層の破壊は、オゾン層が緩衝となって紫外線量を調整していたが、オゾンホールができることによって紫外線の遮蔽物がなくなり、人体に直接、多量に光線の照射を受け、皮膚ガンを発生させるといわれてきた。冷蔵庫の冷媒やエアゾールとして部品洗浄に使われていたフロンが規制されたのはそう古いことではない。
温暖化、酸性雨の被害や砂漠化の拡大は文明の高度化と関係ないとはいえない。徐々に進んだ陰の部分が人類の住む地球を蝕み、住みにくくしている。
 最近では、欧米で生産コストが低く、利幅が大きい中国製品に、生物にとって有害な物質を含む成分が検出され、不買運動や輸入禁止の措置が取られたとの報道があった。我が国では食品の賞味期限改ざんや不当表示の問題が取り上げられている。この問題を広義にとらえると、知名度が高い企業であっても、不正が以前から継続してきたことや責任ある立場の者が指示していたことに驚くとともに、消費者との信頼関係を著しく阻害した事件でもある。問題の根底には安全性よりも企業の利潤追求を優先する姿勢が見え隠れしている。この種の隠蔽は後を絶たないが、そのことが批判の対象となっているのである。

バトンタッチに思う(3回シリーズその3)

2012年11月26日 09時44分30秒 | 緑陰随想
 知的管理系の能力付与は個人の経験や判断力の差が顕著に出るため、その移転やバトンタッチは感覚運動系技能の付与より難しい。マンツーマンの効果を最大限に発揮するOJTは、多くの企業で行われてきた引き継ぎであり、技術移転の方策でもある。発祥は比較的新しく、産業革命以降であったが、「まねる」という行為は戦前まで行われていた徒弟制度(見習い工養成)においても、現在でも変わりがない。受講者である訓練生は自分のものにするという強いモティベーションがあって初めて目的とする技能や技術を習得できるわけで、強制しても覚えないことは教育担当者が知っておかなければならないことである。つまり、相手があって教育は成り立ち、さらには相手が学ぶ気になっていないと移転の効果はあがらない。

 最近はブラックボックスとして理論やメカニズムを知らなくても製品ができあがる場面が多くあり、作業の単純化が図られてきた。反面、このことは応用力を減衰する方向となり、発生した問題を解決できない労働者を作ってきた。今後、エネルギー転換等のパラダイムが大きく変わると技術や技能の移転は十分に伝承されない恐れがある。バトンタッチがうまくいかないレースはその時点で敗北である。人材の育成はバトンの質を落とさずに、いかにバトンタッチをうまく行うかが重要な視点であると思った次第である。(今回で最終回です)

バトンタッチに思う(3回シリーズその2)

2012年11月25日 10時10分47秒 | 緑陰随想
 知識や技量は個人の記憶や体験の蓄積と、新たな部分との差し引きで行われ、その差が追加されて上達の過程を経る。つまり「まねる」ことが学ぶことになる。書籍を声を出して読むことは、耳からの情報により、記憶力を高める効果があり、記憶の定着を図るといわれている。五感を使うことによって感覚運動系の技能は小脳に蓄積され、バランスや筋肉の強弱、指の感覚強化等を図り、空間的な位置把握を覚える。最近のITに代表された科学技術を駆使するには側頭葉に記憶を置き、前頭葉で組み合わせ、記憶した内容を知的管理系の技能として定着させるといわれている。実際にどの部分の脳が役割を持つかは脳科学の世界の話なのでそちらに譲ることにするが、知識や技量をどうすれば効率的に引き継いでいくかは結構複雑なステップがあり、十分に解明されているとはいえない。集団で講義を受けても、受講者個人によって様々であり、誰もが同じことをできるわけではない。

 通常、体系的知識は一定の原則を設定し、現象をモデル化した閉じられた世界を相手にするため、質問の答えが明らかになる。従って、記憶力が高いものが良い成績を得る。社会生活では閉じた世界でなく、知識の部分においても複雑な組合せが多数ある場合がほとんどで、必ずしも解は一つではないため、学校で学んだことが役に立たないことも多い。(次回最終回へ続く)

バトンタッチに思う(3回シリーズその1)

2012年11月24日 15時57分06秒 | 緑陰随想
 年末が押し迫る中、年賀状投函日を目標にパソコンでの作成や、住所録整理が毎年の行事となっている。新年を迎える準備は年賀状ばかりでなく、年末の大掃除や、神社仏閣の煤払い等、歳神様を迎え入れる準備が行われる。年末から年始への引き継ぎは年越し蕎麦を食しながら、百八の煩悩を洗い流すといわれている梵鐘の音を聴き、新たな年を迎える。大晦日の旧年と新年とをつなぐ時を刻むセレモニーである。旧年の走者が新年の走者に託すバトンタッチともいえる。初回はバトンタッチ、すなわち引き継ぎを考えてみたい。
 
 母親が娘に伝える家庭の味や父親が子供に伝える生き様など家族の中の伝達は単なる知識や技量の伝達だけでなく、そこには人知の及ばぬ深い絆があるように思える。私達の寿命は、いずれは地に帰る宿命を持つ。絶やさないようにするため、人類誕生からずーと続いてきたバトンタッチを産んだ。未来に向けても、このバトンは次世代へ引き継いでいくのであろう。バトンタッチを効率的に行ってきたのは学校教育に代表される教育・訓練の場ともいえる。
 
 社会への参入は職場の従業員教育であるOJTやOFF-JTを問わず、仕事を遂行するための教育の場があって初めて職務遂行能力が付与される。会社(企業)はまさに人様と同じで、世代交代をせざるを得ず、定年退職―新人採用のサイクルを繰り返す。このサイクルには引き継ぎが欠かせない。