鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

戦争の実体験 初年兵教育(2回シリーズ)その2

2013年09月23日 00時00分01秒 | 紹介

 しかし、息つく暇もなく、初年兵教育の上番が待っている。初年兵を担当すると、生き甲斐を感じる。若いだけあって、打てば響くように反応が早い。熱心だから進度も速い。三ヶ月も経つともう立派な精兵になる。かわいい初年兵を検閲が終わって、満州や千島に送るときは切ない気持ちになる。どうか、何時までも無事でいてくれよと心の中で祈る思いである。

 昭和19年10月1日、いわゆる学徒兵が入隊してきた。二年前の自分の姿を見ているような気がした。初年兵のような純真さはないが、頭の回転が速く、目に見えて学科の成績が良くなる。彼らは全員幹部候補生志願である。学校教練の判定で甲士官適、乙下士官適と調書に記載されていると、余程のことがない限り、乙を甲に直すことは難しかった。

 在学中どうして訓練をさぼったのか、おそらく本人もここまで影響することは夢にも思わなかったかも知れない。自分の同期で、良くできた人物だったが、甲幹になれず乙幹になった人がいた。本人は相当努力したのであろう。我々より一年遅れて見習士官になり、東京警備旅団で同じ中隊の第三小隊長になった。少尉と見習士官との差はあっても、甲と乙とでは軍隊での扱いに雲泥の違いがある。(このシリーズ最終回です)

戦争の実体験 初年兵教育(2回シリーズ)その1

2013年09月22日 00時00分01秒 | 紹介

 見習士官は将校室で勤務するだけではない。初年兵や補充兵が入隊すると、三ヶ月教育訓練をしなければならない。三ヶ月の訓練が終わり、一期の検閲が無事終了すると、下番ということになる。自分も見習士官になって、7月1日少尉に任官し、昭和20年2月東京警備旅団の編成までの約1年間に4回の初年兵・補充兵教育を担当させられた。このお陰で、教育とは何か、人間教育あるいは人材養成は如何にあるべきかを勉強し、大きな収穫を得た。

 初年兵入隊前に教育計画を立て、敬礼から各個訓練、精神訓話、演習、学科等3ヶ月に亘る日課表を作成し、連隊本部に提出する。先輩の将校に教えられて計画を樹立し、中隊長の検閲を経て提出する。その他、徴兵調書を見て新兵の顔写真と名前を覚え、入隊当日にAは誰、Bは何某といえるようにする仕事がある。初年兵は甲種合格が殆どであるから、若々しく溌剌とした顔をしているが、補充兵ともなるとその職業はマチマチである。会社員・工員・土木・農業・漁業等あらゆる職業に亘り、年齢も27~28歳から上は42~43歳までいる。

 最初に担当したのは補充兵であった。新兵というものの40歳ぐらいになると親爺のように思えた。骨が硬くなっているので、不動の姿勢を取らせても、膝が開いて付かないし、手は曲がっているし、全くどうしょうもない。班付き上等兵がいくら殴っても身体的欠陥は直らない。一月も経つとどうやら様になってくるから不思議なものだ。結局、毎日、毎日の訓練によって矯正するしかない。補充兵の場合は、学科や訓練の進度が計画より遅れ気味でハラハラすることもあるが、一期の検閲を無事終了するとほっとする。(次回へ続きます)

戦争の実体験 帰営時間遅刻(2回シリーズその2)

2013年09月21日 00時00分01秒 | 紹介

 富山到着が午後10時過ぎ、順調に進行してもギリギリだ。周りの乗客は、大雪なら仕方ないと悠々と眠り始めた。こちらは気が気ではない。やっと、金沢駅に着いたのは門限過ぎの12時15分であった。

 市電はもうない。歩いて15分だから30分遅刻だ。降等覚悟で一心に原隊に向かった。
 香林坊を過ぎたところで、前に将校マントを纏った人影が見えた。同輩がやはり遅れて着いて急いでいるのだなと、同病相憐れむの気持ちで追いついた。見ると、H軍医見習士官だった。やはり、同じ列車で東京からの帰途であった。「遅れたら降等ですね」話しかけると、「なぁに、俺は将校勤務を取っているから平気だ。おまえを連れて行ってやるよ。」という返事に、地獄で仏に遭った気がした。「よろしくお願いします。」というと今までの緊張が一気にゆるんだ。軍隊は兵隊でも将校の引率であれば営門の出入りは自由であった。

 自分は将校勤務を取っていないが、同じ将校マントを着ている。いよいよ営門だ。「敬礼!」という衛兵司令の声に衛兵全員が立ち上がって敬礼する。H見習士官が「おお、ご苦労」と鷹揚に返礼をして悠々と通る。自分もそれに従って営門を無事通過した。

 中隊に帰ると、中隊は上を下への大騒ぎだった。週番士官を中心に、誰か公用証を持って探しに行け、少将に連絡しろとかいっている最中に姿を現したから一同安心した。「ご迷惑をおかけして済まなかった。行きで列車が遅れてどうしようもなかった。」と謝った。同僚の二人の見習士官から、「お前、降等にならなくてよかったな。」と慰められた。もし、あのとき、H見習士官に遭わなかったら、今頃は営倉入りだったかも知れないと思うと、H見習士官が神様のように思えてきた。

 見習士官の身分は極めて不安定であった。教官として、初年兵教育をしている間に、兵が逃亡したり、自殺したりすると責任者としての見習士官はたちまち一等兵に降等されてしまう。自分の在任中、二人の見習士官が降等されたのを知っている。(このシリーズ最終回です)

戦争の実体験 帰営時間遅刻(2回シリーズその1)

2013年09月20日 00時00分01秒 | 紹介

 昭和18年12月29日豊橋第二予備士官学校を修了、見習士官に昇進した。見習士官になると、今までの牛蒡剣と違い、軍刀を吊し長靴を穿き、誇りがましい気がしたものである。修了と同時に、南方に転属する者、航空隊や船舶工兵に転属する者と原隊に復帰する者とに分かれた。

 自分は幸いにも原隊復帰組であった。入校のため金沢を出発したとき、360余名を引率する輸送指揮官であった自分は、復帰組では僅かに一割の36名の副輸送指揮官であった。在校中の成績によって、教育総監賞を貰ったM君が輸送指揮官であった。厳しくしごかれても、想い出の残る高師・天伯原や岩屋観音に別れを告げ、第二予備士官学校を後にして、原隊に帰った。

 初年兵・幹部候補生隊で厳しく指導された教官・班長・班付き上等兵たちはどういう顔で迎えてくれるかを想像しながら、懐かしの東部49部隊の営門を通った。連隊長に申告した後、第三中隊付けとなり、雨天体操場を改装した場所に入った。応召間もない少尉に話を聞くと、元の第107連隊は動員されてニューギニアに出征し、第107連隊補充隊が編成されていた。知っている人たちは皆動員されてしまったのだ。僅かに、補充隊の基幹要員としての将校・下士官・兵と身体の悪い兵が残っていた。

 12月31日初めての外泊許可が出て、東京に帰れることになった。見習士官といえども、将校勤務を取るまでは、曹長並で自由行動は許されなかった。二泊三日の外泊許可であるから、一月二日午後12時までに帰営することと許可書に記されていた。久しぶりで、家族と水入らずの正月を過ごした。本家の伯母に挨拶に行くと「まあ、立派になったこと」と喜んでくれ、早速伯父の仏前に挨拶した。アッという間に休暇が終わり、二日早朝に家を出て、帰営のため金沢行きの急行に乗った。10時発だから午後5時には帰営できる予定であった。

 折悪しく、北陸方面は大雪のため、列車のダイヤが乱れ、所々で停車する始末。時間は刻々と過ぎて行く。この調子では大幅に遅れるかも知れない。帰営時刻の12時を過ぎたら、早速営倉入りで一等兵に降等されることもあり得る。折角、今日まで一日一日を努力してきたことも水の泡になってしまう。複雑に入り組んだ想像が時間の経つにつれて次第に現実に近づきつつあった。(次回へ続きます)

戦争の実体験 集合教育その2

2013年09月19日 00時00分01秒 | 紹介

 演習だけが訓練ではなかった。歩兵だけあって、演習場への往復はいつも「駆け足」の連続であった。平坦な道ならともかく、軽機関銃を担いで坂を登る辛さは一通りではない。
 営門の急坂、一名「あごだし坂」は格別だった。いつも皆から遅れて最後尾になり、上等兵から怒鳴られ放しだった。演習も平坦な青草の練兵場なら楽だが、足腰を鍛えるために海岸の砂浜での演習ほどきついものはない。ここで匍匐でもさせられては、銃口を砂に突っ込み、大目玉を食らうことは必定。突撃といわれても、足が思うように動いてくれない。特に、冬は砂浜に吹雪が横なぐりに来て、一寸先も見えなくなる。

演習から帰れば、早速銃の手入れ、軍靴の手入れ、掃除、飯上げ、釜納め等々初年兵並みの仕事が待っている。日曜日でも外出はないし、まして面会に来る人もいない。酒保に行ってもろくなものは売っていない。侘びしく、高峯美枝子の「湖畔の宿」の拡声器から聞こえてくる歌を耳にしながら、ぼんやりと過ごすしかない。班に帰れば先任と呼ばれる。

 先任とは、先に職務に就いた人のことをいう。自分の場合は9中隊での成績が良かったからのことで、皆と同時に一等兵になったから、特に先任と呼ばれる筋はないと思っていた。それなのに、9中隊から来た同期の幹部候補生がドジをするといつも「先任来い」である。

 その同期生と並んでビンタを受けるだけである。何かというと先任・先任といわれ、単に先任という、叩かれ役に過ぎない。割に合わないことだ。そういうときに、先輩のS上等兵に頼み、三回に一回位は大目に見て貰うことが出来た。先任ということで、師団の秋季大演習に一般兵とともに参加させられ、野営の時、立哨させられ、巡察将校も守則を知らないといって、油を絞られたり、時には屍衛兵に立たされる等、同期生の知らない経験をした。
 集合教育は三月末で終わり、四月一日上等兵・甲種幹部候補生に任命され、豊橋第二予備士官学校に入校することとなった。(このシリーズ最終回です)

戦争の実体験 集合教育その1

2013年09月18日 00時00分01秒 | 紹介

 昭和18年2月10日から幹部候補生の集合教育が始まった。我が9中隊の幹部候補生は4中隊に行くことになり、自分が先任として30余名を引率して、第4中隊長に入隊申告した。中隊長は奇しくも大学で国文学を担当された先生であった。また、一般兵には先輩のH上等兵がいた。在隊中いろいろとご迷惑をかけた方だ。班の隣に通信の幹部候補生が入っていたが、偶然にも同期のB君がいた。何かに付けお互いに励まし合い、いたわりあう仲であった。

 各中隊からの幹部候補生は、3班に分かれて編成された。自分は第3班所属で、小柄ながら気鋭のN軍曹が班長、鷹揚なS上等兵、目つきの鋭いK上等兵それに17歳で志願し19歳で兵長になったKG兵長の3人が班付きだった。S上等兵は温厚で優しい人であったが、KG兵長とK上等兵は我々を仇のように、何かにつけビンタや嫌がらせをした。これから2ヶ月の難行が始まったのである。

 初年兵時代と違い、訓練も一段と厳しく、内容も複雑になっていく。雨の日も雪の日も訓練・訓練に明け暮れた。生活そのものは、初年兵と変わりはなかった。1期の検閲が終わると、一般兵は新兵が入ってくるので、雑用を新兵に任せてノンビリと過ごせるようだ。
しかし、我々幹部候補生は座金付きの一等兵でも、初年兵同様にこき使われた。軍隊は一日一日で成績を付け、内務、実技、学科、試験等により成績が上下する。この期間の成績で、甲種と乙種の区別が付くため、ノンビリなんかしていられない。

 ある雪の日演習場に着くと、1メートルぐらい雪が積もっている。これでは演習どころではないなと思っていると、教官が操銃を命令する。いよいよ演習中止かと内心期待していると、差にあらず。「一列横隊に並べ!」「伏せ!」「匍匐前進!」という声で50メートル匍匐すると、今度は右から左へ匍匐させられる。みるみるうちに、平らな演習場ができあがる。そこかしこに小山や塹壕を造らせられ、各個戦闘の訓練があった。なるほど、雪の中でも匍匐の訓練と演習場作りの一挙両得で合理的だと、教官の頭の良さに感心したものである。(次回へ続きます)

戦争の実体験 非常呼集

2013年09月17日 00時00分01秒 | 紹介

 昭和17年12月31日、今日は訓練も終わり、入浴に行き食事も終わって銃の手入れも済ませ、古参兵のお小言をいつものとおり馬耳東風と聞き流し消灯。ヤレヤレ今日も一日終わったか。娑婆では大晦日、年越しそばを食べながら一家団欒だろうと想像しているうちに寝付いてしまった。どのくらい経った頃であろうか、突然ラッパが鳴り響いた。不寝番の「非常呼集!非常呼集!」という声に目を覚ました。
 慌ただしく軍服を着用、背嚢に外套を巻き完全軍装し、軍靴を穿こうと思ったが下にない。近くの軍靴を穿き、ゲートル(巻き脚絆)を巻いて、銃架から銃を取り、大急ぎで外に出て整列する。まだ、5,6人しかいない。数分も経たないうちに全員集合、中隊全員が整列し、週番下士官が員数を調べ、週番士官に報告。見習士官が小隊長となり出発。何が起きたのか、どこへ行くのか判らない。その内に「駆け足」の号令で、中隊全員が駆け足で走り出す。時計を見ると、4時を少し回ったところを示している。
 営門を出て、真っ直ぐ北に向かっていく。右に曲がり武蔵が辻から更に北へ向けて走る。街中は初詣か三々五々歩いている人もいるが、人影はまばらである。走っていると、どうも足が痛い。しかし、緊張しているせいか、靴がいつもより少しきついなと思った程度である。辺りはまだ暗い。走る方向から察すると卯辰山へ行くのかも知れない。あの高い山(といっても精々百メートルぐらい)に登るのはきついなと思った。道一本右に曲がる。果たして卯辰山だ。

 赤い橋を渡ると登山口だ。走って登るのかなと思っていると先の部隊が歩き始めた。「速足」の号令がかかる。やっとホッとする。まだ足が痛い。どうしてだか判らない。急坂を登る。それでも直線に登るよりは楽だ。軍靴の音がザックザックと響く。走ってきたからまだ息が弾む。喘ぎ喘ぎ、ひたすら歩く。やっと頂上近くになって「小休止」という声が掛かり、小隊ごとに休憩する。あたりがほんのりと明るくなってきた。休んでいる間に軍靴を見ると痛いのも道理、右と左とを穿き違えているではないか。この間に穿き替える暇はなさそうだ。よく見ると自分の靴ではない。暗闇で準備したので、他人の靴を穿いてきたのかも知れない。それもあわてて左右を間違えて!何と馬鹿なことをしたものだと我ながら呆れてしまった。

 その内に「集合」の声が掛かり、整列して出発した。頂上に着くと、東の空が明るくなり「初日の出」が見え始めた。これでやっと合点がいった。非常呼集を掛けて中隊全員で「元朝参り」だったのだ。やがて帰途につく。痛い足を引きずりながら、ひたすら歩く。営門を入り、「歩調取れ」で急坂を上り、やっとの事で帰営した。班にはいると班付き上等兵がやってきて、「貴様!誰の靴を穿いているんだ。貴様のは手入れ不良で引き上げてあったぞ!」と怒鳴られた。しかし、早く整列したおかげでお目玉はそこまで、隣の戦友が「それ、俺の靴じゃないか。」と怒った。「済まん済まん。」と謝って一件落着。それにしても、痛い非常呼集であった。

戦争の実体験 初年兵(3回シリーズその3)

2013年09月16日 00時00分01秒 | 紹介

 初年兵の仕事は、演習ばかりではなく、班に帰ってからも内務といっていろいろなことをやらなければならなかった。靴や銃の手入れや洗濯したり乾かしたり、食事時になると「飯上げ」「釜収め」や食器並べや後片付け等でなかなか休む暇もなかった。しかし、その中に要領を覚えるものだ。「飯上げ」は、三四人で炊事場に行き、食缶(アルミ製で30食分はいる大きさ)を運ぶ役目だ。初めは、雨や雪の日は皆敬遠したものだ。一度行ってみると、班に残って班付き上等兵の目を気にしながらうろうろするよりもずっと気が楽なので、飛び出したものだ。班の中で「飯上げ」に行く者と「釜収め」に行く者は、自ら決まってしまった。ズルイやつは残っていて食缶が到着すると、盛り付け役になり、飯を皆の食器に盛り付けるのだが、自分の分だけはギューギュー詰めにして鱈腹食べようとする。
 周りの連中も負けてはいない。食器を並べながら重いのを自分のものにする奴も出てくる。軍隊では食べることが一番の楽しみだからだ。

 冬になると、手ぬぐいが濡れてしまうから、いくら拭いても湿気が取れず、手には霜焼け、ひび、あかぎれが出来、痛痒くて夜も眠られない日が続いた。それに、夜寝てからは南京虫に悩まされた。痒いと思って手をやるといち早く逃げてしまう。潰すと臭い匂いを残し刺された痕は二つの赤い穴を中心に膨れあがる。一月も経つとなれるのか抗体が出来るのかあまり痒くならない。

 入隊して二月も経つと、幹部候補生試験の準備をしなければいけない。消灯後は本を読めないので厠へ行き、便所の扉に大きな穴のあいているところに入り、穴から洩れる電灯の光に本を当てて勉強した。しかし、それだけの勉強では十分ではなかった。掃除の分担は、班内は勿論、班長室、下士官室、将校室が割り当てられていた。将校室が一番うるさく、皆が敬遠していかなかったので、自分が毎日行って掃除をした。ある日、週番士官の見習士官が声を掛けてくれた。「おまえもそろそろ勉強しないといかんぞ。どこで勉強しているんだ。」と質問されたので、「はい、厠であります。」と答えると「俺も経験があるが、あそこは臭くてたまらんだろう。消灯後はここに来て勉強してもいいぞ。」といわれ、涙がこぼれるほどうれしかった。以後は、お言葉に甘え、毎晩将校室で勉強させて貰った。おかげさまで、二月一日に幹部候補生試験に合格し、晴れて一等兵に昇進することが出来た。
(このシリーズ最終回です)