鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

技術・技能・知識の伝承背景その2

2016年07月31日 00時00分01秒 | 紹介

 技術技能の分野や、事務管理分野にも、コンピュータ等の情報機器が活躍し、画面を見て得られた情報を分析し、生産計画や、販路拡大等、管理された世界が実現されている。人手を介する分野が次第に狭まってきていると感じるが、生産に関与する人材は新たな事業展開や営業活動に投入するため、雇用される総体は変化していない。技術の進歩は、情報機器の導入によって、無人化を実現できるまで成長しているが、他方、システムにかかわる管理やメンテナンスについては新たな人材ニーズを生んでいる。

 

 また、現業と呼ばれる建設、建築業、食糧生産にかかる畜産、養殖、農林・農業等の第一次産業については、未だ発展中であり、自然環境を制御できないことが原因してか、今後も研究開発が必要である。地球規模で起こるエネルギー問題、バイオの世界、医療、介護等は、未知の分野が多くあり、科学技術の振興に力を入れていかなければならないと思われる。新たな分野は従来の基礎科学に立脚しているが、未解決の分野も多くあり、新たな発想が求められているし、柔軟な思考を持つ若い方の活躍できる場でもある。既定の路線に乗ることでリスクを減らし、無難な人生設計もあるが、未知な世界に挑戦するという人間ならではできる世界に踏み込む勇気も必要であろう。

 

 技能・技術についての継承は後継者不足がいわれて久しいが、業界ごとにその実態はまちまちで、統一されているわけではなく、それぞれが置かれた範囲での対策が採られているが、このことで国力の低下や、業界の維持等が危惧されている。

 

結果的に見れば、継承問題は、技術や技能が本来持つといわれる技術進歩との置き換えがある以上仕方がない事柄である。古き良き時代を懐かしむのは良いが、技術が停滞すれば、その技術は無用なものとして取り扱われるし、伝統工芸が廃れれば、その伝統の継承が問題ではなく、時代に合わなくなったと判断せざるを得ない。必要と考えるならば後継者が満足できるような弊害を取り除かなければ、人材は集まらない。労働条件が最悪な状態が改善されずに、技能や技術の伝承を言うのであれば筋違いであろう。

 

 よく話題に上がる漆工製品の生産が振るわないといわれ、後継者問題があるとのことであるが、現代人の生活で、10万円以上もする重箱を必要とする家庭がほとんどない以上、幾ら沈金や蒔絵を施しても流通しないのは当然で、伝統工芸が無用の長物となっている以上衰退するのは誰が考えても分かる。年収が最低賃金としても、それ以上の賃金が得られなければ、働き手は来ないであろう。


技術・技能・知識の伝承背景その1

2016年07月30日 00時00分01秒 | 紹介

 過去においても技術・技能・知識の伝承が的確に行われ、問題なく現在に至っているわけではなく、技術・技能分野においては特に後継者が現れずに技能を持った方が他界すれば、その代限りとなる場合もあるし、再現ができず、廃れてしまう分野もある。

 

 幸い、知識分野においては、文字や写真等で、保存すること技能や技術分野に比べて保存しやすいため、ドキュメント化できる。ドキュメント化についても技術分野は機械のメカニズムや原理、操作手順等はドキュメント化できる。しかし、技能の分野では、そもそも、カンやコツといった個人の感覚に依存しているため、文書としてや言葉としての表現方法で表すことは不可能であいまいとなりやすい。映像による記録で、かろうじて伝えることは行われているが、再現性となると完全な技能のコピーは難しい。

 

 技術と技能の定義自身もその境界があいまいであり、流派が生まれているように、所作の違いがある。技術は、原理原則を具現化したもので、再現性は高く、理論的な整合性を取りやすい半面、技能は、個人に内在するため、マニュアルだけでは完成せず、再現のためには個人の繰り返しによる習得が必要である。

 

 個人に依存する技能が、伝播するには、できるだけ、個人の能力に依存しない方向で、改善が加えられ、多量生産化も可能となっている。工業用ロボット生産技術など、不安定な個人に依存したテクニックを分析し、ロボットにティーチングする等が当初行われてきた。人間に代わって生産に携わる機械類は、製品完成までの工程ごとのテクニックだけではなく、システム全体の効率化を図り、ムリ、ムダ、ムラを省き工程間に発生する段取りまで組み入れている。

 

 こうして考えると、技能分野は機械等に置き換わることができる技術にとって代わり、誰でも、どこでも、いつでも生産可能となるし、技能分野は狭まってきているともいえるが、完全に置き換えることをしないのは、コストが原因している。つまり、人間が行った方が低コストで行え、人力の方が優れている分野である。例えば、セッティング、材料の選別、不良品の検査、発生する不良品対策、メンテナンス・機械の清掃等のシステム管理、危険の除去、定期的なチェック、システム改善、報告等事務部門は機械では置き換えることが難しく、どちらかといえば機械化する必要がない分野といえる。

 

しかし、今まで人間が介在していた分野においても、情報機器の導入等で、無人化の傾向が強く、センサーの導入や、監視カメラ等の導入で、完全自動化システムも取り入れられている。


技術・技能・知識の伝承序説

2016年07月29日 00時00分01秒 | 紹介

 世代が交代する運命にある人類、先人が学び、蓄積したノウハウを効率よく後世に伝えるには、多くの知恵があり、様々な方法がある。それらは情報という形をとり、公開か非公開かは別にして、現在もその蓄積は日々増えている。情報は莫大な量であるが、幸いにして、容易に取り出せるようになっている。情報社会がどのような媒体を使ったとしても、検索の困難性や、費用がかかるようであれば、誰にでも、いつでも取り出せ、使えるという、いわゆるユビキタス社会とはならず、情報の蓄積量を増やすだけでは目的を果たしたとはいえなくなる。

 

 教育は、先人が行った多くの出来事や足跡のうち、現代社会に有用と思われる内容を、効率よく次世代に引き継ぐ大変重要な行為であろう。体系化され、関連付けを行う過程を踏むが、これは情報加工といわれる分野であり、概念を段階化し、理解しやすいように工夫されてきた。情報を伝える仕組みについてみると、主たる制度は教育者のもとでの学校教育制度である。ご存知のように、小学校中学校は義務化されている。知識偏重といわれているが、常に基準である学習指導要領等は、時代変化に追従するように見直しが行われ、強制的な学習手段となっている。

 

 時代の流れもあり、高度化した社会を形成するには、小中校にとどまらず、大学、大学院までの教育機関がある。一般的な就学は、6・3・3・4年の16年間の教育機会は我が国の中核的な人材を輩出してきている。就学後は、社会人として職業につき、労働に従事する。

 

 どの職場においても、何らかの専門性を必要とするが、多くの場合は、仕事の内容を深めるために、新人教育や、OJT,OFFJTが行われ、質を確保してきた。制度の変革の定着には、ある程度の時間経過が必要で、常に同じ形を維持しているわけではないが、最近の傾向として、高度化した社会の維持、発展には、従来の経験では対処できない面が出てきている。必然的に、国や企業等組織が要求する技術・技能・知識は変貌するし、効率化や、生産性等は高度化に向かう。

 

 いつの時代でもいえることであるが、では、どのようにして、世の中の変化に追従し、期待や要求に満足できる人材を作っていくかが問われることになる。自分が経験した時代背景や、専門性ですべての業種やノウハウを説明することは難しいし、少子高齢化の時代には矛盾も出てくる。まして膨大な情報量から適切な解を求めることすら困難な時代に果たして的を射た内容を出せるか心配であるが、何らかの方向性を見出すよう努めたい。

 


バックアップ機能

2016年07月28日 00時00分01秒 | マニュアル

 パーソナルコンピュータの機能の一つであるバックアップ機能についてであるが、データが正しく保存されているかどうかをチェックすることはほとんどない。パソコンが正常に動いていれば、バックアップ機能は必要ない代物で、バックアップに時間が取られるし、容量も食うことから、普段はあまり歓迎されない。まして、バックアップを実際に使い、正しくデータが再現するかを調べることなど経験されないことの方が多いといえる。

 

 しかしながら、いざというときに頼りになるかどうかは、再現されるかどうかやってみないとわからないからである。というのも、保存したデータのメ保存機器によることもあり、メディア自体が何らかの理由で破損されていた場合も生じるし、常に意識しておかないと使いものにならないからである。普通は、内蔵のハードディスクに保存することはないが、外付けのハードディスクや、CDに焼きこんでおくなどの方法を取るが、外付けのハードディスクも危険にさらされる場合もある。

 

 これから室温の上昇で、パソコンのメモリや、ハードディスクは、高温になりやすく、室温が30℃を超えると、パソコン機器は50℃を超す状態となる。メーカーによっても異なるが、ほとんどのメーカーでは小形のファンを稼働させ、空冷させる方法を取っていて、室温が高ければ空冷にも限界があるため、大切なCPUが壊れる可能性がある。あまりお勧めできないが、カバーを外すか、直接扇風機で風を送るかし、放熱を考えないとすぐにパソコンがダウンしてしまう。

 

 快適な使用環境にするには、エアコンの効いた部屋で使用するようにしたい。パソコン設置環境についても、周りの空気が滞留しないように、空気の流れを作った方が良い。書物を立てかけることや、付属機器をあまり近づけないことも大切である。常に送風口と排気口を確保し、ふさがないようにした方が良い。

 さらに言えば、高温時にはパソコン使用をやめた方が良く、朝、夕の涼しい時に利用する。また、突然の雷には最も注意が必要で、この場合には、コンセントからパソコンに接続したコードを外し、有線のネットワークコードも外し、ルーターも電源を切るばかりではなく、接続を外しておく。近くに落雷すると、高電圧がリークする場合があり、落雷防止が機能しない場合もあるからで、コンデンサーを破壊されることがあるからである。

 

 話をもとに戻すと、バックアップ機能が正しく機能するかどうかを動作することで確認することをお勧めしたい。今回のようにOSのダウンが突然に起こると大切なデータが飛んでしまうし、飛んでしまったデータの再現を行っているが、復帰できないファイルもあり、頭を抱えている。


古稀を迎えて

2016年07月27日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 虎は死して皮を残し、人は死して名を残すといわれている。しかしながら、物質面からいえば、人体を構成する物質(質量)は、質量保存の法則で、生きているときと死んだ時ではプラスマイナスゼロと大雑把にはいえるであろう。地球にある物質で作られ、生を与えられて活動を停止すれば、その間の体重変化や大きさの違いはあるが、実質的に地上の質量は変わらない。これを仏教界では無というか、空というのである。無は有の反対語であり、有ることは無いこととイコールなのであり、達観はなんとも不可思議な感じがする。

 

 輪廻の思想を信じている現代人は少なくなったと思うが、人間の生へのこだわりは、死んでしまえば二度とこの世には再現不可能であり、人間として生まれた時点で寿命が決まっていて、どのような高度な科学技術や医療技術が発展したとしても、例えば冷凍保存や低温保存を行ったとしても、寿命をコントロールして、2倍の寿命すら得ることは不可能なのである。解っているが、それでも長生きしたいという思いは誰しも持ち合わせているし、できることなら1日でも長生きできればと願うのである。

 

 では、物体は死んだとしても、精神(質量を持たない)や魂はどうかといえば、これは分離できるものではなく、肉体が死すれば精神も死するということで、一体的であると自分は思うが。脳死を人の死であるとしている医学界であるが、脳が死んだとしても、人工的に植物状態で生きることは可能である。では、IPS細胞等の移植による部分的な再生を試みる医学が発展し続けているが、果たして動作や感情をコントロールする脳までも取り換えることが可能なのであろうか、今後の技術進歩等の展開を待つ他はない。倫理的な面もあり、植物人間としての延命についても、尊厳死で問われるように、人間が生きる意味を含め、限界論もある。究極には、クーロン人間を生み育て、壊れた部品を交換するようなことについても倫理上の合意が必要となろう。

 

 特殊装置によって、脳細胞だけが永遠に生き続けられ、個人としての意識を温存できたとしても、それはもはや自我を持つ人間といえるのであろうか?人知では判断できないSF(サイエンスフィクション)の世界であろう。自分としては流れる時に身を任し、自然の中で生きることの大切さを改めて思うが、寿命というとらえ方をベースにし、肉体と精神の健康のバランスを保つような努力は続ける必要はある。

 

 人の足跡は手段や方法によって(石碑や口伝等)永続性を持つが、いずれは忘れ去られる。それでよいと思うが、良きにつけ悪しきにつけ、自分の生きざまを後世の人の生き方に影響力を与えることができれば幸せなことであろうとの思いで過ごしていきたい。


古稀を前にしてその2

2016年07月26日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 人生の経過は流れる水のごとくで、 古稀を迎えるとは、終着地に近くなり、終末の準備段階でもある。時間の経過は留めることができず、逆行するわけにはいかない。自然の流れに身を任せなければならないであろう。どのような人生であったかは、他者との比較でみることにもなるが、どのような人生を歩もうとも、この世に生を受けた偶然と、自分の身に降りかかった多くの出来事の再現は不可能であり、不思議な出来事の連続であった。

 

 そう考えると繰り返しと思われたことは、決して同じではないことが分かる。明日は今日の続きではあるが、今日とは違う世界が広がっている。同じことを行ったとしてもそれは新たな経験であり、昨日とは同じではない。何事も時間の経過とともに変化しているし、その変化に気づかないだけであり、あらゆる変化の中に置かれているのである。

 

 時間の経過とは、太陽の周りを自転しながら1周する活動を1年とし、それを365日で1日を決め、24時間に分けて昼間と夜を区別し、1時間を60分に分け、1分を60秒に分けた。正しくは若干の時間に誤差があるため、閏年で調節しているが、秒に換算すれば、60×60×24×365×70=2207520000秒になる。

 

 誰にでも与えられているこの秒数は70年を生きた証であり、身体が刻んだ時でもある。この間をいかにして生きたかは、人それぞれが異なるが、確かに22億秒とはすごい数字である。年単位で70年といっても日単位では25550日、時間では613200時間である。

 

 時間の経過とは過ぎ去った時間が人間をどう成長させ、どれだけの社会貢献と人への影響を与えたのか、身体が消費したものと生産したものの差が、または善行と悪行の差が、貢献と享受の差等がその人の生きた価値を決めるのである。これらの項目や事象の尺度は決まっているわけではなく、あくまでも概念的なものであるが、古代エジプトの死者の書によれば、生きた価値をアマトの羽根と個人の心臓(魂)とを天秤にかけて判定を行う思想はその後の宗教に影響し、例えば、キリスト教ではゴッド(神)の前で、天国と地獄とを前世の贖罪の軽量で、死者の来世を決める。エジプトの考えがインド仏教に影響したかどうかは不明であるが、仏教においても死後、閻魔大王の前で問われる。これらはやはり天秤が関係しており、大変参考になる。

 

 生きるもののすべてが死を迎える。死することで新たな生を生じさせ、意識のあるなしにかかわらず、そこには継続性を展開するとする世代交代が粛々と行われる。幸いなことに人間世界は、子孫の誕生後を共存できる特例を手に入れている。


古稀を前にして

2016年07月25日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 ご承知のように、杜甫の詩に「人生七十古来稀なり」から採った語で七十歳の異称として用いられている。古希と書くことがあるが、これは代用字である。年齢が70歳になった人は我が国ではさほど珍しいわけではないが、古く杜甫の時代では稀であったようである。昭和21年生まれ、4月以降12月までに、また昭和22年1月から3月末までに生誕した人が同学年であるので、同学年では留年等をしなければ、古稀を迎えた方とこれから迎える方がいるわけである。

 

 例えば、古稀を記念とする同期会は、同期が全員古稀となる翌年3月末まで待った方が良いことになる。そうはいっても個人的にはそこまでシビアに年齢を数える必要はないと思う。早めに済ませても問題とはならないであろう。なぜなら、学年と年齢は必ずしも一致しないからである。

 

 昭和21年といえば、第二次世界大戦の終戦日が、昭和20年8月15日であるので、戦後誕生したわけで、幼児期は記憶がないので、戦後の状況の記憶は全くない。団塊の世代は22年から数えるようで、戦後のベビーブームの草分け的存在である。戦後復興から現在に至るまで、明治、大正、昭和、平成の時代変化をいろいろな場所で経験して来た。当然、記憶に残る誕生前は、祖父や祖母から聞いた話が主であるが、曾祖父や曾祖母との接触もあった。平成生まれは、孫がいるので、年代とすれば6世代との関係を持つ。

 

 最近は出生率の低下で、世代間の人口比率の逆転が起こっている。年齢の分布を取ると、風船のような形となっていて、頭でっかちの釣り鐘型から裾が狭まった形となっている。理想的な形はなだらかな富士山型が良いのであるが。こればかりは強制できないこととして、現実を受けざるを得ない。ところが、選挙等の国政の意見傾向が、シルバー民主主義などといわれるようになってきていて、高齢者人口が若年者を上回るようになると若年者に取ってみれば政策にバランスを欠き、不利になる可能性の高い状況が起こり得る。特に年金や、介護などが社会の疲弊を起こす危惧があるとして話題となっている

 

 さらには、都市部への人口集中と、地方の過疎化である。地方自治体も合併等で、対応を取っているが、過疎化がもたらす環境の変化は格差社会の原動力となっていて、早急に解決しなければならない問題も浮上している。高齢化も著しく変化してきていて、世代間の考え方も多様化しつつあり、積極的な関与と、世代間の認識のズレをすり合わせる等、今後の我が国の抱える問題解決に努力しなければならないと思っているところである。