鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

正月行事 屠蘇その2

2013年12月31日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 世の中が多様化したせいか年末年始に家族で国内や海外旅行をすることや、帰省等で自宅を留守にすることも多くなった。確かに親戚等が年始で来宅した場合は接待することになるし、その準備に主婦等は休んでいられない。おせち料理は年末に準備し、年始は炊事をしないで済むようにと考えられた日持ちのする食材である。古くは年始で来るお客の酒宴で休めない女性陣が、小正月15日に女性だけの宴会を開き、労う(ねぎらう)休日であって、女正月ともいわれる。

 元旦は盛装して、やはり和装が良くマッチする。母親が元旦になると帯を締めていたことを思い出す。国旗を玄関に立て、神棚と仏壇へ屠蘇を献杯する。歳神様を迎え入れた神棚に拝礼し、先祖を祀った仏壇には手を合わせる。その後、食前に座るが、空きっ腹に飲む屠蘇は胃に沁みる。香りや味は独特で、漢方薬のようなセンブリ臭がないため、さわやかで厳かな気分になれる。子供には無理に飲ますことはないと思うが、アルコール度の低い味醂ベースであれば、屠蘇で祝う雰囲気を記憶するためにも良いであろう。子供が喜ぶのは何時の時代でも朝食時に貰うお年玉である。そういえば、お年玉目当ての親戚への挨拶回りも少なくなった。

 役所にいるとき仕事始め(御用始め)は謹賀新年の判子を押した名刺を携え、関係部署の挨拶から始まる。組織の長から年頭の挨拶がありこれが終わると一斉に関係機関への挨拶回りに出かける。関係機関も挨拶回りへ出かけるため着席している者は殆どいない。主のいない机上に名刺を置いて帰る。一応帰所するが、流れ解散する場合も多い。年始回りと呼んでいたが、屠蘇や御神酒(おみき)が振る舞われることはなくなった。殆どの場合は年内に予算の骨格が決まり、一段落の時期で、仕事始めには屠蘇気分は消え、復活折衝が年明けから始まる。(このシリーズ最終回です)

正月行事 屠蘇その1

2013年12月30日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 健康と長寿を願い、新年を迎えた朝に、家族が屠蘇を飲む習慣がある。神棚や先祖を祀る仏壇へも献杯することも習わしである。中国からの伝来であるが、元旦を迎える数日前から屠蘇散の生薬を酒や味醂にしたし、生薬のエキスを抽出させる。屠蘇散は粉末にした桂皮、山椒、桔梗、等7種の生薬を等分に混ぜ合わせたもので、糸の付いた絹の袋に入れてある。

 我が家では日本酒と味醂を半々にした酒を錫製の容器に浸し、銚子飾りを付けている。
屠蘇散をあまり長い間浸しておくと苦みが出る。また屠蘇が濁り、生薬の結晶が出来る場合もあるので長くても数日浸したら取り除く。
屠蘇散は薬局で売っているが、味醂の購入時に付いてくる場合もあり、食料品店で準備できる。

 屠蘇を注ぐ順序は家長役が年少の者から先に盃へ注ぎ、盃が揃ったところで「おめでとうございます、本年もよろしく」と唱和し、乾杯する。酒を盃に注ぐのは、通常、年下の者が年上の者へ注ぐ。しかし、屠蘇の注ぎ方は目上の者が目下の者へ注ぐ。このことは年長者が若いエネルギーを吸収し、賞賛するという意味があるようだ。

 正月は元旦から15日の小正月までを祝う。三ヶ日、七草粥を炊く七日(なのか)正月と小正月があるが、今日では三ヶ日ぐらいまでであろう。昔はその都度屠蘇を飲んでいた。
 松の内(地方によって異なるが、七日までで、門松の穂先だけを切り落とし、穂先は玄関脇の土に埋めていた。1月一杯埋めていたようである。穂先以外の部分、注連縄、輪飾りと共にどんと焼きに供出する)の来客には屠蘇を振る舞っていたが、車を運転する機会も多いためか、そのようなこともなくなった。(次回へ続きます)

新年を迎える儀式

2013年12月29日 00時00分01秒 | 緑陰随想


 年末に近づくにつれて、日々慌ただしい思いをするのは、誰しも同じでは無かろうか。
仕事をしていない自分にとっても、この時期、住所録の整理、庭木の剪定、各部屋のガラス磨き、水回りの清掃と殺菌、神棚と仏壇の掃除、蛍光灯や白色電球の交換等毎年行ってきたことを計画している。この時期にしなくても良いのであるが、これも年末の行事としている。障子の張り替え、ブラインド、網戸の水洗いは夏の時期に済ませたため、若干余裕がある。
 何故にと思ったことはないが、無宗教に近い生活でも、新年の歳神様を迎えるためとの理屈を付けている。多分歳神様はきれい好きなのでといえるのかも知れない。何処かに禊ぎ(みそぎ)の気持ちがあるようで、飾らなくても良い若松や、輪飾りを買いに行く。玄関にも松飾りを飾るのも毎年のことである。

 神棚には注連縄(しめなわ)を張るまではしないが、お榊(さかき)は松入りに変えている。初詣で賑わう神社には大きな注連縄が張られていて、いつも気になっていたが、調べてみると結界(けっかい)といって、古くからある陰陽道や仏教、神道等で行われてきた。この世とあの世の区分け、つまり、神様と人間の住む場所の境を明示しているそうである。

 庚申塚や道祖神も一種の境だそうで、また、相撲における最強力士を横綱によって神格化を意味し、更には注連縄を大木や巨石に巻いて神格化することや、結界を造ることによって、邪気を閉じこめ、邪気が入り込まないように境を造ることも行われている。茶室の入り口にある躙り(にじり)口や蹲(つくばい)も結界の意味を持つ。

 注連縄も縒り(より)方によって男の神様と女の神様は違うようで、切り口が時計回りであると男神、逆回りだと女神とのことであった。

 薄々は判っていても知らないことも多い。無意識にすることの不思議さを感じるが、成長するうちに身に付いていくのであろう。新年を迎えるこのような風習は世代間の引き継ぎで大家族ではうまく移行できるが、独立した家族が多くなり、世帯が分散すると引き継ぎが難しくなる。これらの風習が消えていくことは何故か淋しい思いもするが、形骸化する必然性もあり、仕方ないことでもあるが、宗教行事と係わりが薄い我が国のクリスマスや、新年のカウントダウンなど新たな風習が増え、定着することを期待したい。

アマチュア発言

2013年12月28日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 辞職に追い込まれた知事の記者会見映像を目にして、頭を過ぎったことの一つに、政策には自信があったが、政務はアマチュアであったとの発言である。この発言は、逃げともいえる、組織のトップが口にしてはならない暴言である。この言葉を発すること自体が辞職に値し、同年配の自分には何とも情けない失言と思えた。今後も疑惑解明に向け、配慮を重ねてきた検察が動き出し、知識人等の多くの追及の手が継続されると思うが、辞職という段階は真相究明の第一歩で、幕が開いたに過ぎない状況と思われる。そのことは何れ触れたいとと思うが、その経過を注視していきたい。

 役人と呼んでいる公務員の組織は、知事や首長を頂点とするピラミッド組織である。研究所等の横並び(文鎮形)組織ではない。また、作家や、芸術家のような一人親方でもない。
 我が国の選挙制度による首長の選び方にはそれなりの意味があるが、省庁の事務方のトップは事務次官で、この人事は選挙とは関係ない年功序列制度の中で、内部の組織で決まる。つまり首長は選挙で人選する形であるが、前例があるように、選挙で当選すれば前職は問われない。つまり、素人(シロウト)でも良いということになる。素人とは職業人でなく趣味でそのことをする人のことで、英語で amateur (アマチュア)のことである。そのことが判っていて知事を拝命するとは全くの驚きである。

 知事として1年間の職籍は最短であったとはいえ、よく1年も持ったものだと呆れるばかりで、当初から知事としての重責を全うするには、ふさわしい人物ではなかったのであろう。その政策たるや大衆の受けを狙った思いつきで、組織の判断を無視した横暴さは将にシロウトであった。作家としてのノンフィクション作品の太宗はたれ込みと偏見に充ち、自己満足の域を出ず、このことによって組織を蔑ろ(ないがしろ)にしてきた付けが露呈したに過ぎないと思える。慰留を進言する同朋議員や組織内部の人材が全くいなかったという事実はそのことを示しているといえる。

 作家等の一人親方が辿る末路を見たが、組織の重大な意志決定方法は、いくら日本的経営が変貌したとはいえ、年功序列制度の根幹が崩れていない公務員の世界では全くといって変化しているわけではない。つまり、トップダウンではなく、ボトムアップの意志決定過程を踏んで初めて組織の政策が決定されるのである。端から見ると組織の長が命令しているような錯覚を与えるが、決してそうではない。これから始まる知事選挙では果たして誰を選択するのであろうか、少なくともシロウトは敬遠したいものである。

大分雑感 帆足万里

2013年12月27日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 あまり詳しくは知らずにいたが、豊後日出藩で福沢諭吉の父親を門下生に持ち、ブログで既述した三浦梅園の思想にも影響を受け、江戸末期の儒学者で、自分ももう少し研究したい人物の一人である。以下は大分放送のアーカイブスから引用した一節である。

帆足万里 
 1778-1852 江戸末期に 日出(ひじ)藩 において活躍した儒学者。字は 鵬卿(ほうけい)、俗称は里吉。日出藩は豊臣秀吉夫人の北政所の実家から 木下 延俊(のぶとし) が初代領主として入府して以来明治4年(1871)まで16代に渡って続いた2万5千石の小藩で、領主の居城は 暘谷(ようこく)城 。小さいながらも学問を尊ぶ気風にあふれた藩で、万里や彼の門弟らを初めとして数々の文人を輩出している。万里はこの避遠の地に在って、 儒学 のみならず 国学 、 自然科学 、 医学 の研究や詩人としての活動に才能を発揮した注目に値する学者であると言える。また財政難顕著な日出 藩政改革 の担い手として、家老職を勤めた政治家でもあった。 安岐(あき)二子山下で生涯を過ごした 三浦 梅園(ばいえん) から維新の 黎明(れいめい)期にあって、近代思想の先覚者となった 福沢諭吉 へと継がる豊後の合理主義思想の中興の祖と言えるであろう。主要な著書は『 肄業余稿(いぎょうよこう) 』『 修辞通(しゅうじつう) 』『 入学新論 』『 東潜夫論(とうせんふろん) 』『 窮理通(きゅうりつう) 』など。

 以下省略するが興味がある方は次のアドレスで、全文をご覧いただきたい。

 http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n662.htm

 日出は大分から国道10号線を北上し、別府を過ぎて国東半島に入る入り口に存在する。
 帆足万里の墓や資料館があり、墓は豊臣秀吉の血筋を引く日出城(旧名暘谷城)藩主木下俊敦の菩提寺である松屋寺にある。帆足万里の功績を評価する者や向学心を期待する者などが墓石を欠いて持ち去るようである。墓を傷つけることは良いことではないが、帆足万里に少しでも近づきたいという思いの表れであろうか。同様な話は群馬の渡世人国定忠治の墓も同様で、それほどまでして立派な渡世人を希望する者が多いとは思わないが、礎石が崩れるほど角が丸まっているということである。松屋寺には帆足万里の墓以外に、大ソテツがあり、雪舟が造ったといわれる庭園もある。

大分雑感 方言

2013年12月26日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 方言は同じ九州の中でも異なり、世代間や男女間でも異なっている。同じ言葉であっても意味する内容が異なり、発音強弱やイントネーションでも違っている。生まれながらに覚えた言葉は、意識せずとも自然に会話をするもので、その矯正は外来語を覚えるよりも難しい場合もある。何故に方言が生まれるかといえば、地域独自の文化があるからで、それも常に一定ではない。人々が活動する範囲は広く、古くは旅の僧や行商人などからの情報が基になった用語も多い。各地に残る公家言葉など中央の文化に接しても変遷する。

 最近の情報化社会は、様々なメディアを使って均一な情報が伝えられるいわゆるユビキタス社会であり、地方からの発信も決して少ないわけではない。当然地域格差は埋まり、方言も徐々にではあるが標準語といわれている言葉に収斂している。とはいえ、方言は地域の文化ともいえる要素を含み、同郷の者が集まれば、方言が飛び交うのも自然である。

 東北訛り(なまり)や、京都訛りなどその時代の標準的発音からずれた訛りがある。訛りが抜けないことに悩む人も多いが、芸能人の中には逆にそれを種にして、極端ともいえる発音を芸とする人もいる。

 自分は就職した組織が北海道から九州・沖縄まで全国に業務展開していたため、各地の方言を聞いて仕事をしていた。出張は全国に及び、転勤も北海道(函館)、東北(盛岡)、関東(千葉、東京、神奈川)、九州(大分)を経験した。方言で苦労したことはなかったが、長年そこで生活すると訛りを覚えていく。今では会話の途中でミックスした方言が無意識に飛び出すことがあり、懐かしい思いをすることがある。

 さて、大分の方言は一口で言うと標準語に近く、鹿児島の方言のような難解さはなかったようである。山口や広島の方言に近いようであるが、孫が夏休みなどで女房の実家に数週間滞在すると、帰京した後しばらくは大分の方言が飛び出す。それを聞いていると、方言の持つ暖かみを感じることが出来る。

 方言についてはもっと奥が深いと思うが、東京弁は下町の大衆用語がベースにある。また、江戸時代の参勤交代により、全国の藩との行き来があったため、ミックスした方言が形成され、それが標準語・共通語として使われるようになったのではないであろうか。その意味では標準語は特別な用語ではなく、方言の集合体であるといえる。

大分雑感 三浦梅園

2013年12月25日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 豊後が排出した三賢人がいる。ご存じの方も多いと思うが、三浦梅園、帆足万里、廣瀬淡窓である。独自の自然哲学を創出した。優れた学究としてだけでなく、老職として藩の財政改革を実践した帆足万里、門弟三千人を育てた教育家であった廣瀬淡窓である。この他にも豊後ではないが我が国最初の西洋解剖学を現した前野良沢、南画の田能村竹田、実践的農学者大蔵永常、学問のすすめ等で有名な福沢諭吉などである。

 豊後国東富永村(大分県国東市安岐町)で享保8年8月に三浦梅園は三浦義一の次男として生誕した。名は晋(すすむ)と命名され、字は安貞、幼名は辰次郎である。女房の実家武蔵町の隣町であり、車で30分の場所である。ここには梅園自身が設計したといわれた旧宅があり、梅園の里として公園となっている。

 三浦梅園は17歳の時に杵築藩の儒学者綾部絅斎に師事し、また、中津藩の儒学者藤田敬所に師事したが、長い期間ではなく、彼の自然哲学は独学によるものである。条理学といわれる独自の学問体系は著書「玄語」に記述され、更に「贅語」と「敢語」があり、三著作を合わせて「梅園三語」と命名されている。この著作に至る過程では、多方面の読書の賜であり、読書の結果は、誰一人として確実な真理の根源を見極めた者はいないとして自ら探求を始めた。

 梅園は気の哲学に開眼し、朱子学風の論文「玄語」を書いた。23年間もこれの推敲を重ね、陰陽の「易の論理」に基づき根元的太極は陰陽に分かれた陰と陽に更に分かれ、更にそれぞれは陰と陽に別れる。この二分法の連鎖によって、論理を展開した。二分法によって枝分かれした筋道を条理と名付け、あらゆる物をそれぞれのレベルにおける気(エネルギー的側面)と物(物質的側面)とによって成り立ち、その統合として把握していけば最後に根元的存在にたどり着くことが出来るとした。
 
 現在の二分法の代表はコンピュータの回路がオンとオフを1と0で表すので、よく似た思考方法といえるであろう。白黒思考ともいわれ、無理矢理にどちらかに決めることによる誤謬が指摘される場合もあり、この論理の選択には単純で判りやすいが用いる範囲を明確に定義する必要があろう。ファジー(あいまい)な理論もある。選択肢を二つに狭めることによって、白と黒の両者を持つものが除外されるといった誤りは日常生活でも起こりうる。アンケートなど選択肢を限定するものが多く、集計の結果をパーセントで済ますことが行われるが、正しい結果を出す場合にはアンケート作成前に選択肢が洩れないことが必要である。