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生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

ロマンスとバラード第1集 作品45  Der Schatzgräber   「宝を掘る男」

2016-02-18 23:38:20 | シューマン
 「詩人の恋」を2年がかりで全曲歌ったことで、しばらくはシューマンを歌うことは無いかなと思っていましたが、新たに仲間に加わったピアニスト女史がシューマンがお好きということで、あらためて曲を探しています。リーダークライス作品39が第一候補で、おそらく作品39の中から3曲ほどを選んで次の本会に臨みたいと思っています。候補曲を探す中で1曲だけうたうならこの曲かなと思ったのが、ロマンスとバラード第一集作品45の一曲目の「宝を掘る男」ですね。

 今一つ調性のはっきりしない上昇音形が繰り返されるピアノの前奏で始まります。歌詞については梅ヶ丘歌曲会館に邦訳がされていますのでご覧頂きたいと思います。この曲は男声低声向けですね。あまり暗く歌いすぎるのはオシャレでないと思いますが、宗教的あるいは人生訓的な内容の歌詞なので、もう一つは一人称の歌詞ではなく「宝を掘る男」の結末を眺めている第三者の視点で歌詞が書かれています。

 ネタバレになりますが、宝を掘っているつもりが自分の墓穴を掘っていたという歌詞ですが、墓を題材にした作品は結構ありますね。ヴェルディの歌曲にも「墓に近付かないでくれ」という作品があります。一頃日本で大流行した「千の風になって」とは随分と描かれている世界が違います。この西洋と日本との声楽作品における墓の描かれ方の違いについては、いずれ深く考察したいと思っている今日この頃です。

忙しくなりそうです

2016-02-15 23:31:43 | シューマン
 昨日、今年の冬のメインイベントの「大人の学芸会」の本会が無事終了して、今日からは9月公演のチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」の準備を本格的に始める予定で、その前の「カルミナ・ブラーナ」と、ほぼ2本の柱で進めていけば良いのかなと思っていました。「大人の学芸会」の次回本番は8月のサマーフェスティバルかと思っていたら、5月末か6月頭にもう一度本会(本番の発表会)を準備しているとのこと、更に昨日の「大人の学芸会」本会に見学に来てくれたピアニスト女史が是非活動に参加したいとのことで、3月の練習会にも参加したいということで思わず伴奏していただけるなら歌いますとオファーしてしまいまいした。特に歌いたい歌のイメージを何も持っていなかったので、少し前にレッスンで一応のOKを貰ったヴェルディの歌曲でも歌おうかと思い楽譜を送りますと言っておいたのですが、当該ピアノ女史のお好みはシューマンとバッハ、ブラームスもOKと言うことでした。シューマンは前回の「大人の学芸会」の暮れの”弾く忘年会”で「詩人の恋」の後半8曲を歌って2年かけて全曲歌ったところで、もう一度「詩人の恋」を歌いますとも言えませんでした。

 ところでヴェルディの歌曲、”6つのロマンツァ(1838)”ですが、曲想と詩の内容が結構乖離しているように思えて違和感があります。詩の内容がかなりおどろおどろしいものがあると言って良いと思うのですが、曲想はそれほどでも無いんですね。一方でリズムは伴奏が三連符のところで歌は複付点でエッジを強調するかのように跳ねる感じが多いです。ヴェルディが少々実験的な効果を確認するために作曲した習作ではないかという気もします。

 ということであらためてシューマンの声楽作品を聞き直してみました。最初に思い浮かんだのはリーダークライス作品39ですよね。新たに楽譜集を購入しなくても済ませるようにペトルッチ(IMSLP)のサイトを見ました。当然公開されていましたが、原調のみの一種類でしたね。これほど有名な作品なら高声用、中声用、低声用等のバリエーションがあるかと思っていましたが、無いのが以外でしたね。こうなると音域的に歌えない曲もありそうです。

 その他もちろんリーダークライス作品24もあるし、ロマンスとバラードが第1集から第4集まで、それからミルテの花もありますね。歌曲以外の声楽作品まで範囲を広げればレクイエムやオラトリオ「楽園とペリ」。昨日の今日でまだまだ全く聞き直せていませんが、リーダークライス作品39やロマンスとバラードの中には歌ってみたいと思える曲がいくつもありますね。

 エフゲニー・オネーギンとカルミナ・ブラーナの準備を進めつつ、5月末に向けてシューマンの作品から選曲して人に聞いてもらえる水準まで歌えるところまで持って行くとすると、結構忙しくなりそうです。

シューマン ヴァイオリン協奏曲

2015-10-04 23:28:53 | シューマン
 ヴァイオリンと言えばクラシック音楽で用いられる楽器の中でも花形で、古今東西の作曲家が傑作の誉れ高いヴァイオリン協奏曲を作曲しています。世間一般ではメンチャイベーブラシベとか言うそうで、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ベートーヴェン、ブラームス、シベリウス、それぞれのヴァイオリン協奏曲を言うそうです。ところでドイツ古典派からロマン派への主流の中に位置づけられているシューマンですが、そのヴァイオリン協奏曲については必ずしも高く評価されてはいないようです。クララ・シューマン夫人も自身の生前にはヴァイオリン協奏曲の演奏を禁じていたとも言われているそうです。

 福島章著の「音楽と音楽家の精神分析」の178頁には「・・・《ヴァイオリン協奏曲》は、構成や作曲技術に大きな破綻を示している。演奏される機会もとぼしく、一般には演奏効果がまったくあがらない曲といわれるが、「個人様式の一貫した発展においてみるところ、世の評価を超越した孤独の境地に独自の世界を実現している」(前田昭雄)と高く評価する人もいる。」と記載されています。ちなみに前田昭雄氏は上野学園大学の学長を務められた方ですね。

 今の私の印象では、狭隘さを感じさせるところは全くありませんが、いたずらに広がりを強調するよりはむしろ奥行き=深さを意識させる作品と思います。これまで度々ドイツ音楽の特性は建築に例えられるような構成性・構造性であり、一方でフランス音楽の特性は変化・変幻自在、うつろい易さというようなことを書いてきたと思いますが、シューマンのヴァイオリン協奏曲はドイツ音楽の範疇にあっても、最も構成性・構造性からは遠い所にあるように思います。その意味で世間一般で言われている”破綻を示している”ということなのだと思いますが、私には深い精神性を湛えつつ押し付けがましさが全く無いという点で最高傑作の部類に入る作品であると思わざるを得ません。

 ベートーヴェンが自身の苦悩を正面から受け止め、常に一人称で作品に昇華させていたのに対し、シューマンは自身の苦悩を客観視し、ある意味諦観して三人称としてこのヴァイオリン協奏曲に昇華させたのではないか、と思います。ベートーヴェンにとっては苦悩は常に克服する、克服しなければならない対象であったのに対し、シューマンにとっては静かに受け入れるべき対象ではなかったのかとも思えます。

 今現在、気分(双極性)障害の病識がある私にとって、ヴァイオリン協奏曲あるいは協奏曲、更には交響曲や管弦楽作品にまで対象を広げたとしても、メンデルスゾーンやチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聞こうと言う気持ちは起きません。ピアノ協奏曲やベートーヴェンの交響曲、チャイコフスキーの第六番「悲愴」すら聞きたいとは思いません。モーツァルトの「レクイエム」やヴェルディの「レクイエム」等もってのほか。シューマンのヴァイオリン協奏曲と「レクイエム」はそれらの作品とは本質的に異なる作品として、疲れた精神に癒しあるいは救いを啓示してくれる気がしています。

昨日の シューマン 「詩人の恋」 作品48 の続きです

2015-08-11 23:52:55 | シューマン
 昨日の シューマン 「詩人の恋」 作品48 の続きです。スコアメーカーで作った音源や動画サイトの音源を聞き込むと、自分の勘違いに気付きました。「詩人の恋」を構成する全16曲はそれぞれ全て有節歌曲形式ではなく、通作歌曲形式で作曲されています。しかし第1曲の「Im wunderschoenen Monat Mai」等の様に前半の曲の中には実質的に有節歌曲と言って良いものがあります。ところが後半に行くほど、一見ならぬ一聴したところ反復する有節歌曲の様でありながら旋律あるいはピアノパートが前出部とは微妙に異なっている構成になっています。漫然と聞いていたときにはその差異を意識できなかったものが、いざ自分で歌おうとしてあらためて意識したことが違和感の様に感じたのだと思います。

 それぞれの曲の歌詞の内容と、歌詞の内容を反映させた曲の配列。それぞれの曲の中での曲想の展開と、全体を通じての曲想の展開。ドイツ音楽の範疇の中では、流麗と言って良いどっぷり後期ロマン派のシューマンの魅力が溢れていると思いますが、それでも堅固な建築物に例えられる構成力も感じられます。恋の喜びを歌った前半の方が華やかな曲が多いですが、実は暗い失恋を歌った後半の曲の方が和声的にも緊張感に溢れている??? 溢れていると言うよりも内省的な緊張を表すために使われているスパイスとしての不協和音が、量的には決して多くはありませんが、質的により強くなっている、という様な感じがします。なので、私程度の歌い手にとっては、前半の歌は何とかこなせるものの、後半の曲の方がきちんと意識して和声を処理していかないと躓いてしまいそうになる、ということの様に感じます。

 さて、動画サイトの音源で「詩人の恋」全曲を何人かの演奏で聴き比べてもいます。なんと言っても20世紀最高のバリトンであるディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの表現力は秀逸ですね。ただ、「詩人の恋」に限りませんが、フィッシャー=ディースカウの声質は音域によって結構変化しませんか? 表現力の幅として意図的に変えている部分もあるような気がしますが、やや暗めの深い声で下から上まで統一してくれた方がもっと素晴らしいのではないかと思うこともあります。

 ところで英会話の教材で紹介されていたことですが、英語の発音を練習するときにネイティブ一人の発音に合わせて繰り返しているだけだと、そのネイティブ個人の癖を結果として真似してしまうそうです。お手本の個人の癖を避けるためには最低4人の異なる個人の発音を聞いて練習すると良いのだそうです。と言うことで歌の場合でも可能な限り4種類以上の音源を聞いて、特定の歌手個人の癖まで身につけないように心がけておりますが、動画サイトの音源だと音質のばらつきが結構大きくて、音質の悪いものを繰り返し聴くのは辛いですね。

シューマン 「詩人の恋」 作品48

2015-08-10 23:52:42 | シューマン
 「ロミオとジュリエット」の本番が終り、身の回りを整理してみると、何と今度の日曜に「詩人の恋」の後半数曲を人前で歌う予定になっていました。はい、”大人の学芸会”という、器楽中心のアマチュアの集まりですが、声楽もOKと言うことで昨年の春から仲間に入れてもらっています。昨年末に「詩人の恋」の前半8曲を歌って好評でした。その時から全曲歌いたいという思いはありましたが、演奏時間の割当から先ずは前半8曲を歌ったと言うことです。今年も年末にも会が予定されていて、夏よりは年末の方が演奏時間を頂ける様なので、今年の年末に後半8曲を通して歌うか、更に無理をお願いして全曲歌わせてもらおうか、と言うところです。その準備として今度の16日、恵比寿のテッドアートスタジオというところで、午後から公開で入場無料、やる気さえあれば当日飛び入りでアンサンブルをすることも可能かもしれません。

 ということで、”大人の学芸会”としての練習会も何回かあったのですが、「ロミオとジュリエット」の話を頂いてからはそちら優先で、ピアニストのO氏と合わせていません。2日に本場ヨーロッパから一時帰国の森内先生に9番と13番を見て頂いて、この2曲についてはイメージがかなり出来ています。その他の曲については、前半の曲に比べて歌い込みが全く足りていません。例の如くカワイのソフト;スコアメーカーで音源を作って聞いていますが、以前持っていた記憶・イメージと細かい点で違うように感じる箇所が幾つもあります。交響曲の様な大作ですと、音楽学者の研究対象となって時々校定版が出たり、原点版と言われているものが更新されたりします。シューマンの「詩人の恋」についても楽譜の改定がなされているのでしょうか・・・? スコアメーカーの誤認識は当然あるので、おかしい?と思ったところは楽譜と首っ引きで誤変換を修正しますが、楽譜通りになっているにも関わらず、どうにも耳に聞えてくる音と過去の記憶とに乖離があったりします。ただ、どうやらシューマンが作曲したとおりの音楽的な前衛性を受け入れきれずに、無意識に古典的な和声に置き換えて覚えていたのかなという気もしてきました。

 「詩人の恋」で特徴的な和声、特に前衛的な和声と言えば、何と言っても1曲目の「Im wunderschoenen Monat Mai」で、この曲は全体を通して緊張感が持続する、一度聞いただけで忘れられない傑作だと思います。この曲を含め前半の曲は恋の喜びを歌う曲で構成されていますが、後半は失恋を歌う曲となり、ある意味地味な曲想になるわけです。が、細部を勉強するとそこかしこに古典的な和声を突き抜けている緊張した和声が溢れているんですね。それも素人に毛が生えた程度の私が勝手に古典的な和声に修正して覚えてしまう程度に微妙なんですよね。一度聞いただけで印象に残るほど強烈であれば、自分の頭の中で勝手に修正したりはしない筈ですが、今になって「詩人の恋」の後半の曲がこんなに難しいとは思っていませんでした。

 「ロミオとジュリエット」の本番を経験したことで、音楽の階段を間違いなく一段昇ることが出来たと思っています。それによって「詩人の恋」との向き合い方に何か本質的な変化が生じたのでしょうか・・・? 今になってかなり悩んでいます。今週末のサマーフェスティバルではその悩みを確認して、暮れの会でその答えを披露できる様に精々頑張りたいと思っています。