行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

季節感の薄い南方の地にようやく寒気がやってきた

2016-11-26 13:36:28 | 日記
広東の地はかつて、文化の中心だった中原を戦乱や災害で追われた人々が流れ着いた場所であり、官僚にとっては政治闘争による左遷の地だった。蘇東坡は汕頭の南にある恵州に流され、人生の達観をうたった。中央からの距離がまたこの地の独立心を育てることになった。客家文化、華僑の伝統にはこうした背景がある。

多湿な亜熱帯・熱帯の気候により、四季の変化が乏しい。だから詩人は生まれにくい環境だ。繊細な自然を有し、多数の名歌を生んだ江南地方とは趣が異なる。12月を前にようやく気温が10度台に下がり、秋がやってきたかと思ったら、地元の人々はこれが冬だという。紅葉もなく、秋はサッと素通りしてしまった。湿気があるので寒さが肌の中に染み入るように感じられる。





冬だが、花が咲き、地面に花が散っている。重たくなった空気から季節を感じ取るしかない。

学生たちと季節感について雑談をしていたら、冬の花として梅の話をする女子学生がいた。学校の授業でみなが覚える詩に南宋・陸游の「詠春」があるという。彼女はすらすらとそらんじてみせた。

卜算子·詠梅

駅外断橋辺、寂寞開無主。

已是黄昏独自愁、更著風和雨。

無意苦争春、一任群芳妬。

零落成泥碾作塵、只有香如故。

川にかけられた橋も朽ちているようなひなびた場所で、さびしく梅の花が咲いている。「無主」とは、気に掛ける人も、愛でる人もいないことを言っている。政争に敗れ、野に下った詩人の境遇でもある。人生も下り坂にさしかかる黄昏時、憂いも深まるが、さらに風雨が加わって心の惑いを深める。梅の花は四散して地面を覆っている。

落梅は古来、春の訪れでもある。「寂寞」という孤独は、強さの裏返しだ。だれにも見出されなくとも、自らの意志で花をつける気高さに、自らの愁いを重ねる。だが愁いはそのまま受け止めるしかない。慰めもごまかしもきかない。詩人は「醉自醉倒愁自愁(酔ってつぶれても、愁いは消えずにやってくる)」(『春愁』)ともうたっている。その覚悟こそが孤独であり、強さである。

花々が春を先取りしようと争うように、人もまた名利を求めて競い合う。だが、自分にはそんなつもりはない。すでに追われた身なのだから、そんな俗界の些事にかかわる必要もないし、そんな世界とは無縁なのだ。浮沈に一喜一憂する人々はなすがままにさせておけばよい。花が落ちて泥にまみれ、土となっても、その香りは変わらずにとどまるのだ。精神の高貴さが失われることはない。

梅の強い香が、強さと同時に痛ましさを伴って広がるのは、もののあわれに親しんだ日本人の感傷なのか。梅を愛する民族と、桜を愛でる民族との違いかも知れない。自然に向き合う態度は環境のほか文化によっても大きく左右されるのだ。