行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

しっかりしている中国メディア学部の学生たち

2016-11-07 18:15:44 | 日記
中国の新聞学院(日本語で言えばジャーナリズム学部、メディア学部)が、党宣伝機関の凋落と、インターネット社会の挑戦によって岐路に差し掛かっていることはすでに述べた。新聞学院は時代の変化に応じた生き残り策を模索しているが、目前の就職を控え、即効的な対応を望む学生たちは、大学が依然、旧態依然とした記者養成カリキュラムを堅持していることに不満を持っている。

そこで数人のグループに分け、4年生たちを食事に誘った。授業では静かな学生も、少人数の場では人が変わったように話し始める。

「実際、ジャーナリズムには興味ない。医学部に入れないからやむを得ず来たんだ。
「お金のもうかるビジネスの方が面白い」
「新聞もテレビも、いずれは党に助けられて残るだけ。そんなところに行ってもつまらない」

こんなふうにはっきり言う学生もいれば、

「ジャーナリズムの理想を追い求めたい」
「記者はやはりあこがれの職業だ」
「ネットニュースだってプロのメディア人を求めているはずだ」

と、所期の夢を追い求める学生もいる。中にはしっかり者がいて、商学部の授業を合わせて受講し、簿記の資格まで取っている男子学生もいる。彼に聞くと、「就職を第一に考えなくてはならないから。ただ、直接、就職に役立たなくても、新聞学院の授業は視野を広げてくれるので役に立つ」という。先生たちが心配するほど、学生たちはひ弱でないということなのか。意外としっかりしているという印象を持った。

メディアではタブーとされていることも、彼ら、彼女らはたいてい知っている。どのような場で、どのようなことを言うべきか、どのようなことを言ってはならないか。小さいころから肌で感じ取っているようなところがある。もちろん歴史上の肝心なことを知らないことも多いが、少し話せば素直に受け入れる。自分たちが知らされていないことがあることを自覚しているからだ。そんな中で精いっぱい、自分の将来を模索しようとしている。したたかになるのも当然なのかも知れない。

多様な価値観を持った学生を前に、どこをターゲットにして授業をすればよいのか悩むが、ある女子学生がこんなことを言った。

「正直言えば、単位が欲しいから授業に出てるわけだけど、私たちは、役に立たない理論よりも、先生の物語が知りたい。例えば、先生を囲んで机を並べ、じっくり先生の経験を聞くような授業もしてほしい。ニュースを効果的に伝えるには物語性が大事だと、先生も言ったじゃないですか」

人間に関心を持つことは大切だ。次回は彼女の希望を取り入れた授業をしてみようと思う。私への関心が日本人、日本への関心につながることを期待して。

中国でメディアを学ぶ学生たち、教える教師たちの苦悩

2016-11-07 11:51:33 | 日記
中国のメディア人を育てる大学の新聞学院(日本語で言えばジャーナリズム学部、メディア学部)で、いわゆる新聞、テレビ、通信社などの伝統メディアに就職する若者が激減している。採用する側が、環境やエネルギー、司法、経済部門の記者をそれぞれの専門学部から採用するようになったことに加え、メディア統制によって記者の活動領域が厳しく制限され、魅力を失っていることが挙げられる。

若干、背景説明が必要だが、中国では共産党が宣伝工作を重視したため、各大学に新聞学院を設け、「党の喉と舌」の役割を担う記者、そして宣伝機関幹部を育ててきた。だが世論の多様化によって党メディア自体の影響力が低下し、それを補うために登場した市場型の新聞、いわゆる「都市報」も、十分な経営モデルや信用性を確立できないまま、インターネットに淘汰されている。メディアの下剋上時代が到来し、日々、イノベーションが模索されているのが現状だ。

こうした変化によって、新聞学院も学生の間で以前のような人気を失い、学校側もジャーナリズムから広告、PRへと就職に直結する科目を増やしている。それはどこの大学でも同様だ。学生たちは、原稿の書き方や取材のノウハウといった、記者養成を前提としたカリキュラムを退屈に感じ、より就職に役立つ実利的な授業を好む。学生のニーズに合わせ、学校も劇的な変革を求め、教師への評価も厳しく見直されている。少子化によってあわてて学生集めを始めた日本の大学に比べれば、より時代の変化に対応した改革に敏感である。

私の在籍する大学でも冬季休み後の新学期に備えた会議が始まった。当然、科目の見直しがホットな話題になる。取材、原稿の技術を専門に教えてきたベテラン教授が口を開く。

「ネット・ニュースの原稿はロジックもテーマ設定も、価値観も滅茶苦茶だ。どんな時代になろうと、ニュースを伝える基本的な仕事は変わらない。深みのある原稿をいかに書くか。それを教えなくなったら新聞学院はおしまいだ」

もっともな意見である。

それに対し、教務責任者の先生が口を挟む。

「やはり就職に直面した学生のニーズも考え、授業内容をより柔軟にしないといけない。ネットでは、記事を書けなくても、編集をできる人材のほうがより求められている。もっとネットメディアと交流をはかるべきでは」

これも学生と学部の将来を考えたまっとうな立場である。

外国人の異なる視点から意見を求められた私は、次のように答えた。

「取材や原稿のノウハウは、単に技術的な問題ではなく、その作業を通じて社会、世界への認識を深め、自分自身の独立した価値観を築くために必要だ。インターネット時代の新聞教育は、ニュースを発する人材だけではなく、いかにニュースを受け止め、いかにメディアと向き合っていくか、それを解する人材を育てる必要がある」

若干、理想主義的に過ぎたかも知れないが、一部の賛同は得られた。軽佻浮薄に流れ、公共性や公益性、責任感をないがしろにしたメディアが長く生き延びられるとは思えない。必ず原点回帰が起きるに違いない。何を教えるかではなく、なぜ教えるのか、という点で認識が一致すれば、あとは技術的な問題に過ぎない。インターネット社会に向き合う企業も、そうした人材を必要としていなのではないか。就職の面接で、現代のニュース観、メディア観を堂々と語ることができたら、どの企業や組織も必ず採用したいと思うに違いない

同じ問題意識を四年生の学生を小グループに分け、食事をしながら語り合った。包み隠さない、率直な意見を聞くことができた。(続)