行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

自分の中に答えを見つけ出そうとする努力

2016-11-18 12:38:12 | 日記
事前通告をしないまま授業冒頭に「沈黙の10分間」を設け、その間の思考を手掛かりにメディア、言語、コミュニケーションを自在に論じる論文を期末テストの課題とした。複製されているかのようにみえる日々の生活に、非日常、異常な時間が流れる。その体験を通して自分を振り返り、思考を深めることができるのではないかと考えた。実験的な試みである。

最初の授業で「いかに学ぶか」の答えとして、独立した思考、相対的な思考、批判精神を掲げた。要は自分の頭で考えることの大切さを学ぶことだ。独立しなければ思考は成り立たない、思考がなければ独立もあり得ない。いかにしてそれを実践するか。考えた挙句、思いついた課題が「沈黙の10分間」だった。問題設定自体が難解なので、その後の授業はこの謎解きに時間をかけようと思っていたが、多くの学生たちに誤ったシグナルを送ってしまった。

「何も考えていなかったので、どうしたらいいですか?」
「遅刻者が多いことの分析でもいいですか?」
「無断欠席の反省をすればいいですか?」

こんな相談がきたのだ。私の表現能力に問題があった。加えて、私が学生の思考回路を十分に踏まえて話をしていなかったことに、改めて気づかされた。

問題が示されたら、答えを出そうとする。その答えは通常、だれにとってもある程度は想像のつく、ある公式にあてはまるものでなければならない。どう書けば合格点に達するかは、問題を出す方、答える方の双方が経験的に了解している模範モデルがある。これがわれわれのメディア社会を覆っているステレオタイプ思考だ。みなが受け入れられる評価を点数で示さなければならない以上、ある基準が想定されるのは避けられない。だがそれを乗り越える努力をしなければ、大学はステレオタイプを量産するだけで終わってしまう。

「先生が10分間の反省を求めた。だから何か自己批判をして、きちんとした反省文を書かなければならない」

少なくない学生がこう受け止めてしまった。さてどうすればいいか。

10分間何も考えなかったのだとしたら、なぜそうなったのか。第1回目の授業からそうだったのか。なにも考えずに人は過ごすことができるのか。沈黙の空気を全く感じなかったのか。だとすればどうしてなのか。周囲の環境に対する感度が鈍っているのではないか。それはどうしてなのか。繰り返されるかのうように感じられる時間と空間。複製に囲まれた疑似環境の中で、一度しかない時間、空間を惜しむ気持ちを、現代人は見失っていないか。だとすればそれはどうしてか。昔はどうだったと想像できるのか。それはどうして・・・。

善悪、是非の基準で結論を出してはいけない。その二分法のステレオタイプから脱しなくてはならない。第三者の目をもって、自分を見つめなおすことが大事なのだ。あわてて答えを出そうとせず、考える過程を楽しむぐらいの気持ちをもって。その際、沈黙が会話の相手として必要なのではないか。喧噪、雑音の中で、われわれは言葉の重さを見過ごしてはいないか。沈黙はその重量感を取り戻してくれるに違いない。

携帯電話の中にあらゆるメディアが押し込められている。意思を通わせる言葉、感情を伝え合う音声、利益を交換する貨幣。携帯画面の平面に自分までもが飲み込まれていないか。思考から立体感が消えうせ、感情から奥行きが奪われてはいないか。だから私はいつも言っている。

「1時間でもいいから携帯を引き出しの中にしまって、自然豊かなキャンパスを歩いてみてはどうか」

と。

次回の授業では、月夜の酔意から話を始めよう。この国にはかつて、月を盃に写し取り、月夜に照らされた自分の影を合わせ3人で「沈黙の酒宴」を創造した酒仙がいたのだ。きっと何かが生まれるに違いない。