行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

孤独と単独の違いを教室の中から考えてみた

2016-11-21 15:17:11 | 日記
授業中、教室内での「孤独」と「単独」という概念について議論してみた。教室という小さなコミュニケーション社会を通じ、「自由」と「公共」について考える糸口をつかもうと思った。開放された席に腰かけ、沈黙が教室を覆ったとき、きっと周囲を気にするに違いない。周囲とは教壇の教師を含めてのことだ。10分間の沈黙をきっかけに何とか思考の糸口をつかんでほしいと思った。

先生は何を考えているのか。みんなは何を思っているのか?

そんなところから学生たちは考えを働かせるのだろう。全く気にしないで座っている学生は、どうして周囲が気にならないのかを振り返らせればよい。町中の雑踏とは明らかに違う。教室ならではの感覚があるはずだ。それはいったいどこから来るのか。

教室に腰かけていても、だれも「どこから来たのか?」「何しに来たのか?」とは聞かない。それはなぜか。学生には席が用意されている。功利によって選別され、排除される市場とは違う。開かれた社会=公共から受け入れられているのだ。そして教室内では、その気さえあれば自由に発言が許されている。公共性を享受できる。だが、その発言を先生から無視され、クラスの仲間からも排除されたらどういう気持ちになるだろうか。見せかけの公共、実態の伴わない偽の公共だ。

そこで孤独について聞いてみた。

ある学生は「孤独」と「単独」「独処(中国語で単独に近い意味)」の違いを、前者は感情、後者は理性の領域にかかわるものだと答えた。たしかに孤独は感情につながっている。だが、他者との関係、社会とのかかわり、公共という視点からもとらえる必要がある。

席は用意されているが、存在を認められなければ、その場所にいることの意義はない。価値も見いだせない。それどころか見せかけの公共の中で疎外感にさいなまれ、その結果、やってくるのが集団の中にいて感じる孤独ではないのか。だとすれば孤独は他人がいて初めて感じるものだ。他人との関係において、自らに襲い掛かってくる感情だ。

単独や独処を「理性」と表現した学生の目は鋭い。社会との関係、公共性から考えれば、自らの意志で選んだものだ。社会の空気や大勢から一線を敷き、自らの空間を作り、そこで自らの時間を享受すること。それが単独ではないのか。単独や独処は社会と緊張感を保ちながら、そこを行き来し、最後は公共性の還元されていく選択ではないか。それは沈黙と言葉の関係に似ている。沈黙があるから言葉が生命を宿し、メッセージの重さを保つ。一人で独立した思考をする「単独」がなければ、社会は沈滞していく。公共性は絵に描いた餅に過ぎなくなる。

孤独と単独には大きな違いがある。だがそんなことを考えたことのある学生はいない。当たり前だ。公共とは何か?そんなこともふだんの生活とは無縁だ。だが、新聞学院に学ぶのであれば、是非、メディアに覆われた社会の実像に迫る努力、思考の習慣を身に着けさせてあげたい。型にはまった、ステレオタイプの思考から脱し、答えを出すことを慌てず、あらゆる枠組みを取り払い、ゼロからレンガを積み上げるような作業の喜びを見出してほしい。

メディアの中に身を置きながら、いつも疑問に思ってきた。あらかじめ出来上がったモデルに押し込めていくような記事が多すぎる。そのモデルをチェンジすることも、器用に、たちどころにこなす記者を少なからず見てきた。自分の思考、独立した思考というものがない。従属した奴隷根性が蔓延している。だからこそ今の時代に危機感を感じる。国の別を問わない問題なのだ。