行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「K(空気)Y(読めない)」は外国語に訳すことができない?

2016-11-01 21:42:21 | 日記
輿論について語る授業で、日本語の「空気」についても説明した。第一次安倍政権が参院選の惨敗後も居座り、その後、首相自身が突然辞任したことで「KY」と揶揄されたことや、さらには戦中の非論理的な意思決定を扱った山本七平著「『空気』の研究」も紹介した。「Public Opinion」が衆議を経た上で集団に一定程度共有される意見だとするならば、「空気」は非理性的な「popular sentiments」に近い。

だがどうもうまく翻訳ができない。ネット用語で「KY(空気読めない)」を知っている学生もいたが、その意味についてはきちんと理解しているわけではない。言語ではなく非言語によるコミュニケーションに属する概念だけに、無理もないかもしれない。

目標を失って暴走する群衆とも違うし、プロパガンダによって洗脳された大衆とも異なる。非論理的な感情のようにみえるが、非常に冷めている感じもある。意識的に空気とかかわっている感覚がある。そこで気づいたのは、なぜ「KY」が「読める」ではなく「読めない」なのかという点だ。山本七平も同著で「村八分」の表現を用いたように、空気はもっぱらそれに従わない者を排除する思想ではないのか。

日本滞在経験のある中国人に「KY」をどう中国に訳すべきかを尋ねた。

「没眼色」・・・気が利かない
「不察言观色」・・・顔色がうかがえない
「不善解人意」・・・思いやりがない
「拎不清」・・・道理をわきまえない

思いつくままの言葉が出てきた。「空気」と「气氛(雰囲気)」は同じではないのか、という意見もあった。だが、やはりどうもしっくりこない。中国人にとっての「空気」は、つかみどころのない不特定多数を想定しているのではなく、目の前にある一対一の関係をもとにしているように思える。個々人の人間関係を重んじ、それをいかに処理すべきかという現実的な関心を反映している。だから集団から排除するというニュアンスが出てこない。

そう感じるのは授業を通した経験からだ。日本の学生であれば、クラス全体の空気を気にしながら、挙手をして発言をしたり、先生とコミュニケーションをとったりする。教室内で交わされる学生と教師の会話も、常に周囲の空気を気にしながら行われる。学生が教師に質問をしながら、あるいは教師が学生に話しながら、周囲の反応にも目配せをする光景も珍しくない。

だが、中国人学生を相手にしていると、そうした周囲への配慮はお構いなしに、学生が直接、教師の心の中に入ってくる。全体の話の流れも気にかけず、自分の興味がある方向に強引に話を持っていく。教師の顔色は穴の開くほど見抜こうとするが、それ以外には視線を向けもしない。教師からいかに注目を集めるか、自分の存在を認めさせるか、アピールするか、そうした意欲がストレートに伝わってくる。周囲の空気ではなく、一対一の関係をはさむ空気の振動しか感じないかのごとくである。

だが周囲はその学生を異質だと特別視はしない。むしろ積極的で、前向きで、独特な姿勢を評価する。空気はあらかじめ想定されるから排除の発想がうまれるが、そもそもその空気は自分で作っていくものだという思考なのだ。それはルールを順守するのか、それを制定するのかという立場の違いでもある。

もちろん、集団の中で人が優勢な意見に服従、迎合したり、沈黙によって自由と権利を放棄することはどのような国にもみられる、人間に固有のものである。だが「空気」という目に見えない、説明のつかない表現を用いるのは日本特有ではないか。言葉として表現される以上、それは集団内において自覚的である。だが非言語によるコミュニケーションであるため、翻訳への道が閉ざされている。

実に厄介だが、逆にそれが異文化交流の窓口を開くカギとなる可能性も持っている。相手にない概念を無理やり翻訳するよりも、その概念が持っている文化的背景を説明することが先決なのかと思う。それは結局、自らを知るという原点に立ち返ることなのだ。