行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

トランプ当選でアメリカの先生が教室で流した涙

2016-11-24 12:46:54 | 日記
2016年の米大統領選は、メディア論にも様々な問題を提起した。私の授業では学生による研究発表も行った。主要メディアがヒラリーを支持し、トランプを批判した点を「政治的主張が強すぎ、客観性、中立性に欠ける」と指摘するものや、「SNSを味方につけたトランプの勝利」とするもの、「エリート層に対する社会不満の表れ」と社会背景を分析するものまで様々だった。

ただ言えるのは、中国において、過去にないほど米大統領選に対する関心が高かったということだ。食事で教師仲間と同席すれば、決まって話題はヒラリー対トランプだった。予想も盛んに行われた。これは日本を含め他の外国についても当てはまるのではないか。単に米国のアジア戦略を含む外交、PPTなどの国際貿易が焦点となっただけではない。インターネット空間によるグローバル化が進む中、ニュース市場が拡大するどころか、特定の話題に特化する寡占状態が起きていることこそが問題視されなければならない。

世界は、ののしり合いを演じる米大統領候補、それに便乗するメディアと世論を嘲笑しながら、観客席でゲームを楽しんだ。その意味では、米国内外を問わずみなが娯楽ニュースに動員され、消費されたことになる。背景には政治的意図のほか、経済的な利益もあったに違いない。ニュース市場はかつてない活況に沸き、メディア業界は久々の好況だったのだ。

中国の官製メディアは、ここぞとばかり米国の格差社会、不平等社会をあげつらい、娯楽化し、退化した米国式民主主義を揶揄した。西側メディアが日ごろ、中国の格差問題、人権問題、独裁体制を批判していることに対し、たまったうっぷんを晴らすかのようだった。中国中央テレビでは中国人学者が堂々と、米国の二大政党制が機能不全を起こし、第三の党の生存空間を奪っているとの解説までしていた。あたかも中国が(実質的な)多党制の価値観を認めているかのような口ぶりだった。

だが私にとって最も大きなニュースは、米国の大学に留学するある日本人学生から送られてきた。トランプの当選後、米国人教授が授業の冒頭、涙を流しながら、留学生たちに向けて「ありがとう」と言った、という便りだった。

トランプは米国、米国人の利益を前面に出し、排外的な言論をしばしば口にした。その米国人教授は、そうしたトランプの発言は米国が信奉してきた自由、平等、公正の原則に反するものだと考えた。多くの知識人は同じ気持ちを抱き、米国人としてのプライドを傷つけられたと感じた。だからこそ、それでもなお米国を離れず、授業に来てくれる外国人留学生に深い感情を持った。それが留学生に対する感謝の言葉となって表れたのだ。

同じく教壇に立つものとして、その気持ちは非常によくわかる。私は逆に異国で教える立場だが、ステレオタイプの対日観が大勢を占める国にあって、日本に対し好感、共鳴、理解、関心、疑問さらには公正な批判を持ってくれる学生たちには、格別の感情を持つ。ありがたいと思うと同時に、等身大の日本を正しく伝えなければならないという気持ちが強く働く。日本人に接する機会が限られた状況で、私一人の存在が極めて大きな意味を持っていることを実感する。

だからこそ、米国人教授が流した涙の重さを深く共有できる。その一粒の涙を通して、米国の一面をしっかりととらえた留学生もいたに違いない。メディアやネットにあふれる雑多なニュースよりも、自分の目で耳で体感した価値ある情報の方が、当人にとっても、社会、世界にとっても、はるかに大きな意味を持つ。目を輝かせる若者たちと接しながらそう感じる毎日である。