行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

複製のない「超級月亮(スーパームーン)」の夜

2016-11-15 15:28:07 | 日記
昨晩は元新華社記者の特別講演を聞き、宿舎までの帰路、「超級月亮(スーパームーン)」を楽しんだ。月面のまだらが浮かんで見えた。携帯では稚拙な写真しか撮れない。複製品としては駄作である。






月を見上げていたら、李白の『月下独酌』を思い出した。無性に酒が飲みたくなった。

花间一壶酒  花開く木立の中、酒の壺を持ち出してくる
独酌无相亲  独り飲んでいるだけで、付き合ってくれる者もいない
举杯邀明月  だが、月が上っている。盃の酒に名月を写し取り、
对影成三人  月明りでできた私の影を含めれば、三人になるではないか

酒仙は、影を友とし、月を仲間に引き入れて孤独を慰めた。会話はない。沈黙の中で豊饒な言葉が生まれる。沈黙があるからこそ生まれる言葉だ。言葉は浮かび、そして沈黙の闇に安息の場を求めて戻っていく。

大学内の行きつけのバーに足を運んだ。携帯のチャットにはあちこちから写真が送られてくる。本当か偽物かかもわからない。明らかな合成もある。









真偽はどうでもいいのかもしれない。しょせんは複製技術の延長だ。みなが面白がっているゲームに過ぎない。本物の影はますます薄れていく。テレビで見た。ネットで見た。それで十分だと人は思う。複製の時代においては、「数十年に一度」というイベントもかすんでしまう。もう李白の詩は生まれないのだろうか。むしろそうだからこそ、本物を求める願いが強まるようになるのであろうか。

一人でウイスキーをロックで飲んでいると、受け持ちクラスの女子学生が入ってきた。彼女の友だちがバーでバイトをしていて、その友人が私が来ていることを連絡したのだという。大したものだ。結局、バーが閉まってから、三人で校門を出たところにある露店に行き、夜食を食べた。私はウイスキーを醤油受けの小皿に注ぎ、ストレートで飲んだ。気が付けば三人になっていた。だれが影で月なのか。そんな冗談を言い合った。

月は女神の嫦娥(じょうが)が住む。常蛾が舞い降りてきたのか。中国語の「超級月亮」も工夫がないが、日本語の「スーパームーン」はもっと味気がない。科学からははるか隔たっていた古人は、長い沈黙の中で言葉の魂をつかんだ。

妖艶な女性を形容する嬋娟は月の異称だ。蘇東坡に月をうたった『水調古頭』がある。テレサ・テンの歌にもなった。異郷の人への思いを月に託した。

明月幾時有   明月はいつになったら出てくるのか
把酒問青天   酒の盃をかざして青空に聞いてみよう

月は、人の感情を映し出すかのように満ち欠ける。完全無欠なものはない。満月といえども絶えず変わっている。丸い月は完全な「円」ではない。

人有悲歡離合  人には悲しみや喜び、別れや出会いがある
月有陰晴圓缺  同じように月にも明かりや影、満ち欠けがある
此事古難全   完全無欠ということは昔からあり得ないのだ
但願人長久   だから今はただ、遠くに住むあの人がつつがなく長生きをし
千里共嬋娟   千里の彼方にあっても共有できるこの名月(嬋娟)を一緒に楽しみたいものだ

唯一無二の、本物の月を享受した夜だった。

コピーに囲まれた学生に与えた10分間の「沈黙」(その3)

2016-11-15 14:02:55 | 日記
東洋では、言葉によらない悟り、直感を重んじてきた。鈴木大拙の『禅と日本文化』(原著は英語『Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture)』)は「不立文字(ふりゅうもんじ)」を挙げる。



知識には三つの種類がある、と鈴木大拙はいう。一つは、本を読み、人の話を聞いてたくわえる、いわゆる一般的に知られている知識。もう一つは、科学的な観察と実験、分析、推理によって得られる知識。そして、第三の知識は直感的な理解の方法によって到達することのできるものだ。

第三の知識こそ、宗教的信仰の基礎をなし、深い存在のなかにある。禅はこの知識を呼び覚まそうとする。形式を排し、執着を解き、超越的な孤高の境地を極める。因果を論じる理論は軽視される。理由や理屈を詮索せず、そこにあるものをそのまま受け入れる。だから論理を体現する言葉には頼らない。自らの身をもって感じ取るしかない。そこには沈黙の力がある。

鈴木大拙の書は、中国から帰ってきた禅僧の道元が、かの地での学びを尋ねられた際、「柔軟心のほかには学ばなかった」と答えたとのエピソードが紹介される。



それこそが和の精神だという。理屈ではないのだ。同じ時期、鈴木大拙と同じように東洋文化を英語で伝えようとした中国人が林語堂である。



林語堂は『吾国吾民(My Country and My People)』の中で、中国人の「ロジック」について、「中国人の論理は真理に対する概念に基づいている。真理は中国人の考えによれば、ただ暗示することができるのみで、決して証明はできない」と書いている。ただ「忘言の境地によって会心」し、「その然りたるを知るも、その然りたる所以を知らない」ものである。不立文字と同じ認識に立っている。根は共通している。

そして沈黙に話は戻る。言葉が氾濫する時代にこそ、いかに沈黙が大切か。ニュース、情報に追われ自分さえも見失いかねない環境だからこそ、空を見上げ、山から地上を見下ろすることが大事なのだ。

「今夜は超級月亮(スーパームーン)じゃないか」

授業の最後に、「期末テストは『沈黙の10分』をテーマに、自らの思考を振り返りながら、自由な論点でメディを語ること」と公表した。「わーっ!」と声が上がった。大変化球だと思ったのだろう。驚いたことに、「先生、次の授業でもう一回やってもらえますか?」という学生がいた。複製文化はここまで浸透しているのか。私は「君が言ったのは時間の複製だ。複製がきかないから尊い。その場限り、そのときだけの時間を我々は共有し、学びあっている。だから大事にしなくてはならない」と伝えた。

期末テストのテーマを解読していくことが、締めくくりの授業の主眼になる。

コピーに囲まれた学生に与えた10分間の「沈黙」(その2)

2016-11-15 13:11:29 | 日記
いきなり「言葉は沈黙から生まれ出た」と言われても、抽象的過ぎてすぐにピンと来ないのは無理もない。朝起きてから床に就くまで、音と文字の洪水の中で暮らしているのだ。リップマンの『世論』を精読して、メディアを通じて接する、真実ではない疑似環境のからくりは理解できても、だからといって社会、世界を正しく把握できるわけではない。とらえどころのない対象を前にして、時には右往左往し、長く沈黙し、人は終わりのない探求を続けるしかない。

続けて取り上げたのは、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』だ。



真正、オリジナルそして相対する複製、コピーとは何かを考える糸口を与えてくれる一冊である。この世の中に二つとないもの。ある時間、ある空間から離れがたく結びついているもの。永遠を前提に創造されるもの。それに対し、技術の進歩は作品を時間、空間から切り離し、いつでも、どこでも手の届く対象に変えた。ある絵は貴族の部屋から美術館に運ばれ、ネットでもアップされる。人を縛っていた小部屋は、レンズによって解体され、差異のない空間を生み出していく。

だがその結果、我々の身の回りは複製で埋め尽くされてしまった。ガイドブックを手に旅行をし、載っている写真の場所を探す。それを見つけると目的を果たしたかのような気持ちになって〝証拠写真〟を撮る。だが目の前にあるものは、ガイドブックの写真とは明らかに違う。ある時点のある空間を忠実に複製したとしても、時間までは複製できない。時の経過によって空間が風景が変わっていることを忘れている。旅の記憶は、旅行者の目によって切り取られて、唯一無二のものとして刻まれる。

オリジナルを見失った結果、偽ニュースが出回り、なりすましの詐欺行為が横行する。反復、保存が時間と空間への執着を弛緩させる。コピーを追いかけることに追われ、独自の、独創的な、独立した思考が見過ごされる。携帯画面の平面が、立体的な思考を奪っていく。一つの文字、一つの言葉が持っていた重量は、かつてないほど軽くなっている。湯水のように沸いてくる情報は、ファーストフードのように瞬く間に消費され、捨て去られ、更新されていく。アクセス数、購買量といった数字の中に飲み込まれ、大きな利益が頭上を覆っている。

目を覚ますのには沈黙が必要なのだ。携帯をオフにし、一人で散歩をし、本を広げ、自然の中にいる自分の時間と空間を取り戻さなくてはならない。沈黙から言葉が生まれるとはこういうことである。

「東洋には格好の手がかりがあるではないか」。こういうと学生たちが身を乗り出した。下を向いていた者も顔を上げた。



「一期一会」という。中国人も理解ができる表現だ。一度しかない出会いの覚悟が、緊張した一回性の時間と空間を生む。複製はきかない。人も空気も水も風景も飾りも、そして飲み交わす茶のすべてが、その場限りのものなのだ。だから無駄がない。人の触れ合いに必要なもの、最低限のものだけがそこにある。あらゆる作法は、お互いを敬い、一回きりの場を享受するためにのみ存在する。

言葉が、こちらをじっと見つめる学生の目から心の中に入り込んでいくのを感じる。同じ言葉を持っているのだという共感、共鳴だ。

(続)

コピーに囲まれた学生に与えた10分間の「沈黙」

2016-11-15 12:07:22 | 日記
昨日の授業「現代メディア課題研究」では、わざと2分遅れて教室に入った。それから携帯のアラームを10分後に設定した。後ろのドアからこっそり入ってくる学生、まだパンをかじっている学生、隣の友人とおしゃべりをしている学生、そして教壇をまっすぐ見つめる学生・・・そんな光景を見下ろしながら一言も発せず、一人一人の学生の表情を順番に追っていった。

いつもと違う私の様子に気づいて首をかしげる学生、なにが起きるのかと期待するかのような学生、知らん顔で外の風景に目をやる学生、この日、一番最初に研究発表の予定をしていた学生はどうしていいかわからずそわそわしている。遅刻の常習者はずっと下を向いたままだ。自分への批判が込められているのだと思い込んでいるに違いない。前回、無断欠席をした学生は、前の授業で何があったのか不安に思っているかも知れない。

「ピッ、ピッ、ピッ」っとアラームが鳴った。

「私が教室に入ってかちょうど10分がたった。この間、みんなが何を考えたかを聞いてみたい」

沈黙が破られ、学生たちが急にざわめき立つ。一人一人を指名して感想を聞いた。

「先生が初めて遅刻したので、どう言い訳をしようかと考えているのかと思いました。
「いつも学生が遅刻するから、先生もあきれて、どう批判しようか考えているのかと思いました」
「みんなが静かにならないから、それまで待っているのかと思いました」
「学期が半分を過ぎたので、先生もとうとう緩やかな授業の方針を変えたのかと思いました」
「ただボーっと外を眺めていました」
・・・・・・・・・

千差万別の答えが返ってきた。そこで私は言った。

「沈黙の重さを教えようと思い、10分間を君たちにプレゼントした。先生が遅刻し、いつものようなあいさつもせず、明らかに異常と思える状況に対する反応と感覚。言葉を発しない状況に置かれたときの感じ。一生懸命理由を探し求めようとしたときの感情と思考。あるいはまったく反応しなかった自分へ自己分析。10分間を振り返って、自分の思考の足跡をたどってほしい。言葉の重み、コミュニケーションにおける言語と非言語が果たす役割、ケータイ時代が軽視し、忘れていることを取り戻す機会にしてほしい」

「私が50分授業をしても、もしかしたらほとんど頭に残らないかもしれない。10年、20年もしたら、授業内容は間違いなく忘れている。でも10分間の沈黙はきっと忘れがたい記憶になる。なぜか。人類は多くの沈黙を蓄積してきた。みんなの記憶にはそれが刻まれているはずだが、携帯電話から刻一刻あふれる情報の大海で、すっかり忘れ去られている。この10分間はそれを呼び覚ます経験になるはずだ」

そこから私は用意したPPTで授業に入った。まずはピカートの『沈黙の世界』(邦訳はみすず書房、佐野利勝訳)から説き始めた。





「言葉は沈黙から、沈黙の充溢から生じた。もしもこの充溢が言葉のなかへと流出することが出来なかったとすれば、それは自分自身の充溢によって破滅してしまったことであろう」

「現代世界の言葉は沈黙から生まれ出るのではない。そうではなくて、何か一つの他の言葉から、いや、他の言葉の騒音から生まれるのである。したがってまた、言葉は決してふたたび沈黙のなかへ帰ることはない」

みんながたとえば二人きりで会話をしているとき、そこに「沈黙」という第三者がいて、きみたちの会話を実り豊かにしているという光景を想像してみてほしい。二人きりでいて、何も言葉を発しない時間を、居心地よく共有できたとき、本当の親友になれたと実感したことはなかったかい?

(続)