行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア・中南海ウオッチ】「不作為」が最大の敵の軍内改革

2015-12-21 13:50:51 | 日記
中国人民解放軍の30万人削減案に対する不協和音が止まない。20日付『人民日報』国防週刊面では「少些担心 多些担当(心配は減らし 責任を多く)」と題する論評を掲載し、「国防と軍隊の改革が実施段階に入るにつれ、各種のうわさが広まっており、見てきたかのような伝聞が、事実と推測をごっちゃにして伝えている。こうした多少なりとも改革の雑音やマイナスになる要因については、みな真に受けてはならない」と警告を発した。かなり深刻な事態だ。長年にわたって根を張った既得権益は容易に手放すことができない。

同論評は「もし手足を出さず、前に進むのをためらい、棚からぼた餅を期待していては、何事も成し遂げられない。責任を負わず、何もせず、消極的な態度では改革の足かせになるしかない」と、軍内に蔓延する事なかれ主義を批判した。これはトップの習近平中央軍事委員会主席の言葉を代弁したものだ。制服組の元トップ二人、徐才厚と郭伯雄・前中央軍事委副主席を腐敗で摘発し、聖域を設けない強い態度を示した。軍内の権力掌握には役立ったが、その副作用として、何事もしない「不作為」の風潮が生まれた。これでは痛みを伴う軍内改革は断行できない。

軍改革の草案はまだ明らかになっていない。共産党軍は各地に根拠地を作り、ゲリラ戦を通じて支配エリアを拡大してきた。その歴史的な経緯から地方ごとに設けられた軍区が統一的、効率的な作戦の障害となっている。米国と肩を並べる新たな大国関係を模索する中国は、それにふさわしい軍の近代化を実現するうえで、30万人削減を含む機構改革が不可避だ。

「不作為」は、産業構造の転換や内需の拡大、ソフトパワーの充実を柱とする経済改革の足かせでもある。経済の減速がさらに進めば2020年の所得倍増計画も危うくなる。生活が豊かになると実感でき、せめてその期待が持てる限り、人民は選挙を経ない指導者を受け入れている。その実感と期待が裏切られたとき、たちまちマグマのようにたまった社会矛盾が噴出する。軍と経済の危機は、そのまま政権の浮沈に直結する。習近平政権の最優先課題である。

党中央組織部は特に直接人民と接する基層レベルの党員に向け、10月から12月にかけ「不作為」を厳しく集中的に取り締まる通知を出した。現場では「仕事をすれば失敗して処分される」「仕事をしなければ処分される」と板挟みにあって逡巡する幹部立ちの姿が目に浮かぶ。官僚主義はかくも根深い。大物を逮捕したらそれで解決できるほど単純なものではない。中央の政治闘争には勝てても、全党員を率いるのは至難だ。8000万人に膨らんだ党の勢力は、力であると同時に重荷でもある。

李克強首相は2015年3月5日、全国人民代表大会に提出した政府活動報告の中で、「一部の腐敗問題は目に余るほど深刻で、官職や指導的地位にありながら職責を果たさない消極的な者や怠惰な者がいる」と認めた上で、「仕事に力を尽くしていない者に対しては改善指導や戒告、注意を行い、指導幹部としての職責を果たしていない者、怠けている者に対しては、白日の下にさらして責任を断固追及しなければならない」と子どもじみた言い方をせざるを得なかった。李首相は閉幕後の記者会見でも「メチャクチャをする者を処罰すると同時に、不作為にも反対し、怠慢は許さない」と強調した。

習氏は官僚主義を打破しようとしたが、皮肉にも短期間での強力な反腐敗運動によって、官僚的な事なかれ主義を生んでしまった。その障壁がどれほど厚いかも十分、承知しているだろう。だが、ここで綱紀粛正の手を緩めれば、これまで体を張って続けてきた反腐敗運動も水泡に帰すことも知っている。アメとムチを用いた指導がしばらく続くことになる。

お見舞いに行って元気をもらってきた箱根路

2015-12-20 00:33:19 | 日記
17日、箱根に出かけた。懇意にしている工藤園子さんのご主人、工藤康則さんを見舞うためだ。新宿から小田原までロマンスカーで1時間。車中ではたくさんの中国人旅行者に囲まれ、自分が日本にいるのを忘れるほどだった。迎えに来くるとは聞いていたが、まさか見舞う相手のご主人が自ら車を運転して来られているのを見て驚いた。大手術後の回復は順調であることが一目瞭然で、到着するなりホッとした。

園子さんは元日本さくら女王として日本文化を海外に伝えるため八面六臂の活躍をされている。日本さくらの会も50周年を迎えた。春に向け世界での行事が目白押しだ。元商社マンの康則さんは約20年前、中国で起業し、アパレルや有機野菜などのビジネスを手掛けてこられた。現在は上海で桜も育て、中国各地に出荷している。昨年、私が編集した『日中関係は最悪なのか 政治対立化の経済発信力』(日本僑報社)にご夫妻で原稿を書いて頂いた縁がある。

お宅は箱根駅伝のゴール近く、芦ノ湖を望む林の中にある。小田原からは冬枯れの景色を眺めながらのドライブだった。紅葉時期はさぞきれいだろう。部屋の窓からの眺めは絶景である。昼から新鮮な刺身をつまみに「角」を飲み始め、気が付いたら私と康則さんで1本が瞬く間に空いてしまった。続いて康則さん特製のカキなべを頂いた。水を加えず、カキと白菜だけを入れる。豚バラも加える。ふたをして蒸すと、野菜の水分とカキのうまみがにじみ出て、格別の味わいとなる。話が尽きず、ウイスキーに変わって今度はさつま白波がどんどん進んでいった。いつの間にか術後の病人と飲んでいることを忘れてしまうほどだった。

腹が満たされると、室内のプチ温泉に招かれた。浴槽が深く掘ってあるのでゆったりしている。見舞いに来たはずが、逆にすっかりもてなされ、こちらが遊びにお邪魔した形になってしまった。以前のように上海を頻繁に行き来することは難しいが、これからは日本に来る中国人を相手したサービス業に意欲を燃やしておられた。すさまじいビジネスへの熱意である。見た目はお元気だが、傷口はまだ痛むようだ。その痛みを我慢しながら私を迎え入れてくださったのかと思うと、感謝と同時に心苦しい気がした。

西日を受けた山が黄金色に映え、やがて空を映したブルーから群青色に変わった。日が落ち、近くのバス停から家路についた。眠りから覚めると小田原駅だった。会社帰りの人たちに囲まれ電車に乗った。忘れがたい箱根路だった。

『支那新人と黎明運動』(清水安三著)⑤妥協同化は禁物である(完)

2015-12-18 11:53:25 | 日記
孫文の三民主義が儒教の教えを支えとしていることは前回述べた。国難にあって強固な地下層が顏をのぞかせたのである。三民主義をより一層儒教思想によって解釈したのが日本留学組の戴季陶である。著書『孫文主義の哲学的基礎』の中で、「昨今、一般の国民は、孔子を崇拝する者はみな反革命的で、中国の国民文化が堕落した原因も孔子崇拝にあると考える傾向にある」と嘆いている。戴季陶にとっては儒教思想によって国民党による排他的な支配を強化することが最大の関心事だったが、1980年代、共産党政権による独裁を批判し、民主化を求める動きの中でも反孔子が唱えられた。

胡耀邦、趙紫陽と開明的な指導者は、が続いた80年代五・四文化革命にならって「民主と科学」が再提起され、1986年末には各地で民主化要求の学生デモが拡大した。1988年、テレビドキュメンタリー『河殤』は、「儒教文化は数千年来、民族の進取の精神、国家の法治秩序、文化的変革のメカニズムのどれ一つとして生み出すことはできなかった」と封建思想を批判し、民主化要求を後押しした。

反孔子運動が起きる時代はまた様々な思潮があふれる。『支那新人と黎明運動』も「現支那と孔子の時代はあらゆる点において、あたかも彷彿たるところがある」として、当時を諸子百家の時代と並べ、康有為の大同主義から「支那の大杉栄」と呼ばれた劉思復の無政府主義、孫文の民生主義(=社会主義)、陳独秀、李大のマルクス主義、さらには愛国の思潮に超然としている周作人(魯迅の弟)の世界主義を挙げている。清水安三氏は『支那当代新人物』の中で、中国に思想取締りの法律があるとしながらも、「かく言えば読者諸君は何という不自由な国だろうと思召すでしょうが、それでいて支那は全く自由なのである」と書いたのも、上記の混沌とした思潮があるからだ。同書では続けてこうある。

「胡適は言った。--支那の自由はどこから来た。圧迫するだけの力ある政府がないから、自由なのではあるまいか、自由でなくて放置されているのであるーー。何でもいい。自由なのが何よりのことである。自由であればそれでいい。支那は本当に自由である。日本の人たちが想像もつかぬほどに」

大国ゆえの緩さが放置された空間を生むとの見解には同感である。いまだに当てはまる。法やルールでがちがちに縛られた社会を、中国の人々は好まない。ルールがなければ不安を感じ、無理にでも作り出してしまう日本人とは異なる文化を持っている。チャイナウォッチャーとしての安三氏は、次のような中国観を語る。

「人が従来の人であり地が従来の地である以上、ただその名称が変わっただけであるのか、大清帝国が中華民国と変わっただけでありますまいか。名は実に先立つ。名あれば自ら実加わる。名実相伴うまでには若干の時日を要する。支那は広大なるだけにその時日が五年や十年では間に合わぬ。然らば革命はいまだその途上にあると言うべきか。その陣痛と胎の裂くる悩みはようやく通り越した。なお後産が残っている。今一息というところである。生みの苦しみはまだ全く済んでおらぬ」

宣教師としての心構えが最後に記されている。中国の風土に迎合して、銭湯のように男女の座席を分けた教会や、大理石の病院を建てることを「かえってキリスト教者の精神はこの一角から壊される」と批判する。これは伝道の功を急ぐあまりの妥協である。「支那人を導く立場でありながら、同化するとは何たる不見識であろう。功を急がず自重してかかる方が健全なる態度を保ち得ると思う」。日本人には厳しい。「日本人は金の方を先に集める。金さえあれば何でもできると考える。けれども金だけでは何もできない。(中略)人柱なくして支那伝道は成功するものではない」

読後感想もここまでとする。安三氏の宣教師としての「結論」をもって締めくくりとしたい。「支那」との呼称は当時、広く用いられていた用語で、本来は蔑視の意味が含まれていなかったことを記しておく。

「私たちは国家を超越して支那のために支那伝道をせんことを望む。それはもちろん祖国を念頭より駆逐することはできないまいけれども、何れの国にあっても、十人や百人ぐらい、自国のことを忘れてしもうて、外国のために身をささげるものがあってよいと思う。その点になると、支那から日本に行った高僧の方がよっぽど偉いと思う。そういう風な超国的な人間が、他国のために働いているということが、民族と民族とを親善ならしむるものだと、横合いからいうのであるならば、それはそうであってよい訳である。その人たちにはそうでなくってもよいであろうが」

(完)

『支那新人と黎明運動』(清水安三著)④孔子への愛憎に揺れる中国

2015-12-18 09:27:00 | 日記
『支那新人と黎明運動』の読後感想も最後のテーマに至る。康有為の「尊孔」と陳独秀の「反孔」、つまり忠孝を教える中国の伝統思想・儒教の擁護か排斥かをめぐる論争である。儒教は孔子を祖とするところから孔教とも称される。孔子論争を読み返すにつけ、現在の習近平総書記がしばしば孔子など儒教思想を引用し、伝統文化としての再評価を訴えていることを連想せすにはおられない。

習近平氏は2013年11月、孔子ゆかりの山東省曲阜を訪れ、「一つの国家、民族の隆盛は文化の興隆が支えとなっており、中華民族の偉大な復興も中華文化の発展と繁栄が条件だ」として、自らが掲げるスローガン「中国の夢」にとって儒教が柱となることを明言した。立ち寄った現地の孔子学院で『孔子家語通解』と『論語注解』を手にし、「この2冊はじっくり読みたい」とパフォーマンスまでして見せた。文化大革命期に批判された孔子を、ここまで持ち上げた歴代指導者はいない。

今の政治、社会思想を考えるうえでも、同書が注目した孔子論争を振り返ることは意義深い。

清水安三氏は辛亥革命で王朝体制が崩壊した後の1920代の中国思想界を、「急進思想と反動思想の二潮流に、渦巻き騒いでいる」と評した。後者の代表は康有為である。西洋思想の導入に熱心だったが、やがて保守化し、中華民国憲法に儒教を国教化するよう提案した。かれのいう儒教とは、『礼記』礼運編からとった「大同」を中心とする。みなが平等に、お互いを敬いながら暮らす理想社会を描いたもので、安三氏は「まあ世界主義、社会主義、共産主義、国際主義、人道主義、天国主義、なんでもかんでも、包容満足せしむる理想の時代を大同の世となしている、と見れば当たらずとしても遠からず」と評した。

一方、これに攻撃を加えた急先鋒は雑誌『新青年』で思想改革を訴えていた陳独秀である。個人の独立を主張する彼にとって、家族や男女の厳格な身分秩序を規定する儒教は時代遅れの封建思想にほかならない。こう言っている。

「孔教は封建時代の道徳であって現代生活に合致せぬ。家族制度の道徳であるから、個人独立主義なる近代人の生活に、ぴったりせぬ。男尊女卑の道徳であるから童女同権の近代思想に共鳴せない。すでに中国は共和民主の時代であるから、忠孝の倫理は通用せぬ。通用せぬどころか、腹辟(ふくへき=王朝体制の復活)を爆発するおそれのあるところの、実に危険思想である」

陳独秀の主張が、魯迅や胡適らと主導した新文化運動の背景にあることは言うまでもない。彼らにとっては儒教こそ、個人の自立をはばむ憎むべき伝統なのである。
儒教を宗教とみなし、その強要は宗教の自由を侵すものだとも主張した。キリスト教宣教師である安三氏は「半ば(陳独秀に)共鳴せざるをえない」と記しているように、心情的に反儒教の立場であるのがうかがえる。例えば、「一葬式出せば財産は傾く」と言われる中国の過剰な葬儀を「見ただけでも馬鹿馬鹿しい」と退けている。

だが慧眼を備え、もう一歩踏み込んで観察しているのを見逃してはならない。いわく「陳独秀の攻撃する孔教と、康有為の支持する孔教とは、互いにその内容を異にしている」。言葉の定義が異なるまま議論をすれば、実は言っていることがそう大した違いがないということがしばしばある。当時、中国の孔子論争に参戦した日本人の多くは擁護派だったが、安三氏は第三者の目を失っていない。

民国憲法は結局、「国民教育は孔子の道をもって修身の大本とする」とあった原案を改め、「中華民国人民は、孔子を尊崇し及び宗教を信仰する自由を有し、法律によらなければ制限を受けない」との表現で落ち着いた。

安三氏の総括は秀逸である。現在、中国で進む儒教復興の動きにも通底する。

「よくも憲法とあろうものに、かかる一句を挿入せねばならないものか。それはかかる一句を挿入せねばならぬほどに、中華民国人民には尊孔思想が無くなっていることを裏書きする以外に、それは何物をも意味しおらぬ」

私はそれに付言したいと思う。国家の危機に際し、よりどころとなるものもまた孔子である、と。意識するかしないかにかかわらず、表向きの姿とは別に、強固な地下層を形成しているのが儒教思想である、と。

孫文も然り。中国人がまとまりのない「一握りのバラバラな砂」であると危機感を抱いた孫文は、「中国には非常に強固な家族と宗族団体がある」(三民主義)と語りかけ、宗族の団結を民族の団結に拡大するべきことを訴えた。宗族とは儒教の家父長制に支えられた血縁による集団である。これが孫文の民族主義の中核にある。これを民権主義について当てはめれば、「(自由を)もし個人に使うならば、ひとにぎりのバラバラな砂となってしまう。いかなることがあっても、もはや個人のうえに使ってはならぬ。国家が自由に行動できるようになれば、中国は強大な国家となれるのだ」(同)とした。国家や民族の利益が個人の権利に優先するとの立場だ。国難時の制約を受けた思想である。(続く)

『支那新人と黎明運動』(清水安三著)③日本留学組が置かれた苦境

2015-12-16 17:33:07 | 日記
『支那新人と黎明運動』が、中国人が日本留学中、差別的扱いを受け、しばしば反日の闘士になってしまうことに言及していることは前回指摘した。清水安三氏は直接、北京で彼らから聞き取りをしたところ、「日本の教育が我らを排日者に養成しました」という声を聞く。これはどういうことか。日本が明治維新後、国民国家を建設するために導入した愛国教育が、もともと国家意識の弱い中国人らを目覚めさせ、「朝鮮人は愛鮮、支那人は愛中」にしてしまう。そこで反日思想を抑えるためにはどうすればよいか。安三氏はこう言う。

「偏狭なる愛国精神を吹き込むことをやめ、今よりは『人間』を仕上げることをもって、教育の根本方針となし、国家主義の教育を人道主義に建て直し、誰に立ち聞かれても差し支えぬ教育をなすがよい」
「時代遅れの教育は、日本国民をして反感を抱かしめ、支那国民をして排日に狂わしむる」

同時に、反日風潮の中、留日組が置かれた苦境も述べている。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかり、日本留学の経験がある校長が学生に突き上げられ学校を追われ、欧米留学組に取って代わられる。留日組は「統計によれば4万6000人」もいるという。日本は距離も近いので中国の事情に関する情報が容易に伝わるメリットもある。だが、徐々にその優位が揺らいできた。

安三氏は三つの理由を挙げる。第一は「日本の学問が世界第一流の域に達しておらぬから」。第二は「日本語が世界的に価値が狭いこと」。第三は「学生が日本語を勉強せぬから図書館は英語の参考書を買い、英語の雑誌を買っても日本語の書物はさっぱり増えぬ」。

さらに日本語を教える日本人教師の質についても、「小銭を貯えると臀に帆をかけて引き上げ帰ってしまう」とその熱意のなさを指摘している。この点、西洋人は宣教師なので安月給、場合によっては無給でも引き受け、生涯この地で過ごすぐらいの意気込みでやってくるというのだ。これでは受け入れる方もどちらを大事にするかは明らかだ。「招請した日本教員がそれほどの志で支那にずっと住み込んでいたら往年の排日運動など起らなかったかも知れぬ」との嘆きは、その地に暮らした者としての実感だろう。日本にいてはわからない。

以下、同書とは離れるが付け加えておきたい。

中国では日清戦争後、西洋の制度を取り入れた日本の明治維新を範として、変法自強と呼ばれる政治体制改革が進められる。西太后をかついだ保守派のクーデターで失敗するものの、清朝官僚の康有為や梁啓超は日本に亡命し、法治制度や議会政治を導入して国力を強める道を模索した。梁啓超は「我が国4000年余りの長い惰眠を覚ませたのは、実は甲午戦争(日清戦争)の敗戦が始まりである」と述べた。

日露戦争での日本の勝利がさらに刺激となって、日本への留学生が殺到する。辛亥革命を担った孫文や黄興、宋教仁も、新文化運動を担った魯迅や陳独秀、李大も留学か亡命かの違いはあってもみな日本で学んだ。すでに西洋の文物を漢字によって取り入れていた日本は、西洋文化を吸収するのに都合がよかったのである。日本人が漢字に訳した「自由」「憲法」や「社会主義」「資本主義」など1000に及ぶ西洋の概念がそのまま中国に逆輸入された。

だがそれは中華思想に安住していた中国の知識人が初めて体験する屈辱と危機感だった。米国に留学した自由主義者の胡適は1914年、在米中国人留学生の雑誌『留美学生年報』に発表した論文『非留学篇』で、「かつては欧米や『東の果てにある島国』の日本が留学生を送って我が国の学者に学んだが、今や我が国が人を送って学ばなければならない有り様だ。数千年に及ぶ歴史があり、東アジアのリーダーである我が国にとって天下の『大恥』という他はない」と嘆いた。日清戦争から20年後でさえ、中華文化を担う知識人が受けた屈辱は「大恥」とまで表現された。

中には孫文の秘書、戴季陶のように日本社会の性質と変化を描いた『日本論』を著した知日派も現れた。戴季陶は日本人の民族として自信、強い信仰に支えられた尚武の精神を見習うべき点として高く評価する一方、こうした長所が堕落したがゆえに美を愛する精神が失われ、軍国主義の台頭、アジアへの侵略を招いたと分析した。彼は日本が「アジアの民族自決を阻む悪魔であり、同文同種を侵略する残忍な存在であり、ヨーロッパの世界征服主義者の共犯者だ」と厳しく批判したが、その背景には中国知識人の屈辱があったとみるべきだろう。

清朝の衰退、列強の侵略という迫り来る国難は、中国の知識人に対し、屈辱に耐えながらも隣国の小国から学ぶことを余儀なくさせた。だが学ぶべき対象は逆に侵略の牙を向けてくる。清水安三氏が、博愛主義を踏みにじる母国に感じたもどかしさもここにあったのだろう。(続く)