清水安三氏はキリスト教伝道師なので、『支那新人と黎明運動』には随所に欧米、主として英米のキリスト教会に対する評価が表れていて興味深い。概して帝国主義の先兵として批判的にみており、排日運動を扇動する黒幕的存在でもあるとしている。中国では、ヨーロッパで異端とされたネストリウス派が唐代に景教として伝わり、イスラム教ばかりでなく、道教や仏教とも融合した包容の時代があった。宗教と政治=武力が結びつき、テロの頻発を招いている現代において、宗教が侵略と不可分であった近代から、その後、科学至上主義による反宗教運動、無神論のマルクス主義への道を選択した中国の歩みを振り返ることは意味がある。
同書は、中国におけるキリスト教伝来の歴史を回想する。明代、イエズス会の宣教師、マテオ・リッチ(利瑪竇)が広東から北京までわたり、高官の徐光啓が洗礼を受け、天文学や数学、暦学などを修めた。西洋文化を取り入れた最初の試みだったが、清朝は反動化し、キリスト教禁止政策をとる。アヘン戦争以後の歴史は、「まず説教せよ、それで行かずば剣を抜け」との言葉通り、布教は砲艦外交と足並みを揃えて進められた、と安三氏は指摘する。
「一体キリスト教の宣伝者は強国文化の国に入ると甚だよい、貴い事業のみをする。けれども弱国文化の国に入ると反って無茶をする傾向がある。そのところをよほど気をつけぬと知らず知らず悪魔の死者ぶりを発揮するようだ」と手厳しい。キリスト教の博愛主義に基づき、中国の貧しい女児たちが身売りされるのを守ろうと北京で女子学校を運営した人物だけに、その言葉は重い。
欧米列強との不平等条約では、布教の自由、宣教師の保護が約束された。そして社会のやくざ者たちは信者の身分で教会の保護に逃れる。これが中国人社会で不満を招き、攻撃の対象が教会に向かう。北京の在外公館や教会を焼き討ちにした義和団事件の背景には、「(義和団の信仰が)迷信であると思いながらも、痛快に感ぜざるを得なかった」一般市民の感情があったという。
義和団事件の結果、莫大な賠償金が課せられ、教会はこれによって再建され、学校を作った。安三氏は、中国の衰退がこの過重な賠償金にあったことを指摘し、「支那を苦しめる教権教禍」、「つまり支那を混乱に導いたものは宣教師なのである」とまで言い切っている。同じ宣教師としての矜持がそう言わせたのだろう。
同事件処理の際、日本人の中には、ガラス一枚が割られたと法外な5万円をふんだくった商人もいたが、南京在住の信者は家の被害をほとんど申告しなかった(三銭五厘だけ)。若干、日本人に甘いのは気になるが、満州事変がまだ勃発していない時代背景があるのだろう。事変後であれば当然、日本の侵略に対することのほか厳しい叱責があったと想像されるが、まだそれはみられない。むしろ東京で開かれたキリスト教の世界大会に中国からの出席者がなかったことに対する不満が何度も繰り返されている。
その根深い不満から日貨排斥などの反日運動に、まとまった組織力を持つ教会の存在を認める視点へとつながっていく。排日行動の際には決まって「全国キリスト教救国団」が登場し、「十字架を書いた赤い旗を押し立てて、かなり目立った行動をしている」という。教会では「救国熱祷会」や「国恥記念礼拝」なるものも開かれる。しかもキリスト教徒は日本を全く知らないから手に負えない、と。
「支那キリスト教徒が日本に関して、無知である上に、無交渉であることは、排日に偏するもとである。なんらの接触もなく、なんらの親しみもないのであるから、日本が侵略主義で、憎むべき国だと一概に信ずれば、単純に一気に排日に熱狂するに至る。さなくっても宗教である。熱中することはその人達の天性であるから、人一倍執拗に排日するのである」
安三氏は、欧米の宣教師たちが第一次世界大戦時に思潮に感染し、「好戦的な傾向を持っている」ことも指摘する。よほど東京での大会ボイコットが腹に据えかねたとみえる。
だが排日の背景をそう単純にはとらえていないことも留意すべきである。排日の土台には、国難に対して立ち上がった学生を中心とする幅広い民衆の力があることを詳しく述べている。しかも本来、親日派になるべき日本留学組が、かえって反日になる。「聞くところによればアメリカ帰りの支那人はプロアメリカンになり、フランス帰りの支那人は親仏主義者になるそうな。そうしてまた日本帰りの支那人のみが、排日に傾くのであろう」。安三氏の嘆きは今にも通ずるのではないか。
彼は数多くの事例を挙げながら日本人の中国人蔑視を批判し、そして訴える。
「ああ支那の排日を拭い取るためには、船のボーイも下宿屋の女将、それから紳士の子女に至るまで、国民挙げて悔い改め、国民総がかりで努力せねば駄目」
魯迅の親友、内山完造よりも前に、同じことを言っている日本人がいたということである。(続く)
同書は、中国におけるキリスト教伝来の歴史を回想する。明代、イエズス会の宣教師、マテオ・リッチ(利瑪竇)が広東から北京までわたり、高官の徐光啓が洗礼を受け、天文学や数学、暦学などを修めた。西洋文化を取り入れた最初の試みだったが、清朝は反動化し、キリスト教禁止政策をとる。アヘン戦争以後の歴史は、「まず説教せよ、それで行かずば剣を抜け」との言葉通り、布教は砲艦外交と足並みを揃えて進められた、と安三氏は指摘する。
「一体キリスト教の宣伝者は強国文化の国に入ると甚だよい、貴い事業のみをする。けれども弱国文化の国に入ると反って無茶をする傾向がある。そのところをよほど気をつけぬと知らず知らず悪魔の死者ぶりを発揮するようだ」と手厳しい。キリスト教の博愛主義に基づき、中国の貧しい女児たちが身売りされるのを守ろうと北京で女子学校を運営した人物だけに、その言葉は重い。
欧米列強との不平等条約では、布教の自由、宣教師の保護が約束された。そして社会のやくざ者たちは信者の身分で教会の保護に逃れる。これが中国人社会で不満を招き、攻撃の対象が教会に向かう。北京の在外公館や教会を焼き討ちにした義和団事件の背景には、「(義和団の信仰が)迷信であると思いながらも、痛快に感ぜざるを得なかった」一般市民の感情があったという。
義和団事件の結果、莫大な賠償金が課せられ、教会はこれによって再建され、学校を作った。安三氏は、中国の衰退がこの過重な賠償金にあったことを指摘し、「支那を苦しめる教権教禍」、「つまり支那を混乱に導いたものは宣教師なのである」とまで言い切っている。同じ宣教師としての矜持がそう言わせたのだろう。
同事件処理の際、日本人の中には、ガラス一枚が割られたと法外な5万円をふんだくった商人もいたが、南京在住の信者は家の被害をほとんど申告しなかった(三銭五厘だけ)。若干、日本人に甘いのは気になるが、満州事変がまだ勃発していない時代背景があるのだろう。事変後であれば当然、日本の侵略に対することのほか厳しい叱責があったと想像されるが、まだそれはみられない。むしろ東京で開かれたキリスト教の世界大会に中国からの出席者がなかったことに対する不満が何度も繰り返されている。
その根深い不満から日貨排斥などの反日運動に、まとまった組織力を持つ教会の存在を認める視点へとつながっていく。排日行動の際には決まって「全国キリスト教救国団」が登場し、「十字架を書いた赤い旗を押し立てて、かなり目立った行動をしている」という。教会では「救国熱祷会」や「国恥記念礼拝」なるものも開かれる。しかもキリスト教徒は日本を全く知らないから手に負えない、と。
「支那キリスト教徒が日本に関して、無知である上に、無交渉であることは、排日に偏するもとである。なんらの接触もなく、なんらの親しみもないのであるから、日本が侵略主義で、憎むべき国だと一概に信ずれば、単純に一気に排日に熱狂するに至る。さなくっても宗教である。熱中することはその人達の天性であるから、人一倍執拗に排日するのである」
安三氏は、欧米の宣教師たちが第一次世界大戦時に思潮に感染し、「好戦的な傾向を持っている」ことも指摘する。よほど東京での大会ボイコットが腹に据えかねたとみえる。
だが排日の背景をそう単純にはとらえていないことも留意すべきである。排日の土台には、国難に対して立ち上がった学生を中心とする幅広い民衆の力があることを詳しく述べている。しかも本来、親日派になるべき日本留学組が、かえって反日になる。「聞くところによればアメリカ帰りの支那人はプロアメリカンになり、フランス帰りの支那人は親仏主義者になるそうな。そうしてまた日本帰りの支那人のみが、排日に傾くのであろう」。安三氏の嘆きは今にも通ずるのではないか。
彼は数多くの事例を挙げながら日本人の中国人蔑視を批判し、そして訴える。
「ああ支那の排日を拭い取るためには、船のボーイも下宿屋の女将、それから紳士の子女に至るまで、国民挙げて悔い改め、国民総がかりで努力せねば駄目」
魯迅の親友、内山完造よりも前に、同じことを言っている日本人がいたということである。(続く)