行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

『支那新人と黎明運動』(清水安三著)②排日運動の陰に欧米のキリスト教会があった

2015-12-15 23:47:27 | 日記
清水安三氏はキリスト教伝道師なので、『支那新人と黎明運動』には随所に欧米、主として英米のキリスト教会に対する評価が表れていて興味深い。概して帝国主義の先兵として批判的にみており、排日運動を扇動する黒幕的存在でもあるとしている。中国では、ヨーロッパで異端とされたネストリウス派が唐代に景教として伝わり、イスラム教ばかりでなく、道教や仏教とも融合した包容の時代があった。宗教と政治=武力が結びつき、テロの頻発を招いている現代において、宗教が侵略と不可分であった近代から、その後、科学至上主義による反宗教運動、無神論のマルクス主義への道を選択した中国の歩みを振り返ることは意味がある。

同書は、中国におけるキリスト教伝来の歴史を回想する。明代、イエズス会の宣教師、マテオ・リッチ(利瑪竇)が広東から北京までわたり、高官の徐光啓が洗礼を受け、天文学や数学、暦学などを修めた。西洋文化を取り入れた最初の試みだったが、清朝は反動化し、キリスト教禁止政策をとる。アヘン戦争以後の歴史は、「まず説教せよ、それで行かずば剣を抜け」との言葉通り、布教は砲艦外交と足並みを揃えて進められた、と安三氏は指摘する。

「一体キリスト教の宣伝者は強国文化の国に入ると甚だよい、貴い事業のみをする。けれども弱国文化の国に入ると反って無茶をする傾向がある。そのところをよほど気をつけぬと知らず知らず悪魔の死者ぶりを発揮するようだ」と手厳しい。キリスト教の博愛主義に基づき、中国の貧しい女児たちが身売りされるのを守ろうと北京で女子学校を運営した人物だけに、その言葉は重い。

欧米列強との不平等条約では、布教の自由、宣教師の保護が約束された。そして社会のやくざ者たちは信者の身分で教会の保護に逃れる。これが中国人社会で不満を招き、攻撃の対象が教会に向かう。北京の在外公館や教会を焼き討ちにした義和団事件の背景には、「(義和団の信仰が)迷信であると思いながらも、痛快に感ぜざるを得なかった」一般市民の感情があったという。

義和団事件の結果、莫大な賠償金が課せられ、教会はこれによって再建され、学校を作った。安三氏は、中国の衰退がこの過重な賠償金にあったことを指摘し、「支那を苦しめる教権教禍」、「つまり支那を混乱に導いたものは宣教師なのである」とまで言い切っている。同じ宣教師としての矜持がそう言わせたのだろう。

同事件処理の際、日本人の中には、ガラス一枚が割られたと法外な5万円をふんだくった商人もいたが、南京在住の信者は家の被害をほとんど申告しなかった(三銭五厘だけ)。若干、日本人に甘いのは気になるが、満州事変がまだ勃発していない時代背景があるのだろう。事変後であれば当然、日本の侵略に対することのほか厳しい叱責があったと想像されるが、まだそれはみられない。むしろ東京で開かれたキリスト教の世界大会に中国からの出席者がなかったことに対する不満が何度も繰り返されている。

その根深い不満から日貨排斥などの反日運動に、まとまった組織力を持つ教会の存在を認める視点へとつながっていく。排日行動の際には決まって「全国キリスト教救国団」が登場し、「十字架を書いた赤い旗を押し立てて、かなり目立った行動をしている」という。教会では「救国熱祷会」や「国恥記念礼拝」なるものも開かれる。しかもキリスト教徒は日本を全く知らないから手に負えない、と。

「支那キリスト教徒が日本に関して、無知である上に、無交渉であることは、排日に偏するもとである。なんらの接触もなく、なんらの親しみもないのであるから、日本が侵略主義で、憎むべき国だと一概に信ずれば、単純に一気に排日に熱狂するに至る。さなくっても宗教である。熱中することはその人達の天性であるから、人一倍執拗に排日するのである」

安三氏は、欧米の宣教師たちが第一次世界大戦時に思潮に感染し、「好戦的な傾向を持っている」ことも指摘する。よほど東京での大会ボイコットが腹に据えかねたとみえる。

だが排日の背景をそう単純にはとらえていないことも留意すべきである。排日の土台には、国難に対して立ち上がった学生を中心とする幅広い民衆の力があることを詳しく述べている。しかも本来、親日派になるべき日本留学組が、かえって反日になる。「聞くところによればアメリカ帰りの支那人はプロアメリカンになり、フランス帰りの支那人は親仏主義者になるそうな。そうしてまた日本帰りの支那人のみが、排日に傾くのであろう」。安三氏の嘆きは今にも通ずるのではないか。

彼は数多くの事例を挙げながら日本人の中国人蔑視を批判し、そして訴える。

「ああ支那の排日を拭い取るためには、船のボーイも下宿屋の女将、それから紳士の子女に至るまで、国民挙げて悔い改め、国民総がかりで努力せねば駄目」

魯迅の親友、内山完造よりも前に、同じことを言っている日本人がいたということである。(続く)




【日中独創メディア・中国雑感】反腐敗運動によるピリピリ感は習近平一族も

2015-12-15 10:22:33 | 日記
習近平総書記の腐敗摘発運動が「ハエも虎もたたく」を有言実行していることは世界でも有名となった。「暗殺計画」の存在が党内で正式に認められるほど、水面下では激しい政治闘争が起きていることも知られている。そのために官僚がビクビクし、仕事も手に就かない深刻な状況が生まれている。李克強首相は2015年3月の全国人民代表大会で、「仕事に力を尽くしていない者に対しては改善指導や戒告、注意を行い、指導幹部としての職責を果たしていない者、怠けている者に対しては、白日の下にさらして責任を断固追及しなければならない」と子どもじみた説教までしなければならなかった。

そんな社会のピリピリした空気が時に予想外の結果を生むことがある。二つの例を紹介する。

12月1日夜、上海証券取引所に上場する化学調味料メーカー・蓮花味精が習銀平氏(46)を独立董事(非常勤取締役)に任命すると発表したところ、翌2日、株式市場が敏感に反応し、同社の株がストップ高の水準まで急騰した。理由は簡単だ。習銀平氏が習近平氏の16歳年下の従弟であり、総書記の血縁をバックに持った企業であれば間違いはないと受け取られたのだ。地縁血縁や学閥などによる分派活動を厳しく批判している習近平氏としては、身内が誤解を招くようなことをするわけにはゆかない。同社はあわてて2日夜、就任を取り消した。

中国の『毎日経済網』によると、習銀平氏は習近平氏の父・習仲勲元首相の弟、習仲法氏の息子で、陝西習仲勲研究会副会長を務めている。生まれは習仲勲と同じ陝西省富平県だ。私は昨年、習仲勲の実家があるという同県の「習家村」に案内され、そのとき、習近平氏にそっくりの男性が歩いているのを見てびっくりした覚えがある。国家指導者を出した村とは言っても、外見は他の農家と変わらない素朴な暮らしぶりだった。

香港の『鳳凰網』が2012年の記事で、同村の習仲法一家を取材し、習銀平氏の妻が「(夫が)外で出稼ぎをして稼いだ金で、ようやく家を新しくした」と答えている。従弟の威光とは距離のある生活を送ってきたのだろうか。習近平氏が最高指導者に上り詰める際し、一族は商売から離れたとされるので、習銀平氏も近年は名誉職的な肩書が多い。非常勤取締役もそんなつもりだったのだろうが、農村に育った彼にはまさか株式市場があれほどの反応を示すとは認識していなかったに違いない。

同社董事長(会長)の夏建統氏が2日夜、ミニブログの微博(ウェイボー)で発表した言葉が振るっている。

「みなさんが憶測するような話はもともとない。非常勤取締役制度を含む機構ガバナンスを完備するため、上場企業が非常勤取締役を任命した正常な手続きが誤解され、誇大に受け取られ、お詫びすると同時に、政府が全力で清廉な政治の建設を推進している決意を非常にうれしく思い、もろ手を挙げて支持する」

あえて反腐敗に言及しなければならないところに、社会の萎縮が感じられる。そうでも言わなければ、習近平氏に済まないとでも忖度したのではないか。図らずも、有力者のコネが金になる実態を露呈したことは、反腐敗の容易ならざる道を暗示した。

もう一つの事例は、やはり12月1日、党中央規律検査委員会のサイトで公表された中央音楽学院院長の王次炤氏に対する厳重警告、解任処分だ。6月に行われた娘の結婚式で、職務上の立場を利用し大学関連の施設を優遇価格で利用し、同僚や部下を手伝いのために参加させたことが党内規律違反に問われた。王氏を監督する立場にあった幹部2人も警告処分を受けるかなりの厳罰だった。

「たかが結婚式」と思えるが、大学内の教授ら十数人が連名で規律検査委に告発したというのだから、今回の件に限らず、積もり積もった専横ぶりが目に余ったということなのだろう。娘の結婚相手が米国人であるうえ、王氏の夫人が台湾人で、いわゆる資産を海外に移転し、いつでも逃げ出せる「裸官」のイメージを連想させたのも悪かった。自らの不徳によって、見せしめにされたのだ。

この効果は絶大だ。これから高級幹部は家族の婚礼を質素に執り行うよう細心の注意が必要となる。うかつに同僚や部下も呼べない。ご祝儀を強要したと告発されかねない。だが行き過ぎた自粛ムードは、個人の権利を不当に制限しかねないのでいかがなものかと思う。もっとも官僚の権利を奪うことにおいて、反対する庶民はまずいないのだからやむを得ないのか。しばらくこんなピリピリした空気は続くであろう。

『支那新人と黎明運動』(清水安三著)①米国に逃げて暗殺された中国人記者がいた

2015-12-15 08:46:18 | 日記
桜美林大学の高井潔司教授から清水安三著『支那新人と黎明運動』と『支那当代新人物 旧人と新人』(復刻版)を贈られ、とりあえず前者をじっくり読んでみた。清水安三氏は桜美林学園の創設者である。戦前は中国の瀋陽や大連でキリスト教の宣教師として活動し、1921年、北京の朝陽門外に恵まれない女児を受け入れ、教育する崇貞工読女学校(後の崇貞学園)を建てた。慈善事業のほか、北京を中心に中国の政治、社会、思想、文学など幅広いジャンルにわたる研究を行い、多数の著作を残した。

『支那新人と黎明運動』は大正13(1924)年9月20日、大阪屋號書店から発行され、清水安三氏の肩書は「北京週報主筆」、吉野作造が序を書いている。2015年10月25日、安三氏の子息、畏三氏(元桜美林学園理事長)が『支那当代新人物 旧人と新人』と一緒に復刻した。

安三氏が見た中国は、孫文らによる辛亥革命後、国内が混沌とし、列強の侵略を受けて半植民地化していく時代である。安三氏は社会の底辺にいる人々に心を寄せながら、外国人、日本人の目で隣国を温かく見つめた。孫文は今年が没後90年、来年は生誕150年を迎える。孫文が「革命未だ成らず」の遺言を残したことで知られる通り、清朝滅亡後、なお共和制の実現は程遠かったが、思想、文学では新旧思潮の葛藤から、新たな時代の到来を予感させる動きも芽生えた。

同書は、中国思想を歴史的に概観し、近代の主要な潮流が人物とともに生き生きと描かれている。相当な雑誌や新聞などの刊行物や書籍に目を通したことがうかがえる。日本にも通じる漢字革命のほか、「排日の解剖」も詳細に分析されており、特に日本人にとって貴重な歴史資料となる。国難に際し、これまで王朝を思想的に支えてきた「孔子」をめぐる激しい対立が生じた事情は、「中国の夢」のスローガンによって儒教をはじめとする伝統文化の見直しが強調される習近平政権を理解するうえでも、重要な視座を提供してくれる。

書くべきことは多岐にわたるが、まず触れなければならないのは、記者として恥ずかしながら、実は全く知らなかった重要な中国人記者が紹介されており、目を開かれたことだ。彼の名は黄遠庸(1884~1915)。『文史参考』(2010年8月号)に掲載された「狙撃された最初の自由主義記者」(紀彭筆)によると、江西省九江の生まれで、ペンネームは「黄遠生」と名乗った。清朝最後の科挙試験で進士に合格したが、官職には就かず、日本に留学し中央大学で法学を学んだ。

1909年に帰国し官職に就いたが、辛亥革命後は記者に身を投じた。『少年中国』を創刊したほか、上海紙『時報』『申報』の北京駐在員として、政局を掘り下げる記事で名を成した。法治に基づく自由主義を主張したが、党利の紛争に明け暮れる政党には幻滅し、当初は袁世凱を指導者とする権威主義の立場に立った。袁世凱が帝政復帰を図ろうとし、黄遠庸を世論工作のため取り込もうとしたが、袁世凱批判に転じて上海に逃れ、日本から佐渡号に乗って渡米。だがサンフランシスコの唐人街で後ろから射殺され死亡した。31歳だった。わずか3年の記者人生だった。暗殺者については袁世凱派から国民党サイドまで諸説ある。不偏不党を貫くことの難しい時代だった。

略歴紹介が長くなったが、安三氏は彼が一般の人々にはわかる文芸の復興を訴えた言を高く評価し、「政治改革の前に新文学の提唱を先駆すべきものであることを看破したる、確かに名言たるを失わない」としている。割いているのは1ページ足らずだが(P75~76)、伝統観念による束縛から脱することを主張した陳独秀、胡適らによる白話文運動、五四新文化運動の先駆けだと看取したのである。政治革命が先行したものの思想面での戦闘がないためにその肝心の政治革命が足踏みをしている。安三氏は同書でこう語っている。

「思想方面での開拓を後回しにしたために、(孫文ら)彼ら政治革命者は妥協から妥協へと何時もかも迎合にあくせくしている。ある時は排満興漢(満族の清朝を倒し漢族の政府を打ち立てる)で漢族を煽って、ある時は誇大妄想の支那浪人のお世話を蒙らなければならなかった。時には奸雄袁世凱と妥協する必要もあった」

黄遠庸は「社会の耳目、社会の喉と舌になる」と独立した報道を目指した。人々の中に入ったからこそ、政界で飛び交う空理空論、党利党論ではなく、地に足の着いた思想を重んじたとみるべきだろう。記者が暗殺の恐怖にさらされるほど過酷な国の事情を知るにつけ、それが今もなお、暗い影を落としているのではないかと案じずにはいられない。(続く)