行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

『支那新人と黎明運動』(清水安三著)④孔子への愛憎に揺れる中国

2015-12-18 09:27:00 | 日記
『支那新人と黎明運動』の読後感想も最後のテーマに至る。康有為の「尊孔」と陳独秀の「反孔」、つまり忠孝を教える中国の伝統思想・儒教の擁護か排斥かをめぐる論争である。儒教は孔子を祖とするところから孔教とも称される。孔子論争を読み返すにつけ、現在の習近平総書記がしばしば孔子など儒教思想を引用し、伝統文化としての再評価を訴えていることを連想せすにはおられない。

習近平氏は2013年11月、孔子ゆかりの山東省曲阜を訪れ、「一つの国家、民族の隆盛は文化の興隆が支えとなっており、中華民族の偉大な復興も中華文化の発展と繁栄が条件だ」として、自らが掲げるスローガン「中国の夢」にとって儒教が柱となることを明言した。立ち寄った現地の孔子学院で『孔子家語通解』と『論語注解』を手にし、「この2冊はじっくり読みたい」とパフォーマンスまでして見せた。文化大革命期に批判された孔子を、ここまで持ち上げた歴代指導者はいない。

今の政治、社会思想を考えるうえでも、同書が注目した孔子論争を振り返ることは意義深い。

清水安三氏は辛亥革命で王朝体制が崩壊した後の1920代の中国思想界を、「急進思想と反動思想の二潮流に、渦巻き騒いでいる」と評した。後者の代表は康有為である。西洋思想の導入に熱心だったが、やがて保守化し、中華民国憲法に儒教を国教化するよう提案した。かれのいう儒教とは、『礼記』礼運編からとった「大同」を中心とする。みなが平等に、お互いを敬いながら暮らす理想社会を描いたもので、安三氏は「まあ世界主義、社会主義、共産主義、国際主義、人道主義、天国主義、なんでもかんでも、包容満足せしむる理想の時代を大同の世となしている、と見れば当たらずとしても遠からず」と評した。

一方、これに攻撃を加えた急先鋒は雑誌『新青年』で思想改革を訴えていた陳独秀である。個人の独立を主張する彼にとって、家族や男女の厳格な身分秩序を規定する儒教は時代遅れの封建思想にほかならない。こう言っている。

「孔教は封建時代の道徳であって現代生活に合致せぬ。家族制度の道徳であるから、個人独立主義なる近代人の生活に、ぴったりせぬ。男尊女卑の道徳であるから童女同権の近代思想に共鳴せない。すでに中国は共和民主の時代であるから、忠孝の倫理は通用せぬ。通用せぬどころか、腹辟(ふくへき=王朝体制の復活)を爆発するおそれのあるところの、実に危険思想である」

陳独秀の主張が、魯迅や胡適らと主導した新文化運動の背景にあることは言うまでもない。彼らにとっては儒教こそ、個人の自立をはばむ憎むべき伝統なのである。
儒教を宗教とみなし、その強要は宗教の自由を侵すものだとも主張した。キリスト教宣教師である安三氏は「半ば(陳独秀に)共鳴せざるをえない」と記しているように、心情的に反儒教の立場であるのがうかがえる。例えば、「一葬式出せば財産は傾く」と言われる中国の過剰な葬儀を「見ただけでも馬鹿馬鹿しい」と退けている。

だが慧眼を備え、もう一歩踏み込んで観察しているのを見逃してはならない。いわく「陳独秀の攻撃する孔教と、康有為の支持する孔教とは、互いにその内容を異にしている」。言葉の定義が異なるまま議論をすれば、実は言っていることがそう大した違いがないということがしばしばある。当時、中国の孔子論争に参戦した日本人の多くは擁護派だったが、安三氏は第三者の目を失っていない。

民国憲法は結局、「国民教育は孔子の道をもって修身の大本とする」とあった原案を改め、「中華民国人民は、孔子を尊崇し及び宗教を信仰する自由を有し、法律によらなければ制限を受けない」との表現で落ち着いた。

安三氏の総括は秀逸である。現在、中国で進む儒教復興の動きにも通底する。

「よくも憲法とあろうものに、かかる一句を挿入せねばならないものか。それはかかる一句を挿入せねばならぬほどに、中華民国人民には尊孔思想が無くなっていることを裏書きする以外に、それは何物をも意味しおらぬ」

私はそれに付言したいと思う。国家の危機に際し、よりどころとなるものもまた孔子である、と。意識するかしないかにかかわらず、表向きの姿とは別に、強固な地下層を形成しているのが儒教思想である、と。

孫文も然り。中国人がまとまりのない「一握りのバラバラな砂」であると危機感を抱いた孫文は、「中国には非常に強固な家族と宗族団体がある」(三民主義)と語りかけ、宗族の団結を民族の団結に拡大するべきことを訴えた。宗族とは儒教の家父長制に支えられた血縁による集団である。これが孫文の民族主義の中核にある。これを民権主義について当てはめれば、「(自由を)もし個人に使うならば、ひとにぎりのバラバラな砂となってしまう。いかなることがあっても、もはや個人のうえに使ってはならぬ。国家が自由に行動できるようになれば、中国は強大な国家となれるのだ」(同)とした。国家や民族の利益が個人の権利に優先するとの立場だ。国難時の制約を受けた思想である。(続く)

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