行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

『支那新人と黎明運動』(清水安三著)③日本留学組が置かれた苦境

2015-12-16 17:33:07 | 日記
『支那新人と黎明運動』が、中国人が日本留学中、差別的扱いを受け、しばしば反日の闘士になってしまうことに言及していることは前回指摘した。清水安三氏は直接、北京で彼らから聞き取りをしたところ、「日本の教育が我らを排日者に養成しました」という声を聞く。これはどういうことか。日本が明治維新後、国民国家を建設するために導入した愛国教育が、もともと国家意識の弱い中国人らを目覚めさせ、「朝鮮人は愛鮮、支那人は愛中」にしてしまう。そこで反日思想を抑えるためにはどうすればよいか。安三氏はこう言う。

「偏狭なる愛国精神を吹き込むことをやめ、今よりは『人間』を仕上げることをもって、教育の根本方針となし、国家主義の教育を人道主義に建て直し、誰に立ち聞かれても差し支えぬ教育をなすがよい」
「時代遅れの教育は、日本国民をして反感を抱かしめ、支那国民をして排日に狂わしむる」

同時に、反日風潮の中、留日組が置かれた苦境も述べている。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかり、日本留学の経験がある校長が学生に突き上げられ学校を追われ、欧米留学組に取って代わられる。留日組は「統計によれば4万6000人」もいるという。日本は距離も近いので中国の事情に関する情報が容易に伝わるメリットもある。だが、徐々にその優位が揺らいできた。

安三氏は三つの理由を挙げる。第一は「日本の学問が世界第一流の域に達しておらぬから」。第二は「日本語が世界的に価値が狭いこと」。第三は「学生が日本語を勉強せぬから図書館は英語の参考書を買い、英語の雑誌を買っても日本語の書物はさっぱり増えぬ」。

さらに日本語を教える日本人教師の質についても、「小銭を貯えると臀に帆をかけて引き上げ帰ってしまう」とその熱意のなさを指摘している。この点、西洋人は宣教師なので安月給、場合によっては無給でも引き受け、生涯この地で過ごすぐらいの意気込みでやってくるというのだ。これでは受け入れる方もどちらを大事にするかは明らかだ。「招請した日本教員がそれほどの志で支那にずっと住み込んでいたら往年の排日運動など起らなかったかも知れぬ」との嘆きは、その地に暮らした者としての実感だろう。日本にいてはわからない。

以下、同書とは離れるが付け加えておきたい。

中国では日清戦争後、西洋の制度を取り入れた日本の明治維新を範として、変法自強と呼ばれる政治体制改革が進められる。西太后をかついだ保守派のクーデターで失敗するものの、清朝官僚の康有為や梁啓超は日本に亡命し、法治制度や議会政治を導入して国力を強める道を模索した。梁啓超は「我が国4000年余りの長い惰眠を覚ませたのは、実は甲午戦争(日清戦争)の敗戦が始まりである」と述べた。

日露戦争での日本の勝利がさらに刺激となって、日本への留学生が殺到する。辛亥革命を担った孫文や黄興、宋教仁も、新文化運動を担った魯迅や陳独秀、李大も留学か亡命かの違いはあってもみな日本で学んだ。すでに西洋の文物を漢字によって取り入れていた日本は、西洋文化を吸収するのに都合がよかったのである。日本人が漢字に訳した「自由」「憲法」や「社会主義」「資本主義」など1000に及ぶ西洋の概念がそのまま中国に逆輸入された。

だがそれは中華思想に安住していた中国の知識人が初めて体験する屈辱と危機感だった。米国に留学した自由主義者の胡適は1914年、在米中国人留学生の雑誌『留美学生年報』に発表した論文『非留学篇』で、「かつては欧米や『東の果てにある島国』の日本が留学生を送って我が国の学者に学んだが、今や我が国が人を送って学ばなければならない有り様だ。数千年に及ぶ歴史があり、東アジアのリーダーである我が国にとって天下の『大恥』という他はない」と嘆いた。日清戦争から20年後でさえ、中華文化を担う知識人が受けた屈辱は「大恥」とまで表現された。

中には孫文の秘書、戴季陶のように日本社会の性質と変化を描いた『日本論』を著した知日派も現れた。戴季陶は日本人の民族として自信、強い信仰に支えられた尚武の精神を見習うべき点として高く評価する一方、こうした長所が堕落したがゆえに美を愛する精神が失われ、軍国主義の台頭、アジアへの侵略を招いたと分析した。彼は日本が「アジアの民族自決を阻む悪魔であり、同文同種を侵略する残忍な存在であり、ヨーロッパの世界征服主義者の共犯者だ」と厳しく批判したが、その背景には中国知識人の屈辱があったとみるべきだろう。

清朝の衰退、列強の侵略という迫り来る国難は、中国の知識人に対し、屈辱に耐えながらも隣国の小国から学ぶことを余儀なくさせた。だが学ぶべき対象は逆に侵略の牙を向けてくる。清水安三氏が、博愛主義を踏みにじる母国に感じたもどかしさもここにあったのだろう。(続く)