迷建築「ノアの箱家」

ひょんなことからNOAに選ばれし者として迷建築「ノアの箱家」に住むことになったKOKKOの笑ってあきれる自宅建築奮戦記

メモ

2011-03-21 22:54:54 | 「ノアの箱家」工事進捗状況

ここ当面の記録

3月19日

屋上デッキ用の杉板14枚に防腐剤を塗る。

農業用倉庫(解体現場から兄ちゃんがゲットしてきた)の移動・組み立て。

畑の整備

 

3月20日

屋上デッキの仕上げ(コーススレッド打ち、防腐剤塗り)

庭の整備

 

3月21日

神戸にいる我が家の上の青少年のところに、避難グッズを届けに行く。

避難グッズは、中越地震後、各自用に整備していたものだが、我が家の青少年たちは、それがあることさえすっかり忘れてしまっていた。今回のプレート境界型地震も対岸の火。いくら「東海・東南海・南海地震が近い」と言っても、何処吹く風。中越地震については、私一人が恐ろしい思いをし、日ごとにやつれていく私を見て心配するのみであった。

 

3月23日

早くも東北自動車道が大型車のみ通行可能。

プレート境界型地震と直下型地震の揺れ方の違いに驚く。

地震学者の「プレート境界型の東海・東南海地震が連動発生した時は、海外からの救援を待つ他はなく、最低1ヶ月は自力で生き延びなければならないだろう」との言葉の現実味。

大都市・工業地帯でのプレート境界型地震・・・巨大なビルの倒壊と、空から降ってくるガラス、工場からの火災。密集地での阿鼻叫喚。海抜0メートル地帯への浸水。水の遡行。電気に依存する都市の脆弱さ。水がない。食べ物もない。薬もない。

助かった命も息絶えていく。

 

3月24日

花が一気に咲き始める。

植え替えの連続で弱っていた南高梅に数輪の花。枯れかかっていた紅色の照手桃の蕾も膨らみ始める。水仙ロードの日本水仙は満開。

こうしている時にも被災地の人たちは、寒さに震えている。

春の足音に心癒される一瞬があることを祈る。

 

3月25日

石山修武氏の世田谷村日記を読んで、ベイシーの菅原さんの文章に泣く。

気仙沼を知らない人でも、あの惨状には泣くだろう。

アニミズム周辺紀行6号の申し込み。

 

 3月26日

台所の窓の上辺りの屋根に透明波板で雨よけ。

失敗。

 

3月28日

梅のライトアップ。デッキで外食。

持ち主のTさんに声をかけて見ていただく。

 

3月29日

未だ連絡が付かない人たちのことを思う。

きっと、生きていると信じよう。

そして、明日に備えよう。

神戸の震災で学んだ人たちのボランティアスタッフの動きの速さと無駄の無さに舌を巻く。

そう、学ぶんだ、学ぼう、ソノトキガクルマエニ。

 

3月30日

庭仕事ひろばの山本ちづ子さん来訪。

トイレを見ていただく。

攪拌レバーや非常用コック、便座の隙間対策、尿管のこととか、いくつかの意見をお伝えする。

トイレの中には、現在実験的に椰子の皮繊維や米糠を入れているが、米糠については、これで3回目の投入。週に一度、両手で2杯~3杯分を入れてきた。2回目の投入後、急に異臭がし始め、トイレのタンクから湯気ぼうぼう。糠の発酵臭と発酵熱だが、2~3日で治まった。そして、30日に3回目の米糠を入れたら、夜から異臭がし始め、便座に座るとほっかほか。冬の冷気対策は、湯たんぽなどよりも米糠だ。一気に60度以上にまで上がり、バクテリアが死滅した事例まであるらしい。

異臭対策として量をどの程度にするかが今後の実験課題だ。

 

3月31日

もしやあの人では? あの人の親戚では?

新聞の死亡者氏名欄を見て、毎日ドキドキしている。

菅原という苗字は東北に多い。宮城では石を投げれば菅原に当たる。

また、丹野の苗字を見るにつけ、泣きそうな気分になる。

そして、あの人とあの人たちの所在が不明だ。

避難所の氏名欄にもない。災害伝言ダイヤルにもない。自宅の電話は不通。

どこでどうしているのだ。

私は運悪く、2年のあいだに引越しを2回もしているので、大阪にいる人でも行き先不明状態になっており、先方からこちらに連絡はつかないことがある。転居連絡もしていない状態でジプシーをやってきたから・・・。こんなことになるんだったら、知らせておいたらよかったと後悔する。

祈るしかない。

ああ、そうだ。メッセージを届ける方法はある。

 

 朝日新聞の昨日の記事。

阪神淡路大震災で被災した人たちの中にフラッシュバックで苦しんでいる人が少なからず出始めたという。人知れず無力感と罪悪感に苛まれているという。

分かる。

 

8月14日

メモさえする気を失い、今日まで来た。

塞ぎこむ日々が続いていたが、直接の被災者たちの状況を思うと、逆にこちらの軟弱さが傲慢にさえ思えてくる日々だった。

私は、甘いのだろう。

 

原子力発電所の事故をきっかけに、クリーンエネルギーキャンペーンが強化され始めた。遅きに失する。けれども、人間はこういうきっかけがないと、強く意識は出来ないのだろう。

 

コンポストトイレの空気送りの換気扇(太陽発電式)をセットして一ヶ月。

恐ろしい勢いで換気扇が回る。

小さなパネルでしかないのに、人間用扇風機並みに回るので、工事で汗をかいたら、換気扇の前に顔を近づけて涼を取る。

臭いはさほど気にならない。発酵タンクの中身の水分調整がうまく行っている時は、全く臭わない。

結果に気をよくしたので、太陽光パネルの増設をしてバッテリーに蓄電して、夜間も換気扇を回るようにしたらいいなと本気で思い始める。

太陽発電の本は、この1年、すでに数冊読んできたが、勉強のピッチは一気に上がる。あとは、費用の問題。

うちは、一日中日光に恵まれているので、塩ビパイプ湯沸しやソーラークッカーにも挑戦するつもりでやってきた。

早く工事が落ち着いたら・・・、やりたいことに着手したい。

 

傾斜土浄化漕の点検整備。

植えたインパチェンスとベゴニアは、花壇に植えたのよりも太くて大きい。見事に浄化に一役買っている。浄化漕から流れ出てくる水はいつも透明だし、臭いもない。

敷地のり面に工事中だった傾斜土浄化漕も稼動開始。上手く水が流れ始めた。

水気の好きな植物も植え始めているが、最終的にこの池でめだかや金魚を飼うつもりだ。彼らの健康が水質バロメーターとなる。

 

7月末から内装の集中工事。

天井は松材。壁は檜。いずれの板も購入して一年以上経っている。

大工に教えてもらって、根太ボンドをつけてガンガンタッカーを打ちまくる。

しかし、作業は遅々として進まず、3人がかりの一日で、コンテナ一つがやっと。

特に、壁面は最も重要な部分、細かな作業が多い。どうかしたら、コーナー処理だけで1日が経ってしまうようなありさま。

「『お金無い無い』ゆうて、手間のかかることばっかりさせてから・・・。」と大工に言われる。

お金が無いから出来るだけ自力でというのをモットーに始めた工事だが、内装にこだわったので、費用がかさむ。おそらく大工に支払う人件費の都合上、今年の夏は、外装工事までは進めないかも・・・。外断熱用のスタイロはすでに購入しているので、最悪、この冬は、スタイロをガムテープで覆っただけの異様な?家で生活することになるかもしれない。

 

膝だけでなく腰もひどくなり、リハビリが続く。

 

老ミニウサギのチョコちゃん、一時重態に。

毎晩ウサギを見てくれる病院に連れて通い、帰宅が11時になる時期もあったが、何とか元気を取り戻し、食欲回復。

しかし、たったの一ヶ月でまたもや同じ症状。飲まず食わずで身動きしなくなる。

で、またもや病院通いに・・・。強制給餌と点滴で存える日々。

医者曰く、「もう8歳半です。とっくに寿命を過ぎて頑張って生きてきたんです。病気よりも歳の方が心配です。」とのこと。

たとえ、どんな病気であろうと、原因が分かろうとも、「年齢からして、もう手術は無理です。」と言われた。

無理に箱に閉じ込めて何時間もかけて病院通いして、無理やり注射して、無理やり食べさせて・・・、本当にこれがチョコちゃんのためになっているのか?

このまま自然に死なせてやった方がいいのでは・・・?

もの言わぬチョコちゃんにとって、どうしてやるのがいいのか途方にくれる。

途方にくれながらも、病院に連れて行く。

 

おととい、東日本大震災の記録番組を見た。

「気分がすぐれない方は、視聴をおやめ下さい。」とのテロップが何度か流れる。

そうだろう。トラウマはこれからも長く被災者を苦しめ続けるのだ。

中越地震のことが蘇り、気分はさらに重くなる。

しかし、人はそれでも生きている。

 

沖縄戦の記録番組を昨夜、見た。

東江盛勇さん兄弟の日米に分かれての壮絶な心理状態と肉親愛に泣く。

沖縄には、これと同じようなドラマが山ほどあるに違いない。

 

どんな状況でも、人は生きている。

生きていくしかない。

大事なのは、その内容を出来るだけ良くしていこうということだ。

 

生きていくしかない。

東日本大震災、あれは、更なる災害の序章にすぎないのだから。

この国に生きている以上、現実を受け止めて、生きていくしかない。

 

 


 

 


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