迷建築「ノアの箱家」

ひょんなことからNOAに選ばれし者として迷建築「ノアの箱家」に住むことになったKOKKOの笑ってあきれる自宅建築奮戦記

セルフビルド考⑦

2010-08-21 20:41:07 | セルフビルド考

「自分の家」とはどんな家?

 

「自分の家を自分で作りたいというのは当たり前の欲求です。」と、とある方から返信メールが来た。

ずっと以前、トイレのことで悩んでいた時だ。

排水浄化方法のことも相談した。

土による浄化方法について頭にはあったもののどうしても自信が持ちきれず、バッキによる浄化槽を主体にするしかないと考えていた頃のことである。

 八ヶ岳週末在住のその人は、ノルウェーやフィンランドの農家でやってるような方法でトイレを自作していた。

私も考えていたやり方の一つだった。

ただ、建築基準法上でパスするためには、便壷に水の浸入がないよう耐水性の仕切りで覆われている必要があった。

彼のやり方では通りそうにない。

悔しかった。

 

パラちゃんのことも考えた。

パラちゃんにトイレや浄化システムについて意見を聞いても、

面白そうに笑うのみ。

昔から、我が家の青少年達は皆そうだった。

私がやることを面白がって人に宣伝しまくる。

反対することはなかった。

が・・・

今回の反応は、ちょっと今までの反応とはニュアンスが違う。

笑ってはいても、興味の度合いが薄い。

幼馴染みの大工(兄ちゃん)も

「親がこんなに一生懸命やのに、ここまでちっとも子どもが手伝わへんのもめずらしいなあ。」

と言う。

「休みは日曜しかないし、日曜はデートで忙しいからやろう。」

と答えたものの、どうもそれだけではない。

まるで他人事だ。

何故?

 

あっ!

いきなり、ガツンときた。

「そうだ、パラちゃんにとっては自分の家なんかじゃないんだ」

そういえば、我が青少年達は二人とも「お母さんの家」としか言わない。

決して「私達の家」とは言わないのだ。

無理もない。

パラちゃんは3年間家を出て自活していた。

上の子もすでに2年以上になる。

子ども達には、「18歳になったら家を出なさい。」と小さい時から言ってきたので、そういうものだと二人とも素直に思って育ってきた。で、何の迷いもなくいそいそと出て行ったのだ。

嬉しそうに出て行く準備をする子どもを見て、心の中で泣いていた。

「引越しの時、家におらんとってや。」とパラちゃん。

出て行くところを見るのも辛かったので、その日、私は紀勢本線のくろしお号に乗って熊野へ向かっていた。

 京都から大阪湾沿いに紀伊半島を一周して伊勢まで向かう“歩いて紀伊半島一周の旅”の続きだ。

電車の中でも歩いていても涙がぽろぽろこぼれた。

親の気持ちになんてちっとも気付かず、前しか見ていない若さがまぶしくもあった。

とうに自分が失ってしまったもの。

 

だが、私にも若さが少しばかり残っていたようだ。

パラちゃんに続いて上の子も出て行った。

青少年が二人とも出て行ったので、前から考えていたことを即刻実行に移したのだ。

青少年達は、私が以前から言っていたこと(あんたたちが居なくなったら、この家を出る。)が本気だったのだと知り、驚く一方で私のすることに興味を持ったようだった。

しかし、彼らの気持ちはここ(親の居る場所)にはない。

彼らの心がある場所、それは彼らが一番長く暮らした下(都市部)のあの家なのではないか。

売買契約が済んだ時連絡したら、

「次の人、家大事にしてくれるかな?」

と二人とも小さな声で声で言った。

二人ともあの家を「見たくない」と言って、引越しの手伝いの時以来見に行っていない。

近所には仲の良いかつてのクラスメートが居て、そこへ遊びに行ったとしても、敢えて避けているのだ。

私が伊丹の防空壕跡地に建った昆虫館近辺を、様相の変化を恐れながらも見に行ってしまったことがあったように、彼らもまたあの家をいつか覗きに行くのだろうか。

「自分の家」とはどんな家のことなのだろう。

 

パラちゃんは近々また家を出て行く。

その準備に心を傾け、夢を描いている。

私は自分の家を文字通り自分だけで造っていくのだ。

もう少し造るのが早ければ、子ども達にも家造りの醍醐味を味わわせてあげれたのに・・・。

石山修武氏の「SELF BUILD」の中に出てきた「子どもが不良にならないような家を設計して欲しい」という要望で設計された家の家族写真が脳裏に浮かぶ。

残念に思う。

 


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