年末からの試練を越えて
今年の「元日」に記事をアップして以来、ちょうど3か月が過ぎようとしています。その「元日の記事」には、次のような一節を記していました。
《年末に摂取した例のワクチン。2回目でしたが、これが思いもよらぬ反応を示し、年末の十日間は “ひたすら病床静臥の時” をやり過ごすのみとなりました。》
ここでの「年末」とは、昨年の12月23日のことです。また「思いもよらぬ反応」とは、翌24日のクリスマス・イヴより3日間、まったく食欲がなく、エネルギー不足による体力の衰えもあって、ひたすら静臥の時を過ごすのみでした。
年が明けて、多少元に戻りかけたと思ったのも束の間、「松の内」が明ける7日前後より、全身の気だるさに見舞われました。静臥しなければならないほどではなかったものの、今年の1月半ばから2月末までの1か月半は、書物に目を通すことも、原稿を綴る意欲も湧かず、日々、特にこれといったことをするわけでもなく、ただ時間を無為に過ごしていたように思います。
それだけに「文筆」を生業とする現在の私にとっては、とても辛いまた経済的にも大きな試練となりました。
それでも日課としての「聖書」朗読と、「日々の祈り」のための海岸へのドライブは一日も欠かすず、今日この日にいたるまで変わりなく続けています。
以上のように、やや悲惨ともいえる「令和4年の始まり」を体験したわけですが、ようやく3月に入った頃から、徐々に本来のペースを取り戻し始めたような気がします。
〝救いや励まし〟となったその〝きっかけ〟とは、電話による仕事の問合せや、様々なことに関するご質問やご相談でした。何とかお役に立ちたいとの願いから、このときばかりは、気力を振り絞って対処していたのでしょう。否応なく関連の書籍や資料に目を通すとともに、「インターネット検索」を強く促すものでした。
もちろん、メールによる「返信」や「短い書簡」として、何とかお役に立てたのではないかと思っています。そのように〝力強く促されたこと〟が、どれほど私の〝気力の回復〟そして〝魂の救済〟の助けとなったことでしょうか。本当にありがたいものです。
桜の盛りは「花明り」
今朝の「奈多(なた)海岸」(福岡市東区)までのドライブは、早朝6時ちょっとの時間でした。いつものドライブコースとは異なり、「志式神社(ししきじんじゃ)」に駐車し、境内を抜けて海岸へと下る道を選びました。境内から続く、ここの桜並木を見るためです。
季節は今まさに「花明り」。「花明り」とは俳句の季語として、“桜の花の盛りによる明るみ”を意味しているようです。
淡い桜色の「花びら」が放つ、柔らかな「光の群れ」を捉えた表現であり、それがもたらす〝仄かな明るみ〟とでも言うのでしょうか。静かで清らかであり、どこまでも淡い桜色の柔らかさによって、辺りをそっと包み込んでいるような気がします。
個人的にはとても好きな〝桜の様〟であり、光そして明るみと言えるでしょう。
青年時代の一時期、多少「俳句」を嗜んだ者として、例年この季節になると、「花明り」の〝微妙な光の気配〟に魅了されるとともに、いつしか青春時代の一こまを振り返っているような気がします。
みなさまへ
ご心配をおかけしましたが、何とか平時の体調に戻ったように思います。もう大丈夫です。本当にありがとうございました。
みなさまからのさまざまな励ましやお心遣いに対し、この記事をもってあらためて感謝申し上げます。
深謝再拝