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『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

『喫茶去』(きっさこ)-禅語1

2009年12月27日 11時55分04秒 | ■禅・仏教

 お茶を飲んだら、さっさと帰る?!

 私が初めてこの言葉を知ったのは、坐禅を始めて間もない頃(前回の『一休の頓知問答』を参照)、ある寺に掲げられた大きな額の中だった。

 さっそく調べたところ、“お茶を飲んだら、さっさと帰る” という意味とあり、それ以上の詳しい解釈は特になかった。そのため、自分なりに次のように受け止めていた。

 ……どのようなことであれ、“あること” を行うときは真剣に取り組み、それがひと段落ついたら、もう “そのことに執着することなく心を離れ、次なる物や事に全身全霊を傾ける”。

 つまりは、“お茶を飲む” ときは飲むことに集中し、飲み終えたら、身も心も「お茶」のことから離れて速やかに立ち去る……と。

 『喫茶去』という “字面の並び” についても、気に入っていた。「茶」の字を間に挟んで、「喫」と「去」が、前後いや左右に分けられている。

 かたや「……茶を喫する」、かたや「その茶から離れ去る……」。まさしく道元禅師の言う “前後裁断” であり、いうまでもなく “一切の物や事に執着しない” に通じるものであると……。

              ★

 しかし、しばらく後にこの「」には「置き字」としての働きがあり、「喫茶」の二文字の語調を整えながら、意味を強調するための「字」であることを知った。

  つまり、本来は「去る」と言う意味を持たないということだ。
 結論を言えば、ごく単純に “茶を喫する”、すなわち “お茶でも一杯” という意味のようだ。

 この『喫茶去』は、中国・唐末期の趙州(じょうしゅう)禅師に由来する。

 趙州は事あるごとに、用件はさておいて『まあ、お茶でも一杯どうぞ』と言って、誰彼となく勧めたという。つまりは「行住坐臥」の一例としての「挨拶」だったのかもしれない。その逸話として、以下のような三人に対する “喫茶去 ”がある。

             ★

 趙州のもとに、二人の僧が訪ねてきた。趙州はその一人に問う。

 趙州「以前、ここに来たことはあるのか?」
 甲僧「いいえ」
 趙州「喫茶去」

 さらに、趙州はもう一人の僧に問う。

 趙州「以前、ここに来たことはあるのか?」
 乙僧「はい。あります」
 趙州「喫茶去」

 以上に対して、院主が趙州に訊ねた。

 院主「初めてここに来た者にも、以前ここに来た者にも、師は同じように “喫茶去 ”としかおっしゃらなかったようですが、なぜでしょうか?」
 趙州「院主よ」
 院主「はい。なんでしょうか?」
 趙州「喫茶去」                            
                                 
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※ 現在この『喫茶去』は、禅語などにおいて “お茶を飲んだら、さっさと立ち去る” という意味にも解釈されています。
 したがって、私が冒頭で述べた「受け止め方」は、決して間違いではなかったようです。


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