『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・「演劇」と「殺人」/九大演劇部4回生旗揚げ公演:(上)

2014年11月05日 00時03分28秒 | ●演劇鑑賞

く 

   40数年前――。大学院に進んで犯罪学や刑事政策を専攻したいと思った。そのため、1936年(昭和11年)に起きた《女性による性愛絡みの或る特異な事件》(以下、『特異な事件』)については、学問的(犯罪心理、犯罪行動)にも文学的にもずっと関心を持っていた。

   院浪時代、偶然、大学に近い東京・神田の古本屋においてこの『特異な事件』に関する雑誌を見つけた。内容は、「事件調書」や「検死所見」の概要をはじめ、引退した捜査関係者や知人等の「証言」によって構成されていた。何人かの証言者が、犯人を “女性らしいこまやかな気配りのできる優しい女性”……とした評価を、“意外” に思ったものだった。

   『特異な事件』が、“異常性愛の果ての猟奇的事件” として、犯人は “稀代の毒婦” と評されていた、それだけに、“意外” な感じは今でも鮮明に残っている。そのため、この『特異な事件』をテーマにした大島渚監督の映画『愛のコリーダ』(1976年10月封切)は、特別な想いで観た記憶がある。

           ☆

   10月12日(日)、「九州大学演劇部4回生ユニット:ハートフル・レ・フレール旗揚げ公演」に行った。小さな「公演会場」に入り、「ハート・シール」で封じられた「プログラム」を開いた。内側の一番上に『 愛しているわ、○○さん 』と書かれた赤い文字が眼に入った。「愛」の一文字だけがひときわ大きかったが、「○○」の漢字2文字はよく見えなかった。最後の2文字の「さん」は、平仮名のため簡単に読み取ることができた。

   だが次の瞬間、作品『ふたりきり』の役名「石田吉蔵」の文字を見つけてハッとした。『特異な事件』の被害者)の存在が、脳裏に甦って来たからだ。「苗字」には自信が持てなかったが、「田」の字が付くとの確信はあった。下の「名前」の「吉蔵」は確実に記憶していた。

  公演が始まる前、顔見知りの学生に語りかけながらも、 “緊張” していた。“これから始まる芝居に、あの「特異な事件」がどのように関わって来るのだろうか?”……“興味” とともに、正直言って “不安” もあった。“うまく表現できるのだろうか?”

        ☆

   実は、本ブログの今回の「公演案内」(9月27日)の際に、次のように記述していた。それは『ふたりきり』(作・演出:秀島朱理)紹介についてのものであり――、

 

  『あの人を私のものにするには、……しかないのだわ。』といった感覚は、膨大なエネルギーを必要とするのでしょう。【あらすじ】の最後に、《そんな女の愛のお話》……と、どことなく健気なニュアンスがあるようなのですが。“……しかないのだわ” の「……」の部分が気になりますね。

 

   と書いていた。実はあの原稿の初案は、そのあと……は、まさか「殺す」ではないでしょうね?!』と続ける予定だった

   『あの人を私のものにするには……』と来れば、『殺すしかないのだわ』という続き方が、筆者にとっては、自然と思われた。そう判断した根拠は、脳裏に『特異な事件』がほんの一瞬掠めていたからだ。しかし、この時点では、まさか「今回の舞台」がその『特異な事件』と関わりがあるなど、露ほども思い及ばなかった。   

       ☆

   舞台を観た夜、ネットによって『特異な事件』すなわち「阿部定事件」を確認した。“殺された……” いや “殺められた男” の「姓名」は、今回の役名〈石田吉蔵〉とまったく同じだった。そして、今回の舞台で〈吉蔵〉を “殺めた”〈田中加代子〉という「役名」は、『特異な事件』において「犯人(阿部定)」が「吉蔵」の下(鰻料理店)で働いた際の偽名「田中加代」から来たことを今回、筆者も知った。

   その深夜どういうわけか眼が覚め、仕方なく、睡眠薬代わりにウイスキーの「水割り」を飲み始めた。何気なく、テーブル上の「プログラム」に眼が行き、改めて眼を通した。公演会場ではよく見えなかった『愛しているわ、○○さん』の「○○」の2文字が、『吉蔵』であることを知った。

   座り直し、「判じ物」を読み解くような気持で「プログラム」の隅々にまで目を配った。「小さな文字」や「掠れた文字」など、微妙に読み取れないものがあり、昼間見た舞台を想い出しながら、眼の前のプログラムを何度も読み返した。

   挑戦的なフレーズ……謎解きのようなフレーズ……意味深なフレーズ……。作・演出家をはじめ、スタッフやキャスト達が細やかな気を配っていたことが判った。

   だが、これは当然だろう。「演劇」とは、作・演出家一人で作れるものではないからだ。「4回生」中心の舞台ではあっても、あくまでも「九州大学演劇部」としての創作活動であることにかわりはない。

   「演劇内容」はともかく、 “作・演出家の革新的ともいえる大胆な着想” と、それを “一体となって現出しようとするキャストやスタッフ達”……。その仲間について、「作・演出家」の秀島嬢は、「プログラム」の「演出の言葉」として次のように述べている。

 

 ……ちぐはぐなユニット名、気になられた方も多いと思います。

 heartful、 でも hurtful

 優しい顔して毒のある4回生にはぴったりの言葉です。……

 

  「作・演出家」と「ヒロインを演じた役者」。そして、《この言葉の背後に厳然と寄り添う仲間たち》。彼らの “迸るような若さと情熱” に胸が熱くなり、酔うどころではなくなっていた。(続く)

  


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