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『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・10回でも20回でも観たくなる映画:下-1

2011年10月14日 11時05分39秒 | ◆映画を読み解く

  

 では「何回でも観たくなる映画」とは、どのようなものを言うのでしょうか。そこでご参考までに、私が好きな作品のご紹介を(※註:1)。

 確実に「3回以上」観た作品は――、

 まず『ベンハー』(迫力あるスペクタクル)、それに『十戒』(ご存じあの「紅海」を、モーゼが真っ二つに分けるシーンは迫力があります)、『シェ―ン』(「シェ―ン!」という声がいつまでも耳に)、『エデンの東』(ジェームス・ディーン主演。どこにもぶつけようのない青春の悲哀と絶望と捉えどころのない希望……)があります。それにオーソン・ウェルズによる製作、脚本、監督、主演の『市民ケーン』でしょうか。

 それにしても、『ベンハー』と『十戒』の主演はいずれもチャールトン・ヘストンです。個人的には大好きな男優であり、筆者の歴代男優ベスト10にも入っています。なおこの二つの映画に共通しているキーワードは「聖書」です。

 また、『』(作中人物「ジェル・ソミーナ」の名前のテーマ曲が何とも言えない哀愁を。アンソニークーンとジュリエッタ・マシーナの演技が見事でした)、『死刑台のエレベーター』(マイルス・デーヴィスが奏でる即興的なトランペットのテーマ曲。堕ちていく男女の底のないアンニュイ感が見事に漂っています。それにしても、ジャンヌ・モローの誰も寄せ付けないシニカルな美しさが際立っていました)でしょうか。

 さらに、『タクシードライバー』(ロバート・デニーロの出世作。13歳でデビューしたジョディ・フォスターが、12歳の娼婦役を熱演、アカデミー助演女優賞にノミネート……)、『ウエストサイド物語』(ミュージカル調)、『禁じられた遊び』(ギターの主題曲が有名)です。

 そして、アルフレッド・ヒッチコック監督の『裏窓』(演劇舞台のようなカメラワークの切り取り方が秀逸)、『めまい』、『北北西に進路をとれ』、さらには『ドクトル・ジバゴ』(ロシア革命を舞台にした作品。オーマシャリフ主演。「ラーラ」のテーマに、雄大さの中にある人間の営みの小ささとその悲哀が。それでいて貴さと美しさとひたむきさとが……)、『羊たちの沈黙』(この作品において、ジョディ・フォスターという女優の素晴らしさを再認識)、『戦場のピアニスト』(ロマン・ポランスキー監督)など。

 「邦画」としては、『雨月物語』(溝口健二)、黒沢監督の『用心棒』、『椿三十郎』、『羅生門』、『生きる』などであり、松本清張原作の『鬼畜』、『ゼロの焦点』、『砂の器』。さらには、『幸せの黄色いハンカチ』(山田)、宮崎駿作品の『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『紅の豚』などがあります。

       ★       ★

  「5回以上10回まで」のものとしては、『太陽がいっぱい』(このテーマ曲も大ヒット。若かりし頃のアラン・ドロンの魅力がこれほど出ていた映画はなかったのかも)、『街の灯』(製作・監督・脚本・音楽・作曲・編集のチャップリン。盲目の花売り少女との……)、『アラビアのロレンス』(デビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演)、『欲望と言う名の電車』(元々は舞台演劇。ヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランドの熱演)、『シンドラーのリスト』(自身ユダヤ人でもあるスティーヴン・スピルバーグ監督による反ホロコースト)。

 「邦画」は、『二十四の瞳』(高峰秀子主演)、それに松本清張原作の『張込み』や『点と線』など。

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  「10回以上20回まで」の作品は、『第三の男』(オーソン・ウェルズ)と『カサブランカ』(テーマ曲のAs time goes by[時の過ぎゆくままに]はあまりにも有名)の2作品です。「邦画」は、黒沢監督の『七人の侍』と『東京物語』(小津安二郎監督、原節子主演)。

  『20回以上』となると、今のところは『ローマの休日』(オードリー・ヘップバーンのデビュー作)だけです。この作品は1週間前も観ました( 『第三の男』『カサブランカ』そして『ローマの休日』の3作品については、「DVD」を持っているため容易に観ることができます)。

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  ※註1:「観た回数」とは、「映画、テレビ放映、ビデオ、DVD」等総てを含んでいます。またその「回数」は確実な回数として控え目なものです。

 

 

 

 


・10回でも20回でも観たくなる映画:中

2011年10月10日 01時16分40秒 | ◆映画を読み解く

 

  『10回でも20回でも観たくなるというのは、“よほど……”』

 この言葉は、かれこれ10年前ほどになるでしょうか。今でも忘れられない「K氏」のものです。彼が“よほど……”といって、一瞬言葉を詰まらせたのは、“よほどあなたが変わり者だからでしょう”と、言いたかったに違いありません。少なくとも、“よほど素晴らしい映画だったのでしょう”と、言葉が続かなかったのは確かです。

 以上はK氏にかぎったことではなく、どうやらわが「アラフォー美女軍団」その他の“大勢”もそのようです。明確に私と同意見の一、二の女性を除けば……

 

  ――いくら「DVD」だからといって、同じ作品を観るのは2、3回、せいぜい4、5回どまりでしょう。10回以上なんて想像もつきません。 

 ――そのように、「同じ作品」だけにこだわった観方をするなんてもったない。ほかに素晴らしい映画がたくさんあるのでは……。

 ――それだけ「同じ作品」を観ていたら、物語の展開や台詞が判かりすぎて面白くないでしょうに……。

 

 整理してまとめると、以上の三つのパターンに要約されると想います。いずれも一理ある指摘です。おそらく読者の中にも同じ想いの方がいらっしゃると思います。

 しかし、私とて、そうそう「暇人」ではありません。内容の乏しい「映画」や「ドラマ」などに、「貴重な人生の時間」を割きたくはないのです。実はこの2か月あまり、「テレビ」は“1秒たりとも”観ていません。もっぱら仕事に関する「読書」とYou-Tubeなどの「試聴(視聴)動画」程度でした。

 というより、多くの時間を「講義用のノート作り」に追われていました。この「ブログ」にしても、最近では珍しく「中11日以上」も原稿アップを控えていたほどです(※単に筆者がサボっていたのではとの声も一部にあるようですが……)。

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 前置きはそのくらいにして、さっそく「本論」に入りましょう。『なぜ10回でも20回でも観たくなる』のでしょうか。

 それは、その映画の「或るカットやシーン、それに俳優の表情や台詞といったもの」を“もう一度観たい、もう一度確かめたい”と想っているからです。そう想って観ているうちに、その他の部分も同じように“観たい、確かめたい”となり、それがついつい“もう一度、もう一度……”と自然に「回数」が増えていったというわけです。

 そして悪いことに「何度」も観ているうちに、最初はどうでもよいと想っていた“細かな部分”に眼が行くようになり、それを確認するために、さらに「確認回数」が加わったと言うことでしょうか。

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 例えば、リック(ハンフリーボガート)とイルザ(イングッド・バーグマン)でお馴染みの『カサブランカ』――。この中の「君の瞳にカンパイ」という台詞が有名になりましたが、その台詞の際のイルザの「瞳」はどのようなものだったのか……またそのときのイルザの帽子やその被り具合は……といったことが気になってくるのです。

 また『第三の男』の場合、ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)が最初に登場するまでの時間は、映画の開始から何十何分何秒後だったのか。またそのとき彼が立っていた「位置」から、恋人アンナ・シュミットの部屋まで、どのくらいの距離があったのか……といったことです。

 それで、つい“その数秒だけのために”、前者で1時間42分、後者で1時間45分と言う時間を費やすというわけです。「早送り」して「そのシーン」だけを観るといったことは絶対にしません。

 ともあれ、“再度観たい、再度確認したい”と言うことは、それだけその「映画」に魅力的な中身があり、奥が深いことを意味しています。「名画」とは、まさにそのようなものを言うのだと思います。

 


・10回でも20回でも観たくなる映画:上

2011年10月07日 11時02分31秒 | ◆映画を読み解く

 現在、私の手元にあるDVDの「映画作品」は5、6作品でしょうか。以前はこれに、中古を買い集めた30本ほどの「ビデオテープ」がありました。その三分の一が黒沢作品でしたが、今年3月の引っ越しの際、思い切ってすべてのビデオを処分しました。

 と言っても、『七人の侍』や『羅生門』を持っていたわけではありません。この両作品であれば、無論、処分などしなかったでしょう。とは言うものの、少し「処分」を早まったかなと、ちょっぴり後悔した作品が2つあります。『生きる』と『』です。


 『生きる』は、胃癌に侵された市役所勤務の主人公(志村喬)が、余命いくばくもないことを悟ったとき、初めて“生きる”ことの意味に気づかされるという物語です。

 誰もいない夜の公園。たった独りの主人公がブランコに腰をかけ、“いのち短し恋せよ乙女、紅き唇あせぬ間に……”をゆっくりと口ずさむシーンがあります。確か雨か雪が降っていました。
 映画としての「場面」の展開……それはつまりは「物語」としての進み具合を意味しています。それがとても“ゆったり”としていただけに、進行していく主人公の癌の恐怖や死の哀しみが、いっそう伝わって来たように記憶しています。

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 一方、『』は黒沢監督晩年のカラー作品であり、シェークスピアの「リア王」を戦国時代に置き換えたものです。「舞台演劇」の手法を採り入れ、「狂阿弥」(ピーター)という役柄の設定や衣装、色彩そして画面構成にこだわっています。しかし、個人的にはあまりいい作品とは思えません。 

 それでもこの作品の“処分”を惜しんだのは、この作品をもう一度“分析”したいとの気持ちが芽生えたからです。作品製作にこだわった黒沢監督の“真の狙い”を探ってみたいとの想いがあるからでしょう。

 「画家」を志した黒沢監督の「絵画的構成」と「色彩」へのこだわりを再確認したいと言うのがその動機でしょうか。自身、「シーン」の「絵コンテ」を描いた黒沢監督――。『乱』の製作において、その傾向が顕著なような気がします。

 大掛かりな合戦や馬の疾走、炎上する城などにおいて、大胆な構図や猛り狂う炎のさまの演出に執着されていたのでしょう。しかし、正直言って気負いすぎの印象を否定することはできません。フランスとの合作のため、その要求もかなりあったと思います。それが結果として、自由奔放な“黒沢イズム”の追究にはならなかったのでしょう。日本人として、また黒沢映画のファンとして残念です。
 あまりにも製作者の意図や関係者の想いが入りすぎていたような気がします。それはときとして、一番肝心な“観客”を何処かに置き忘れることになりがちです。
 
 『七人の侍』のときのように、“観客の視点”(それは同時に“名もなき民衆の視点”でもあるのですが)とはなりにくかったようです。その最大の難点こそ「脚本」にあったといえるでしょう。

     ★   ★   ★

 今も世界の映画人に影響を与え続けている『七人の侍』。日本映画の最高峰に君臨するこの作品の成功の秘訣は、一にも二にも「脚本」にありました。この「脚本」作りのため、黒沢明橋本忍小国英雄の「脚本家」三氏は、旅館において「四十日の三人合宿」をしたと言われています。
 その後、橋本忍氏は「羅生門」や「生きる」を、小国英雄氏は「椿三十郎」や「天国と地獄」など「黒沢映画」の「脚本」を手掛けました。

 やはり、「映画」は「脚本」がすべてです。私たちが或る特定の「映画」に惹かれるのは、その映画の“「脚本」に惹かれている”からにほかなりません。もちろん、舞台演劇もTVドラマも「脚本」がすべてです。このことは個人的な主張ではなく、すべての映画人が想い、また考えていることと言えましょう。

 そして、そのような優れた「脚本」が「フィルム」の中で躍るとき、私たちは『名画』と言われるのものに出逢うことになります。何度も観たくなる……そう。5回、6回、いえ、もっとそれ以上……10回でも20回でも観たくなる「映画」に……。(続く)


 ★参照:本ブログ  『名脚本家達(映画は脚本-中)』(2010.3.23)


・『第三の男』(映画は脚本-下)

2010年04月07日 18時52分44秒 | ◆映画を読み解く

 『……イタリアでは、ボルジア家30年の圧制下に、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、そしてルネッサンスを生んだ。スイス500年の同胞愛と平和が何を生んだ? ……鳩時計さ……。』
 
 この「映画」の中で私が一番好きな「場面」であり、「セリフ」だ。もうお判りの方もいらっしゃると思う。映画は、オーソン・ウェルズ主演の『第三の男』。

 掲出のセリフは、希釈したペニシリンを売りさばく“闇の商人”ハリー・ライムのもの。彼の「希釈ペニシリン」によって、死者や痛ましい身体毀損の被害者が続いていた。病院でその姿を目の当たりにしたハリーの親友ホリー・マーチンズ(ジョセフ・コットン)は、自ら囮となって彼を警察に渡すことを決意する。時代は、第二次大戦直後の不安定な世情のウィーン(オーストリア)。二人が乗った夜の大観覧車が、何とも物悲しく二人の運命を暗示している。

 最後の『……鳩時計さ』という口をすぼめた“捨てゼリフ”は、シニカルではあってもどこか茶目っけを感じさせる。それは、自らの悪行を正当化するハリーの世界観や人間性を巧みに物語るものであり、また自らの弱さと曖昧さを現実の中で正当化しようとする“こういう類の人間”の狡猾さをよく表している。

 夜が織りなす光と影を背に立つハリー・ライム――。その黒い帽子と黒いコートが、このドラマに登場する人物たちの暗部を示唆しているようだ。同時に、ドラマ全体の時代背景や闇社会の存在を彷彿とさせる。

 映画『第三の男』の、まさに“第三の男”にして可能なセリフといえる。“喋りすぎず”また“寡黙になりすぎず”、絶妙なタイミングで観客の“イマジネーション(想像力)”と“クリエイティビティ(創造力)”を喚起しようとしている。優れた「ドラマ」すなわち「脚本」の必須条件と言える。

 映画やテレビ、それに舞台演劇は、所詮“フィクション”でしかない。だが優れたフィクションは、“ノンフィクション”のただ中に生きている“観客”の“共鳴”や“共感”を強く誘う。そしてその共鳴や共感は、優れたドラマから刺激を受けた“観客”のイマジネーションによって増幅するとともに、“観客”自身のクリエイティビティをさらに膨らませる。だからこそ、いっそうそのドラマの中に入り込んで行けるのだろう。

 先日、TVドラマの『不毛地帯』が終わった。初回こそ惹きこまれて観たものの、二回目以降はほとんど観ることがなかった。それは「脚本」ことに「セリフ」にあまり魅力が感じられなかったからだ。説明調のセリフが多く、観る側としては、イマジネーションを刺激されることもないまま、クリエイティビティの働く余地もなかったように思う。だらだらと物語の進行に付き合わされているような印象を受けた。

 それにしても、冒頭の“セリフ”。その内容も凄いが、このセリフをオーソン・ウェルズ自身が考え出したというところがさらに凄い。正直言って無条件にシビれたし、何度観てもその感動は色褪せない。「脚本」の“場面構成と登場人物とセリフ”との“絶妙な組合せ”の勝利と言える。無論、その“絶妙な組合せ”は他にもふんだんに出てくる。この『第三の男』に限らず……。“名作”といわれるものには……。 (完)






・名脚本家達(映画は脚本―中)

2010年03月22日 06時32分35秒 | ◆映画を読み解く
 

 世界の映画関係者に計り知れない影響を与えたと言われる『七人の侍』。“七人の侍”をはじめ、彼等に絡む“村人”や“野武士”たちの人物設定は秀逸だ。“どの場面のどの人間”であっても、“活き活きと生きている”。そして、それらの人物をより引き立てているのが“無駄のないセリフ”であり、「脚本」の完成度の高さを物語っている。「脚本」が練りに練られたものであるからこそ、リアリティのある緻密な人間の深みが伝わってくる。
 
 この映画の「脚本」は、すでに故人となった三人の「脚本家」の手になる。今日でも高い評価を受けている橋本忍と小国英雄の両氏に黒澤明監督が加わり、40日に渡る旅館での「三人合宿」によって完成した。その経緯はもはや伝説として語り継がれようとしている。

 橋本忍氏は、後に「羅生門」や「生きる」などの「黒澤名画」の「脚本」を担当することになり、小国英雄氏も「椿三十郎」「天国と地獄」などの「脚本」を手掛けた。

 また“小津映画”も、そのほとんどは“共同脚本”による。『東京物語』をはじめ、『晩春』『麦秋』『早春』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』などの作品は、小津安次郎監督と野田高梧氏の二人が「脚本」を書いている。小津監督は、絶対にアドリブを許さないことで知られ、“脚本通り”のセリフや演技を徹底して求めたという。

 『東京物語』に登場した笠智衆、東山千栄子、山村総、三宅邦子、杉村春子、中村伸郎、そして原節子に香川京子。これらの芸達者を使ってもなお「脚本」からの逸脱を拒んだのは、ひとえに「脚本」の重要性を裏付けるだけでなく、演出家としての「監督」の存在の重さを物語っている。何度も小津映画に出演した女優の香川京子さんが、小津監督の“脚本絶対主義”について、先日テレビで語っていた。

 洋画においても、優れた作品はいずれも複数の脚本家による。『ローマの休日』の「脚本」は、イアン・マクレラン・ハンター、ダルトン・トランボ、ジョン・ダイトンの3人が担当した。ダイトン氏は死後、1993年にアカデミー賞「最優秀脚本賞」が授与され、夫人が代わって受賞した。

 ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの『カサブランカ』も、同様に3人の脚本家の共同作業だ。ハワード、コッチ、ジュリアス・J・エプスタイン、フィリップ・J・エプスタイン。

 「脚本」が優れているということは、「人物」がしっかり描かれている証左であり、それを裏付けるものが「セリフ」といえる。たとえ短くとも、優れた「セリフ」はその人物の存在感を高めるだけでなく、周りの人物を引き立てる。何よりも、私たち観客の心に“宝石のような言葉”として輝いている。

 私が今日の「テレビドラマ」をほとんど観ないのは、魅力ある「セリフ」を耳にすることがないからだ。ことに人気タレントを何人も出演させたドラマほどつまらないものはない。視聴者(というよりそのタレントのファン)サービスのためにとの気持があるのだろう。満足に演技もできないタレントを何とか引きたてようとして、意味もない「セリフ」を延々と喋らせている。そのため、ただでさえ貧しい演技がいっそうまずくなり、説明調の後味の悪い「セリフ」だけが耳に残る。

 さらに悪いことに、それらの「余計なセリフ」は、その「セリフ」の顔を立てるため、さらに「余計なセリフ」を必要とする。かくて意味も感動もない耳障りな「セリフ」が溢れている。騒がしいだけの落ち着きのない展開に終始し、じっくりと登場人物の人間性や心の動きを感じたいとする、“ドラマ本来の楽しみ”など望むべくもない。

・巨匠への憧れ(映画は脚本―上)

2010年03月14日 19時25分38秒 | ◆映画を読み解く
 

 「恋文代筆屋」を廃業した後、ちょっとのあいだ映画に夢中になり、「映画監督」に憧れた。本ブログの『恋文代筆屋稼業』にあるように、誰もが本格的な大学受験勉強を始めた高二の頃だった。

 ところが、この生来の“天の邪鬼”は、級友たちが眼の色を変えて勉強に励む姿を哀れむかのように、飄々と映画館通いを始めた。とはいえ無論、本当に“飄々とした心”でいたわけではない。今一つ“受験勉強に気持ちが乗らなかった”のだ。

 映画鑑賞の軍資金は「レコード代」を節約したり、下校時の「買い食い」を極力控えたりして捻出した。記憶では「ドーナツ盤」のレコードが330円だったように想う。映画料金と言えば、二流館の「2本立て」が100円~150円くらいだったろうか。もちろん、新作の「封切り物」などに手が出させる余禄はなかった。

 交通費の節約のため、必然、学校から徒歩圏内の「映画館」が中心となった。学校のある「西新(にしじん)」という街には、映画館が4、5軒はあったように思う。

 ほぼ週に2回の映画館通いは、西新町周辺の映画館をすぐに制圧した。そのため、他の街まで足を伸ばさなければならず、必然、映画館が集中する九州最大の歓楽街「中洲(なかす)」や繁華街の天神(てんじん)」まで出かけることとなった。
 『センターシネマ』(天神)という、唯一の「リバイバル洋画」専門館は1本50円と割安だったが、往復の電車賃が馬鹿にならなかった。

 ガラ空きの「三流映画館」では、試写会に臨む“巨匠・クロサワ”のような気分だった。ほぼ横向きに脚を組み、その気になって腕組みをしていた。とは言うものの、生来の飽きっぽさゆえに「映画監督」はあっさりと諦めた。それでも、これはと思う「作品」については『鑑賞ノート』に批評を残し、100点満点で評価していた。

 その配点は、監督40点、脚本30点、俳優20点、その他(撮影・美術・音響・編集等)10点と、判り易いものだった。配点の根拠が特にあったわけではない。自分なりにもっともらしい御託を並べただけであり、単に計算しやすかったにすぎない。

 今思えば、「脚本」の配点をわずか「30点」としたところが幼い。今なら間違いなく「80点」は付けるだろう。いや、「90点」を与えてもよい。それほど「映画」における「脚本」のウエイトは高く、これがすべてと言える。

 いや「映画」にかぎらず、「舞台演劇」や「TVドラマ」においても、「脚本」以外の「監督(演出)」や「俳優(役者)」その他は、いわば“脚本の影”にすぎない……と今では断言している。「脚本」あっての「監督」であり、また「役者」であり、「音楽」や「美術」そして「編集」ということになる。

 優れた「脚本(ときには「原作」)」があるからこそ、心を動かされた「監督」は撮ってみたいと製作意欲を掻き立てられるのであり、「俳優(役者)」も演じてみたいと思うのだ。このことは、古今東西の“名作”と言われた数多くの「映画」が実証している。