ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

今日は〝葵祭〟

2018年05月15日 | 俳句

 今日の最高気温は30度、でも最低気温13度で17度の温度差があります。このところズーッとそんなお天気です、雨の時以外は…。だからか体が何となくだるい感じで疲れやすい…エエッ、年だからですって!まあ、そうですね。(笑)

 5月15日は京都の賀茂祭、初夏の季語です。この祭は五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する下鴨、上賀茂両神社の例祭で、約1400年の歴史があるとされています。供奉する人々が冠帽に葵桂(桂の枝に双葉葵を懸けたもの)を飾るので、一名に葵祭とも、また石清水八幡宮の南祭に対して北祭ともいわれ、京の三大祭の一つです。

   地に落ちし葵踏みゆく祭かな  正岡子規

 これはまさに客観写生の句ですね。この祭が「葵祭」であることは「地に落ちし葵」からすぐに分かります。さらにその落ちた葵を「踏みゆく」のですが、これは一体誰が踏んでゆくのでしょう?

 祭を見たことがある人にはすぐに状景が浮かんでくるのではと思います。私は昔一度だけたまたまその日に行き合わせて、少し見たぐらいですが、牛車や十二単、衣冠束帯などの平安装束の人々が御所から下鴨・上賀茂へ行列していく様子などが見えてくるでしょう。だとすればきっと落ちた葵はその牛車や人々の沓・草履などで次々と踏まれたのではと私は想像しましたが…。

 このように見えるままに景を写し出して詠むのが、子規の唱えた〝写生〟論。それを更に発展させたものが、高浜虚子の〝客観写生〟です。この理論は、「ホトトギス」大正13年3月号に「私は客覿の景色でも主観の感情でも、単純なる叙写の内部に広ごつてゐるものでなければならぬと思ふのである。即ち句の表面は簡単な叙景叙事であるが、味へば味ふ程内部に複雑な光景なり感情なりが寓されてゐるといふやうな句がいゝと思ふのである。」と、虚子自身が述べています。

 つまり、俳句は短いため直接主観を述べる余地がなく、事物を客観的に描写することによって、そのうしろに主観を滲ませるほうがいいという考え方です。 ちょっと難しい話になりましたね。簡単には説明できませんので、今日はこのくらいで終わりにしましょう。

 写真は、葵祭の写真をお借りしました。髪や牛車などに飾る「葵桂」(あおいかつら)は、葵が女性、桂が男性の象徴なんだそうですよ。


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