西部邁・新野哲也 1992年 光文社
副題は「『繁栄の空虚』からいかに脱するか」
1988年に東大教授を辞任した西部邁氏の本を、そのころ読んでたんだけど。
これは、問いと答え、二人の議論の形式をとってるが、まあ西部氏の論調はいつもどおり。
>平均化とそれに基づく集団主義は、表面の現れにすぎないんです。裏面までみると、日本人ぐらい裏切り合戦、嫉妬合戦、誹謗合戦をたくましくやっている国も少ないんじゃありませんか。そういう卑しい心根が言葉を貧しくし、結局、人々の集まる場所をグロテスクなものにしていくんです。
とか、
>いまの若者たちに「豊かな感性」とやらを誇る資格はない。どこぞのカタログ雑誌がマニュアル指令を発しないかぎり、未経験のものには触れることができないというのは、感性が貧しくなっているせいです。
とか、
伝統を破壊したものだから、個人人格で引き受けるべき事柄に集団人格で対応したり、集団人格によってかかわるべき問題を個人人格に基づいて議論したりという混乱が起こってくる。その混乱を一時しのぎに収拾すべく、多数決で次々と新しい法律をつくるという顛末になっている。
とか、
同様のことが会社の中でも起こるんでしょう。上からの命令に敏速に反応しようとする身構えがあまりに強すぎるものだから、ちっぽけな命令しか下されてないのに、それを何十倍にも膨らませて実現する。マスコミも同じです。世論の風潮の風向きがほんの少し変わると、その変化を拡声器に乗せて騒ぎ立て、実際に世論に大変化を起こしてしまう。
とかってあたりは、20年以上経っても、なんも変わってないでしょう、当時も今も日本は。
>そのとき知識人は村の中枢へと進み出て、「諸君、君らの争いは微差をめぐる嫉妬の争いにすぎぬ」というべきなんです。
ということがわかってない人が多すぎる状況が変わってないからか。
っていうか、当時はマスコミがよくないってあたりが問題だったんだけど、最近はネットにのせて個人でもやってるからなあ、バカ騒ぎを。
副題は「『繁栄の空虚』からいかに脱するか」
1988年に東大教授を辞任した西部邁氏の本を、そのころ読んでたんだけど。
これは、問いと答え、二人の議論の形式をとってるが、まあ西部氏の論調はいつもどおり。
>平均化とそれに基づく集団主義は、表面の現れにすぎないんです。裏面までみると、日本人ぐらい裏切り合戦、嫉妬合戦、誹謗合戦をたくましくやっている国も少ないんじゃありませんか。そういう卑しい心根が言葉を貧しくし、結局、人々の集まる場所をグロテスクなものにしていくんです。
とか、
>いまの若者たちに「豊かな感性」とやらを誇る資格はない。どこぞのカタログ雑誌がマニュアル指令を発しないかぎり、未経験のものには触れることができないというのは、感性が貧しくなっているせいです。
とか、
伝統を破壊したものだから、個人人格で引き受けるべき事柄に集団人格で対応したり、集団人格によってかかわるべき問題を個人人格に基づいて議論したりという混乱が起こってくる。その混乱を一時しのぎに収拾すべく、多数決で次々と新しい法律をつくるという顛末になっている。
とか、
同様のことが会社の中でも起こるんでしょう。上からの命令に敏速に反応しようとする身構えがあまりに強すぎるものだから、ちっぽけな命令しか下されてないのに、それを何十倍にも膨らませて実現する。マスコミも同じです。世論の風潮の風向きがほんの少し変わると、その変化を拡声器に乗せて騒ぎ立て、実際に世論に大変化を起こしてしまう。
とかってあたりは、20年以上経っても、なんも変わってないでしょう、当時も今も日本は。
>そのとき知識人は村の中枢へと進み出て、「諸君、君らの争いは微差をめぐる嫉妬の争いにすぎぬ」というべきなんです。
ということがわかってない人が多すぎる状況が変わってないからか。
っていうか、当時はマスコミがよくないってあたりが問題だったんだけど、最近はネットにのせて個人でもやってるからなあ、バカ騒ぎを。
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