鎌倉市議会議員 納所てるつぐブログ

日々の議員活動でのできごとや思ったことをつづっています。

対談集から

2006年08月06日 | Weblog
最近、立て続けに養老孟司氏の対談集を読みました。
1冊が作家でエッセイストである阿川佐和子さんとの「男女(オスメス)の怪」、
もう1冊が法政大学教授の王敏(ワン・ビン)さんとの「君子の交わり、小人の交わり」です。

対談集は読みやすく、どんどん読み進んでしまうのですが、養老先生の含蓄ある言葉に思わず、はっとしたり、そういうことだったのかと納得したりで、同じ箇所を読み返し読み返ししながら、割と慎重に読みました。

両方の書に共通しているのが、日本人は無思想・無宗教の社会であるという論。
つまり原理原則に縛られるのを意図的に避けてきた国民性があるということです。
ところが中国や欧米諸国は原理原則を持っているのが当たり前で、そこに相互理解の壁があることに気づかないと、問題解決にならないというものでした。

日本人が下手に原理原則を持とうとすると、失敗する。
その一番の失敗例が敗戦だというのです。

今日は、広島原爆投下61年目の朝でした。
今、思った以上に欧米化している日本。
バブル崩壊までは、資本主義でありながら最も成功した社会主義国家などと皮肉を言われていた日本ですが、長い不況を脱出すべく小泉改革というアンシャン・レジーム打破の5年が過ぎ、今、静かに自己責任と自立を求める欧米型社会への移行が行われようとしています。

そんな中で、今マスコミが騒いでいる靖国神社公式参拝やA級戦犯合祀の問題が、これからの改革の方向を誤らせることになりかねないのを心配します。

どう考えたって神社で宗教法人なんだから、公式参拝はありえないでしょ。
私は憲法上、総理の伊勢神宮参拝だって遠慮すべきだと思っているのですが、神道、仏教、キリスト教となんでもありの無宗教日本ではそれがまかり通る。
そうすると日本国の原理原則をあえて規定した日本国憲法との整合性がとれなくなる。
その辺が諸外国の理解しがたいところでもあると思う。

養老先生の対談を読みながら、そんなことを考えました。