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☆映画の旅の途中☆

色んな映画をどんどん観る旅

『叫』(2006)

2016年08月10日 | 西洋/中東/アジア/他(1990年以降)
『叫』(2006)

監督/脚本:黒沢清
音楽:配島邦明
出演者:役所広司、小西真奈美、葉月里緒奈

【作品概要】
『LOFT ロフト』などの黒沢清監督と『呪怨』シリーズの一瀬隆重プロデューサーが初めて手を組んだ本格派ミステリー。ある連続殺人をきっかけに、過去と現在が入り乱れる迷宮に足を踏み入れる刑事の苦悶をあぶり出す。(Yahoo!映画より)

【感想レビュー】
『叫』。未見だと思ってまた借りましたが観ていました
タイトルと内容が一致していないということをよくやってしまいます…。それで、メモ代りにもなるしと映画ブログを始めたのもあるのですが

そして再び観てみると、これがもう!!…怖いっ

タイトルと一致はしていなくても、ずっっと脳裏に赤いワンピースがこびり付いていて、あの映画のタイトルなんだっけなぁ…と思っていたのでした
そして。この頃、奥貫薫さんはいつも幸薄い役どころだなぁ…などと思って、赤いワンピース=奥貫薫さんをなぜかセットで記憶していたにも関わらず、映画自体が怖くて思い出さないようにしていたのだった…ということも思い出しました

10年前の作品ですし、画像は荒いんです。全体的にグレーっぽい映像に虚ろに映える赤いワンピース…!
『シンドラーのリスト』を彷彿させます。療養所の写真の目を見開いた写真とかも、『夜と霧』が思い出されて細部まで不吉な感じで…。


黒沢清監督作品の『回路』は、昨年、特集上映で観たのですが、異界の住人がスクリーンから飛び出てくるんじゃないか!?という迫力で、黒沢監督ってこういう感じもあるのね…!ぶるぶる…と思っていたのでした。
それが『叫』にもそういう怖さがあります。異界の人の“叫”び!もう、耳につくいや〜な周波数の“叫”びです…。


自分を忘れた者を許さないと言う霊も怖いが、自分のことは忘れてくださいと言いながら現世に留まる霊も怖い…。
これは、成仏とかの問題ではなくて、恋愛とかでも同じことが言えそう…
執着。これ、怖いですよね…。


そして、場所も怖い…!
東京湾岸の埋立て地が舞台で、本当に忘れさられていたっぽい建物とか…、ちょっとぬかるんでいて、だだっ広い場所とか…、その虚ろさがもう怖いんです‼

そして風は不気味にバタバタと吹くし…。
役所広司さん演じる主人公の行動もいちいち不可思議だし…。
いまいち登場人物達の誰にも共感できない感じだし…。
そういう宙ぶらりんな感じと、場所の虚ろさが見事にマッチしています…


なにもかもが奇妙にズレていくことで生じる不安定さが、底知れない怖さを生んでいると思います。
ちょっと笑えるところもありつつの…でも、やっぱり怖い‼…な作品




『帰ってきたヒトラー』(2015)

2016年08月05日 | 西洋/中東/アジア/他(1990年以降)
『帰ってきたヒトラー』(2015)

監督:ダーヴィト・ヴネント
製作総指揮:オリヴァー・ベルビン、マルティン・モスコヴィッツ
原作:ティムール・ヴェルメシュ
脚本:ダーヴィト・ヴネント、ミッツィ・マイヤー
音楽:エニス・ロトホフ

【作品概要】
ティムール・ヴェルメシュのベストセラー小説を実写化したコメディードラマ。独裁者アドルフ・ヒトラーが突如として現代に出現し、奇想天外かつ恐ろしい騒動を引き起こす。ナチス・ドイツを率いて世界を震撼させた独裁者アドルフ・ヒトラー(オリヴァー・マスッチ)が、現代によみがえる。非常識なものまね芸人かコスプレ男だと人々に勘違いされる中、クビになった局への復帰をもくろむテレビマンにスカウトされてテレビに出演する。何かに取りつかれたような気迫に満ちた演説を繰り出す彼を、視聴者はヒトラー芸人としてもてはやす。戦争を体験した一人の老女が本物のヒトラーだと気付くが……。(Yahoo!映画より)

【感想レビュー】@theater
ドイツでこの映画を作るって…もうそれだけで凄いことに思うのですが…

移民問題や難民問題、急激な排外主義が進んでいるというニュースを耳にしてはいましたが、一体どんな内容だろうと思い観に行きました

前半はコメディータッチでけっこう笑えました。
皆、ヒトラーの“モノマネ芸人か非常識なコスプレ男”と勘違いして、憐れんだり、可笑しがったり。時には怒りを買いながら、時には共感(‼)されながら…!ヒトラーは堂々と現世を生きる。

ドイツジョーク?との相性はさて置き、でもやはり珍妙で笑える前半のトーンは徐々に、徐々に影を潜めていく。

誰が、本質を見抜いているのか?自分はどう反応するだろうか?この問い掛けを常に感じながら観ることに…。

彼の言説に少しでも共感してしまう部分があるとしたら…。
そしてそれを声高に肯定されら…。
人はどうなるだろう。

あ、やっぱりそうですよね!?この考え、間違ってないですよね!?

…と、なる人がいても不思議ではない。

観ながら、『私が結婚した男』(1940)という映画を思い出した。
アメリカ人の妻とドイツ人の夫が、1938年、ニューヨークからベルリンへ夫の実家の事業処理の為に行く話し。
夫の父親の、“間違っている事は分かっていても、もう誰も戦争突入を止められないだろう、行き着く所まで行かなければ…”という台詞があって、それがまた1940年の映画だから、こんな恐ろしいことはない。


ヒトラーはタブーな存在だろう。行き過ぎたナショナリズムは排外主義に繋がるし、排外主義はやがて行き過ぎたナショナリズムをもたらす。

現在も同じ空気なのではないか…?

ヒトラーはいつだって、どこだって、存在する概念なのだという痛烈なメッセージを感じました。


でも何か、映画自体にしっくりこないところもある。…ドイツジョークとかかな…


しかし、こんな映画が製作され公開されるとは…!
ドイツ、大丈夫か…!?
いやいや、日本も大丈夫か…!??

…な映画でした…




『ラサへの歩き方~祈りの2400km』(2015)

2016年08月04日 | 西洋/中東/アジア/他(1990年以降)
『ラサへの歩き方~祈りの2400km』(2015)

監督:チャン・ヤン
2015/中国
原題:PATHS OF THE SOUL

【作品概要】
チベットの村からチベット仏教の聖地であるラサとカイラス山を目指し、五体投地という礼拝法を行いながら1年かけて旅をする様子を描いたロードムービー。合掌、両手・両膝・額を地面に付け、うつぶせになった後に立ち上がるという動作でひたすら進み続ける11人の姿を映す。メガホンを取るのは、『こころの湯』『胡同(フートン)のひまわり』などのチャン・ヤン。一般の村人が自身の役を演じる。チベットの人たちの信仰心や、シンプルな生き方が胸を打つ。

チベット東部のカム地方。父親を亡くしたニマは、父の弟ヤンペルの死ぬ前にチベット仏教の聖地へ行きたいという願いをかなえるため、ラサと聖山カイラスへ巡礼に行くことを決める。同行したいと願い出てきた村人らも合わせて11人が村を出発し、五体投地をしながらラサへ向かう。途中、妊婦のツェリンの出産や、ジグメが落石で脚をけがするなどの出来事もあったが、そのたびに助け合いながら聖地を目指す。(ヤフー!映画より)

【感想レビュー】@theater
時間と空間の隔たりを感じさせるスケールの大きい映画でした

生活に根付く信仰。巡礼に出ることは、村人達にとって、なかなか叶わない特別なことのようだ。
長期間に渡る家の留守は、一家の働き手が減るし、どんなに質素にしても旅にはお金がかかる。

ある一家の数人が行くことにしたと言うと、たちまち他の家からも参加希望者が出てくる。
羊の毛と皮で作ったおくるみ。五体投地用の前掛け作り。巡礼の準備に勤しむ姿。過酷な自然と共生しながらも淡々とした日々を送る彼らが、ほのかに高揚している感じが伝わってきて、なんだか私まで嬉しくなってしまった。いざ始まってみると、五体投地の過酷さといったらないのだけども…。

また、巡礼の一行を俯瞰で映したカットが素晴らしくて…
雄大な自然とアスファルトの山道。スクリーンの端から端まで、見切れるほど遠くから映された道。地平線を感じさせるスケールの大きさでした。


舗装された道路。大型トラックとのすれ違い。新型普通乗用車。出産時の近代的な病院風景。
それらは普遍的な巡礼の精神となんともちぐはぐな印象をもたらすが、そこには二つの視点があるように思う。

一つは、近代化していくチベットの街と村の格差。
もう一つは、原風景を保つ国や地域における近代化に対して、素朴なのが良いのに…といったような第三者、もっといえば先進国の住人のエゴイズムさ。
観ている側が、そのちぐはぐさに自覚的になればなるほど、映画の温かいトーンとは裏腹に抉られる面があると思う。。

そして巡礼は続く。様々な人との触れ合いは、時に温かく、時に突風のような衝撃をもたらす。…が、彼らは動じない。“ここまで五体投地した”の印に道路脇に石を積み、寝床のテントを皆で張る。
夜、皆で火を囲んで捧げる祈りは、ゴスペルのように重厚な響きをもって空気を震わせるようだった。
エンドロール、目を瞑って聴くとその響きに包まれ不思議な安心感に満ち溢れました。


温かい笑いもありつつ、ほのかな恋のトキメキもありつつ。

観たあとに、静かで、そして豊かな気持ちになれる映画でした
観て良かった





『シリア・モナムール』(2014)

2016年07月01日 | 西洋/中東/アジア/他(1990年以降)
『シリア・モナムール』(2014)

監督:オサーマ・モハンメド
ウィアーム・シマヴ・ベデルカーン

【作品概要】
フランスに亡命したオサーマ・モハンメド監督と、シリア内戦の激戦地ホムス在住のクルド人女性ウィアーム・シマヴ・ベデルカーンの共同作業による異色ドキュメンタリー。拷問や銃撃で殺りくされる故郷の人々のネット上の映像を集めていたオサーマとシマヴの出会いを通して、シリアの過酷な現状を映し取る。シリア難民がどのようにして生まれたのかを如実に物語る映像に言葉を失う。
2011年、アラブの春から始まった民主化運動はシリアにも広がり、長年続くアサド政権を打倒しようと市民たちは立ち上がる。だが、政府軍はデモに参加した無防備な一般市民たちを弾圧し、拷問と虐殺を繰り返す。シリア出身の映像作家オサーマ・モハンメドは、同年カンヌ国際映画祭への出席を機にフランスへの亡命を余儀なくされる。(シネマトゥディより)

【感想レビュー】@theater
観終えてからずっとモヤモヤとしています。上滑りしていく言葉を自覚しながら…ブログを書いてみます。

この作品は、ニュースで目にするような映像、例えばデモ、群衆の熱狂、政府軍の鎮圧する模様、廃墟と化した街、人々の嘆きなどで構成されているドキュメンタリー映画では、決してない。

もちろん、そういう映像も使われてはいます。

でも、なんというか…一篇の詩のような佇まいの映画なのです。音楽も含めて。

愛郷から遠く離れた場所にいざるおえない監督の間接的な視点によるものでしょうか。。

もちろん、残虐な映像をそのまま使用することはできないでしょう。倫理やモラルの問題、また上映できるようになどの配慮もあるでしょう。でも、人間が図式化されたようなコラージュには、正直、複雑な気持ちにさせられました。
一方、それほどに多くの命が奪われているという現実を逆説的に描いているようにも思います。輪郭のぼやけた人達は、シリアの誰でもありうるということなのかもしれません。
あるいは、映像が涙で滲んでしまうことを表現したのかもしれない、とも思いました。


さらにもう一方で、どう見ても絶命しているな…という人達の鮮明なカットも多く差し込まれています。死生観の違いもあるのだろうか…。
また、拷問や集団リンチの様子を加害者側が撮った映像も使用されています。さらに、クルド人の女性シマヴの撮った映像も加わります。

監督が収集した映像とシマヴの撮った映像とが交互に紡がれていった時、そこには、紛れもなく“人間”が映し出されていることに気付かされます。

どこまでいっても、“人間”が起こしているその惨状から逃れることができないシリアの現実が浮彫りにされていくのです。

遠い場所からシマヴに声をかける監督。気丈に応えるシマヴ。
現地の映像を自分で撮れないというもどかしさと周囲に言われるままカンヌに留まりシリアに帰らなかったのだという忸怩たる思いがモノローグで語られる。

かなり客観的な視点で描かれているなか、ラストに向けてシマヴの撮った子ども達のくだりが出てきますが、そこから主旨が少しずつぶれたのが気になりました。。唐突な感じもしましたし…。でも、監督は現地にいないわけなので、ラストの持って行き方や締め方を遠慮した部分もあるのかなぁ…などと考えてしまいました。


それにしても。
度重なる爆撃で、コンクリートの残骸がどんどん小さくなっていっていることにも驚きました。
製作されてからまた時間が経っているし、いったい今は。。

難民問題やテロの問題や、決して対岸の火事ではないので、色々と考えさせられます。そういう意味でも観て良かったです。





『オマールの壁』(2013)

2016年06月27日 | 西洋/中東/アジア/他(1990年以降)
『オマールの壁』(2013)

(2013年/パレスチナ/97分/アラビア語・ヘブライ語/カラー/原題:OMAR)
監督・脚本・製作:ハニ・アブ・アサド(『パラダイス・ナウ』) 
出演:アダム・バクリ、ワリード・ズエイター、リーム・リューバニ ほか
配給・宣伝:アップリンク 

【作品概要】
パレスチナの今を生き抜く若者たちの青春を鮮烈に描いた衝撃作。思慮深く真面目なパン職人のオマールは、監視塔からの銃弾を避けながら分離壁をよじのぼっては、壁の向こう側に住む恋人ナディアのもとに通っていた。長く占領状態が続くパレスチナでは、人権も自由もない。オマールはこんな毎日を変えようと仲間と共に立ち上がったが、イスラエル兵殺害容疑で捕えられてしまう。イスラエルの秘密警察より拷問を受け、一生囚われの身になるか仲間を裏切ってスパイになるかの選択を迫られるが…。(アップリンクHPより)

【感想レビュー】@theater
“資本、スタッフ、撮影地、全てが100%パレスチナ”だそうだ。ドキュメンタリーではなく、物語だからこそ、より若者達の内実を垣間見ることができるのかもしれない。宗教上、男女の恋愛もおおっぴらにはできなそうだし…。
恋仲の二人が恋文を交換するシーンの清らかなことといったら…

恋人にきっとあまい文を書く手。
恋人に優しく触れる手。
生活の糧であるパンを焼く手。
でも…。
恋人に会いに行くために危険を省みず高い壁を登り、ロープの摩擦で傷だらけの手。
銃を持つ手でもある、青年のその手。。

恋をすること。パンを焼くこと。生きていくために抵抗すること。それらの青年の日常が地続きで描かれていて、抵抗することは生き抜くことと同義語のようだった。
ラストの結末まで含め、この地での長年にわたる闘争の歴史は彼らの日常そのものなのだと改めて思いました。

迷路のような居住区での逃走シーンはこれが日常であるという身につまされる思いと同時に映画的な魅力あるシーンにもなっていました。

映画を観る前に、イスラエルの近代史を復習したのが良かったです
ヨルダン川西岸地区とガザ地区での占領形態の違いなど、ちゃんと分かっていなかったので、観ながらホッとしました