散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

鎌倉北条氏のこと 得宗ってなんだ。

2018年06月27日 | ドラマ
鎌倉北条氏はよく「北条九代」と言われます。北条執権は時政から守時まで「16人」います。じゃあどうして「9代」かというと、北条氏直系というか本流が9人とされているからです。

その9人は「得宗」と呼ばれます。時政、義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9人です。

そういえば大河ドラマ「太平記」などでは初回ぐらいに、フランキー堺さん演じる長崎円喜(御内人)が、「北条得宗の名代ぞー」とか叫んで、足利貞氏を脅かしていました。

「得宗」ってなんだ、は実は「よくわからない」みたいです。学者によって言うことが違うというか、定説はない、みたいです。

一致しているのは「義時関連の言葉だ」ということぐらいです。義時の法名とか言われますが、法名は観阿で、どうも得宗ではないようです。

義時関連の言葉なのに、時政も含まれるのはおかしな話ですが、まあ誰が考えても北条氏は時政の代から飛躍しますから、これは納得すべきなのでしょう。

得宗とは義時の「別称」「法名」「追号」とか言われますが、こうしたバラバラな言われ方自体、「得宗とはなんだ」に関する定説がない証拠と言えましょう。

鎌倉幕府は1180年ぐらいに始まり、1333年に滅亡します。150年ぐらいですね。150年で九代ということは、一代平均17年ぐらいということになります。

得宗は短命です。泰時までは60歳以上生きますが、時氏27歳、経時23歳、時頼37歳、時宗34歳、貞時40歳、高時31歳です。高時以外は病死です。

「北条氏と鎌倉幕府」(細川重男)は、時頼から得宗と言う言葉が始まったのではという説を立てています。追号説です。得宗のもとは「徳崇」で、時頼が徳崇という追号を送って義時を顕彰した時から、得宗という言葉が始まった。そのような説を立てています。

北条義時というと、まさに武士の政治を開いた人間であり、いい意味での「ワル」の代表みたいな感じがありますが、細川氏の解釈は違っていて、もともと庶子であり、江間という家を継いだだけの男である。運命に翻弄され、思ってもいなかった人生を歩み、いつの間にか「武家政治を開いた凄いやつ」にされてしまった男、と書いています。

大河ドラマでは「草燃える」に登場しました。青年時代は純粋な人物。ところが次第に権力の魔力に引き付けられ、最後は権力の権化のようになっていく。そういう義時を松平健さんが演じました。あの義時は衝撃的でした。クロスするように滝田栄さん演じる伊東某がワルから琵琶法師に変わっていく。二人の人生がクロスするさまが、中学生ぐらいだった僕の心に衝撃を与えました。

あれ以来わたしは北条義時といえば「悪くて凄いやつ」と思っていたのですが、学者さんの中には「そうじゃないんだ」という人もいて参考になります。

最後は官職を全て辞し、無官であったようです。そういえば「承久の乱」においても義時は「ぶるぶると震えていた」という指摘は、いくつもの本に書かれています。

そういう義時を励まし、「上皇恐れるに足らず」と言ってふるいたたせたのは大江広元のようです。「草燃える」でも、そういえば大江広元が「私は都の怖さも、都の愚かさも知っている。自分が鎌倉に下った時、すでにこの時(承久の乱)を予想していた。わたしはこのため(都と戦うため)、鎌倉に下ったようなものです」と義時を励ましていました。

本当の「悪くて凄いやつ」は大江広元なのかも知れません。どうでもいい話ですが、毛利氏は一応、系譜上は大江広元の子孫とされています。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿