散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

元号不便という意見が噴出・わりとズレていなかった私の感覚

2019年04月03日 | 令和
官房長官の「元号使用見解」に対し、ネット上でも「異論」が噴出しています。元号の使用についてです。

7割程度の人が「元号不便」と思っているようです。私の感覚は割と「ズレて」いなかったのかと「ほっとしている」次第です。なら令和についてまだ書いてもいいかなとも思いますが、ここでは「元号の使用」について書きます。

官房長官が、
「元号の使用は政府として強制するものではない。国民は元号、西暦を自由に使い分けてもらっていい」と述べた。各省庁や地方自治体など公的機関については「従来、元号を使用してきた。この慣行は当然続けられるべきだ」と強調した。 

という記事がありました。それに対する国民のコメントです。

元号は伝統的、文化的財産。存続させたいが実用上は不便です。政府が「国民は自由に使い分けて」と明言したのは前進ですね。
いっぽう、公的機関で元号を使うべき理由に「慣行」しか挙げられなかったのは準備不足でした。なぜ「当然続けられるべき」なのか、説得力ある説明を聞きたかったです…たぶん無いけど。 

これは3000の賛成。700の反対です。「慣行つまり伝統問題」にこだわったからやや反対が多い。

それはそれでいいが、公的機関でも、間違い防止、能率の維持・向上の観点から必要と判断されるものは西暦主体とすべき。無理して元号使用に固執する方がむしろ、元号への疑問を招いて、その永続性を損ねる事になる。昭和と平成がわりと長く続いた為、元号の「弱点」をあまり感じなかったが、この先は、同じではない。 

これは賛成2000で反対500。令和は短いのではという部分が反対を増やしていますが、それでも圧倒的に賛成が多い。

官庁が元号を使用するのは良いが、我々が公文書に記入するのに元号でなければならないとなると面倒だし間違いも起きやすいので、西暦で統一してほしい。
あと免許や車検の「平成◯年まで有効」とかも西暦を併記してほしい。 

これは賛成650で反対160。実用性を「押していて」「官庁が使用するのはいい」としているから、反対が増えなかったのだと思います。

☆概して実用面から「不便だ」と感じている人が多いのが分かります。「お祭り騒ぎ」をしているから、多くの人が元号使用に関しても、賛成なんだと思っていました。天皇祝賀と元号不便は「それとこれとは別」なんだと知りました。なら令和について「もう少し書いてみようかな」と思っています。

令和・万葉集・梁塵秘抄・漢詩

2019年04月02日 | 令和
もう令和のことはなるべく書きません。そういえば万葉集も久しく読んでいないなと思いました。「読む」でいいのだろうか。まあ「詠む」ではないですね。

で代表的な200ばかりの歌を見てみました。有名順というランキングがあって、上位二首はこの歌でした。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る  額田王
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも  天武天皇

これは贈歌と返歌です。「こっそり交わされた恋の歌」ではなく、宴で堂々と交わされた歌です。二人の年齢もそんなに若くはなかったはずです。

ちなみに天武の歌を万葉仮名で表記すると、

紫草能  尓保敝類妹乎  尓苦久有者  人嬬故尓  吾戀目八方 

これが私が前に書いた「全部漢字です」の意味です。全部漢字なんです。
音だけを利用しているわけではないことが分かります。
「紫」「妹」「有」「人嬬故」「吾」などは正確に使っています。
妹は貴女ぐらい意味です。「いも」、「いもうと」とは読みません。

「きれいな歌だな」とは思うのですが、なんかちょっと物足りないとも感じてしまいます。

これが平安末の「梁塵秘抄」となると、凄いことになります。後白河法皇 が好み、そして選んだ今様(流行歌)です。お上品じゃありません。

恋しとよ君恋しとよゆかしとよ
逢はばや見ばや見ばや見えばや

(訳) 恋しいと 君が恋しい 慕わしいと ただそれだけ
    逢いたい 見たい 見たら 逢えたら 

後半部分の過剰な「攻撃」はなるほど「下品」かも知れません。しかし「恋とはこんなものかな」と思わせる説得力を持っています。

もっと凄いのもあります。

われを頼めて来ぬ男
角三つ生いたる鬼になれ さて人に疎まれよ
霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ
池の浮草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け

(訳) 口説いたきりで来なくなった男
    角三本の鬼になれ さあ人に嫌われろ
    霜 雪 霰降る水田の鳥になれ さあ足も冷たかろ
    池の浮き草になればいい 揺り揺られしてふらふら歩け 

12世紀、平清盛、源頼朝と渡り合った後白河法皇 はこういう歌が好きだったわけです。平安末だから凄いわけではなく、後白河法皇 の好みです。まあ詠んだ民衆(または貴族)が凄いのですが。彼のおかげで、残るわけない歌が残っているのです。梁塵秘抄。りょうじんひしょう、と読みます。

それに対して、漢詩で非常に有名なのはこれです。

元二を送る<王維>                        
渭城の朝雨 軽塵を浥す
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ 一杯の酒
西のかた陽関を出ずれば 故人無からん

げんにをおくる<おうい>

いじょうのちょうう けいじんをうるおす
かくしゃせいせい りゅうしょくあらたなり
きみにすすむさらにつくせ いっぱいのさけ
にしのかたようかんをいずれば こじんなからん

この「書き下し」は「日本語」です。中国では当然中国音で読みます。そして「日本語の美しさ」と「格調」という面から見た場合、この「書き下し」は実に美しい。日本語として美しいという意味です。

わたしは中国びいきじゃないし、行ったこともありません。中国音でどう読むのかも興味ありません。

ただ「日本語としての漢詩の音の美しさ」は素晴らしいと思います。
西のかた陽関を出ずれば 故人無からん、、、美しい。

万葉集のうつくしさ。梁塵秘抄の情熱。漢詩の日本語としての格調の高さ。それぞれ長所があり、あとは個人の感性の問題かなと思います。