散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

ドラマに見るハングル文字の発明・根の深い木

2019年04月27日 | 韓国・朝鮮
以下はドラマ「根の深い木」の話ですから「学問的叙述」じゃありません。自慢じゃないですが、私に学問的叙述はできません。

ハングル文字は15世紀半ば、朝鮮王朝の4代目、世宗が「発明」しました。その後、オンナ文字とか卑しい字とかいわれた「不遇時代」がありました。でも不遇時代も使用されてきました。

当然です。庶民には漢字を学ぶ機会がほぼなかったからです。王室の女性であっても、漢字は読めない方が多かったようです。少なくともドラマでは、例えば7代王の世祖の正妻などは漢字は読めません。

だから庶民はハングルを使いました。ハングルはひらがなと同じ表音文字です。

一方、漢字が読めることが階級を表していました。科挙があり、科挙は漢文でした。漢文を自由に操れることが両班(上流階級)のあかしでした。

ハングルを発明した世宗の意図には2つの解釈があります。人民の意見を聞こうとした。逆に人民に「通達」がきちんと伝わるようにしたかった。ドラマは美化されますから、当然、前者です。もっとも「きちんと通達が伝わる」のも「民の為」ではあります。悪徳役人が多かったからです。(むろん朝鮮独自の文字を作りたいが主たる動機でしょうが)

根の深い木、にはハングル公布を「阻止しようとする勢力」が登場します。

で世宗対その勢力の戦いが始まるのです。世宗は聖君とされているので、戦うイメージがなくてドラマにしにくいのですが、根の深い木は「戦う世宗」を描いています。

「反対派」にも「いいぶん」があります。「民の声をきくことが、必ずしも正しい政治を導かない」というものです。「衆愚政治の危険」を指摘するのです。一理あり、なわけです。

一方的に世宗を聖君にして、反対派を「ワル」としてはいません。まあ人殺しとか何でもするので「ワル的」ではありますが。

☆韓国の時代劇は、結構現実を反映していて「民主主義とは何か。一部の特権階級が政治を行うことの是非」などを問いかけてきます。

終わり。

補足1
今の韓国は「公教育で漢字を教えない」ようです。「よう」と書いたのは「もめている」からです。漢字教育復活を朴大統領は目指しましたが、達成したとは聞きません。
ハングルしか読めない世代がいる。これはこれで困ります。僕は困りませんが、大変な文化破壊をしたもんだな、とは思います。

補足2
朝鮮王朝は、14世紀末期に「李成桂」イソンゲが立国しました。王朝を「確立」させたのは3代イバンオンです。重臣(豪族)を粛清し、王権を強化しました。
4代目が彼の三男の「世宗」です。本名は「イ・ド」です。聖君とされていますが、そりゃ中世の王ですから、美しいことばかりやっていたわけでありません。男子が沢山いたのですが、長男相続にこだわり、病弱な長男を王とします。で、兄弟間の家督争いが起きます。家督相続では失敗をした王です。

韓国旅行の思い出・韓国時代劇

2019年04月24日 | 韓国・朝鮮
韓国旅行に行ったのは、2000年ぐらいだったでしょうか。「下見旅行」なので「自腹なしの旅行」でした。自腹なしで、うまいもん食べてきました。ただし「接待」とかはありません。旅行会社の人に「接待するな」と言ったら「イマドキしませんよ」と笑われました。

女性の通訳さんが付きました。彼女、「男性たち」と「食事を一緒にしない」のです。「こっち来て一緒に食べましょう」と言ったら困った顔をしていた。「男尊女卑の残滓」なのか「単なるマナー、文化様式」なのか。今はどうなんでしょう。

あれは閔妃(ミンピ)関連の施設だったのでしょうか。閔妃は19世紀末に、自国民および日本人に殺された朝鮮王朝の妃です。

ある老人から「ここは日本人の来るところではない」と怒られました。老人ですから日本語が分かったのでしょう。女性の通訳さんが飛んできて「老人と大喧嘩」です。

私は「通訳さん、いいのです。なぜ来てはいけないか。訳してください。」と言いましたが、「相手にしてはいけない」と言われ、結局訳してはくれませんでした。

なんだ残念。と私は言いました。「反日感情のナマの声を聞きたい」という私の思いは通じなかったようです。もっとも「暴力」をふるわれたら、私は逃げます。でもそんなことはありませんでした。

それ一回です。反日に触れたのは。あとはもう「歓迎、歓迎、熱烈歓迎」でした。

夜に一人でコンビニに行きました。運悪く店員に韓国語で何かいわれました。「ストローつけますか」かと思ったのですが「〇〇ウォンです」という会計の話だったようです。

「アイアム イルボン アイキャント スピーク ハングル」、、滅茶苦茶な英語です。私は日本、ハングル話せない。ハングルは文字です。でも韓国語という英語が浮かびませんでした。「コリアン」または「コリアンランゲージ」ですかね。

店員さんは大きな声で、英語で金額を言いました。言わなくてもレジみれば分かるのに。

全体としてみると実にいい旅でした。

韓国時代劇「イニョプの道」以来見ていません。好きなのは「根が深い木」それから「六龍が飛ぶ」でしょうか。「イニョプの道」もいい作品です。ただ最近のはどうもロマンス色が強すぎます。あっ「トンイ」もいいですね。ほぼフィクションです。史実をもとにしたフィクション。まあ日本の「大河ドラマ」と同じです。

昔の韓国時代劇は「朝鮮王朝実録」に基づいているので「かなり史実を反映」してました。だが面白くはない。史実は悲惨なことが多いのです。

「朝鮮王朝」は実に長い歴史を持った国です。いまだに「朝鮮」は差別用語なんでしょうか。でも韓国ドラマでは「朝鮮」と言ってます。「偉大なる朝鮮」なんて言葉も出てきます。本来国号が差別用語であるはずもない。しかし日本人が差別的に使ったので昔は差別用語でした。悲しい歴史です。

武将たちの死に様(ドラマのお話)・舞いを舞わない本能寺

2019年04月24日 | 織田信長
死の美化」、例えば現代戦争ものなどでそれをやられると、私の体は生理的にそれを拒否します。ですから以下は「時代劇での死に様」の話です。

☆「真田丸」の北条氏政

高嶋家の弟さんです。家康が「ここまででござるか」と問います。家康としては秀吉に詫びをいれて生きて欲しいのです。
氏政は答えます「ここまででござる」、凄くカッコ良かった。今まで北条氏政の描かれ方はそりゃひどいものでしたが、三谷さんは見事に「救済」しました。

☆「真田丸」の真田信繁(幸村)

何も言いません。人々の様子が回想的に流れます。「翔ぶが如く」の西郷の死のシーンに似ています。

☆「真田太平記」の真田信繁(幸村)

演者は草刈さんです。「左衛門佐、かくあいなりました。父上、これでよろしゅうござるな」と言います。
とても素晴らしいシーンです。

☆「しゅんけい尼、これでよろしいか」

これだけで「太平記」における北条高時だと分かったら、相当なマニアでしょう。北条高時の切腹です。たしかフランキー堺さん演じる長崎円喜に向かって「円喜、これでよいか」とも問います。円喜は大きくうなづきます。それから「一族全員自刃」です。「鎌倉北条氏の最期」はすさまじい。北条への復讐を生きがいにしてきた一色右馬介も、悲しい顔してたたずむのみです。足利側には「喜ぶ」者はおらず、ずっと「共に鎌倉を支えてきた北条の最期」を悼みます。脚本の池端さんは、来年の大河「麒麟がくる」の脚本担当です。

☆「われは執権である。なんで足利づれに救いを求めようか。北条家の戦いぶり、とくとご覧なされ」

これは「太平記」における北条守時です。守時は足利に同情的であり、彼の妹は足利尊氏の正室です。「足利づれ」とか言ってますが、本当は足利尊氏を同志だと思っていました。妹を逃がして「北条の滅亡」に手を貸した部分もあります。それだけに「最後の執権」として北条氏の雄姿を見せたいという決意をしていました。最後の執権ですが、彼に権力そのものはありません。権力はあくまで「北条得宗家、北条高時とその家宰である長崎円喜」にありました。

☆本能寺の織田信長

「是非に及ばす」、これは信長公記にあります。おそらく史実でしょう。本能寺の生き残りもいますから。史実にしては見事なセリフになっています。短いので解釈の余地が沢山あります。
よく考えてみると、本能寺では「人間五十年」を舞ったりしません。舞った作品もあるでしょうが、記憶にはありません。信長公記にも「舞った」とは書いてなかったはずです。「人間五十年」を舞うのは「桶狭間」の前です。空想大河ドラマ「小田信夫」では舞います。ホリケンが演じました。



上野千鶴子氏・村上春樹氏のスピーチを読んで。

2019年04月22日 | 哲学
上野千鶴子氏の東大入学式での祝辞が話題になっています。遅ればせながら、全文を読んでみました。上野氏の研究は大学時代から読んではいました。私はもともと「反差別」的な人間で、あの頃は「当然のことを言っている」程度にしか思いませんでした。つまり性差別が歴然としてあること。それに抵抗する必要があること。私は男性ですが、日頃からそうした問題を考えていたので、上野氏の主張が、特に目新しい考えとは思わなかったのです。

その後時代は変遷し、私はすっかり安心していました。もはや男より女の方が強い時代だ、ぐらいに考えていたのです。しかし上野氏のスピーチを読み、新たな形の性差別が発生していることが分かりました。わたしの「安心」には油断がありました。

これは韓国との関係も同じで、金大中大統領ぐらいの時代に、私はすっかり安心していました。もう韓国朝鮮差別はなくなり、これから友好的な未来が待っていると思っていたのです。これは全くの間違いでした。

上野氏は言っています。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

「自分の弱さを認め」からの部分が特に心に残ります。その前だけなら、「あなたたちは優れた強者なのだから、弱者をいたわれ」となってしまいますが、自分も弱者であることを認めよという考えには大変な共感を覚えます。

そして村上春樹氏のイスラエルでのスピーチを思い出しました。

もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。

多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっています。その高い壁の名は、システムです。本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、我々に他人の命を奪わせるのです-冷たく、効率的に、システマティックに。

上野氏の考えとの共通部分が多いと思います。

そしてこれはあえて誰からの引用かを書きませんが、こんな言葉も思い出しました。

<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。

この最後の引用は前の2つの引用とは、主題を異にします。さらにやや過剰に哲学的であり、わかりにくい表現でもあります。しかし私の中では、この3つの引用は、互いに深く関連しているように思えてならないのです。

若い頃、あれほど読んでいた社会学の本も、村上春樹氏の本も、今の私にとっては遠い存在になっています。それを近くして、昔のように読み進めることはたぶんできませんが、それでも「できる限りは」、狭くなった自分の視野を広げなくてはいけない。そんな気がしています。

SICK'S 恕乃抄 〜内閣情報調査室特務事項専従係事件簿〜・感想・SPECサーガ

2019年04月22日 | SPEC
SPECサーガ、SICK'S 恕乃抄 〜内閣情報調査室特務事項専従係事件簿〜を見ました。日本のドラマを見るのは久々です。海外ドラマも最近はあまり見ていない。大河ドラマの録画ばっかり見てます。

さて「サーガ」とは何なのか。どうやら「長い物語」とか「伝説的物語」という意味のようです。

主要人物は4人。

木村文乃、御厨(みくりや) 眼帯をしている。眼帯とると別人格になる。別人格は空気爆弾を発するSPECを持っている。
松田翔太、高座(たかくら) 元公安
竜雷太、野々村光次郎   SPEC、ケイゾクの「野々村光太郎とウリ二つな弟」一卵性双生児?
黒島結菜 一 一十(にのまえ いと) SPECの、にのまえのクローンか?

結論から書くと「つまらなくはない」作品です。さらにケイゾクの柴田純も出てます。顔映らないし、中谷さんじゃありません。警視総監みたいです。

名前は変わってますが、SPECの当麻と御厨のキャラ設定は「限りなく同じ」です。高座と瀬文もほぼ同じ。野々村、当然同じ。にのまえいと、SPECのにのまえと違って残酷ではない+時間を戻せる+女性。

つまり「ほぼSPEC」なわけです。だから「ケイゾク」「SPEC」好きの私にとっては、「つまらなくはない」。

改めて思うのは戸田エリカさんは「演技がうまい、華がある」ということ。

木村文乃さんの演技は初めて見ました。日本の現代ドラマ、恐ろしいほど見ないのです。なんなのだろう、頑張って演技してるのです。ただ「童顔過ぎる」気がします。
調べたら既婚で31歳です。でも少年のように見えます。普段は眼帯を髪で隠している。丸い顔。だから「鬼太郎そのもの」です。このキャラのまんまで「実写版鬼太郎」を演じられると思います。

その割に妖気がないのです。堤さんの作品、ケイゾク、SPEC、トリック。中谷美紀、戸田恵梨香、仲間由紀恵。「幽霊感」というか「妖気を感じ」ますが、木村文乃さんにはそれがありません。
キャラとしては最も妖怪に近いキャラで、別人格は「ズバリ妖怪」なのです。
でもそのキャラと、あの丸々とした健康的な顔が合ってません。どうしても「健康美」が見えてしまうのです。中谷さん、戸田さんの「病気感」がない。

健康美キャラを演じさせたら、きっといい女優さんなんだろうなと思います。

とはいうものの、つまらなくはありません。もともとは配信専用作品です。でもどうせなら地上波で作って欲しかった。

つまらなくはない、、、ので、続編も見るつもりですが、配信契約してまで見ようとは思わない。DVDになるか、地上波で流すまで待ちます。文句多かったですが、悪くない作品です。
堤さん。こうやってSPECをリメイクするなら、「トリック」もリメイクして欲しいと思います。

下天のうちを比ぶれば・「うちを」って何だろう。

2019年04月21日 | 滝川一益
人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか

まあ解釈は日本史ブログファンなら誰でも知っているでしょう。下天の説明も割愛します。どうせみんな知っている。

人間世界の50年は下天世界の1日に相当する(ほど短い時間で)、夢幻のようなものだ。ひとたび人間世界に生まれて、滅びない(または死なない)ものがあろうか、いやない。

「ない」からどうなのか。仏教的無常観に即して解釈すれば、つまり無常だという意味。織田信長のイメージで解釈すれば逆になり、滅びを恐れることなく、自らの道を突き進むという意味になります。

ずっと気になっていたのは「のうちを」の部分です。

一般には「下天世界」の「うちの1日」「と比べるなら」となります。でも「うちの1日」という解釈がどうして成立するのか。どうして「1日」を間に挿入できるのか。

調べたけど、どうにも分かりません。

また「を」に「と」という意味はあるのか。あまり記憶にない。「うちに」なら分かるのです。「に」なら「と」いう解釈は簡単です。

「うちを」の部分にこだわった解釈はあるかなと思ってネットで調べたのですが、分かりませんでした。

もっとも「人間世界の50年」と「下天世界の1日」「を」、、比べるならと訳せば、「を」を「と」と解釈する必要はなくなります。

としても「1日」を補うことがどうして可能か、は分かりません。

分からないという報告みたいなもんです。誰も疑問に思わないのでしょうか。

2020年大河「麒麟がくる」のあらすじ・ひたすら天下静謐の為

2019年04月21日 | 麒麟がくる
「麒麟がくる」のあらすじは、NHKの最近の歴史番組をみれば「バレバレ」で、簡単に予想できます。金子拓氏の信長を描くのです。明智光秀も信長もひたすら天下静謐のために働きます。経済にも注目し、富国の為にも民の為にも「座」などの既得権益を排除します。でも信長は四国問題で天下静謐の大義を捨てようとします。そこで本能寺の変が起きます。「絶対そうなり」ます。

ちなみに私自身はこの「天下静謐」論は成り立たないし、それを唱える金子氏は「真面目な顔して怪しげな説を流布する輩」だと思っています。でもNHKはそれに乗っかります。「古い人間としての信長を描く」ことが「新しい信長像だという評価を受ける」と計算しているからです。


1、織田信長は中世の破壊者でも魔王でもない。天下静謐の保護者として描かれる。

「麒麟がくるの信長」は室町的伝統を重んじます。将軍義昭に対しても敬意を持ちます。そしてやたらと「天下静謐」、てんかせいひつ、にこだわります。

天下とは「畿内」です。天皇と将軍のもと、畿内が安定し、各地の大名がそれなりの静謐を保てばいい、と信長は考えます。自分はその保護者になろうとします。

しかし抵抗勢力が天下静謐を乱し、信長は「仕方なく」、毛利、上杉、武田、本願寺と戦い、「仕方なく」、比叡山にいた女子供、伊賀や長島の民衆を「みな殺し」にします。


2、明智光秀とは「天下静謐のため」、盟友となる。

信長と光秀が「盟友」となるようです。

NHKが発表済みです。光秀も将軍義昭を奉じての「天下静謐」を願っています。その点で彼らは「同志」となります。


3、前半では明智光秀が「天下静謐」を願うようになる過程が描かれる。

彼は美濃において斎藤道三に師事します。そこで「乱世の現実」を知ります。また軍事指揮や民政の考え方を道三から学びます。京にも行き、室町的教養も身につけます。

「道三の父」は油売りで、その父から道三は「倒すべき敵の存在」を教えられています。それは天下静謐を願わず、既得権益で私腹を肥やす存在、その代表格が商売における「座」です。

明智光秀は楽市楽座の考えを身につけます。そしてそれを盟友の信長にも伝えます。道三の死後、光秀は信長を助け、天下静謐に向かって邁進します。


4、天下静謐のため「将軍義昭を追放」「浅井朝倉を討伐」「毛利を攻め」「上杉を攻め」「武田を攻め」「本願寺を攻め」、そして天下静謐のため「比叡山を焼き」「伊賀で皆殺し」「一向一揆も皆殺し」

なんでもかんでも「天下静謐のため」なのです。伊賀の人々や一向一揆衆を「みな殺し」にしますが、すべては「天下静謐のため」です。
将軍義昭はいつの間にか「天下静謐の大義を忘れ」、権力者として振舞おうとしたので「追放」です。


5、四国の長曾我部だけは何故か「天下静謐の敵ではない」。信長はその長曾我部を攻撃しようとしたので本能寺の変を起こして、光秀は天下静謐の大義を守った。

毛利、上杉、武田、本願寺は「天下静謐の敵」なのですが。四国の長曾我部だけは「なぜか天下静謐の敵ではない」のです。その長曾我部までも討とうとしたので、光秀は泣く泣く盟友である信長を倒します。
実は天下静謐の思いは「羽柴秀吉」「徳川家康」も同じでした。光秀は自分が倒れても、秀吉や家康が「天下静謐を実現してくれる」なら、自分は死んでも悔いはないと考えます。本能寺変の原因は「四国政策」とされます。


ほぼ、間違いなくこうなります。「なんか変だな」「天下静謐ってなんだよ」「天下静謐のため女子供も皆殺しか?」と視聴者は思いますが、そこは「脚本家がうまく話を持っていく」「うまく物語にする」ので、一部からは「新しい信長像、光秀像」として評価を受けます。脚本の池端俊策は大河「太平記」で「逆賊の代表と戦前は言われていた足利尊氏を、尊王の心を持ちつつ、世の平和のために働いた武将として描き」ました。今回は「魔王信長を、天下静謐の保護者、逆臣光秀を天下静謐のため働いた立派な武将」として描きます。

私は光秀が好きで「野望を持って天下を狙ったさっそうたる男子」として描いてほしいのですが、世界は私のために動いているわけではないので、仕方ありません。脚本はオリジナルとされていますが、底本はもちろん司馬さんの「国盗り物語」です。ただし司馬さんの解釈をかなり改変するので、オリジナルに近い作品となるのでしょう。「あの斎藤道三までもが天下静謐という、言葉遊びに振り回される人物として描かれるのか」、そこだけは予想不可能です。

滝川一益と北条氏政・一益の描かれ方

2019年04月21日 | 滝川一益
映画「清州会議」はコント性の高い作品で、滝川一益は映画全編を通して「ひたすら清須会議に向かって走って」います。で到着したら黒田如水から「終わったよ」とか言われ、倒れ込みます。

同じ三谷作品でも「真田丸」では「それなりの武将として描かれて」いました。段田さんです。

以下は別に「真田丸」の話ではありません。

織田信長の家督相続後の生涯は30年です。前半15年かけて尾張統一・美濃攻略、後半15年で伊勢攻略から上洛、全国支配へ向けた活動を行います。

滝川一益は後半15年の最初、伊勢攻略の時点で既に大将です。

天正10年、本能寺の変の年、武田氏を攻略します。大将は織田信忠ですが、武田滅亡後は畿内に帰ります。で滝川一益が「関東管領のような立場」で残されます。

あと数年あったら、関東を鎮め、北条氏の攻略か東北の攻略に向かっていたでしょう。それほど重要なポストでした。ちなみに上杉は柴田が攻め陥落寸前でした。上杉が滅んで越後が鎮まったら、柴田と滝川が信忠をかついて東北攻略を行っていた可能性も高い。でもそんな時間はなく、本能寺の変が起きます。

本能寺の変の後、北条氏は織田家への臣従の姿勢を変え、滝川一益を追撃、関東から駆逐します。滝川はやがて秀吉政権下で「関東取次」の仕事を数年します。本能寺段階の北条氏の動きが、織田家武将に「表裏ある者」との印象を与えたのでしょう。徳川は懐柔し、北条は滅ぼす。これは天正14年、本能寺の4年後に62歳で死んだ滝川一益の「遺志」だったかも知れません。

既に書いてしまいましたが、滝川一益は殺されてもいないし、徳川の旗本として家も残ります。

話を戻すと、本能寺後、唯一織田家司令官を「追撃」したのが北条氏。北条氏政です。中国の毛利は秀吉を追わなかった。上杉も柴田を追わなかった。

北条氏政の行動をどう考えるべきなのか。まあ単純に考えるなら毛利や上杉は「追う力がなかった」とも言えます。上杉は疲弊していた。毛利も物資が不足していたと言われています。坂東はやはり「一所懸命」の思いが強かったとも考えられます。

北条は元気であった。それが滝川一益の不幸でしたが(結局は北条にとっても不幸)、それでも彼は生き残りました。旗本ながら家も残りました。織田家の4司令官、羽柴、滝川、柴田、明智。江戸期も本家が残ったのは滝川一益だけです。もっとも柴田も家名だけは受け継がれたようですが。

滝川一益の描き方。たぶん「麒麟がくる」でも「ひとかどの武将」として描かれると予想しています。だって「ひとかどの武将」だったからです。

まだメタボではあるが、血糖値問題はこうして解決した。

2019年04月20日 | 病克服
気が付いたら「メタボ」です。で一年半前「血糖値に気をつけろ」と医者から言われました。

じゃあ糖質制限ダイエットだなと思い、「大豆を主食」にしたら、1か月で医者に怒られました。血糖値は下がるけど、尿酸値が異常に上がるのです。大豆の過剰摂取は禁止です。

大豆は体にいいが、といって主食にしてはならない、、、それすら知りませんでした。

でもその後、豆腐や野菜を食べながら、時々鶏肉も食べ、糖質制限ダイエットを続けました。で二か月でHbA1c(ヘモグロビンA1c)は正常化。中性脂肪も一気に減りました。

しかし食品選びが「面倒くさい」のです。パスタ(糖質)は食べてましたが、全粒粉だから値段が高い。なお研究によると普通のパスタでも全粒粉パスタと血糖上昇値は変わらないそうです。パスタ+オリーブオイルだと急激には上がりません。

HbA1c(ヘモグロビンA1c)も結構下がったので、1年前には糖質制限ダイエットはやめました。4か月ぐらいやっていた。ちなみに有酸素運動はほとんどしてません。

面倒だったけど、いいこともありました。食品の成分が分かるようになったのです。「せんべいの食べ過ぎ」がいけないことも「本当の意味」で理解しました。

4か月糖質制限しただけでも「美食への誘惑」はかなり断ち切れます。今年の1月には前年度より体重も12キロ減ってました。1年半で12キロ減。でもまだメタボです。

無理なダイエットはやめても、以後は自然に「質素な食事」に慣れてきました。特に意識はしないのですが、ゴージャスな料理は「体に悪い」と自然に思うようになりました。「海鮮ちらし寿司」さえちょっと「ためらい」を覚えます。

間食も一切やめていたのですが、この冬は結構せんべいとかも食べていた。でも全体として質素な食事なので、検査値は上がりません。それでも多少は上がったので、やっぱ間食はいけないとは思っています。多少なら大丈夫でしょう。

極端なダイエットは苦しいし、苦しいから続きません。HbA1c(ヘモグロビンA1c)だけでなく食後血糖も大事とは思いますが、そこまで気にして生きていても、、、「血液検査対策の人生」になってしまう。それに食後血糖は「家庭で測る」ことは普通はできません。HbA1c(ヘモグロビンA1c)で十分だと、医者も言ってましたし、私もそう割り切っています。

簡単なのは「食品成分を知ること」です。頭の中で「これは糖質、カロリーはこれぐらい」「これはタンパク質、カロリーこれぐらい」と計算できるようになると、自然に「どか食い」もなくなってきました。

病気は遺伝とかもあり、体質の問題もあり、対策は人それぞれですが、質素食なら太らないは確かでしょう。血液検査の日程を決めておくと、それがプレッシャーになって、結構食欲をコントロールできるので、それも「おすすめ」です。

令和批判をしたくなる心理・皇族は無謬の存在ではない

2019年04月20日 | 令和
令和、が発表された時、「令和批判」をしたらアクセスが1日で2000PVを超えました。あの時の自分の心理をちょっと分析してみます。

1、まず安倍氏による政治のモラルの溶解が嫌だったのだと思います。溶けて崩れていく日本、西部邁さんがそんな文章を書いていましたが、まさに政治モラルが溶けて崩れています。指導者は一般人より「高いモラル」が求められる。少なくとも「建前であっても」、モラルハザードと言われないような政治姿勢が必要です。今回の問題でも「元号や天皇の政治利用」を明確に行っています。憲法違反です。私はそう思います。

2、令和になったから新時代って、何だそれ?という意識が強い。論理的におかしいからです。何ひとつ変わらないのに。天皇が変わるだけなのに。まあこれは「ひねくれ」ですね。

まあそんな心理だったのだと思います。

さらに言えば、現皇太子がかわいそうという意識もありました。やがて令和天皇となるのです。字にセンスが感じられない。60ぐらいになって「これから本当の出番」というのもかわいそう。

天皇の定年だって65か70でいいはずです。

そうでなくても彼(皇太子)は、ネットのコメント欄なんかではひどく批判されます。やたらと彼の発言とかを知っている人間がいて、クレーマーのように批判します。

まあ雅子さんは、あのまま外務省にいたら、適応障害にはならなかったでしょう。でももう言っても「せんなき」ことです。皇太子だって適応障害にしたくて求婚したわけでもありますまい。

どうも皇室に「無謬性」という幻想を付加したい人が多いようです。無謬性とは間違いがない、傷がないことです。次の皇后が精神面で問題を抱えていてはいけないとか思っているのでしょう。「適応障害」なんて普通の病気です。逃げられない環境でそれと戦っているの彼女にエールを送るべきでしょう。

この無謬性の幻想は、小室氏の問題でも猛威を振るっています。秋篠宮家はネットでは評判がよかったのですが、この問題以降急降下。キコさんなんか「女帝」とかひどい言われようです。マコさんなぞ結婚すれば皇族でなくなるのに。

カコさんが20歳の時に「会見」をしました。今は直りましたが、「舌足らずの現代風のしゃべり」でした。「かわいいし、ほほえましい」と思いました。

するとTVのコメンターが言います。「口調がはっきりして20歳とは思えない」。ずっこけそうになりました。あの頃は「舌足らず」だったのです。

中学の時、社会の先生が「もっとも正しい日本語を使うのは昭和天皇陛下だ」と言いました。でTVをみたら「あっそう」の連発です。終戦まで専制君主でしたから、専制君主の特徴といわれる「やや抑揚に欠けた言葉遣い」も彼の特徴でした。

「どこが日本一正しいだ、いい加減な先生だな」と思いました。

「皇室への無謬性の幻想」を抱くと、きっとあの口調すら「正しい」と思えたのでしょう。「皇室への無謬性の幻想」は皇族にとっても迷惑だと思います。間違いのない人間なんていないのです。

気分次第で責めないで・今までにない音楽・フランシーヌの場合

2019年04月19日 | 音楽
音楽の衝撃というものを2回経験しています。まずは井上陽水と吉田拓郎の登場。

陽水、氷の世界「窓の外ではリンゴ売り、声を枯らしてリンゴ売り、きっと誰かがふざけて、リンゴ売りの真似をしているだけなんだろ、、とても醜いあの子をぐっと魅力的な子にしてすぐ消えた」

そもそも「リンゴ売り」ってなんだ?豆腐売り、金魚売り、さお竹売りなら知っています。リンゴ売りって?そして「とても醜いあの子」という歌詞。

小学生だったと思います。もう何もかもが衝撃でした。

それから拓郎「生きていくのは、ああ、みっともないさ。あいつが死んだ時も、オイラは飲んだくれてた。そうさオイラも罪一人さ、ああ、またあの悲しみを、おきざりにしたまま」(おきざりにした悲しみは)

作詞は拓郎ちゃんではなく、岡本おさみです。襟裳岬も岡本さん。ルームライトも岡本さん。

小学校からの帰り道「みんなで歌って帰った」記憶があります。上記の歌詞を小学生が口ずさんでいたのです。

初期ユーミンも衝撃でしたが、なんというか「美しい」のですね。それに比べると、陽水や拓郎には「凄み」がありました。メロディーも聴いたことない音律でした。

次が1978年、サザンオールスターズ。勝手にシンドバッド。最初はコミックバンド扱いでした。歌を聞いたらもの凄い。衝撃でした。

いま何時?そうねだいたいね、、、の部分。当初は歌詞見てないので、聞き取れないのです。それでいていままでに聴いたこともない音楽。

そして2ndシングル「気分次第で責めないで」、、、途中でなんかセリフが入るのです。今でも分かりません。

「強い子、アミーゴ、○×△□、茅ヶ崎辺りに飛んでった」、、、茅ケ崎辺りに飛んでった、だけは聞き取れました。「いとしのエリー」で「なんか普通」になったのですが、次の「思い過ごしも恋のうち」「C調言葉にご用心」でまた元のサザンに復帰です。熱中しました。

では「その前の時代」に衝撃性のある歌はなかったのかというと、変な歌だなーと思うのはいくつもあります。当時は今のようにパッケージ化された歌、タイアップソングではないから、「はみ出し者」「すね者」が作った歌があったのです。

たとえば「なかしに礼」、、、正統派ですが「石狩挽歌」、、オンボロロ、オンボロボロドという歌詞。これは1975年のようです。「恋の奴隷」「恋のフーガ」、、、。
「知りたくないの」などは正当派そのものですが「あなたの過去」などの「過去」が耳に残るのです。実はこれを巡っては歌手の菅原洋一と「ケンカ」したようです。「カコ」という音は非常に歌いにくく、そんな歌詞などありえないと菅原は言う。でもなかにし礼は譲らない。結局この「過去」でこの歌は大成功します。

それから「老人と子供のポルカ」「フランシーヌの場合」「帰ってきたヨッパライ」「ケメ子の歌」「夜明けのスキャット」「ナオミの夢」「非情のライセンス」「クレージーキャッツの一連の歌」「シンガーソングライター、加山雄三の歌」、、、考えてみると、凄い歌が沢山ありました。

僕がもっと早く生まれていたら「クレージーの歌」や「加山雄三の歌」にも衝撃を受けたと思いますが、なにせ衝撃を感じるには子供過ぎました。ただ「引きつけられた」ことは確かです。

80年代になり、歌は「企業化」され、タイアップ性が強まっていきます。それでも今でも時々「はっとするような歌」があるような気がします。といっても2000年以降の歌はほぼ何も知らないので、具体的には書けません。ぱっと思いつくのは「今夜はブギー・バック」小沢健二、、なんと1994年。25年前です。あと三木道三とか。

最近のランキングをみるとAKB系列ばかり。これは年寄りの小言に過ぎませんが、AKB系が「日本の流行歌を劣化させた」と言いたい気もします。でも実は聴いてないので、確信はありません。

さて話もどって「フランシーヌの場合」

フランシーヌ・ルコントという女性がパリで焼身自殺したことを歌っています。
1969年3月30日、日曜日の朝。パリの路上で30歳の女性が、シンナーを被って焼身自殺した。フランシーヌ・ルコントさんというこの女性はベトナム戦争やナイジェリアの政情に心をいため、自殺した時もビアフラの飢餓の切抜きを持っていたという。また、ウ・タント国連事務総長などに訴えの手紙も書いたこともあるといわれる。

とのことです。ここまで詳しく知ったのは大人になってからです。小学生時代は「ただ、いい歌だ」と思って、子供ながらに聴いていたのです。

「フランシーヌの場合は、あまりにもおバカさん」から始まり「本当のことを言ったらおリコウになれない」「一人ぼっちの世界に残された言葉」と続く。そして「フランシーヌの場合は、わたしにも分かるわ」と共感を示します。「お馬鹿さん」「おリコウになれない」が「わたしにも分かるわ」となるのです。僕は小学校低学年でしたが、「異様な魅力」をこの歌詞に感じました。むろん「背景」など知りません。

岡本太郎ではないけど「なんだこれは」という歌。そういう歌が今でも実は作られているなら、個人的見解では、まだまだ日本の音楽界にも未来がある。ただし私自身は「最近の歌は全く聴かない」ので、大ヒットでもしない限り、気が付かないとは思います。

東條英機暗殺の夏・東條英機を考える。

2019年04月19日 | 戦争責任
吉松安弘「東條英機暗殺の夏」は実にいい「小説」なんですが、読み返そうとしたら本棚にありません。で図書館で借りようと思ったら、わが自治体では「わずか1館が所蔵」です。17の図書館で1館しか所蔵していない。驚きです。いい小説なのになー。

東條を過剰に批判してはいません。ほのぼの談なんかも書いています。ただ暗殺計画の部分はシビアです。故三笠宮(昭和天皇の末弟)の暗殺計画への関与などにも触れています。(これはねつ造ではなく、史実です)。関与などというものではない。途中で躊躇し、自ら憲兵隊に通報しているのです。小説ではお母さんに怒られたという感じのことも書かれています。

戦後、ジェントルマンを絵に描いたような三笠宮まで、「もはや暗殺しかない」というところまで追い詰められていたのです。それほどに東條の権力は強大でした。

彼が毎日のように参内し、昭和天皇の了解を得ていたからです。

また、行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任していました。(嶋田繁太郎が海軍大臣と軍令部総長の兼任)。

日中、太平洋戦争中、日本には3つもしくは4つの「権力」が存在しました。

1、政府・総理
2、参謀総長
3、軍令部総長
4、陸軍、海軍に対して、政府から独立した統帥権を持つ昭和天皇

5、宮廷勢力(これには法的根拠はなし)

陸軍の作戦には政府は口出しできない。海軍の作戦には政府は口出しできない。上記の1、2、3と(2と3の上に立つ昭和天皇)の「強大な権力」は法的には完全に独立しているのです。総理、参謀総長の兼任があっても法的には独立です。嶋田は東條の子分ともされますが、東條すら海軍の作戦行動には法的に口出しできないのです。

東京裁判の被告は言っています。政府、陸軍、海軍、あんなバラバラであったのに「共同謀議をした」とはよく言ったもんだ。連合軍が言うように「共同謀議していたら、もっといい戦いができた。」
実際は独立した権力で、バラバラ。共同謀議なんて高等な行動がとれるわけもなかった、というわけです。

わたしは東條をかばっているのか。批判しようとしているのか。実は批判しようとしています。

戦争を起こした、、、これ自体は罪ではないという解釈もできる、、、これが罪ならルーズベルトも罪人です。チャーチルも。

では何故東條を批判するのか。それは作戦指導があまりに「稚拙」だから。「兵站を考えない軍事行動なんてありえない」からです。戦死者の6割、戦死約230万の6割が餓死者です。

作家の半藤一利氏が言うように「軍の指導者たちは無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやった」わけです。食事がない、、のです。

戦争を追っていけば「戦争指導者、その頂点だった東條の無能さ」が「餓死者を生み出した」ことは歴然です。

つまり「戦争自体は罪ではない」とか「下らないごたく」をいかに言おうが、「実際に餓死してるのだから、作戦指導が無能」ということです。

自国兵の集団虐殺と私は呼んでいます。その無責任と残酷な作戦指導の頂点に立っていたのが、東條、嶋田ということになります。戦争の罪とかアジアへの罪とか言うまでもなく、「無能な作戦指導によって自国兵を虐殺=食事を与えない」をしているわけです。

この1点だけでも、東條は断罪されてしかるべき人物です。そして「無能な餓死大量製造機械のような東條」を批判することは、自虐でもなんでもありません。

ノートルダム大聖堂・我らが貴婦人・ノートルダムのせむし男・フランスかぶれ

2019年04月19日 | カルチャー
萩原朔太郎/旅上(純情小曲集)
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん

「フランス」は「あまりに遠き」国です。行ったことはありません。焼けたノートルダム大聖堂は1163年から建設が始まったようで、12世紀末には一応の完成をしています。一応の完成は鎌倉時代初期です。荏柄天神社の本殿は鎌倉に唯一現存する、鎌倉時代の建築物、という情報がネットに載ってました。鎌倉は鎌倉時代も室町時代も「騒乱ばかり」ですから、当時の建築物は残っていないようです。むろん日本全土なら、いくつかあるようです。東寺の御影堂など。

ノートルダム、「ノートルダムのせむし男」という映画がありました。映画の名前だけは有名でした。それで「ノートルダム」という言葉を知りました。ノートルダム大聖堂が舞台です。
「ミシェル・ド・ノートルダム 」、、、これはノストラダムスの本名です。

一年ぐらい前に「イギリス・フランス史」という本を読みました。そこで初めて「ノートルダム」とは「我らが貴婦人」という意味で、聖マリアを指すと知りました。

ノートルダム寺院は当初は西洋最大級のカトリック教会だったようですが、フランス革命で「廃墟化した」ようです。18世紀末のことです。

フランスが大改修というか、再建に近いものを行ったのは19世紀半ば(調べ書きですから、たぶんです)。すると、ほぼ19世紀の建造物ですね。

日本人は昔はフランス好き、というか「フランス憧れ」があったように思います。アメリカかぶれ、フランスかぶれがいました。文化面ではフランスかぶれが多かったように思います。1966年の「ウルトラマン」にはダダという宇宙人が登場します。白黒の筋が入った異様な姿です。これはフランス等を中心にしたシュールレアリスム運動、「ダダイズム」または単に「ダダ」の影響です。子供になんか「ダダ」が分かるはずもないのに、フランス文化の影響をモロに受けた宇宙人が登場するのです。作家の「あこがれ」が分かろうというものです。

西洋では大国です。ウソのような話ですが、1160年ぐらいから300年間、「イギリスの公用語はフランス語」でした。イギリス王がフランス貴族だったからです。「イギリス・フランス史」に書いてありました。

かつてフランス出身の「日本の有名人」はフランソワーズ・モレシャンさんで「わたくしどもの国ではー」とよく言ってました。「フランスではこうだ」ということです。フランス好きの日本人に訴えるところがあったと思います。今有名なのは、数学者のピーター・フランクルさんですが、もともとはハンガリー人のようです。

私がフランスに「あまり興味がない」のは、まずフランス映画とか分かりにくい。ファッションに興味がない。また、フランス料理とか「バカバカしい、なんでこんな小さな料理に大きな皿」とか思ってしまうからだと思います。

が、本当の理由は「ベトナム戦争」です。

ベトナム戦争の始まりは「ベトナムVSフランス」です。アメリカはそれを引き継ぎました。

ヒトラーによるフランス侵略とパリへの無血入城が1940年6月です。1944年の8月になってやっとフランスはパリを取り返し、「パリ解放」叫びます。ドゴール大統領です。

ところがなんと1946年の末にはベトナムと「インドシナ戦争」を始めるのです。首相はドゴールではありません。直前まではドゴールです。

つまり「フランスという国」はヒトラーに占領されて、やっとパリを解放したと思ったら、その2年後には「侵略戦争を再開」しているのです。「なんという国か」と思います。

むろん背景には「ベトナム共産化の阻止」、共産主義国増大阻止の目的はありました。それでも「侵略から解放された、その2年後には自分が侵略国になっている」わけです。

で、どうもフランスとかフランス文化にあこがれる気分にはなれません。

南野陽子さんとスケバン刑事Ⅱ・少女鉄仮面伝説

2019年04月19日 | サブカルチャー
南野陽子さんが、スケバン刑事Ⅱで麻宮サキを演じていたのは1985年。たぶん17歳か18歳の時です。わたしは「出来の悪い大学院生」で、もうアイドルに夢中になる年でもなかったのですが、南野さんや「スケバン刑事Ⅱ」の「ありえない設定」が好きでした。ぶっ飛んでました。南野さん、今は色々あるようです。それには触れません。

高校の時のアイドルは陽水、拓郎、甲斐バンドで、それからサザン、久保田早紀さん、松原みきさんが好きでした。「アイドルというよりアーティスト」です。だから南野さんは私にとっては「最後のアイドル」かなと思います。それと原田知世さん。

歌では「楽園のドア」が好きです。ひょうきん族に出た時、鶴ちゃんとかの妨害で歌詞を忘れてしまい「なんたらかんたら好きだから」と本当に「文字通りそう発音して」歌ってました。

さてスケバン刑事Ⅱ・少女鉄仮面伝説

南野さんの最初の名前は五代陽子です。それから二代目麻宮サキとなる。実は本名は早乙女志織、、私は「詩織」かと思ってましたが。「志を織る」のですね。

17才か18才まで「鉄仮面をかぶって生きて」います。そして土佐でスケバン(女性の番長)をしているのです。

1、18才ぐらいまで「本当の自分の顔を知らない」 
2、18才ぐらいまで「顔洗ったことも、髪洗ったこともない」

ことになります。凄い設定です。

二代目スケバン刑事です。初代は斉藤由貴さんです。蟹江敬三演じる西脇さんとは深い因縁があります。彼女の鉄仮面をはずしたのも蟹江さんです。

「生まれてはじめて、頬に風が当たっちょる」、、、、これが最初の最も印象的なセリフだったと思います。

その後色々戦うわけですが、最終的には「青狼会」と「鎌倉の老人」が敵となります。「鎌倉の老人」は信楽老と言われ「日本のドン」かつ「ラスボス」です。「不老不死の水」を求め、「伝説のキドラの器」を手にします。が、南野さんが不老不死化を阻止します。

「青狼会」を主宰する「影の総統」は信楽老の養子で、ヒトラー的です。しかし最後は幼馴染でもある麻宮サキをかばって死にます。

この信楽恭志郎の最期の言葉はたしか「お前は美しい」だったと思います。記憶で書いています。確かに南野さんは美しかった(今でも美しい)と思います。

さてラスボスである「鎌倉の老人」、日本のドンで不老不死になって「日本を支配する。それが私の愛なのだ」と言います。南野さんのこたえは「許さんぜよ」です。

しかし、意外に強く、あっけなく南野さんは倒されます。が、鎌倉の老人が「不老不死の水」を飲もうとした瞬間、南野さんが湖の中から飛び出し、ヨーヨーで器を砕き、野望を阻止します。ベートーヴェンの第九が流れていたと思います。

記憶だけで書いています。

ここで終わりではなく、最後に鎌倉の老人を銃で殺すのは「暗闇指令」(長門裕之)です。長門さんはいい味出してました。蟹江さんはもっといい味出してました。

たしかこんな感じ。というかこれは調べました。

暗闇指令「あんたが圧力をかけて,我々の組織は屈服した. だが俺に,不屈の闘志を教えてくれた者がある. 信念の闘いを放棄すべきではない.なすべき事は、なさねばならぬ」
信楽老「やるが,いい」

この「なすべきことは、なさねばならぬ」はいい言葉です。その後もしばらくずっと日常において使っていた記憶があります。

八重の桜(会津の教育)の「ならぬことは、ならぬ」というのは、実は「その前に条項があって」、「ならぬこと」がいくつか項目として並びます。しかし単体で「ならぬことはならぬ」としてしまうと「いかにも抑圧的」なイメージがあります。

しかし暗闇指令の「なすべきことは、なさねばならぬ」というのは抑圧的でなく、なんというか「実用的」です。嫌な仕事や用事あると、心の中で「なすべきことは、なさねばならぬ」と思って「活用して」いました。

最近はすっかり忘れていましたが、むろん今でも「なすべきこと」はあります。それは「なさねばならぬ」ことです。「まだ使える言葉だな」と思いました。

戦国大名とストレスを考える。

2019年04月18日 | 織田信長
ストレスに戦国大名はどう対処していたのでしょうか。

戦国時代は「ひどい時代」です。「ドラマで見るよりずっとひどい時代」です。明日の命も分からない。人買いや奴隷もいた。「みな殺し」もあった。飢饉もある。災害もある。医学も発達していない。そして「神仏への畏怖」もある。

織田信長が沢山の人間の命を奪ったことは有名ですが、豊臣秀吉や徳川家康だって変わりはありません。

織田信長というと「迷いがない」イメージがありますが、どうなんでしょう。比叡山焼き討ち、一向一揆の殲滅、「神仏のたたり」への恐怖は全くなかったのでしょうか。「なかった」としたら、やはり異常人でしょう。我々現代人だって、たとえば仏像を焼いたりしたら、あまり気持ちのいいものではない。中世人である彼が、それを全く恐れなかったとするなら、ストレスはない代わりに、人間とも言えないような気がします。

豊臣秀吉も随分と人を殺しました。しかし「死霊への恐怖」「たたり」を恐れたという話はあまり聞きません。晩年の彼は弱気な面を見せました。これは極めて現実的で、老い、衰弱への恐怖、ストレスです。ただし自分が死ぬのは、秀次のたたりとか思っていた様子はありません。やはりストレスにはだいぶ強い人間だったように思えます。

徳川家康はちょっと違います。いわゆる健康オタクでした。程度は分かりませんが、病気へのストレスはあったでしょう。ただし死の手前まで「大病」はさほど患っていません。彼は運動が体にいいことを知っていて、晩年になっても鷹狩りをしています。本来はストレスフルな性格だったように思いますが、うまく乗り切っていたのでしょう。74歳まで生きます。当時としては長寿です。

武田信玄が「上洛」を志した時、彼は既に重篤な病気に侵されてたとされています。肺もしくは胃の病です。それでも戦場に臨みました。勇気があるというより無謀です。しかしそれでもやった。そして死んでしまう。やらなくてもどうせ死んでいたのかも知れませんが、彼などもストレスに強い人間の一人でしょう。ちなみに謙信は急死だったので、そういう逸話はあまり聞きません。

小早川秀秋、関ケ原で裏切り、そのストレスで酒乱となり、若くして死んだと言われます。ただ最近の学説というか「もはや定説じみた考え」では、「関ケ原開戦直後に裏切った」とされます。三成も分かっていたと。それは正しいのかも知れませんが、そうなると「小早川秀秋の1万5千が裏切る」ことを前提に、三成は「それでも野戦をした」ことになってしまいます。関ケ原の「定説」は「ころころ変わり」ます。

戦国時代はあれほどひどい時代なのに「不安やストレスで悩んでいた武将」の話はあまり伝わっていません。ごく普通に「あるがまま」を実践していたのかも知れません。