散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

ネットフリックス  トラベラーズは面白い

2017年06月23日 | ドラマ
SFもの、特に時間旅行ものというのは、「よくある」ものですが、「トラベラーズ」は「よくあるけど面白い作品」です。

内容としては「タイムトラベラーズ」ということになりますが、好き勝手に時間旅行しているわけではなく、ディレクターと呼ばれるものの統一的な意思のもとに現代(過去)に送られます。

送られるのは「意識のみ」です。だから現代人の体に憑依しますが、その現代人の基準も決まっていて「あと数秒で死ぬ人」です。

死ぬ人が生きてしまったのでは、過去が変わる、だから未来も変わってしまうではないかという「心配」は必要ないのです。

なぜなら「未来を変える」ために来ているからです。

とここまで書いても「きわめてありきたりな作品」という印象は否めないと思います。

が、「ありきたり」ではない。

その理由を思いつくままにあげると

「他人の体で、その人物として、妻や子や同僚とも関係をもちながら生きていく」というのは大変なわけで、そういう「大変さ」が描かれている。徐々にその人物に同化して妻や恋人を本気で愛していくというストーリーもタイムトラベルものではやや珍しい。「時をかける少女」のケンソゴルなんて、愛情をもちつつも主人公の記憶を消して未来に帰ります。

ケンソゴルの件は置くとしても、「未来人を描くときにみられる特有の冷たさ、割り切り、人間性の薄さ」がないのです。むしろ極めて人間的。乗り移った人間がもっていた障害とか依存症とか、夫婦関係とか恋人関係とか離婚問題とか、そういうものとも悩みながら付き合っていきます。死もあります。老人等に乗り移ったりすると、その時点ですでに寿命が数年ということになるのです。

それから「過去を変えてはいけない」という例の「お決まり」がないので、主人公たちの行動が結構自由です。ディレクターの命令(子供を介して伝えられる)にも結構逆らったりします。
この「ディレクターがなにか」も後半に描かれますが、あえてネタをばらしません。さして凄いネタではないですが。

つまり彼らはスーパーマンではなく、かなり普通の人間性を持った存在として描かれるのです。もちろん死も恐れます。

5人ほどでチームを作って行動するのですが、世界中にはこういうチームが沢山あることになっています。ただし何故か他のチームはポンコツだったり裏切り者だったりして、主人公たちのチームだけが未来に特別な影響を与えているようです。特に先鋭チームではないのですが、他のチームと違って大活躍します。が、大活躍しても、未来はなぜか良い方向に変わりません。

このチーム、全員が「かなりの武術の達人」なんですが、その理由は描かれていません。

知的障害を持っていたことになっている(乗り移りで知能は普通以上になりますが)女性がかなり「綺麗」です。やや「下ぶくれ」なんですが、日本人好みなのかな、すごくかわいく思います。

カナダの女優さんのようです。というかチーム全員が「カナダの俳優」みたいです。と言われてもアメリカ人との区別なんてつきませんが。

ということで「トラベラーズは面白い」というお話でした。シーズン2は秋みたいなので、秋になったらまた契約しようかと思っています。



高橋和夫著「中東から世界が崩れる」を読んで。

2017年06月18日 | 日記
高橋和夫さんの最新作といっても1年前なので状況は変化しているのですが、とにかく最新作「中東から世界が崩れる」を読んでみました。

アメリカでシェールガス革命がおこった結果、というよりアフガン、イラク戦争でアメリカが疲弊した結果、アメリカは中東への興味を急速に失いつつある。その結果、中東での覇権争いが起きている。これは「新たな列強の時代」とでもいうべき状況である。
キーとなる「人間集団」はイラン、サウジアラビア。そしてロシア、トルコ、イラク、クルド、中国などである。

特にイラン、サウジアラビア、トルコ、クルドに多くのページをさいています。

イランとトルコは中東といっても特殊な国だという指摘があります。トルコはかつてオスマントルコという大帝国でしたし、イランはペルシャです。

ペルシャとはつまり古代の中東の覇者です。ササン朝ペルシャ、アケメネス朝ペルシャ。言語はペルシャ語でアラブ語ではない。他の中東の国とは本質的に違う国だという認識が必要だと書いてあります。

トルコも似ています。しかもオスマン朝トルコは近代の国家です。「古代の栄光」ではなく、近代においても栄光ある国家だったのです。

他の中東の国はエジプト、イスラエル以外は「国もどき」なんだという指摘もあります。あ、でもイスラエルが「国民国家だ」とは書いてありません。中東には「国民国家」はイラン、トルコ、エジプトの3つしかないと書かれています。

現在の中東の覇者と思われているサウジアラビアも実は国もどき。国民国家ではなく、国民は労働すらせず石油で暮らしている。労働は外国人労働者が担っている。アメリカは武器を買ってくれるので重宝に扱っていたが、近ごろは副皇太子がはりきって「その武器を使おうと」している。「国もどき」が武器なんか使いはじめたら、来るものは「混乱」しかない。

最近でもカタールがいきなりサウジアラビア等から国交断絶されましたが、理由は「イランと仲良くしているから」です。

サウジアラビアとイランの覇権争いは年々激化しており、そこにトルコ、ロシア、中国がからんでくる。国をもたない世界最大の民族クルドがあり、イスラエルがあり、さらにISの存在がある。エジプトは今は混乱しているが本来はアラブの盟主となりうる国である。少なくともサウジアラビアのような「国もどき」の人間集団ではなく、「国民国家」である。

というわけで中東の大幅な再編成がやってくると予想しています。中東における日本の評価は今は「とにかく正直な国」というものである。日本人は騙さない、このイメージを損なう行動をとらなければ、アメリカなんぞより日本の方がよほど中東において大きな役割を果たすことができる。

一回読んだだけですが、まあそんなことが書かれていると感じました。

ヨハネ黙示録とかノストラダムスとか終末論とか

2017年06月18日 | 日記
ヨハネ黙示録の作者は分かりません。ヨハネなんでしょうが、そんな名前は極めて一般的な名前で、どこのヨハネかはわかっていません。

この著作はローマ帝国の崩壊を予言したものです。もうちょっと書くと「ローマなどこうやって破滅してしまえ」という作者の強烈な願いが書かれた本です。

直接にはローマと言わずバビロンとか言っています。つまり「全世界の未来」のことを書いているのではなく、現実のローマに対する不満と願望的予言を書いている著作です。

そういうことが忘れられて、今は「未来に全世界にこういうことが起きるぞ、でも信仰があれば救われるぞ」という感じの著作になっています。

ヨハネ黙示録を新約聖書に含むかは反対意見もありました。が結局含まれることになったようです。

キリスト教も基本的には終末論宗教なのです。もっとも今はすべてのキリスト教徒が終末を「待望」しているわけではなく、キリスト教原理主義者だけが望んでいるという状況かと思います。

ユダヤ教もキリスト教も「基本的」には「終末がきたほうがいい」という宗教だということです。世界には終末待望者が結構いるということが日本ではあまり理解されていないような気がします。

終末とは神による「世直し」です。今の悪い世界を滅ぼして、新しい善の世界が作られる、信仰があるものはその善の世界に行くことができます。

日本では終末論は「このままじゃ終末が来るから、人間の努力によって未来を変えよう」という流れの中で言われることが多いですね。

たぶんキリスト教圏でも穏健なキリスト教徒は同じなんでしょうが、新興宗教なんかは終末論を利用して信者を増やすことも多いようです。大川の「ノストラダムス戦慄の啓示」とかがそうですね。

ヨハネではちょっと古すぎるので、ノストラダムスを利用します。1999年に世界が滅びるなんてノストラダムスは書いてませんが、日本では書いていることなっている(五島勉の著作によって)ので、ノストラダムスを利用します。でも1999年が過ぎてしまいました。

終末論者が自分で終末を引き寄せようとした例としてはオウム事件があります。ただ地下鉄にサリンをまいても終末にはならないわけで、結局むごい人殺し事件を起こして罪なき人を殺しただけでした。

五島勉は今はアメリカの同時多発テロが「恐怖の大王だった」と言っていますが、1999年8月には「謝罪」をしています。

文明への警告だった、迷惑をかけたなら謝罪するとかいう内容だったかな。まんざら嘘でもないというか、実際70年代には世界の破滅が迫っていると感じさせる「冷戦という現実」「核開発競争」がありましたから、多くの人が「ありうる」と考えたのにも理由があったのです。

五島勉を擁護する気持ちは全くありませんが、「このままじゃまずいぞ」という土壌があったから、あのインチキ本はあれほど売れたのだと思います。

田川健三「キリスト教思想への招待」は「くだけすぎ」

2017年06月17日 | ドラマ
最近は聖書について書くことが多くなっていますが、私にとっては「歴史の勉強」の一つです。並行して高橋和夫さんの「中東から世界が崩れる」なんて本も読んでいます。

聖書学と中東は「舞台が同じ」です。

ただし歴史も聖書も私の専門分野ではありません。専門分野はあえて書くなら教育学とか国文学なんです。専門というか、大学とか大学院で勉強したこと。

でも自分でも「高度な専門性」なんてもうない、というか当時からあまりない、ことが分かっていて、その分野についてはほとんど何も書きません。恥ずかしくて書けないのです。

でも聖書とかは全く専門外ですから、つまりはド素人ですから、まあ何でも書けるわけです。

加藤隆さんという千葉大の聖書学の先生がいて、文章が実に明快です。たぶん難しい言葉が好きな人(たとえば昔の私)なんかには「物足りない」のでしょうが、

今の私はこういう明快ですっきりとした論理文が好みです。

ただどうしてもわからない点がある。それは「神とつながる」「救われる」という概念です。ちなみにこの二つは同じことです。

本来のキリスト教にとって最も大切なことは「神とつながる」ことだと加藤さんは書きます。これがどうもよく分からない。

具体的にどういう状況なんだろうか。まあ実はヒントがあって、その具体例が「イエス」なんだそうです。動かなかった神が「動いて」イエスとつながった?え、具体的にどういうこと?

よく分かりません。

仏教は一般にわかりにくいものとされていますが、原始仏教は単純明快で「解脱」が中心概念です。これは分かりやすい。「囚われ」「こだわり」からの解放です。

愛とか生とか富とか、そういうものを失うことに怯えているから人間は不幸なんであって、そういう囚われから解放されれば精神が安定し涅槃寂静の世界に入れる。

単純明快です。

でも「神とつながる」は非常にわかりにくい。具体的にどういうことなのかがイメージできません。

というわけで加藤さん以外の本でも読もうかなと思って田川さんの本を読んでみました。「キリスト教思想への招待」

正直「え、何、この本」という感じです。アクが強いことは分かっていたし、イデオロギーも分かっていましたが、それにしてもくだけすぎというか「ふざけすぎ」というか。話の脱線が多すぎてとても読めたもんじゃありません。

で、やっぱり加藤さんに戻って「歴史の中の新約聖書」を読み直しています。

どうやら「人による人の支配」という言葉がキーになるような気がしていますが、永遠に分からないかもしれません。



死海文書はただの古い文章

2017年06月17日 | 日記
だいたい死海文書という言い方が間違いです。「死海のそばのクムランという場所の洞くつで発見された文書」ですから「クムラン文書」です。

死海というのは塩分の強い湖で、人間なんてプカプカ浮かびます。でも塩分が強すぎて生物が住めない。だから死海。とくに神秘性があるわけじゃありません。

中学の頃ですから、1970年代ですね。私がこの「死海文書」「死海写本」という「言葉」を知ったのは。

「キリスト教の古い文書なんだろ」と漠然と考えていました。

「死海文書の神秘性」とか「死海写本の謎」とか「キリスト教史を根底から覆す文書」とか、まあ色々な「嘘」が言われていましたから、ちょっとは興味を持ちましたが、特に深く調べたりはしませんでした。

それが中学の頃です。

「キリスト教の古い文書」という段階で既に間違いでした。

比較的まともな学者さんたちの一致した意見として、まず「キリスト教とは何の関係もない」文書です。

キリスト教成立の以前の文章ですから。

すっごくまじめなユダヤ教徒、別の言い方をすると鼻持ちならないエリート意識をもったユダヤ教徒の「図書館みたいな遺跡」から発見されたユダヤ教関係の文書です。

内容は儀式とか掟とかそういうもの。あと旧約聖書関係。

「とんでもないことが書かれていたらどうしよう」とキリスト教関係者もユダヤ教関係者も考えたのですが、結局「ただの古いユダヤ教関係の文章」でした。

何ひとつ根底から覆さないし、実際、何も覆っていません。

聖書学の面白さ

2017年06月16日 | 日記
「聖書学」ってのは面白い学問です。

徹底的に聖書を「相対化」するのです。コーランに対してこれはできません。でもキリスト教聖書にはできる。

もともと

聖書がなくても、キリスト教は成立するのです。キリスト教がユダヤ教から分化して200年ぐらいは実際、なかったわけですし。まとまった本としては。

戦国時代、キリシタン大名とかが出てきますが、日本版の戦国聖書なんてものはない。聖書がなくても伝道は成立するのです。

だいたい、字が読める人間なんて近代になるまで非常に限られたエリートだったわけで(日本はやや識字率が高かったのですが)、聖書があっても中世の民衆には読めません。

聖書がないほうが、バチカンはやりやすい。指導者の言葉が真実だってことにすればいいわけです。「聖書にはそんなこと書いてないぞ」と言われなくてすむ。

これは宗教改革がバチカンへの反抗としてはじまり「聖書のみ」を重視した歴史からも明らかです。

というわけで、聖書を「相対化」してもそれほど教会主流は困らない。で、堂々と「聖書研究」ができるのです。

もっとも、それでも、護教的な聖書学者と、護教から自由な聖書学者はいます。後者の方がむろん面白い。

私は信仰なんて持てない人間ですが、聖書学は知的関心事項としてとても面白いと思います。

まあ、よくも細かく調べるもんだなと思います。しかも、古べブライ語、古アラム語、古ギリシャ語が読めないとできない。

日本人でもそれができる人間がいる、というだけで、語学嫌いの私には驚きです。

マルコが最初に書かれました。それからマタイ、ルカ、ヨハネ。パウロの手紙。

手紙はともかく福音書の筆者が誰かは分かりません。とにかく全部ギリシャ語です。イエスはアラム語ですから、生きていたとしても新約聖書が読めるのか?読めないという説もあります。

マルコを読んだルカという人とマタイという人が、「これはちょっと違うじゃないか」とそれぞれ別個に考え、自分なりの福音書を書いた。

この3つは同じようなことが書かれているように見えて、ちょっと分析すれば、まったく違うものだそうです。ヨハネはまた別の意味で全く違った福音書です。

全然違う4つの文書が一つとされて、読む方は統一的理解をしようとする。でも統一性なんか元々ないから、結局「なんだかよくわからない」ってことになるようです。

40代後半のリンダブレア(エクソシストの少女)

2017年06月16日 | ドラマ
エクソシストは「3」まであります。「2」も「3」もあまり評判はよくありませんが、個人的には「2」は好きです。バッタが沢山でてくるやつです。

リンダブレアは「2」では完全な主役です。

でもその後どうなったのだろう、と思ったら、それなりに映画に出たりTVに出たりしているようです。

スーパーナチュラルのシーズン2の7話にゲスト出演とあったので見てみました。

たまたま今は「Hulu」と契約しているで簡単にみられるのです。

年はこの2006年段階では40後半ですね。

もともと美少女ではなかったらから、美しい女優さんではありませんでした。

が、中年太りもしてないし、むしろ痩せているし、演技もしっかりしているように思いました。過去の人感はあまりなかった。良かったと思います。

実は前に見たことがあったことを思い出しました。でもその時は全然リンダブレアだとは気が付きませんでした。

分かってみてみると、最後に主人公が「あの刑事(リンダブレア)、誰かに似てないか」と言っています。

とにかく世界的に話題になった映画で、だいたいは子役なんてのはあの映画に「つぶされて」しまうし、そりゃリンダブレアだって大女優にはなれませんでしたが、

それでも「よくやっている」感じがしました。うれしい限りです。


エクソシストの主人公は誰なんだろうか?

2017年06月16日 | ドラマ
映画「エクソシスト」には主要な人物が3人登場します。

まず悪魔に憑かれる少女リーガン(リンダブレア)、それからカラス神父、最後にメリル神父です。

エクソシストビギニングという映画があって、この映画の主人公はメリル神父ですし、「エクソシスト」の方でも、本当の悪魔祓い師はメリル神父ですから、主人公はメリル神父かなと思います。

でもやはり印象深いのはリーガンであり、カラス神父です。

この映画のあとも、アメリカでは超常現象ものというか「悪魔もの」が沢山作られます。悪魔の方は人間に憑く形で、または「悪魔そのまんまの形」でよく登場するのですが、

神は登場しません。人間の形をした神も登場しません。まあ全部見てるわけじゃないですから、「ほとんど」と書くべきですが。

天使は登場します。だいたい普段は人間の形をしています。でも神は登場しません。

どうしてこんなにも悪魔ものが多いのかと考えるならば、まあ単純にホラーの題材として面白いというのがあるでしょう。

もうちょっと「うがって」みると、「悪魔の存在を強調することによって、神の存在を示す」という意図もあるかと思います。悪魔がいるのなら、神もいる、ということです。

でも「神そのもの」は登場しません。私はヤハウェの化身だなんてセリフも聞いたことがありません。

神を登場させないのは一種の不文律なんでしょうか。もうちょっと深く調べてみると面白いように思います。


雨音はショパンの調べ とそのカバー

2017年06月14日 | 日記
雨音はショパンの調べ、原曲はガゼボという男性です。英語の詩はよくわかりませんが、「I like Chopin」ですから、ショパンはいいなという歌でしょう。

日本ではユーミンが歌詞をつけました。そして女性の歌になって歌詞も「やめてそのショパン」となります。

歌ったのは小林麻美さんですが、映像はありません。TVでは歌わなかったのです。

「ザベストテン」では2カ月間ランクインしましたが、出演しませんでした。歌うとイメージを損なうとかいう理由だったと思います。

簡単に言うと、小林さんは「そんなに歌がうまくない」ので、生は厳しかったのです。

カバーは数人がしていますが、最近聴いたカバーは柴咲コウさんと田中裕梨さん。

田中さんというのはオペラ歌手を目指していた方で、今はジャズ歌手だそうです。

まず田中さんの方ですが、発音がなんか変です。故意に変なんでしょうが、舌を丸める感じの歌い方、メロディーは小林さんに対して忠実です。

柴咲さん。歌はしっかりしています。声もいい。ただしなぜか一番大切な「アアー」の部分だけ違う音符で歌うのです。違和感。

で、小林さんを聴くとやっっぱり安心します。小林さんが一番だと思います。

ちなみにユーミンも歌ってますが、お得意の「棒歌い」で、お話になりません。

おんな城主 直虎 を「なんとなく」見ている。

2017年06月14日 | ドラマ
物心ついてから、「なんとなく」でさえ見なかった、つまり途中で完全に見ることをやめたのは「大河 江」ぐらいかなと思います。あ、「篤姫」も怪しいかな。ほとんど記憶にない。

あと「琉球の風」も見ていません。その他は「天と地と」(私は小学校低学年)以降全てを見ています。

というわけで「おんな城主」も「なんとなく」見ています。

特にストーリーもない感じで、一回ぐらい飛ばしても内容は把握できます。まあ録画してますから飛ばしたのも後で見ればいいのですが。

私の中では家族ドラマ、恋愛ドラマという位置づけです。「おんなの苦労物語」というべきなのかな。「渡る世間は鬼ばかり」みたいな作品だと思ってます。

でも時代劇はほかにないので、面白くなくとも、まあなんとなく見ているわけです。大河を見るのは人生の習慣ですし。

でも「井伊家」は大嫌いです。というより、井伊直弼が大嫌い。江戸の末期になってあんな虐殺をするなんて、馬鹿もほどほどにしろという感じです。幕末だとこの井伊直弼と新選組が大嫌いです。人殺しですね、しかもバカ。

井伊家(彦根藩)は最後はまっ先に徳川を裏切ります。官軍になる。節操もない。

というわけで「井伊家なんて潰れていたほうが良かった」と考えている私にとっては、この作品はどうにも見るべき点がないのです。

せめて家康をもっと描いてくれるとか、信長を早期に登場させるとか、そういうサービスをしてほしいな、と思います。

田川健三さんの「書物としての新約聖書」は、物理的に重い。

2017年06月13日 | 日記
田川健三さんの「書物としての新約聖書」を読んでいます。

ほとんど難解なところはなく、非常に読みやすいのですが、「物理的に重い」のです。

700ページあって、単行本。ベッドで読むには「支え」ないといけないわけで、手が疲れます。

調べてみるとこの方、西洋思想史の大家で、吉本隆明さんのことをボロクソに書いた本などを出しています。愚劣な男などと言っている。

僕も吉本さんのカリスマ性に幻惑された人間ですが、今の考えでは、あれは全部小説なんです。「悲劇の解読」なんかはわかりやすい小説ですが、

「共同幻想論」も「言語にとって美とは何か」も、「思想書」「学問書」ではなく、小説。

思想があるとすると、「難しい言葉を使え」「人と同じことを言うな」「孤立しろ」てなところでしょうが、小説として読むべき書物です。柄谷行人さんの本も同じです。小説。

さて、田川さんの本。実に詳しく書かれていて、自分の説か人の説の引用かもはっきりと書いていて、

読んでない本は「読んでないからわからない」と正直に書いている。

吉本さんとは違ったカリスマ感があります。正直でわかりやすい。人の功績は自分の功績には決してしない。好感がもてます。

でも重いのだけはなんとかしてほしい。350ページで分冊して、上下刊行すべきです。この「厚み」だけは「やや権威的」で好ましくありません。

「寝ながら読む本じゃねえぞ」という威圧を感じます。

内容に触れるのは今はよします。全部読んでないし。

加藤隆さんの同門で先輩みたいです。加藤隆さんは田川さんの名前をほとんど出さないけど、加藤さんの「ごく初期の著作」は、ほとんどこの本のパクリというかリスペクトです。

でも加藤隆さんの本の方が読みやすい。なぜって適度なページ数だし、文庫や新書だからです。いい本だけど、重いのだけは勘弁してほしいなと思います。

行かないで 玉置浩二 さよなら李香蘭

2017年06月12日 | 中国
玉置さんの香港のシンフォニックコンサートの映像で「行かないで」を聴きました。中国で一番有名な日本の歌かも知れません。もはや日本の歌ということも忘れられ「中国に昔からあった歌」と思っている中国人も多いかも。むろん中国語の詩で歌われています。

「いつか心はいつか、遠いどこかで、みんな想い出になると、知らなくていいのに、知らなくていいのに」

「みんな想い出なる」ことを「知らなくていい」という歌詞が素敵です。全てが思い出になっていきます。それは哀しいことです。

歌は超一流ですね。ほぼファルセットですが、すごい、としか言いようがない。音楽関係者の中では日本で一番歌がうまいといわれているようですが、私もそう思います。

この「行かないで」はドラマ「さよなら李香蘭」のテーマ曲。

たぶん沢口靖子さんの最高傑作です。

DVDはないかもしれない。私は日本映画専門チャンネルで録画したのでもっています。

このドラマ、見るのにちょっと勇気が入ります。内容がシビアで、覚悟をもたないと見れません。

李香蘭つまり山口淑子は日本人です。しかし中国で生まれ、中国で育ちました。中国人として活動します。日本人も中国人女優だと思っていました。

満州映画(日本軍の方針ももと映画を作った)のスターです。このことが後、彼女を死の寸前まで追いつめます。

日本に協力した中国人、漢奸として死刑判決を受けるのです。やっとのことで日本人だと証明し、なんとか日本送還で生き残ります。日本に向かう船の中で、彼女はつぶやきます。

「さよなら、私の中国、さよなら、私の李香蘭」

そこに玉置さんの「行かないで」が流れます。こんな短い説明では分かっていただけないでしょうが、奥の深いドラマです。こう書いていても、なんだか切ない気分になってきます。

戦争というものがいかに愚かしく、人間の何を破壊し引き裂くのか、そんなことを考えさせてくれる作品です。

柴田淳さんの「ぼくの味方」について

2017年06月12日 | 日記
柴田淳さんの「ぼくの味方」は実に「心地の良い」曲です。

が、よくよく歌詞を聴いてみると、実に不思議です。

「かけがえのない大切な人、守ってあげたい、そばにいたい」

と始まります。

ところが、終わりは、

「だから行かないで、遠いところに、僕の味方でいて、僕には君が必要だから」

で結ばれます。

守ってあげたいのか、守ってほしいのか、途中から自然に歌詞が変わっていくのですが、それがいかにも自然なのでよく聴かないと気が付かない。

実にいい曲です。が実に不思議な歌詞です。