散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

NHK「本能寺の変サミット2020」・光秀の細川への手紙を本心だと論じる不思議な人々

2020年01月02日 | 本能寺の変
本能寺の変の後の、明智光秀から細川家への手紙はあまりに有名です。

1 信長父子の死を悼んで髪を切られた由、 私も一時は腹が立ちましたが、考えてみれば御思案あってのことと了解いたしました。このうえは大身の家臣を出してお味方くださるよう「こい願い」ます。
1 領地の事は、内々攝州(兵庫県)をと考えて上洛をお待ちします。但馬・若狭の事も色々考えております。ご相談致しましょう。
1 この度のことは、細川忠興などを取り立てるために起こしたことです。50日100日の内には近国も平定できると思いますので、 娘婿の忠興等を取りたてて、十五郎(光秀の長男)・与一郎(細川忠興)等に譲る予定です。委細は両人に伝えます。
光秀

訳はだいぶ単純になりましたが「こんな感じ」です。

この時、光秀は期待していた大名たちの与力(お味方)を得られずに、焦っていました。武田元明・京極高次という小名が味方した程度で、細川家は味方せず。筒井順慶も積極的協力はしない。筒井は最終的には密かに秀吉に味方します。

上記の手紙は「焦った光秀が細川を味方にするために、リップサービスをした」と解釈されてきましたし、そう解釈するのが「普通の感覚」だと思います。

垣根涼介に「光秀の定理」という小説があります。最後の方で光秀の友人?が細川藤孝を暗殺しようとします。「光秀に味方しなかったことは許せる。武将だから勝つ方につくには当然だ。しかしあの手紙を公開したことは人間として許せない。光秀が窮したあまり正気を失って送った手紙を公開して、光秀を貶めたことは許せない」という論理です。

むろん「小説」です。しかしこの手紙の「扱い」はこういうものなのです。まともに信じるなんて、普通の感覚を持った人間にはできません。

ところが「NHK本能寺の変サミット」に参加した「新進気鋭の研究者」たちは「一次史料であるために」、「字面通りに解釈する」という「離れ業」というか「常識はずれの行動」をとるのです。

一次史料原理主義者であるらしい稲葉継陽という人がそうですし、藤田達生なども、これは光秀の真意だ、本当だという前提で「真面目な顔」して論じていました。

明智光秀は「信長による乱世の拡大を収束させ、自分は引退して次世代に時代を渡したかった」としたいようです。

稲葉という人も途中で恥ずかしくなったのか、「字面通りに読めば」と小さく言っていました。「信長暴走阻止説」と言っていましたが、「細川忠興のため説」が正確な表現でしょう。

司会の本郷和人が「いや、これは嘘でしょう」と言うかと思ったら、「司会という立場上、中立を守るという姿勢」みたいで、言いません。その他の6人ぐらいも誰も「つっこみを入れない」のです。本郷さんは「ヤバイな。この学者たち」と考えているか「光秀像に関してはNHKの方針だから仕方ないか」と思っているか、「ヤバイけど、学者の頭の構造がよく分かって都合がいいかも」と考えているのか。まあ、NHKの方針だから許容したのでしょう。「世渡り上手になる必要もある」と本郷さんは「令和で炎上後の著作」=「怪しい戦国史」でそう書いています。

しかしそうだとしても「誰もつっこみを入れない」なんて、「これは今までは嘘だろうと解釈されてきた」と言わないなんて、いくらなんでも「論者たちの思考や議論が硬直化しすぎ」でしょう。あれならまだ「英雄たちの選択」の方が自由に論議しています。期待していたのに、残念です。この「残念」というのは、主に「本郷氏の見解をもっと聞きたかった」という意味です。

ちなみにこの「細川忠興のため説」のくだり、映っているのは話者と爆笑問題だけで、本郷氏は一切映りません。したがってその表情も分かりません。意識的なカメラワークでしょう。さらにちなみに本郷氏、一年前には「いくらなんでも信長の非道を止めるためとはしないだろう。だって比叡山焼き討ちで一番手柄をたてたのは光秀」と「信長暴走阻止説」を「ありえない」としています。

それでも「麒麟がくる」では「本能寺の変の原因」は「信長暴走阻止のため」とするのでしょう。だからNHKは学者を使って「そういう考え方もある」ということを紹介させたのです。本郷さんが「つっこみを入れなかった」のもその為でしょう。しかし大河ドラマはフィクションです。「史実として、光秀は王道ではなく覇道を歩む信長の暴走を止めようとしたのだ」と主張する必要はないと私は考えます。大河ドラマは「史実を基にしたフィクション」。あくまでフィクションだからです。

なお私は本郷和人氏は「タレント教授と思われているが、実際は骨のあるとても賢い男」だと思っています。学説も私にとっては説得力があります。研究に対する態度も、真摯です。偉ぶらない、上からものを言わないことを心掛けているそうです。今「天皇はなぜ生き残ったか」を読んでいます。リアルガチで書いている新書です。「本気を出すと、やっぱりたいしたもんだ」と思います。最近「信長」という本も出したようです。

蛇足
「四国、長曾我部に手を出したら、織田軍はどろ沼の戦争に突入していた」と誰かがいい、周りの学者が「うんうん」とうなづいていたのにも驚きました。これも「信長暴走阻止説」を補強するためですが、おかしな話です。だって本能寺の変があった1582年には「武田家が瓦解」しています。たった一か月半で「完全崩壊」しているのです。北条はほぼ服属。上杉も滅亡寸前。上杉景勝は玉砕を覚悟した手紙を書きます。「長曾我部は武田とは比べ物にならないほど強い」のでしょうか。長曾我部は恭順をすでに申し出ていたというのが、例えば出席者の一人である藤田達生が強く主張する意見だったはずなのですが、、、いろいろ変なところが多すぎる番組です。僕はNHKが好きでよく見ています。でも「学者討論形式なのに結局はお手盛りの番宣?」と感じました。まあ「爆笑問題司会の基本バラエティ仕立ての番組」なんでガチに批判する必要もないのですけどね。

本能寺の変・明智光秀の「新発見とされた」手紙・幕府再興と結びつかない

2019年06月26日 | 本能寺の変
2017年の9月にニュースが流れました。明智光秀の手紙が新発見され、幕府再興の狙いが見えてきたというものです。実は新発見ではありません。直筆だと藤田達夫さんが「鑑定した」というだけです。でこれを受けて

☆藤田達生氏が示した材料から幕府再興の狙いという結論に結びつかないのは、論理的にものを考える能力があればありえないことは分かるはずだ。

という意見が出ました。これで終わりでもいいのですが、本文と訳文を載せます。ちなみにわたしは藤田達夫さんの学説まで全面否定しているわけではありません。

なおもって、急度御入洛義御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細にあたわず候、
仰せのごとく未だ申し通ぜず候処に、上意馳走申し付けらるるにつきては、示し給い快然に候、然して御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、其の意を得られ、御馳走肝要に候事、
1、其の国の儀、御入魂あるべきの旨、珍重に候、いよいよ其の意を得られ、申し談ずべく候事、
1、高野・根来・そこもとの衆相談ぜられ、泉・河表に至って御出勢もっともに候、知行の等の儀、年寄国を以て申し談じ、後々まで互いに入魂遁れ難き様、相談ずべき事、
1、江州・濃州ことごとく平均に申し付け、覚悟に任せ候、お気遣いあるまじく候、なお使者申すべく候、恐々謹言

くれぐれも貴人のご入洛の為、お働きなさることが肝要です。こまかいことは上意としてご命令があるでしょうから、私のほうからは申し上げられません。
仰せのように今まで音信がありませんでしたが、上意命令を受けたこと、お知らせいただき、ありがとうございます。
京都にお入りになれること、すでに承知しております。
土橋様もその為、お働きくださいますようお願いいたします。
1) 雑賀衆がわが軍にお味方していただけることありがたく存じます。今後ともよろしくお願いいたします。もろもろご相談させてください。
1) 高野衆、根来衆、雑賀衆が揃って、大阪方面へ出兵することは大変ありがたく存じます。恩賞については、我がほうの重臣と話し合い、のちのちまで良好な関係が継続できるようご相談させてください。
1) 家臣らに、滋賀県と岐阜県南部までをことごとく平定するよう命じ、すでに完了しておりますので、ご心配には及びません。詳細は使者がお話いたします。

・光秀と相手土橋が音信を交わすのは初めて。少なくとも光秀からは初めて。
・将軍の帰京の願いは知っている。よく分かっている。
・よく分かっているから、お味方を願いたい。
・上洛のことについてはご上意があるだろうから、私からは申し上げない。

つまり「貴人(義昭か)に上洛の意思があって命令していることは知っている。具体的には自分からは何も言わない。とにかく自分は上意を知っているので、お味方願いたい」という内容です。
新発見でもなんでもなく、原本らしきものが新発見ということで既知の資料です。
どう読んでも、義昭?が上洛したくて上洛の命令をしていることは知っている。自分も努力する。とにかく安心してお味方願いたい。
これ以上の内容は読み取れないわけです。「自分も努力する」は拡大解釈でそんなことも言ってないようにも読めます。

「貴人のことは貴人から命令があるだろう」と言っているこの手紙から、「私は幕府を再興するために本能寺を起こしました」なんて内容を読み取ることは絶対にできないわけです。
貴人が誰かも明快ではありません。

「幕府再興と関係がある資料だ」「義昭と光秀に連絡関係があった」と読み取るのは無理があると思います。

例えば次の有名な手紙・細川幽斎宛

1 信長父子の死を痛んで髪を切られた由、 私も一時 は腹が立ちましたが、考えて見れば無理もない事と了解いたしました。この上は私にお味方され、大身の大名になられるようお願いいたします。
1 領地の事は、内々攝州(兵庫県)をと考えておのぼり をお待ちします。但馬・若狭の事はご相談致しましょう。
1 この度の思い立ちは、他念はありません。50日100日の内には近国も平定できると思いますので、 娘婿の忠興等を取りたてて自分は引退して、十五郎(光秀の長男)・与一郎(細川忠興)等に譲る予定です。詳しい事は両人に伝えます。

「義昭」の「よの字」も出てはきません。「息子と細川忠興に権力を譲って引退する」と言っているわけです。

「一次資料なんてこんなもの」とは言いませんが、「相手に合わせて自分に利があるように書いている」わけです。

さっき、神田千里さんの本を読んでいたら「信長は天正元年に義昭の居場所が分かったら、義昭のことは、大名で相談して物事を決める。毛利はお味方願いたい」と毛利に書いている。だから「将軍の帰京を認める可能性があったし、天下のことは合議で決めようとしていた」とか書いてあって驚きました。天正元年ならまだ本願寺もいます。敵は多いのです。誰が「将軍を追放してやった。あいつは許さない。毛利も将軍の味方をするな。したら攻めてぶっ潰すぞ」なんて書くでしょうか。

信長は天下支配を狙っていたと言えるのかという持論の補強のため、あえて「裏を読まないで誤読というか、そのまんま真実だと」しているわけです。

大名同士の手紙なんて「裏やウソがある」のが常識で、「持論の補強の為、あえてそれを読まない」というのは、実に不真面目な研究姿勢です。

中国大返し、陰謀説や黒幕説は一切採用せず

2019年02月04日 | 本能寺の変
清水宗治が籠る高松城(岡山市)を水攻めしていた秀吉のもとに「信長死すの報」がもたらされたのは、天正10年6月3日深夜のことである。本能寺の変からわずか1日と半日後のことであった。
この時、秀吉の陣には黒田官兵衛、蜂須賀小六などがいた。(弟の小一郎もいたであろう、清正らもいたはず、前野長康は分からない)

報をもたらしたのは茶人の長谷川宗仁である。秀吉は「ぎゃっ」と叫んで、それから泣き出した。その間、黒田官兵衛らも宗仁の手紙を回読した。みな一様に言葉を失った。

しばらくして秀吉は立ち上がり、
「このことは機密だ。街道を封鎖しろ。毛利とはなんとしても講和するしかない。清水宗治が腹を切れば、あとは条件はどうでもいい」と言ったという。

言葉が終わらないうちに官兵衛らは行動を始めた。その後、細川幽斎らからも続々と文が来て、秀吉らはより詳しい状況を知った。

秀吉はそれとなくこの情報を安国寺恵瓊に伝えた。むろん詳細は伏せている。「京にて謀反あり、即時京に返す」とのみ言った。安国寺恵瓊は秀吉の顔色をみて、よほどの変事が起きたことを悟った。しかしこれを毛利本陣に知らせれば、毛利は清水の切腹を拒み、戦況は膠着するに違いない。ここは「秀吉に恩を売る」べきだと考えた。

秀吉が示した条件は「破格」であった。秀吉が実力支配している3か国の割譲と、清水宗治の切腹である。安国寺恵瓊は独断でこれを処理した。清水宗治は自主的に腹を切ったことにした。こうすれば「毛利が見捨てた」ことにはならない。(このあたりの安国寺恵瓊の行動は史実としては怪しい)

それが6月の4日であった。

6月5日、まだ秀吉は動かない。宇喜多秀家など一部の軍勢は、すでにしずしずと姫路に向かって引いている。この5日の段階では毛利は既に「本能寺の変」を知っていた。毛利家中では交戦派の吉川元春などから秀吉軍を追撃しようという声もあがったが、元春の弟・小早川隆景はこれを制した。既に和議がなり、約定も結んでいる。なにより毛利には畿内まで領地を広げようという野心がない。やがて秀吉が畿内で権力を握れば、毛利を粗略には扱わない。すでに秀吉側からは内々にそういう言質も得ている。ここは動かないことが毛利の本領安堵にとって有利であった。

6月5日の夜まで秀吉は京からもたらされる情報によって畿内の情勢を分析した。そして毛利が動かないこと確認すると、一斉に姫路に向かって引きはじめた。兵は軽装にし、甲冑などは荷駄隊で運んだ。

6月6日夜、秀吉の部隊は沼城に到達。
6月7日夜、姫路城に到達。沼城から姫路城まで80キロである。一日で走破できる距離ではない。到着したのは船を使った秀吉など一部であり、本体はもう少し遅れて到着したはずである。ここでしばし休息。

6月9日、明石。6月10日、兵庫着。6月11日尼崎着。6月12日、富田着、ここ富田で諸将を集め軍議を開く。

既に高松城にいる段階から、秀吉は畿内の諸将に文を送って参陣を求めていた。
同時に織田家諸将の動きを掴むことにも心を砕いていた。

「一番近くにいる織田家中のものと言えば、織田信孝様と丹羽様じゃ。動いておるか」
「信孝様の軍勢は中国征伐に備えて1万5千以上おりましたが、変事を知った兵が逃げ出し、今は7千ほどとのこと」
「そもそも寄せ集めの兵じゃに、仕方ないじゃろ」と秀吉は言ったと伝えられる。

秀吉が気になるのは摂津の各武将であった。摂津の留守居である池田恒興、大和の筒井順慶、それに高山右近、中川清秀。

しかしこれらの諸将も秀吉の尼崎到着を知ると、こぞって秀吉のもとに参陣した。

丹後の細川幽斎親子は髻を切って信長の喪に服しているという。

やがて摂津にいた織田信孝、丹羽長秀も秀吉のもとに参陣、これで兵数は3万以上になった。

☆安国寺恵瓊に伝えたというのは「そういう説もある」程度の話です。兵は軽装にし、甲冑は荷駄で運んだ、も証拠はありません。
一番分からなかったのは「織田信孝・丹羽長秀軍団の消滅」です。ここでは「寄せ集め、逃げた」説をとりました。
「半分ぐらい史実」でしょうが、あとは「説」の段階のものです。確実な資料が少ないので、たぶんいつまでたっても本当のことは分からないでしょうが、「秀吉が本能寺の黒幕でなかった」のは確実です。とはいうものの「秀吉黒幕説」を信じている人は「何を言っても説を変えない」でしょうから、そこにはこだわりません。