散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

坂の上の雲・リアリズム・天気晴朗なれども

2019年06月15日 | 司馬さん
司馬さんが亡くなってから22年です。坂の上の雲についてちょっと調べたら「児玉源太郎の行動」について「史実とは違う」という指摘があるようです。

そうなのかも知れません。なにせ「児玉源太郎のくだり」は面白すぎます。全体に戦記的記述が多いこの作品にあって、児玉源太郎の言動は際立って「小説的」です。乃木から指揮権を奪い、しかし乃木はそれと気が付かず、児玉は作戦の変更を求め、旅順を攻略する。児玉対硬化した軍事官僚の戦い。一番好きな場面です。あれは「史実とは違う」のかも知れません。しかし小説としてはよくできています。司馬さんがあのシーンで何を描きたかったのかもよく理解できます。ちなみに史実か否かはまだ「論争あり」の段階のようです。

日露戦争の勝利によって、日本軍はかなりオカシクなっていきます。不敗神話に洗脳され、現実を直視できなくなっていく。日露戦争の勝利から、日中太平洋戦争の敗北がスタートします。それは小説内においても暗示されています。

主人公は秋山好古・秋山真之・正岡子規です。

秋山真之は日本海海戦の作戦を立てた参謀で、バルチック艦隊の壊滅という「奇跡」を起こした人物です。そもそもは文学畑で、正岡子規や夏目漱石とは同級です。

日本海海戦時の出撃の際の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という報告は、名文とされています。波高しの部分が作戦遂行の可・不可を物語っているからです。

しかしこの「美文」「名文」に対して、海軍大臣のち総理の山本権兵衛は「批判」を行います。

事実を淡々と語るべきであり、美文、名文はそもそも必要なく、必要ないばかりか、現実を粉飾する結果に陥る危険があるというのです。

この山本権兵衛の憂慮はやがて的中します。そして日中太平洋戦争中の「空疎な報告文」の大量作成につながっていきます。

この小説は、明治期に軍人・政治家が有していたリアリズムを描き、同時に勝利によってそれが失われていくことも暗示しています。

司馬作品が次々映画化・峠・燃えよ剣

2019年05月30日 | 司馬さん
司馬作品が映像化されるのは嬉しいのですが、

燃えよ剣は岡田、原田コンビで「関ヶ原」と同じです。嫌な予感がします。

峠は役所広司です。素晴らしい役者さんですが、年齢が違います。峠の河井継之助は幕末段階で41歳です。役所広司さんは63歳です。41というと山本耕史さんとかオダギリジョーさんの年齢です。
長谷川博己も41歳。

燃えよ剣は何回か映像化されています。峠は初めてでしょうが、河井継之助自体は何度か描かれています。

燃えよ剣は新選組ですね。唐突ですが、新選組ものが苦手です。内部抗争ばっかりなのです。仲間同士で殺し合いばかりしている。殺伐としています。

峠は河井継之助だけだとちと華に欠けるというか。

敵に華があればいいのですが、敵は山県有朋と岩村と江戸の村田蔵六です。西郷が行った時には北越戦争は終わっています。

史実のしばりがあるので、冒険もしにくい。

十一番目の志士あたりならば、主人公が架空の人物なので冒険もできます。




池宮彰一郎「本能寺」は読みやすい。司馬さんの出来の悪いコピーバンド。

2019年01月19日 | 司馬さん
池宮彰一郎さんの「本能寺」を読んでいます。

これは悪口でもなんでもなく、かなりの部分が司馬さんのパクリです、しかも出来が悪い。出来が悪いコピーバンドです。

司馬さんの「国盗り物語」を100点とすると、池宮さんの「本能寺」は「パクリで15点ぐらいの作品」ですが、15点だって小説創作は難しいと思います。パクレるだけでも「才能」です。

ということで私にとっては「非常に読みやすい」作品です。

簡単に書くと、作者が司馬作品を通じて学んだことを、いろいろな武将の口を借りて解説しているような作品です。だから読みやすいのです。もっとも後述しますが基本トンデモ本です。

さらにいうと、司馬さんの作品と違って「つっこみができ」ます。

司馬さんの場合、全く知らない人名や「おそらく創作の人名」を挙げて、彼らの性格等を断定的に力強く描写します。

つっこめません。知らない人間だからです。

でも池宮さんの場合、そういう人物はほとんど登場せず、有名人オンパレードです。だから「つっこめる」のです。

例えば信長の最初の上洛について、足利義輝に「補佐を申し込んだ」「織田家が義輝の後ろ盾になる」と言ったのではないか、などと書かれています。

いやいや、あの段階では尾張支配の正統性を認めてもらうことがせいぜいで、上洛なんて考えてなかったでしょ、とつっこめます。

信長が「秀吉と光秀どっちがわしの後継者か」と考えるシーンも多く登場します。そんなバカな。織田家には既に信忠という「当主」がいます。しかも後継者って?光秀は信長より6つも上で、55歳ぐらいです。年上が後継者って何だ。と、つっこみどころ満載です。

またまた例えば、「信長は極端に言葉が短かった」と書かれています。「司馬作品の完全コピー」ですが、その割には「心の中では信長は多弁」です。それから光秀には極端に短い言葉しかいわないにせよ、秀吉なんかとは「いろいろ話している」ような書かれ方をしています。

あきれてしまって批判する気はあまり起きません。トンデモ本だからです。「極端に言葉が短い」という司馬さんの信長をパクったのはいいが、実際は信長はいろいろ話しますし、心では多弁に考えます。信長が話しているというより、作者の考えを信長が述べている感じです。とにかく筆者の考えがどんどん出てきて、「私はこう思う」という部分がほとんどを占めています。しかも「こう思う」に独創性はなく、いろんな学説・珍説の受け売りです。どっかでみたような「説」の「ごった煮」で、だから叙述の各所に矛盾が生じています。

このように、基本的には「トンデモ」本です。最後は本当にトンデモで本能寺秀吉クーデター説・細川藤孝及び朝廷陰謀説になってしまいます。秀吉が信長を殺そうとする。秀吉をそう誘導したのは細川藤孝。藤孝が光秀にそれを流す。そしてそれを知った光秀は、「秀吉の陰謀を防ぐため、秀吉が殺す前に、自分が信長を殺す」。秀吉は中国に信長を呼んで、押し込めた上に、信長の名で全国に号令を発する計画を立てるわけですが、それを「防ぐためには信長を利用されないよう殺す」という「わけわからない」設定で本能寺が起こります。バカバカしいにもほどがある。理屈も通っていません。

とにかく秀吉が大嫌いみたいで、秀吉の評価も散々ですし、安国寺恵瓊を何度も罵倒しています。同じトンデモ本である「信長の棺」の影響か、と思ったのですが、「本能寺」の方が早く書かれています。「信長の棺」も相当ひどい作品でしたが、「本能寺」はさらに上をいっています。

秀吉のクーデターにしてからが、ある日ひょいと中国戦線に現れた細川藤孝が「そそのかした」ことになっています。細川藤孝が「このままでは今後秀吉に織田家での居場所はない。」とかいうと、「それなら信長を殺そう」と秀吉が言いだします。アホかというお話です。

光秀は最後「藤孝や近衛前久や千利休にそそのかされ、騙された」とか考えます。「そそのかされるような」、うかつで軽薄な人物を主人公にしてもらっても困ります。

なんでもかんでも近衛前久、どーしてそんなに朝廷陰謀説が好きなんでしょう。

皮肉を書いている感じになってきました。

まあこの作品も数ある駄作であることには変わりありませんが、唯一読みやすいというだけがとりえです。読む価値があるとは思えませんが。

司馬さんの「城塞」における徳川家康

2018年11月30日 | 司馬さん
司馬さんの「城塞」は1969年から71年にかけて「週刊新潮」に連載されたようです。「週刊新潮」か、とちょっと驚きました。教科書風に書けば「高度経済成長が終わる頃」になります。

しかし、実際は1971年では終わりません。田中角栄が総理であったのは1971年から74年です。田中の書いた(とされる)「日本列島改造論」はベストセラーになり、土地価格が高騰し、オイルショックもあって物価もウナギのぼり。「狂乱物価」と言われました。

つまり田中角栄が影響力を持っていた71年から80年までは「統計的には高度経済成長は終わっていた」のでしょうが、とても「安定成長期」と言えるような状況ではありませんでした。なにしろ「狂乱物価」なのです。新幹線計画を次々と打ち上げたのも田中角栄で、今走っている新幹線のほとんど(東海道を除く)は、田中の「負の遺産」または「遺産」です。

田中のことを長々と書きましたが、それなりに理由はあります。司馬さんは「土地投機」「バブル」という現象に対して極めて批判的な人でした。対談集「土地と日本人」は1976年の刊行です。

さてやっと本題。

坂本龍馬を有名人にしたのは司馬さんと武田鉄矢でしょうが、徳川家康、織田信長、新選組、秀吉、西郷などは違います。

1、秀吉、西郷の「人気」はある種の政治力が働いて、人為的に作られた。つまり征韓論を「是」とする勢力がかなり人為的に「偉人」にした。
(といっても西郷はともかく、誰がみても秀吉は凄いやつです。日本初の専制君主的存在です。)

2、徳川家康の人気は山岡荘八が作った。ウソにウソを重ねて家康を聖人君子に仕立て上げた。

3、織田信長は吉川英治である。彼が原作の「大河ドラマ太閤記」に登場した信長はたちまち国民的人気者になった。「信長を殺すな」という意見が殺到し、NHKは本当に本能寺の変を遅くした。52話の中で、本能寺は42話目である。つまり「本能寺後の秀吉」を描いた回はたった10話であった。演じたのは高橋幸治さん。知る人ぞ知る俳優さんである。

さてさてやっと本題の本題。

「城塞」において、司馬さんは徳川家康を徹底して「悪人」として描いています。これは山岡荘八がウソにウソを重ねて作りあげた聖人家康像への「批判」だと思われます。

「城塞」においては「大阪の陣」は「犯罪」とされています。大阪の陣を「企画」した徳川家康、本多正純、金地院崇伝、天海、林羅山(道春)を「ほとんど犯罪集団」と表現した箇所もあります。

それでも、その「ワル」があまりに「ワル」なので、この作品における家康はやはり主人公の一人です。悪漢小説として読めば、堂々たる主人公となります。ただし視点人物としての主人公は小幡景憲です。一応甲州流軍学の創始者とされています。しかしこの小幡に関しても司馬さんは厳しく「甲州流軍学なんてうさんくさい」とされていますし、彼もまた「犯罪の一翼を担った男」として描かれています。ただし彼の小ワルぶりは面白みがあります。一途に家康に従ったともされていません。家康を視点人物にしたら、あまりに謀略ものになり過ぎるので、やや滑稽な小幡を視点人物にしたのでしょう。もっとも物語も後半になると、視点人物としての小幡は影も形もなくなります。視点人物が存在しなくなるのです。

登場人物みんなワル、または愚人(除く、大阪の浪人武将)。というこの作品にあって、唯二?多少評価されているのは加藤清正と大阪城お女中の「お夏」ぐらいです。
(もちろん大坂側の浪人武将たちはきちんと評価されています。真田幸村、後藤又兵衛、木村重成等等。)

まとめ風に書くなら「やはり悪漢小説」です。ただし家康には「国盗り物語」の斎藤道三のような「ワルとしてのカッコよさ」はありません。深く静かにワルなのです。

時代の大変革期にあたり、人々がどう自己保身を図り生き残るか、または図ることもできず死んでいくか、また幸村たち浪人武将がいかに生きそして散ったのか、そういう「さま」が描かれており、「人生訓」と言えなくもない小説だと感じました。

とにかく面白い。ただ「家康の謀略」が凄すぎて、「多少引く」というのが、この小説を久々に読み返した私の感想です。