散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

「根の深い木」とハングルと漢字廃止と

2018年08月26日 | ドラマ
韓国時代劇「根の深い木」の主人公はイドです。第四代王世宗。ハングルの創設者として有名です。というか朝鮮王朝最高の名君とされています。

で、このハングル創設をめぐるドラマが「根の深い木」なんですが、ほぼ全てフィクションです。が、フィクションの割には「考えさせられる」面も多く、僕などは大好きな作品です。

韓国では70年代あたりから、基本的には「漢字教育をしない」ようになりました。漢字廃止とか禁止ではないのです。「教育をしない」のです。でもそうなると、ハングルしか「読めない世代」が増えていきます。そうなると本や新聞もハングル化していきます。で、今は漢字廃止に近い状況にあるようです。

ハングルは表音文字ですから、つまりは「ひらがな」(カタカナ)です。「全てがひらがなの文章」なんて日本語では読めません。

記者が汽車のニュースを書き終えて、貴社を帰社した時間は何時ですか。

きしゃがきしゃのニュースをかきおえて、きしゃをきしゃしたじかんはなんじですか。

漢字がないと、記者、汽車、貴社、帰社の区別はつかないでしょう。韓国語は事情が違うということであり、文脈から区別がつく、らしいのですが、「全て区別がつく」とは思えません。

ということで韓国においても漢字復活論はあるようですが、なかなか復活しません。すると裕福な家庭などは「塾で漢字を学ばせる」ことになります。貧富の差が「漢字力」の違いになってしまうというのも「どうかな」と思う事態です。

もっとも他国のことですし、ナショナリズムとも密接な関係があるようなので、僕などが軽い気持ちで論じることではないのかも知れません。ただ、漢字を捨てるのはいかにも「惜しい」気がします。

日本語はもともと「難しい言語」です。その上、表記が、漢字、ひらがな、カタカナの3つ。英語を合わせると4つ。携帯発の国産文字といえる「絵文字」を合わせると5つです。実際メールなどではこの五つを使ってコミュニケーションをとっていると思います。しかもその「使い分け」に特に法則はありません。つまりは「いい加減」なんですが、それでも漢字廃止に向かうことはないでしょう。

だたし「日本の漢字」の将来像については、不確定要素が多い気がします。実際私なども「急速に漢字が書けなく」なっています。漢字を書く機会がないのです。パソコンの発達で「書く機会」がほとんどありません。日本の漢字は、今後「書けなくても読めればいい」という方向に向かっていくような気がします。

それでも教育現場において廃止される可能性は考えられません。廃止する「有力な理由がない」からです。日本における文字使用の法則はきわめて「いい加減」ですが、裏を返せばナショナリズム等に影響されない「良い加減」ともいえると思います。

「六龍が飛ぶ」「根の深い木」 チョンドジョンと李氏朝鮮

2018年08月26日 | ドラマ
李氏朝鮮は一般には朝鮮王朝と呼ばれます。1392年ですから、14世紀の末、に建国されました。日本は室町時代です。鎌倉幕府の滅亡は1333年です。

教科書的には李成桂という将軍が建国したことになっています。別にそれは間違いではありません。僕はずっと「りせいけい」と読んできましたが、最近は朝鮮王朝時代劇をよく見るので「りせいけい」とは言いません。「イソンゲ」です。この「イ」というのが朝鮮王家の名字です。

イソンゲ将軍が朝鮮王朝を作ったというのは、疑いようもない史実なんですが、「実質的に作ったのは誰か」となると少し変わってきます。

実質的に作った人物はおそらく二人いて、イソンゲの「参謀」「頭脳」であったチョンドジョン、そして父親であるイソンゲから王権を奪い、チョンドジョンを殺した五男のイバンオンです。

「六龍が飛ぶ」というドラマはエンターテインメント性の強いドラマですが、史実もふんだんに盛り込まれており、李氏朝鮮の建国事情がよく分かる仕組みになっています。

もちろん「よく分かる」ためには、「史実部分」と「脚色部分」を分けて考えないといけないのですが、比較的簡単に見抜けるような気がします。

「六龍」とはこのドラマの主役です。まずチョンドジョンが先頭にいます。続いてイバンオンです。それとイソンゲ。あとは架空の人物で「民」です。剣士であるイバンジ、ムヒュル、そして女性のプニ。どうやらこの六人が「六龍」らしいのですが、まあ「チョンドジョン」と「イバンオン」の二人が主役でしょう。

チョンドジョンはキムミョンミンという人が演じていて、男の僕から見ても非常に「いい男」です。ハンサムなだけでなく品もあり、ダンディーです。

イバンオンを演じているのは、ユアインという人です。韓国では人気があるのでしょう。でもまあなんというか「えなりかずきの最高形態」みたいな顔をしています。

ユアインのイバンオンは韓国でも賛否があったようです。日本史で言えば「織田信長」のような人物です。やたら人を殺します。「力の政治」を行います。それが「えなりかずきの最高形態」ではちょっと「線が細い」というわけでしょう。また、主人公ですからどうしても美化されます。イバンオンの美化を許さない、という韓国の方も多いようです。

イバンオンは朝鮮の実質建国者ですが、「あばれ者」で「冷血」で、まあ「儒教道徳」からみればひどい人物です。親父から王権を奪うさいにも、幼い弟を二人殺しています。王になってからも「権力のある家臣」を次々殺します。

もっとも「六龍が飛ぶ」は建国段階で終わってますから、「功臣を次々殺すさま」はあまり描かれません。それどころかプニという女性との「長い愛」が描かれたりしており、かなり人間味のあるイバンオンになっています。といっても史実通り、建国段階においても次々人を殺しますが。

最近の韓国ドラマではどうもイバンオンよりチョンドジョンが高く評価されているように思えます。「歴史的には敗者」なんですが、「弟や義理の弟を次々殺したイバンオン」より「信念を貫いて死んだチョンドジョン」のほうが「朝鮮の建国者としてふさわしい」と思われているのかも知れません。朝鮮における民主主義の先達みたいな扱いを受けることさえもあります。

イバンオンの「乱世をおさめた力の政治」もそれなりに評価されてはいますが、「弟殺し」はどうも「いただけない」ようで、イバンオンの最高の功績は「三男を次の王にした」こととされることが多いようです。

ちなみにその三男とは「イド」で「世宗」です。朝鮮王朝最高の君主とされており「ハングルを作った」王様です。ドラマ「根の深い木」の主人公でもあります。





宇崎竜童さんの歌、想い出ぼろぼろ、硝子坂、とまどいトワイライト

2018年08月16日 | 日記
BSの音楽番組で、宇崎竜童さんの特集をやっていました。ご本人も出ていて、何曲か歌っていました。

「へい、竜童、いまさら言うのも変よね、歌いなさい」

とこう書いて、これがサザンの桑田さんの「歌詞」だと分かる方は、なんというか、桑田さんのもの凄いファン、もしくは「年寄り」です。なにしろ3枚目のアルバムの歌です。

そういえば一時歌いませんでした。山口百恵さんのプロデューサーのようなことをやっていた時代、歌っていなかった気がします。

「さよならの向こう側」とか「横須賀ストーリー」とか「プレイバック」とか名曲が「くさるほど」あります。

でもそういうメジャー過ぎる曲だけではなく

あとになって「宇崎竜童、阿木燿子作品だ」と分かったという名曲がいくつかあります。もちろん「私が知らなかった」だけです。

想い出ぼろぼろ、硝子坂、とまどいトワイライト

などがそういう作品です。

想い出ぼろぼろ、は内藤やす子さんです。妙にいい曲で妙にいい歌詞なのです。が宇崎作品だと知ったのはずっと後になってからです。

「いいわけ繕うその前に、優しさ装うその前に、聞いておきたいことがある。だけど。想い出ぼろぼろ、崩れるから瞳こらして闇ん中」

「だけど」の部分がたまりません。「瞳をこらす」なんて歌詞も、今の歌にはないだろうなと思います。

硝子坂は高田みづえさんです。とてつもないアイドルであったわけでも、伝説のアイドルであったわけでもありません。

だけど、この新人の若い少女のデビュー曲を「夜のヒットスタジオ」で聴いた時、「なんだこれは」と感じました。とてつもなくいい曲なのです。

しかも微妙に演歌風でもありました。少女の姿と歌が全然あってない。でもとてもいい曲なのです。随分とあとになって宇崎竜童、阿木燿子作品だと知りました。

「とまどいトワイライト」は最もマイナーでしょう。歌手の豊島たづみさんのことは何も知りません。さっきユーチューブで見て、初めてお顔も分かりました。

誰が歌っているのかもわからない曲、なのに「とてつもなくいい曲」なのです。しかもさほどヒットもしませんでした。でもいい曲で、僕はずっと聴いてきました。

これも宇崎、阿木作品です。30年後ぐらいにそれを知りました。

以上の体験のみで断定するのも変な話ですが、宇崎竜童、阿木燿子さん、物凄い才能だと思います。

長州出身有名人のイメージというか、単なる好き嫌い。

2018年08月12日 | ドラマ
単なる自分の好悪のお話です。

長州というのは今のまあ山口県です。毛利氏でした。毛利元就の時にインフレーション的拡大をした藩ですが、関ケ原で「色々あって、40万石以下の大名」になりました。

幕末は産業振興その他で、その実力は100万石に迫ったとどっかに書いてあったと思います。

「薩長」の長州ですから「有名人、有名政治家」が沢山います。

たとえば佐藤栄作。高度成長期に6年ぐらい総理をしてました。私は幼年だったので「日本の総理は佐藤栄作がずっとやる」もんだと思っていました。それぐらい長くやっていたのです。

安倍総理は「なんちゃって長州」です。本籍と選挙区は山口ですが、「東京生まれの東京育ち」、ずっと成蹊大学系の学校に行ってました。東京人ですが、何かというと「長州出身」というウソをつきます。吉田松陰の名をやたらと出しますが、多くの日本人は吉田松陰にさほどの興味はないと思います。僕もあまりありません。爺さんの岸は元A級戦犯で、佐藤栄作の兄貴です。

吉田松陰とか高杉晋作を「尊敬する」のは無理な話だと思います。なぜなら彼らが活躍した時、彼らは20代の「若造」だったのです。そして若造のまま早死にしています。20代の青年を尊敬するってのは、少なくとも僕にとっては無理な話です。

明治になって、一番出世したのは「伊藤博文」と「山縣有朋」でしょう。長く生きました。並んで有名なのは桂小五郎ですが、結核を患っており、明治になってからは精力的に活動はしていません。

桂は過激な若者ばかりの長州にあっては「大人」の風貌を備えた人で、僕なぞも嫌いではありません。特に好きでもないですが。

山縣有朋は嫌われ者で、まああまり話題になることはありません。

伊藤博文は松下村塾出身者では一番出世しましたし、ものの見方もバランスがよく、優れた政治家でしたが、なぜか「小者感」が強く、ドラマの主役とかにはならない人です。

韓国では日本より有名です。ただし「侵略者。極悪人」として有名です。ただ極悪人なら、他にもっといるような気がします。

それから上野戦争を終結した村田蔵六がいます。僕は大好きですが、知名度はほとんどありません。大村益次郎としても多少有名ですが、僕は大村益次郎は好きになれません。(同じ人物ですから論理的にはおかしいですが、日本史好きの方なら多少理解してくれると思います)

「英雄たちの選択、上野戦争」で、西郷が何かを決断したように言ってましたが、なんじゃそりゃ、という感じがします。上野戦争では西郷は指揮官の一人に過ぎません。村田蔵六が仕切ったのです。その後の戊辰戦争でも作戦をしきったのは村田で、西郷はほぼ何もやっていません。

乃木将軍も長州ですが、それが日露戦争での不幸を呼びました。彼の場合、参謀も無能だったので、兵隊の被害はとめどもなく拡大しました。収拾したのは児玉大将ですが、知名度はほとんどありません。

長州人は「地元山口への利権誘導」をあまりしませんでした。安倍総理は色々やっている気がしますが、昔の長州人は山口を特別視したりしません。

山陽新幹線にも佐藤栄作は大反対でした。あれは田中角栄がやりました。「佐藤総理の地元の山口にも新幹線ができるのですよ」という田中角栄に佐藤栄作はこう答えました。

「誰が乗るんだ。タヌキでも乗せるのか」

佐藤栄作の評価は様々でしょうが、こういう逸話など聞くと、昔の政治家はそれなりの見識を持っていたのだなと思います。角栄さんあたりから、どうも変なことになっていった気がします。


道徳教育とツルの恩返し

2018年08月12日 | ドラマ
最初に書いておきますが「くだらない話」です。オチ話みたいなもんです。

学生時代に道徳教育のシンポジウムというのか「道徳教育を考える会」みたいのに一回だけ参加したことがあります。

模擬授業の教材が「鶴の恩返し」でした。

「おじいさん、おばあさんは、見るなというツルとの約束を破ったから不幸になった」というのです。

約束は守ろう、とかいうことになっていました。

僕は「マジか」と思い、笑いをこらえるのが大変で、周りをみたのですが、意外にも真剣な顔をしている学生も少なくありませんでした。むろん一部は僕と同じように笑いをこらえて奇妙な顔をしていました。

意見交換では戦闘的に否定をしました。昔ばなしというのは禁止事項があり、その禁止を破ることで展開する。ほぼ全てがそういう構造になっている。道徳の教材としてまったくふさわしくない。そもそもこの話の原型では、娘であるツルが衰弱していくから「覗いた」のである。おじいさん、おばあさんに何の非があるのか。心配して覗いたらツルが去ってしまった。むしろ被害者ではないか。

この話を教材にしようと発想すること自体、道徳教育を深く考えていない証拠である、まあよくは覚えていませんが、僕はまだ若かったので、とにかく全否定をしました。

それ以来、道徳教育というものを真剣に「人と議論した」ことはありません。「真面目で頭の固い先生たち」が何を考えているのか理解できず「だめだこりゃ」と思っていたのです。

考えてみれば、僕のそのような「不遜な態度」もまた「だめだこりゃ」でした。

でも考えてみると、小学校時代の「道徳の時間」とか、意外と影響力があったなと思うこともあるのです。

小学校の時、「日本人は音をたてて食べ物を食べるから、西洋人から馬鹿にされる」というビデオを見たのです。

これ、意外すぎるほどの影響力がありました。

それ以来、僕は「そばをすする」ことができないのです。音がたつからです。今もできません。これがこの話のくだらないオチです。

競技スポーツについて  金メダルはいらないのだが

2018年08月12日 | ドラマ
TVで水泳をやっています。競技水泳です。涼し気でいい感じです。

それに比べると高校野球は暑そうで、汗臭い感じで、まあ見る気になりません。

学芸大という教育学部しか「なかった」大学の出身です。今は多様になっているようです。

「体育科教育学」という授業がありました。

僕は怠惰な学生だったので、授業とか真面目に受けていませんでしたが、この体育科教育学はよく覚えています。

教授の第一声が「競技スポーツは健康に悪い」ということだったからです。

そこから「部活批判」「現場の体育教師批判」がはじまりました。「なるほど」と納得できる内容でした。

難しいところです。

30年前に既に「教育学レベル」では「競技スポーツは否定」されていたのに、現場は今もそのようにはなっていません。

会社などは競争主義が基本ですから、「体育系出身者」は重宝されるなんて話もあります。

教師は「競争の功罪」を真剣に考えなくてはいけないし、実際真剣に考えている教師は多いと思います。

それでも競技スポーツは否定されませんし、オリンピックなどでメダルが少ないと、協会は散々に否定されます。

つまりは「スポーツは別に健康のためだけにやってるわけではない」ということでしょうか。

僕などは頭では競争的なスポーツのあり方を根底から「否定」しています。

それでも池江さんが金メダルをとったりすると「凄いな」と思います。

頭で考えていることと、気分が「合っていない」のです。

競技スポーツは一部の才能ある者だけがやればよく、基本的には「健康スポーツ」が主流であるべきだとは思いますが、それではたぶん「生徒たち」が納得しないでしょう。

難しい問題だと思います。

角川映画、獄門島、悪魔が来たりて笛を吹く

2018年08月02日 | ドラマ
NHKで「悪魔が来りて笛をふく」が放送されていました。録画はしましたが、まだ見ていません。

横溝正史さんの著作をよく読んだのは、ブームであった高校時代でした。

それまでの僕の読書傾向は非常に偏向していて、星新一、司馬遼太郎さん、小松左京、筒井康隆、芥川龍之介。この五名の作品だけを読み、他はほとんど読んだことがありませんでした。

他の作家は全くといっていいほど読みませんでしたが、横溝正史さんは「犬神家の一族」以来、大ブームでしかたから、何作かは読みました。

日本のスポーツ協会の状況などを知ると「いまだに因習的世界」であることを感じます。

しかし僕の住んでいる東京都大田区は、僕が生まれた段階においてもう既に都市であり、「日本の古い因習的なもの」は極めて少なかったと思います。

あるいは僕が知らなかっただけかも知れません。

だから横溝正史が描く「事件の背景となる古い日本の因習的世界」は「一種新鮮であった」ように思います。

映画では市川崑版の「獄門島」が一番好きです。調べてみると原作は1947年ですから、昭和22年に書かれています。

キャストが豪華です。

石坂浩二、大原麗子、佐分利信、司葉子、大地喜和子、ピーター、加藤武、大滝秀治とここまででもかなり豪華ですが、さらに

三木のり平、上条恒彦、松村達夫、浅野ゆう子、坂口良子、小林昭二、、、と素晴らしいキャストが揃っています。

大原麗子さんが驚くほど美しく、坂口良子さんはかわいい。

が、お二人とも故人です。惜しいことだと思います。それに他のキャストも故人となった方が多い。当時において年齢が高かったから仕方ありませんが、これもまた惜しいことだと思います。


「子供たちのため」という危険な言葉 黄門様の印籠じゃないのだから。

2018年08月01日 | ドラマ
「子供たちのため」、、、、この言葉は非常に危険であり、全体主義的、ファシズム的な言葉だと思います。あるいは「正義の言葉」と言ってもいい。

「正義の言葉」だから「誰も逆らえないし」、そして人を残酷にします。子供たちのために、を考えない人に対して残酷な攻撃を加えても、正義のためだからいい、と幻惑させてしまうのです。

誰が考えても、そんなこと言いだしたら「無限にやることが増えて」しまいます。本当に困っている子供(虐待や貧困)は救わなくてはいけない。でもあとはそんなにかまう必要はないのです。

どっから論に入ってもいいのですが、例えば「子供は近代になって発見された概念である」というところから入ってもいいし、あるいは「ディズニーの文化帝国主義」という面から入っていい。

でもそういう「社会学的な思考の言葉、小難しい言葉」はとりあえず使わず、「体験的な書き方」をしてみたいと思います。

簡単に言うと昭和40年代は、そんなに子供たちのことなんて大人は考えてなかった。でもそれなりに子供は育っているじゃないかということです。

ビートたけしさんに「みんなゴミだった」という本があります。僕の時代もそうでした。昭和40年代に僕は「子供として認識される存在」でした。

そこらにいくらでもいるゴミのような少年だったし、まわりの大人からも「ガキは向こうにいってろ、邪魔だ」と扱われる存在でした。僕だけではない、みんながそうでした。

ただ母だけは大切にしてくれました。母だけは「子供のために」を考えてくれていた。それで十分だったと思っています。「一人いれば十分」なのです。

少し時代が飛びますが、高校時代です。僕の高校は都立で、先生方は僕らにほとんど興味がありませんでした。「それがなんと心地よかった」ことか。

「あまりにかまってもらうのは迷惑」なのです。

そもそも「子供であったのか」という問題があります。ただ「体の小さな人間」だっただけではなかろうか。町にはインチキおやじが沢山いて、小学校の前で「ピンクのひよこ」とか売っていて、なんとかガキを騙して小銭をとりあげようとしていました。僕らは「かわいそうな子供」ではなく「小さな人間」でしたから、そういう「いんちき親父」の存在は百も承知です。そういうのと戦って、時には騙され、時には逃げ切り、そうして「体の大きな人間」になりました。

要するに言いたいのはこういうことです。

子供は近代になって発見された概念である。したがって「子供が子供なのかを考える」必要がある。体の小さな人間に過ぎず、特に特別な存在ではない、という意見にも耳を傾けよ。

それをあたかも「特別な存在」のようにしたのは、例えばディズニーである。これをディズニーの文化帝国主義という。

「子供のために」など考えていたら、教育現場では「無限に仕事が増えて、教師が疲弊して」しまう。考えるなら「教師のために」「親のために」を考えるべきである。

助けるべきは例えば、極めて貧困である子、虐待を受けている子、病気の子、、とこのように「限定」すべきである。あとは「あんまりかまう」べきではない。かまわなくても勝手に育つ。

「子供たちのためにを過剰に考える必要はない」という人間の意見を尊重しろ。こっちも「子供たちのために」という人間を「どうぞご自由に」と尊重するから、「そんなに考えなくてもいい」という人間の考えも尊重せよ。もし、できないとしたら、それは全体主義的思考である。


水戸黄門の印籠じゃないのですから、「子供たちのために」と言えば、「ハハー」と這いつくばると思ったら、大間違いだし、這いつくばる必要は全くありません。