散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

西郷どん 勝海舟と坂本龍馬

2018年07月30日 | ドラマ
一橋慶喜は、中川宮朝彦親王と参与会議のメンバーの酒席において、「わざと泥酔し」、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を「この三人は天下の大愚物であり大奸物」と罵倒します。そうして罵倒しておいて、泥酔状態で倒れます。目的は参与会議を崩壊させることでした。

おもしろいのはこの後です。

ぶっ倒れた一橋慶喜を「誰が運ぶか」が問題となるのです。伊達、春嶽などは「神君家康公につながる高貴なお方だから、家臣に運ばせるわけにはいかない、我々(大名が)、お運び申し上げよう」と言い、実際そのようにします。ただ久光だけは、「迷惑でごわす」と断ります。

どれだけ一橋慶喜が高貴であったかがよく分かります。人格が実際に高貴かは別の話です。家康につながるわけですから、当時としてみれば貴族の中の貴族です。

で、そういう知識を持ってから「西郷どん」を見ます。

勝海舟が慶喜に暴言じみたことを言ってます。ありえるわけないだろ!少なくとも御前で言うわけないだろ!

西郷が剣を持って慶喜を脅し、もう「縁を切る」と言います。ありえるわけないだろ!そもそも二人だけで護衛もつけず慶喜が会うわけないだろ!


ありえないことのオンパレードです。

ドラマ上の演出、だってことは分かってます。おもしろいと感じる人も多いでしょう。でも私は日頃から西郷より慶喜をずっと高く評価しているので、おもしろくもなんともない。不快です。さらに言うなら慶喜役の松田翔太のへたくそ過ぎる演技も不快です。

勝海舟の描き方、坂本龍馬の描き方。「みなさんご期待の通りの」という感じです。「ね、みなさんの期待通りの勝であり、龍馬でしょ」という感じでした。

歴史ドラマにおけるポピュリズムです。

と、文句ばっかり書いてますが、別に自分が正しいとは思いません。そう感じたというだけです。

そもそも坂本龍馬にあまり関心がないのです。西郷もそんなに高く評価してません。

勝海舟は凄いやつだと思ってます。徳川慶喜はさらに凄いやつだと思ってます。明治になって西郷から軍権を奪った村田蔵六も凄いやつです。

そういう価値観を持った人間にとっては、あの「ドラマ上の演出」は実に不愉快です。

リベラルは何故、道徳教育を嫌うのか。

2018年07月30日 | 歴史
自分で書いておいてなんなんですが、「題名がおかしい」ですね。「リベラル」とは何か。「本当に嫌っているのか」など、変な点はいくつも指摘できます。

まあTVのコメンテイターのうち、良識派とか左寄りと言われるひとが、「官製の道徳教育を嫌う」もしくは「どうせ実効性はない」などと揶揄(やゆ)するのは何故か、ぐらいの意味だと思ってください。

私の「立ち位置」を書くなら、「リベラル風」です、「風」がつくのです。凄く保守的な面もありますし、前衛的な面もある。総合すれば「リベラル風」かなと思います。人間は矛盾の総合体ですから、「イズムで生きる」なんてことはないのです。商売右翼さんとか商売サヨクさんは別にして、いや彼らこそまた矛盾の総合体であり、つまりは「みんな色々な面を持っている」はずです。

リベラル風ですから、「日の丸」とか「愛国心を声高に言う人」はまあ「好きじゃない」方です。でも自分で言うのもなんですが、日本史の知識は平均以上ぐらいにはあります。日本という国をいつも考えているのです。正直、「愛国心を声高に言う人」より「よほど私の方が日本の歴史を知っている」と思います。でも自分は愛国者だなんていう必要もないのでいいません。そういうことを大声でいうひとはほとんど「ニセモノ」だと思っています。まあ実際、ワタクシは「いわゆる愛国者」ではないでしょう。好きな面もあるが嫌いな面、改良しないといけないと考える面も日本には沢山ある。そもそも僕にとっては愛国者かどうかなんて「本当にどーでもいいこと」です。

さて本題。

今の50代とか60代の人が大学で学んだ場合、当時の大学の先生たちはほぼサヨク的でした。「ほぼ」です。ウヨク的だと「保守反動思想家」と言われて「忌み嫌われる」わけです。だからほとんどの大学の先生は「サヨク的」です。そういう人が書いた本で学ぶわけだから、どうしたって頭は「サヨク的」もしくは「リベラル的」になりがちです。そういう時代だったのです。中にはサヨク的では飽き足らず、もっと左へ行きたい人々もいました。吉本隆明氏なんかは共産党さえ「保守的」だと批判し続けていました。

そういう人たちは、カントの道徳律の影響を「自然に受けて」いることが多いと思います。別にカントを読んだことなくても、カントに影響を受けた人の本を読めば、自然に受けてしまうのです。マルクスを理解するためにはヘーゲルの理解が必要であり、ヘーゲルの理解のためにはカントの理解が必要です。

僕の場合などは、高校の倫理の時間でカントを勉強して、すっごく感動したわけです。だから自覚的に影響を受けています。

そんなに難しい話ではないのです。

「人間は自律性を持ち、みずから立てた道徳律に、みすから従う能力を持っている」というだけのことです。外在的な道徳に従う必要はないけれど、みずから立てた道徳法則に従うことは重要だ。僕はそのように解釈しました。そして「感動」したのです。

「内面化された道徳律こそ真の道徳律であり、すなわちそれこそが倫理である。同時にそこにこそ人間の真の自由がある」。高校生だった私はそのように解釈しましたし、その考えは今も変わっていません。

でも「みんなが勝手に道徳律を持ち、その個人個人の道徳律に従うなら、争いが起きる」。つまりは「万人の万人による闘争」が起きてしまうのではないか。

そこで有名なこの文章が登場します。

「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」

なんじゃそりゃ、と書きたいところですが、実はそんなに難しくはありません。「格率」さえ分かれば、そんなに難しくないのです。

格率とは「個人の道徳律」のことです。それを「個人が自由に選んだ道徳の法則」と書かずに「格率」なんて書くから分からない。そもそも「格率」なんて日本語、普通は見たことも聞いたこともないものです。なんでそんな訳になったか調べても分かりませんでしたが、要するに「訳がいけない」のです。誰がこんな日本語考えたのだろ?

「あなたは自由に自分の道徳の法則、行動の法則、基準を選ぶことができますよね。でもね、それにできるだけ普遍性を持たせなさい。普遍性がなければ、個人と個人の衝突が起き、結局誰も真の自由を得られないのですよ」

そんな感じの訳になるはずです。

「ふへん」という日本語。漢字にすると不変、普遍、不偏と3つの漢字が存在します。「不偏」は偏りがないこと。普遍は「いつでもどこでも通用すること」です。

道徳基準は大切ですよ。でも外から押し付けられた道徳基準はあまり意味がないですよ。自分で考えて、自分の意志で道徳の規準(倫理)を持ちなさい。自分の頭で考えた道徳の法則です。でもね、それが「なんでもあり」にならないようにしなくちゃいけない。そうしないと「個人の自由道徳と個人の自由道徳の激突」が起ってしまう。みんなが不自由になって、真の自由は得られませんよ。

だから「個人の道徳律」を持つ時は、それができるだけ「普遍的」であること目指しなさい。

カントの言っていることはそういうことで、別に難しいことでも何でもありません。

で、最初の話題にもどるのですが、こういうカント風の道徳思想の影響を受けた、リベラル派とか良識派の人がいるとして、そういう人から見れば、「官製の道徳教育がカント主義に基づくわけがない」と「どうしても思えて」しまうのです。

「道徳教育をやってもいいが、道徳教育の最終目標は分かっているのかい?それは人間の真の自由と解放なんだよ」と「言いたくなっちゃう」のです。

で、「なんとなく嫌い」というか「信用できない」となり、「どうしても揶揄したくなる」、、、うーんちょっと「書ききれてない」感じはしますが、まあ今の段階では、とりあえず私はそのように考えます。

普遍的な道徳律をもった人間を「人格」といい、そうした「人格」で成り立つ社会を、カントは目的の王国と呼びました。国連の成立に大きな影響を与えます。「目的の王国でこそ人は真に自由になれる」、だからカントにおける道徳の最終目標の一つは「真の自由」なのです。


西郷と一橋慶喜、人斬り半次郎のいわゆる「実像」

2018年07月28日 | ドラマ
西郷どん、ドラマですからデフォルメは当然なんですが、「ひどい方向のデフォルメ」で、なんとも言葉がありません。

言葉がないから、書きません。となると綾小路きみまろ風ですが、僕は「書きます」。

前回は「禁門の変」だったので、早送りもせずに見てみました。

西郷は「最後の最後まで戦闘に反対した平和主義者、でも足に怪我をしたので、戦を止めることができなかった」ことにされていました。

頭がクラクラするほど混乱します。何のためにそんなウソを描く必要があるのかがちっとも分かりません。それじゃあ西郷はとんだ「無能力者」ということになります。

なんでもかんでも平和主義者にしておけばいい、とでも考えているのか。どうせデフォルメするなら「かっこ悪い西郷」ではなく「かっこいい西郷」にすればいい。

ウソでもそれなら理解できます。わざわざ「かっこ悪い無能力者」にする意味がわかりません。

「西郷のいくさ好き」というのは当時も有名でした。わざわざ西郷自身が「そうじゃないんだ、必要ないくさだけをしているのだ」と弁明するほど、「いくさ好き」だったのです。

「西郷の人望好き」という言葉もよく言われました。西郷は人から人望を得ることを好むということです。人とは「薩摩人」です。薩摩人に好かれるためには平和主義者であってはならないはずです。

最後、城山で死ぬ時も、「自分は前線で死ぬ」と言い張り、少数で突撃をして、銃弾をうけ、介錯をしてもらって死にます。

そういう「中世人」的で理解不可能なところが、西郷の魅力といえば魅力です。現代人のような平和主義者の西郷なんて、何のために描く必要があるのか。

むろん僕は平和主義者です。現代日本人だからです。僕と西郷が同じ思想を持っているなら、歴史を描く意味なんてどこにもありません。

もっとも西郷は近代戦に関する知識は薄く、まあそういう意味では無能力者で、だから村田蔵六に指揮権を奪われるわけですが、それは戊辰戦争段階の話です。

さて、一橋慶喜。「策謀好きの遠山の金さんみたいな男」という意味不明のキャラです。

彼が水戸で生まれ、尊王攘夷の中心である藩で育ったこと。彼の聡明さは尊王攘夷を否定したが、彼の生まれが尊王攘夷を否定しきれなかったこと。特に「尊王」に関しては、志士たちのように「天皇なぞ玉=利用手段だ」と割り切れなかったこと。そういう重い十字架というか、「おおいなる矛盾の中で慶喜が生きていた事実」なんてものは、脚本家にとってはどうでもいいようです。ホント、言葉もありません。

慶喜は維新最大の功労者の一人です。その彼に対してあまりにリスペクトがない。

最後に桐野利秋。いわゆる「人斬り半次郎」。人を斬った経験はほとんどないはずですが、なぜか人斬り半次郎です。

彼については西郷どんの描き方は「あるいはそうかも」という面もあります。どのドラマでも「ひたすら粗暴な人斬り的人物」として描かれますが、結構政治的な活動に長じていて、政治家としての側面も大いにあります。今まではそれが描かれてこなかった。だから政治家(というより周旋家)としての半次郎を描こうとする意図は「おもしろい」かも知れません。

が、いかにも「坂本龍馬的」な薩長同盟推進派の人物として描かれているのは気になります。一つのドラマに二人の坂本龍馬はいりません。彼が長州よりだったという事実はどうやら本当みたいですが、なんか違和感は感じます。「わかりやすい人物であり過ぎる」のです。半次郎もまた「中世的思考」を大いに持った人物であり、そういう理解不可能な面が彼の魅力といえば魅力かなと思います。あまり魅力はないが、あえて書くなら理解不可能な思考法が魅力です。そういうのが全くない半次郎なんて、、、、とは思いますが、まだ登場したばかりなんで、彼に関しては今後の描かれ方を少しばかり期待してもいいかも知れません。

とにかく西郷と慶喜に関してはデタラメ過ぎます。それが魅力的なデタラメならまだいいのですが、バカバカしいデタラメは、なんというか、勘弁してくれよ、と思います。

夏休み、教師はもっともっと休むべきだ。

2018年07月24日 | 日記
中学高校の教師による部活指導は基本やめるべきです。やるのなら専属の指導者を雇用すべきです。

あまり難しいことを書いてもしょうがないので、簡潔に結論から書くと、教師は平日は定時で帰宅し、土日はなるべく体を休めて疲労をとり、「教育や授業の質を上げなくては」いけないからです。

電車の運転士は「人の命を預かる大事な職業」です。しかし、電車の運転士は特別な職業ではなく、普通の労働者である、と書いても誰も反対しないはずです。なぜって労働者だからです。

電車の運転士は滅私奉公すべきだ、と書けば、誰もが「違う」と思うはずです。

学校の教師は「人を育てる大事な職業」です。運転士と同じ大事な職業です。ところが「教師は特別な職業ではなく、普通の労働者である」と書くと、反対したり違和感を覚える人がいます。

まず教師の中にそう感じる人が少なくない。また保護者も「?」と思うでしょう。昔は「聖職」などと言われていて、その悪い「名残り」「因習」みたいなものが残っているせいであるとか、理由は色々と考えられます。

教師は滅私奉公すべきだ。昔よりはそう考える人は少なくなったでしょうが、まだ「そんな間違った考え」にこだわっている人もいます。

部活の指導の「ほとんど」は「サービス残業」なのですが、教師自身がそう考えない傾向があり、なかなか改善されません。しかし、近年になってやっとその「弊害」が指摘されるようになりした。

一歩前進ですが、「遅すぎる」というべきでしょう。

「部活指導によって生徒との信頼感が生じる」とか「生徒の理解が進む」「親も部活指導に熱心な先生を評価する」「部活がないと生徒が泣く」とかいう人もいます。それはその通りかも知れません。でも「全生徒が部活に属しているわけでもありません」し、

そもそも「サービス残業であり、教師を疲労させ、結果教育や授業の質を下げる」ものですから、そういう「もっともらしい理由」がいくらあろうとも、認めるべきではないものです。部活は部活専門の指導者を雇用して活動すればいいのです。その費用がないなら、部活自体廃止すべきです。いくら生徒の為になろうとも、労働者にサービス残業を強要するような制度は民主国家において存在を否定されるべきものです。

全ては「教師は特別な職ではなくサービス労働者である」ということを「再確認」するところからはじまります。

校長や副校長、教頭などの管理職は「特別な職である」という世間の間違った考えを「利用して」、過剰な労働を教師に押し付ける場合が多く、これは実に「たちが悪い」ことだと思われます。

また教師自身がそのような考えにとらわれたり、そういう考えをする先輩教員に遠慮したりするのも「正しいあり方」とは言えません。

教師はもっと休まなければいけません。質の高い教育をしたいなら、あらゆる因習を乗り越えて、休まなくてはいけないのです。現実的にそれがいくら難しくとも、その方向を目指すべきで、自己犠牲の陥穽にはまりこんではならないのです。

映画プロフェシーをたぶん世界で一番聴いている。

2018年07月17日 | ドラマ
眠る時、BGMとしてプロフェシーという映画を流しています。むろんオフタイマーで自動で消えます。

全体に静かで、セリフも雰囲気があって、寝る時にちょうどいい、のです。DVD吹き替えは良くありません。地上波吹き替えが素晴らしいのです。CMカットして本編だけ流しています。

もっとも、この映画を知っている人からすれば「馬鹿じゃないか」ということになると思います。

ジャンルとしては「オカルト映画」だからです。

プロフェシーは予言という意味ですが、原題を直訳すると「モスマンの予言」です。モスマンを訳すと「蛾男」です。「蛾男の予言」ですから、バカじゃないかと思う人も多いと思います。

ウィキペディアにはこうあります。

「謎の怪現象に連続して見舞われた男がそれらに意味があることを突き止めてゆくミステリー作品。アメリカで実際に目撃されたモスマンを題材にしているが、制作に関わった関係者の謎の死が相次いで発生した。また、モスマンに関わった事例なども次々事故などが相次いでいるため、「モスマンの呪い」と言われている。」

こういう風にまとめられると、「全然違うよ」と言いたくなります。一番違っているのは「それらに意味があることを突き止めていく」という部分です。

意味などないのです。モスマンはただ予言をする。災害を予言する。そこに「意味」はない。むしろ「意味がないことを理解していく物語」というべきです。

モスマンが何かも全く明らかになりません。なぜ主人公に予言するのかも明らかにされません。

モスマンは「全知」ですが、神として表現されているわけでもありません。

モスマンにかつて取りつかれ、人生を台無しにした「元教授」はこんなことを言います。

「ただ高い場所にいるから、我々に見えないものが見えるだけだ。あのビルにいる男は我々より遠くが見える。我々に見えないものが見える。だからと言って神じゃない」

もちろんモスマンは実体としては登場すらしません。ただ声だけが登場します。

こんな映画なのに、なぜか最後はハッピーエンドなのです。主人公は妻を失って人生に意味を感じることができずにいたのですが、モスマンの予言によって、新しい女性を救い、結ばれます。そして「たぶん」、人生の意味をとりもどします。

すべてが「なぜ?」のままに終わるのです。おそらくこの映画を「素晴らしい」という人は多くないでしょうが、僕にとっては最高の映画です。



加藤隆著「福音書=四つの物語」

2018年07月05日 | 歴史
加藤隆さんの主張は「四つの福音書は基本的に全く違ったもので、その意味するところ、思想もまるで違っている」というもので、どの著作でも一貫しています。

私が最も興味があるのは「新約聖書学のテキスト批判の方法」です。次に「西洋的思考の問題」にも興味がある。現代キリスト教がきわめて「西洋的なものになってしまった」のは何故か。もともと中東で生まれた宗教が、きわめて「西洋的」と言われるのは何故か。歴史的観点からはそこに興味があります。

さてそれはともかく、

四つの福音書、ルカは福音書とは言われず「ルカ文書」と言われるそうです。使徒列伝を含んだ全てをルカ文書と言うからです。ルカ福音書はルカ文書の前半部分ということになります。

四つの福音書は

マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ

です。書かれた順番もほぼこの通りと思われます。紀元一世紀半ばから二世紀初頭にかけてギリシャ語で書かれました。マタイとルカの作者は間違いなくマルコ福音書を読んでいました。しかしマタイとルカの筆者には「つながりはない」、つまり互いの福音書は読んでいなかったと考えられます。そのわりにはマタイとルカは似ています。これはマタイとルカの作者が「同じ資料を参考にしていた」からであると考えられます。それは「キリストの言葉集」のようなものでQ資料と呼ばれます。Qという文字に神秘性はありません。ドイツ語の資料という言葉の頭文字がQであったからに過ぎません。このQ資料の存在は間違いないと考えられますが、現存はしていません。断片のようなものでさえ発見されていません。

それぞれの「性質」を単純化するとこうなります。

マルコ キリストの行動を示したもの。長い説明とか教訓は多くない。神殿批判や弟子たちへの批判など、批判に満ちた書である。復活のイエスについての叙述は当初はなかったと考えられる。

マタイ かなり長い内容になっている。律法主義的な性格が強い。キリスト教がしりぞけたユダヤ教の戒律にかわって、キリスト教戒律のようなものが示されている。

ルカ  キリストのみならずその他聖人たちの行動が示されれる。キリスト教は普遍主義的でなければならない、と考える作者によって書かれた。復活のイエスの意義が強調されている。

ヨハネ 他の福音書とはだいぶ違っている。キリストのみが神であるという立場が見られる。

われわれはキリスト教というとたとえば「隣人愛」などと考えますが、それは「ルカ福音書の立場」です。ルカ文書は「普遍主義的な立場」をとっていて「万人にあてはまる真理」を語っているかのような「外形」を持っています。だからルカの立場がキリスト教の立場だと考えられてしまうことが多いのですが、それは一つの福音書の立場に過ぎません。

この四つが対立的か協調的か、どう考えるかで解釈は違ってくるのですが、加藤隆さんは「対立的」と捉えています。だから「統一的理解などもともとできない」ということになります。非常に興味深い指摘だと思います。



NCIS ネイビー犯罪捜査班 シーズン15 #23「マーシー号」の感想

2018年07月05日 | ドラマ
NCISは一番好きだった番組です。「だった」と書いているのは、現時点では一番じゃないかも知れないと思っているからです。それでも「字幕でも見る唯一の海外ドラマ」です。

目がつかれるので海外ドラマは基本字幕では見ません。でもNCISはまだシーズン8までしか吹き替えがありません。この番組だけは昔から字幕で見ています。

アビーがいなくなって最初の回です。リーブスは亡くなっています。

代わりにきたケイトという分析官は「悪くない」感じです。明るさがあって、キャラもたっています。

ただギブスの態度が露骨すぎる。「好きな飲みものは何だ」とか聞きます。

シーズン15ではアビーのラボに一回も訪れず、共演シーンもほぼ「0」でした。昏睡しているアビーの横に立っていた。画面で話した。最後のシーンに登場したが、からみはなし。

ギブスのパワハラが原因という説があり、おそらくそうなのですが、それが「シナリオ上にも反映している」なんてのは「やりすぎ」です。

ギブスは大変好きなキャラでしたが、なんだか一気に興ざめです。この番組のプロデューサーでもあり帝王なんだから、もうちょっと「大人の態度」がとれなかったのかと思います。

こうなるともう「ギブスがいなくもいいのでは」と考えます。

番組内では今のところギブスの代わりになるキャラはいません。でも他から連れてくることはできるでしょう。NCISは世界中に支部があるのだから。

この番組を続けるなら、もうギブスは66歳でもあることだし、勇退してもいいと思います。

どうせメンバーがほぼ入れ替わったのだから、主役もいれかわってもいい、わたしはそういう意見です。


大河ドラマはどこまで「古い時代」を扱ってきたか。

2018年07月01日 | ドラマ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
変な題名ですが、要するに「一番古い時代を扱った大河ドラマは何か」ということです。

これはおそらく誰でも知っていて平将門を扱った「風と雲と虹と」です。つまり10世紀半ば、が大河が扱った一番古い時代ということになります。

では後ろから二番目は何か。

これは11世紀を扱った「炎立つ」です。奥州藤原氏をその始祖の時代から扱いました。

後ろから三番目は「新平家物語」と「平清盛」です。「平清盛」は散々な悪評を得た番組で、私もそれには同意します。同じ人物を扱ったにもかかわらず「新平家物語」は素晴らしい作品です。

さらに次の時代となると「源義経」「草燃える」「義経」です。

「源義経」は古い上にビデオも残っておらず、見ていません。

「草燃える」は実は全巻が「一応残って」います。ただNHKに残っていたのではなく、家庭のビデオなんかをかき集めたもので、画像はだいぶ乱れる部分があります。

かなり前に時代劇専門チャンネルで放映されたことがありますが、その時録画に失敗して、残念なことに今は見ることができません。もう一回放映してくれないかなと思います。

さて11世紀を扱った「炎立つ」

最後に藤原泰衡が「いさぎよく平泉を完全な形で源頼朝に明け渡して」終わります。史実としては「平泉を焼き払って」逃れています。藤原泰衡に対して「やさしい台本」になっています。

「草燃える」は源頼朝、北条政子、北条義時が主人公です。

珍しくも「北条泰時」が登場します。北条泰時がまともに登場してきた時代劇、他にもあるでしょうが、私には思い浮かびません。