散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

これまで日本人は「現実のほう」を「憲法に合わせて」変えてきた。

2018年10月31日 | 政治
日本国憲法はアメリカのエリートが夢想した、アメリカ民主主義の「あるべき姿、理想」です。

それは本国のアメリカでは実現できないものだったし、今でも実現されていません。貧富の差は激しく、貧しいものは医者にかかることすらできません。

アメリカの夢、金もうけのアメリカンドリームではなく、民主主義のアメリカンドリーム。見果てぬ夢です。

むろん「日本の現実」とは少しも合っていませんでした。貧富の差は激しく、貧困ゆえの犯罪が多発していました。少年による殺人は、今とは比較にならないほど多かったのです。その大きな理由が貧困と無知でした。

そもそも日本国憲法は「日本の現実と合っていない」ものなのです。それは「理想」だからです。

だから、日本人は「現実のほう」を「憲法に合わせる努力」をしてきました。

「現実に合わないから憲法のほうを変える」なんて発想はなかったのです。現実の方を「理想に近づけよう」としてきたのです。

「現実に合わないから憲法を変えよう」

それは一見道理にあっているように見えます。

しかしそこには戦後史を考えようという思考が欠落しています。「日本憲法の理想主義的本質」が分かっていない人の考え方です。

「諸外国の英知と努力によって、平和を保つ」ことができない「現実」があるとすれば、まずはその世界の現実を変える努力をすべきです。

むろんそれは理想ですから実現はしないかもしれません。だから自衛隊はたぶん必要なのでしょう。

しかし「現実に合わないから憲法を変える」なんてことを「いちいちやっていたら」、日本は今よりとてつもなく悪い国になっていたはずです。

「現実に合わない」のは「もともとの憲法の姿」なのです。

昭和はいい時代だったなんてのは「大嘘」です。貧困と差別に満ちたひどい時代でした。憲法は全く現実とあっていませんでした。

合っていなかったから合わせようとして、日本人は現実のほうを変えてきたのです。その結果、貧困と差別は、まだあるにせよ、大きく改善しました。

平成の方が昭和の数倍「いい時代」なのです。それは「現実とあっていない理想主義的憲法」を「それでも変えない」という姿勢があって初めて実現したものです。

NHKは大河ドラマで足利義満を主役にする計画を持っているのだろうか。

2018年10月31日 | ドラマ
足利義満をTVドラマで演じた俳優はネットで調べる限り一人です。一休さんの東山紀之さん。ドラマではなく歴史番組の再現シーンで「誰も知らない役者さんが演じている場面」は除きます。

「ヒストリア」で足利義満を妙に「持ち上げて」いました。もしかすると大河の主役にする計画があるのかな、とふと感じました。

義満は皇位簒奪を目指していたと言われます。皇位とは天皇位ではなく「治天の君という立場」です。室町時代ですから「天皇号の簒奪」はありえません。天皇号は使われていないからです。平安から江戸にかけて900年ぐらい、天皇号は使用されていませんでした。

「そんなことはない、皇位簒奪なぞ考えていなかった」と「ヒストリア」に出てきた学者さん、呉座さん(著書、応仁の乱が意外に売れている)、は言っていました。

国王を名乗ったのは貿易における便宜的使用。国内に向けてはそのことを吹聴していない。息子を皇太子にしようとはしていない。親王待遇にしただけである。

という説だったと思います。

足利義満は、大河ドラマはおろか歴史TVドラマ(一休さんは除く)においても「一回も登場したことすらない」のです。金閣寺を作ったし、教科書にも重要人物として載っているにもかかわらず。

大河ドラマは皇族を主人公にしません。藤原氏等の「生粋の公家」も主人公にしません。平安時代をほとんど扱いません。室町時代もほとんど扱いません。

室町初期では大河「太平記」、足利尊氏が主人公。後醍醐天皇が副主人公格です。画期的な作品とも言えます。あと「花の乱」では日野富子が主人公。さらに画期的で純粋に室町時代を扱いました。いい作品です。室町時代を扱うと視聴率がとれないという説の根拠はこの「花の乱」14%という数字だけです。1作品のみが根拠です。しかもこれは「実にいい作品」です。「鎌倉から南北朝時代」を扱った「足利尊氏もの」、つまり「太平記」は26%と高い視聴率を誇っています。

平安時代は「風と雲と虹と」が平将門。「炎立つ」では奥州藤原家。大河が平安時代を扱ったのはこの2作品、それと「源義経」「新平家物語」「義経」「草燃える」「平清盛」を加えて計7作品です。しかし「義経もの」「草燃える」は「鎌倉時代が主」、「清盛もの2作品」も「炎立つ」も平安最末期。純粋に平安時代を扱ったのは「風と雲と虹と」だけといえましょう。

ということで「源平時代を除く平安時代は扱わない」「室町時代も基本扱わない」(戦国時代は扱う)が大河の「やり方」です。

まあ足利義満大河主人公の実現は遠いかも知れません。皇位への「そんたく」もありますが、「義満以外の登場人物が全く知らない人物となる」こともそう考える要因です。「花の乱」もそうでした。富子、義政、山名宗全、細川勝元、一休宗純ぐらいが「有名人」であったにすぎず、そのせいもあって「いい作品」なのに14%です。

そもそも「足利義満は、一休さんで1回しかTVドラマに登場したことがない。当然主人公になったこともない。」「大河では1秒も登場したことがない」わけで「ご存知の名シーン」も全く存在しません。「太平記」の最終回に「やがて三代義満で南北朝が統一された」とナレーションが流れます。「よしみつ」という名が登場したのもおそらくこの1回だけです。とにかく「意地でも登場させない」がTV界の「やり方」みたいです。

足利尊氏、義詮、義満の「足利三代」を描けば、当然鎌倉幕府の滅亡、南北朝分裂、その統一、国王問題、皇位簒奪説の真偽も扱われるわけです。これほど勉強になる作品はないと思えるだけに残念です。

なお「ドラマはフィクションだから勉強にならない」は少し違うと思います。「ドラマを見て、史実との違いを調べる」「調べなくても誰かが調べてネットに書く」から、当然「勉強になる」のです。



「花神」ファンからみた「西郷どん」と大村益次郎

2018年10月31日 | ドラマ
小説「花神」の主人公は村田蔵六(大村益次郎)です。大河ドラマでは村田蔵六(大村益次郎)、吉田松陰、高杉晋作です。

「一人の男がいる。歴史が彼を必要とした時、忽然として現われ、その使命が終ると、大急ぎで去った。もし維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は、津々浦々の枯れ木にその花を咲かせてまわる事であった。中国では花咲爺いの事を花神という。彼は、花神の仕事を背負ったのかもしれない。彼―村田蔵六。後の大村益次郎である」

実におかしな話ですが、この一文をみただけでなんだか「時々泣きそうに」なります。それほど「花神」における村田蔵六(大村益次郎)は魅力的な男です。

そういう村田ファンから「西郷どん」の村田蔵六(大村益次郎)の描き方をみてみます。

「いやいや違うだろ。違い過ぎるだろ。」という点がいくつもあります。「違う」というのは「史実と違う」ではありません。

あくまで「私のイメージとは違う」ということです。「史実はこうなんだ」という解説ではありません。

以下いくつか並べてみます。

1、北越戦争に参加しろなんて村田蔵六(大村益次郎)は西郷に言ってはいない。

むしろ「行く必要はない」と言ったのです。そのことが後に村田の命を奪う結果となります。薩摩の海江田のはなった刺客によって暗殺されるのです。
薩摩は村田が戊辰戦争の総司令官として忽然とあらわれたことに憤慨していました。
しかし西郷に「近代戦争の知識」なんてありません。西郷は近代戦の戦略にも戦術にも「うとい」人でした。ただ「人望」は大きく、また「現場指揮官」ぐらいの能力はありました。
西郷は村田の出現によって「自分の歴史的使命は終わった」ことを悟ります。たぶん「北越戦争で死のう」と思ったのです。もともと斉彬の死に際し殉死を考え、その後実際に自殺も図った人間です。

村田はそれを止めました。「アンタが新潟につく頃には戦争は終わっている」という理由でした。実際ほぼ終わっていました。西郷は戊辰戦争を転戦し、歴史的役割を終え、薩摩に引きこもります。
ただ実際には「歴史的使命」は終わってはいませんでした。廃藩置県もそうですが、最後の大仕事、「西南戦争で薩摩武士とともに死に、武士の時代を完全に終わらせる」という使命は残っていました。

戦略において無能な西郷から軍権を奪うことは村田の立場であり、基本的には対立的関係でした。「北越戦争は勝てそうにないから、ぜひ西郷さんに薩摩兵をひきいて参加してほしい」、そんなこと言うわけありません。
もっとも「江戸から西郷を追い出す」という戦略に立ったなら、あるいはその意味で「言った」可能性は残ります。

2、上野戦争の黒門攻撃の指令をなぜ描かない。

これは「翔ぶが如く」の描き方から得た「イメージ」です。
上野戦争において薩摩は最も過酷な黒門の正面攻撃を命令されます。西郷は言います。「大村さーは薩摩人を皆殺しにするつもりか」

村田は平然と答えます。「花神」では「然り」とのみ答えたことになっています。ドラマでは違います。「長州は強いが、薩摩はさらに強い。もっとも強い兵に主戦場に出ていただきたい」

西郷は答えます。「わかりもした。光栄のかぎりでごわす。この西郷も前線に立ち、そこで死にもんそ(死にましょう)」

実にいいシーンです。なぜ「描かない」のか。1分で描けるシーンなのだから入れてほしかったと思います。

にもかかわらず「西郷どん」における西郷は、上野戦争の1分ぐらいのシーンにおいて、相変わらずのアホみたいな平和主義者であり、(平和主義は現代においては最も大切ですが、これは歴史ドラマのシーンですから現代の価値観に寄り添う必要はないのです)、「いつまでこの戦争が続くのだ」とか嘆いています。数話前までは「いくさの鬼」だったはずなのに、しらっとまた平和主義者に戻っています。「平和主義者だがそれを抑えて、泣く泣く戦の鬼になっていたのだ」ということでしょうが、それすら深く描いていないので、ご都合でキャラが変わっているとしか見えません。「大河ドラマにおける、つまり歴史ドラマにおける、特に意味もない平和主義の強調」は一体誰に対するアピールなのか。女性なのか、諸外国なのか。「歴史ドラマが現代的価値観に寄り添う必要はない」というのは小学生にも分かる道理だし、小学生だって「ドラマと現実の区別ぐらいつく」と思います。


3、これは描かなくて当然だが、村田は薩摩をこう見ていた。

維新が終わったが、やがて九州から足利尊氏がごときものが出てくる。東北は心配ない。九州に備えよ。足利尊氏は人望があった。西郷さんにも人望がありますな。

村田はそうみていました。ほどなく暗殺されますが、弟子の山田(日大の創設者)に、九州に備えて関西の兵器庫に銃を補強するよう指示して死にます。実際西南戦争ではその武器が使われました。

またこうも村田は考えていました。

長州は対外国戦争、対幕府戦争、倒幕戦争、戊辰戦争を経験した。それにより長州の持つ「エネルギー」はすでに枯れ果て、今は平安を望んでいる。
しかし薩摩は倒幕段階から戦争に参加した。しかも戊辰戦争が比較的短い期間で終了した。薩摩のエネルギーはまだまだ枯れはててなどいない。集団のもつ巨大なエネルギーはやがて行き場を失い、新政府に向かってそのエネルギーを向けざる得なくなるだろう。

「3」は蛇足ですが、村田は薩摩を警戒していました。ドラマ「西郷どん」のこぶ平ちゃんのような人物とは「全く違う」と私は思っています。





沢田研二とジュリー  誰のコンサートなら1万円を払うか 問わず語り

2018年10月31日 | ドラマ
沢田研二のコンサートは8千円のようです。それで7000名も集まる。「岩盤層的ファン」ですね。70歳。驚きです。彼がジュリーなのは当然覚えてますが、俳優の岸部一徳はリーダーで「サリー」だったようです。「サリーかよ!」ってつっこみを入れたくなります。

私が誰のコンサートなら「1万円を払うのか」

そんなことに興味を持っている方は、世界の75憶人のホモサピエンスのなかで「2名いるかいないか」だと思います。だから「問わず語り」と書きました。

高校ぐらいまでは、吉田拓郎、井上陽水、ユーミンを聴いていた。さだまさしは軟弱と思っていたが嫌いではなかった。そこに彗星のごとくサザンが現れた。さらに久保田早紀さん。松原みきさん。渡辺真知子さんが現れた。

そんな世代です。実際にはコンサートにいく習性は全くありません。

拓郎が初期のアルバム(明日に向かって走れ、までのアルバム)の歌だけ歌ってくれるなら、ギリで1万円は払います。

陽水さんの1980年までのアルバムの歌なら、やはり1万円は払います。

ユーミンが「ひこうき雲」から「オリーブ」ぐらいまでの曲を歌ってくれるなら2万は払います。

小田和正さんがオフコースの歌だけ歌ってくれるなら、やはり2万は払います。

松原みきさんは故人です。だからお金の話はしません。

久保田早紀さん、つまり久米小百合さんが「夢がたり」「天界」「サウダーデ」の歌を歌ってくれるなら3万は払います。メイクはなるべく久保田早紀風にしてほしいとは思います。

サザンのコンサートには行きません。80年代までの歌なら3万でも4万でも払いますが、「行きません」。「心が躍動しすぎて倒れる危険」があるからです。

最近の、僕にとって「最近の歌手」なら、中島美嘉さんに5千円。鬼束ちひろさんが初期の歌を歌ってくれるなら6千円は払います。

番外編としてサブちゃんが「まつり」「北の漁場」、細川たかしが「望郷じょんがら」、吉幾三が「雪国」「オラ東京さ行くだ」、新沼謙治が「津軽恋女」、石川さゆりが「天城越え」を歌う「合同コンサート」なら千五百円までは払います。

アイドルのコンサートには行きません。松田聖子に3千円とか思ってますが、「熱烈的岩盤層ファン」に殺されそうな気がします。実際は1万ちょっとみたいです。

ちなみに日本で「今も歌っている一番古いアイドル女性歌手」をご存知でしょうか。「女性アイドル歌手限定」です。天地真理さんは現役ではないので除外。小柳ルミ子さんはアイドル扱いではなかったので除外。南沙織さんは現役ではないので除外。

とするならアグネス・チャンさんと麻丘めぐみさんです。麻丘めぐみさんはたぶん歌ってはいないので、つまり正解は1972年デビューの「アグネス・チャン」さんということになります。ヒット曲沢山ありますが、今は歌われていないようです。「ひなげしの花」だけではないのです。「草原の輝き」「ポケットいっぱいの秘密」「星に願いを」など色々あるのです。「草原の輝き」以外は「最初にサビが来る」ことが特徴でした。小学生の私は彼女のファンで、部屋に写真を沢山貼っていました。今も現役であることを考えると、われながら先見の明?があった気もします(笑)

その次の年ぐらいに浅田美代子さん、山口百恵さん、桜田淳子さん、キャンデーズがデビューします。キャンディーズは当初は売れませんでした。「8時だよ全員集合」で体操コントをしたりしていました。

さらにちなみに日本最初の「女性アイドル」は誰か。岡崎友紀さんか天地真理さんかが微妙ですが、アイドルとしての「強烈な爆発力」を考えると天地真理さんです。岡崎友紀さんは歌より女優として活躍しました。「アイドル歌手」ではなかったと思います。天地真理さんは1週間通してTVに出ない日はなかったですし、冠番組も沢山持ってました。強烈な爆発力でした。吉田拓郎最大のヒット曲「旅の宿」が天地真理さんの曲にはばまれて、なかなかオリコン1位になれず、悔しい思いをしたので「天地真理さんの凄さ」はよく覚えています。

男性だと初代ジャニーズのデビューは1962年のようです。そしてザタイガース、つまりジュリーのデビューは1966年です。

誰も興味をもたない話をかいて申し訳ありません。

2020年の大河ドラマは「麒麟がくる」またの名を「国盗り物語」 明智光秀が主人公 キャストの予想を少しだけ

2018年10月30日 | ドラマ
2020年の大河ドラマは明智光秀を主人公に据えた「麒麟がくる」です。一応「オリジナル脚本」ということになっています。

分かっているのは「明智光秀を斎藤道三の家臣」という設定にすること。ただし斎藤道三は「二代で国盗りをした」とすること。

織田信長を明智光秀の「盟友」とすること。つまり「光秀はそもそも信長と同格意識を持っていた」とすること。

ぐらいですが、、、、

おそらく「光秀と信長は道三の弟子という共通点を持つ」と設定すると思います。同じ弟子なので「同格」「盟友」となるのだと思います。(ここらからは予想です)

とするなら、つまりは「国盗り物語」の「新解釈を加えたリメイク版」という形になるはずです。昔の大河に変更を加えて描く、それはとてもいいことだし、それしか「大河ドラマが生き残る道」はないように思います。

「西郷どん」も主題は「翔ぶが如く」と同じでしたが、原作者(脚本家)の力量の差があまりにありすぎて、「西郷どん」はみるも無残な作品となりました。オリジナルの形をとって「翔ぶが如く」に現代アレンジを加えて描けば、あんな駄作にはならなかったでしょう。

さて「麒麟がくる」ですが、「国盗り物語」のリメイク版だと予想する理由。それは「そもそも光秀を主人公にした名著は国盗り物語しかなく」、しかも今分かっている「ほんの少しの情報」をみただけでも「設定がそっくり」だからです。ただし「最近の学説を採用する」そうなので、かなりつまらない信長、道三が登場するような嫌な予感もします。

私が光秀を知ったのは小学校6年で読んだ「国盗り物語」で、「実にかっこいい男」なのです。だからその後の光秀の扱いにはいつも不満でした。そして私の中で光秀といえば若き日の近藤正臣さん。その妻、妻木煕子、かつての大河では「お槙」なんですが、妻は中野良子さんです。若い日の二人の姿を想像してみてください。そりゃかっこいい。そして美しいのです。

さて、話を設定に戻すと「光秀を斎藤道三の家臣、弟子」とする点も同じです。史実としては「不明」が正解です。

「斎藤道三が願った見果てぬ夢、天下統一。それを託した二人の弟子が光秀と信長」、これが「国盗り物語」のモチーフです。「麒麟がくる」はたぶんそんな作品となるのでしょう。

「国盗り物語では光秀と信長は盟友ではない」、と批判されれば、それは正解です。

が、「国盗り物語」においては「光秀はそもそも義昭を立てて天下を望んだ男であり、信長とは最後まで同格意識を持っていた」もまた正解です。

いろいろ「新解釈」も登場するのでしょう。

・斎藤道三は二代で美濃をとった。
・濃姫と信長は理想的な夫婦とは言えなかった。
・信長はみずからを「神」としようとした。

などが想像できます。まあ濃姫との関係とか「神としての信長」なんてのは「新解釈でもないでもない」ですが、現代ではそう描くことが主流となっています。

とするなら「それを超える新解釈」もでてくるでしょう。信長と光秀を「盟友とする」というのはそれだけですでに「新解釈」です。

が、どんな新解釈が加えられようと、土台となるのは「国盗り物語」である、と私はそう予想します。「国盗り物語」への「反発」を脚本家が表現するだろうな、という予感も含めて「土台になる」と私は言いたいわけです。

ただ、気がかりなのは「新しい学説にしたがう」との方針。

つまり
・信長を、保守的、中世的な人物として描く。経済面での手腕も強調する。
・道三についても、最近の「つまらない学説」に従う。

ということで、相当「つまらない人物」として描かれると思います。光秀についてはその逆で、特に学説もないので、「革新的」な人物として描くのでしょう。
信長と光秀のキャラが入れ替わるという描き方をする予感がします。

それにしても気になるのは「麒麟がくる」という題名です。「仁政を行う王の前に現るという伝説上の生物、それが麒麟」です。

(日本に王などいない。中国の冊封体制に組み込まれていないからだ。天皇ならいる、なんてくだらん批判をする人が出てくることが今から多少予想できます。天皇を王と呼ぶのは普通の話です。王朝文学という言葉があります。日本に関して王朝交代説という用語もあります)

麒麟は史実としては光秀の前には現れません。すると後半が「トンデモ」になる予想が発生します。

「麒麟は一体誰の前に現れるのか」とか言われても「そりゃたぶん徳川家康もしくは徳川家の誰かなんでしょ」ということになるでしょう。家康は仁政など行っているとは思いませんが、「王」となるのは家康だからです。家康か家康近い誰かの前に麒麟は現れると予想するのが通常の思考法だと思います。史実としては江戸幕府が「多少なりとも民衆のことを考え出した」=仁政を意識したのは「寛永の大飢饉の後」と言われています。すると徳川家光ということになりますが、ドラマはそうはならないでしょう。「徳川家光、実は光秀の隠し子」とすれば可能ですが、そんな説は歴史上存在したことはありません。

ここで話をずらして、史実として「麒麟は誰の前に現れたのか」をちょっと考えてみますと、「そりゃ保科正之の前でしょ」と私は考えます。二代秀忠の隠し子で家光の弟です。家光の子、4代徳川家綱を補佐し、実質的には大老格でした。江戸初期の最高の名君と言われています。会津藩の祖でもあります。

話を戻して。

麒麟は家康か家康に近い人物の前に現れるとしか考えようがない。でも元和偃武(大阪落城、幕府体制の成立)の「はるか以前」に明智光秀は「おぐるすの里」で「名もなき民」の竹槍によって死んでいます。本能寺の変のよりわずか10日ばかり後です。

元和偃武は1615年。本能寺の変は1582年です。

この30年間、主人公の光秀を「生きていた」とする「トンデモ設定」が出てくるという「いやな予感」がよぎります。

しかも都合のいいことに、いや悪いことに「天海」つまり江戸幕府を仁政関係でささえた謎の僧、「南光坊天海は実は明智光秀だった」という「怪しげ過ぎる伝説」が存在します。

麒麟は光秀の前に現れた。とするなら「天海は光秀だった」という嘘くさいにもほどがある伝説に乗っかることにより、そういうストーリーをくむことは一応はできます。でも「それだけはやめてほしい」と願うばかりです。だって「麒麟がくる」は「大河ドラマの原点回帰」と謳っているのです。なるほどはるか昔の大河ドラマ、特に山岡荘八ものなどは「家康も柳生宗矩も、とにかく江戸幕府創設者たちは誰でも彼でも聖人君子」というトンデモ設定がなされはいました。でも天海=光秀説に「乗っかる」ような、そこまでのトンデモは流石にありません。それだけは勘弁してほしいのですが、麒麟が光秀の前に現れるためには、そんな無理をするよりほかがありません。まあ、そこまではしないでしょうし、しないことを祈るしかありません。

では、どうやって「麒麟」が「光秀の前に現れる」ストーリーを組み立てるのか。脚本の池端俊策さんは比較的堅実な作品を書く人ですが、どんな裏技を使うのでしょうか。

かつて「天地人」という大河ドラマがありました。「天地人を備えた武将」は結局作品に登場しませんでした。直江兼続は「天地人」など備えていませんでしたし、他の武将もそうです。そんな作品もあったので、結局誰の前にも現れない、のかも知れません。

ところで、題名を「ネットで調べないと分からない難しいものとした」点を私は「高く評価」します。「麒麟」の意味を多くの人が調べるでしょう。あるいは「仁政」という言葉も検索されるかも知れません。難しい題名にした。これはいいことです。体験的に言えば、小学生時代、大河には「わからない言葉」が沢山でてきました。わからないから見ないのでなく、分からないから「分かろう」として、調べたり、親に意味を聞いたりしました。そうした体験があって、私には「難しい言葉があったほうがいい」と思えてならないのです。

最後に少しだけキャストの予想を述べます。当たるはずないけど。

信長、家康、秀吉は「予想できない」。若い俳優さんが分からない。まあ信長は綾野剛さんかな。あの暗い目と少し狂気じみた感じが必要だ。秀吉は松坂桃李さんかな。家康は、若い俳優ではないけど「若い時から老成していた」ことにして高橋一生さん。斎藤道三は、準主役なわけで、阿部寛さん。道三の父、長井新左衛門尉を市川海老蔵さん。かつて平幹二朗さんが道三を演じましたが、若き日の平幹次郎さんは相当な「ハンサム」です。「まむしみたいな道三」は必要ないと考えます。

光秀の妻は新鮮味を重視して吉岡里帆さん。この人髪を売って光秀を助けます。織田信秀は椎名桔平さん。

濃姫は新垣結衣さん。「本当に美しい濃姫」が見てみたい。ちなみに歴代最強の濃姫は「19歳の痩せていた松坂慶子さんが演じた濃姫」。ひっくり返るぐらい美しい。なにしろご本人が昔のビデオを見て、自分なのに「綺麗ねー」と言ったほどです。あまりに綺麗で、自分であることを忘れてしまったみたいです。

お市も「本当の美人」が欲しいところ。で、栗山千明さん。ガラシャは夏帆さん。足利義昭は「くせが強い人」だから堺雅人さん。生駒吉乃は満島ひかりさん。細川幽斎は若い人なんだろうな、すると岡田将生さん。

「若い信長と光秀に何か光るものを見出し、何故か助ける謎めいた美濃の油屋、どうやら武士らしい男」にオダギリジョーさん。道三の側室、深芳野に麻生久美子さん。小見の方に広末涼子さん。道三の京都の妻には井川遥さん。

「光秀は早くに両親を亡くし、祖父と祖母に育てられた」と設定し、光秀の祖父に近藤正臣さん、祖母に松坂慶子さん。これは古い大河ファンにとってはかなり嬉しいキャストです。
「京都の油屋、松波屋の女主人で、実は道三の妹、信長と光秀に対して恐れも抱かず穏やかに、でも堂々ともの申す、いわば京都における信長、光秀の指南役」に常盤貴子さん。

たぶん加筆しますが、今はそんなところです。

天下騒乱その1  原作者池宮彰一郎氏と司馬遼太郎さん

2018年10月30日 | ドラマ
テレビ東京の「再放送」で「天下騒乱 徳川三代の陰謀」が放映されています。古典的ないい作品です。少なくとも古い人間にとってはそうです。

原作者は池宮彰一郎さんの「天下騒乱 鍵谷の辻」のようです。

そういえばこの作品(TVの方)、後半はやたらと鍵谷の辻に時間が割かれて「面白くなくなり」ます。前半はおもしろいのですが。

さて原作者の池宮彰一郎氏。なにかと司馬遼太郎さんの作品との「かぶり」が指摘され、盗作とまで言われてしまったようです。

私は「島津奔る」しか読んだことがありませんが、司馬さんの「関ケ原」と「かぶっている」とは「ほとんど感じません」でした。

細かく調べれば、文章の酷似とかがあるのかも知れません。ただ司馬さんの作品は「ほとんど古典的名著」と言ってよいわけで、それを真似たからと言って盗作とまで言わなくてもいいように感じます。

NHKの大河だって、司馬さん原作でなくとも、「明らかに司馬作品からの流用」と思われるシーンがいくつもあります。

そもそも「小説とは以前に書かれた小説のとの対話」という性格をもっています。たいていは「批判的対話」ですが、「同意的対話」だってあるはずです。「同意的対話」も対話の一形態には違いありません。リスペクトと言ってもいいでしょう。

「そもそものそもそも」

司馬さんの作品だって全てがオリジナルではないのです。これは批判ではありません。私は司馬さんの大ファンです。

例えば「義経」。なぜ司馬さんは頼朝でも北条義時でもなく「義経」を描いたのでしょう。それは「義経記」という古典作品があるからです。

古典のもつ歴史に耐えて語り伝えられた力をご存知だったと思います。

司馬さんの「新史太閤記」は甫庵太閤記や川角太閤記の「盗作」でしょうか。違います。リスペクトです。

「国盗り物語後編信長編」は「信長公記」の「盗作」でしょうか。新選組ものは子母澤寛氏の作品の盗作でしょうか。

むろん「斎藤道三」を初めとして、司馬さんのオリジナル性が極めて高い作品もあります。龍馬だって司馬さんの「竜馬がゆく」が書かれるまでは、大人気のキャラではなかったのです。

坂本龍馬は司馬さんの力8割、武田鉄矢の力2割で有名になった気がします。

話を最初にもどしますが、小説とは他の作品との対話であり、池宮氏の作品を「盗作」と騒ぎ立てる必要はあまりないように思います。


西郷どん 江戸城無血開城  少しばかりの新しさ

2018年10月10日 | ドラマ
西郷どん  江戸城無血開城  少しばかりの新しさを書けば

1、徳川慶喜が戦術的には「勝てた」ということを勝海舟に言わせていた。

2、山岡鉄舟の働きをやや詳しく描いていた。

3、一応、村田蔵六(大村益次郎)の天才性に触れていた。

の3つぐらいかなと思います。

以下はたぶんすでに「常識」に近いと思うのですが、

江戸のもどってからも、徳川慶喜はその気になればいくらでも戦えました。箱根の関で官軍を迎え、そこを当時東洋最大の幕府海軍が砲撃する。もっと簡単に、官軍がいなくなったすきに大阪湾に幕府海軍を回し、士気が高く練度も高い兵士を「選抜」して大阪に上陸させる。そして京都を制圧する。

この作戦をとられたらどうにもならない。天皇をかついで逃げるしかない。官軍の作戦担当である村田蔵六ものちに、というより、江戸進軍の前に、その事態を想定し、「官軍はそれをやられたら勝てない」ことを認めています。

「勝てる戦をあえてしなかった」ということを、最近のドラマは描くことがありませんでした。それを描くと徳川慶喜の「偉さ」が際立ってしまうからです。「敵前逃亡をして会津を見捨てた卑怯な慶喜」というキャラと矛盾が生じてしまうためでしょう。

私はこのブログでも維新最大の功労者の一人は徳川慶喜そして村田蔵六と書いたことがあります。司馬遼太郎さんの「受け売り」ですが、僕自身実際にそう考えています。

「あ、少数意見でもないのだな」と、西郷どんを見ていて感じました。

それにしても「西郷どん」というドラマの「つまらなさ」は何なのでしょう。「西郷を偉い人と思え」と命令されているようで不快です。それは視聴者が考えることです。

村田蔵六も登場しました。が、いきなり「戦争を知らない君らに戦争を教えましょう」とか言ってました。まあそれぐらいのことは言いそうな人ですが、それでは「天才的な戦術家」というナレーションと矛盾してしまいます。なんでいきなり薩摩を敵に回すのか。ドラマでは何故か薩摩武士は怒りませんでしたが、「いくさを知らない」なんて言ったら、薩摩武士はその場で剣を抜くでしょう。「戦術の天才」なら「いきなり」そんなこと言うわけありません。

かつての大河「花神」でも同じようなセリフは言っています。ただし海江田(後に村田の暗殺を唆した人物)が、あまりに騒ぐので、「アンタはいくさを知らん」と制しただけです。「仕方なく」言ったのです。

西郷どんのこぶ平(正蔵)のように、部屋に入ってくるなり喧嘩を売り、しかも薩摩人が誰も怒らない、なんて非現実的なシーン見せられても、「そんなバカな」と思うだけです。それにしてもなんで村田役がこぶ平さんなんだろ。

いろいろ「新説」を採用しようとしたり、重要人物もそれなりに登場させてはいるのですが、全体として「残念」としか言いようがないドラマです。



ドラマ「The Good Fight」と「パーソンオブインタレスト」のエリズベスタシオニ

2018年10月10日 | ドラマ
「The Good Fight」は米国の法廷ドラマです。CBS制作。

おそらく最初は「女の戦い」を描くつもりで制作に着手されたと思います。ヒラリーが大統領になると考えていたからです。ところがトランプになってしまった。それで「余計に面白くなった」気がします。つまり「露骨な反トランプドラマ」になっているからです。シーズン1は金融詐欺がメインテーマですが、シーズン2の終わりでは、「いかにトランプを倒すか、しかも今度の中間選挙で倒すか」がメインテーマになっています。「それとなく匂わせている」というものではなく、完全にトランプ打倒がドラマのテーマになっているのです。

それでも偏向的な政治性を感じないのは、つまりは「常識的なドラマ」であるからでしょう。トランプ政権打倒は「世界の常識」だからそれほど違和感を感じません。法律ものですから暴力的に打倒しようとするわけでもありません。テロ賛美も当然全くありません。

もっとも主人公の女性ロックハートは、シーズン2の終わりでは随分と「過激」になって、「綺麗ごとではトランプは倒せない。むこうがウソをつくなら、こっちもウソで対抗しないといけない」と考えるにいたります。ちなみに直接トランプと戦うわけではありません。トランプ的勢力、考え方と戦うのです。

日本では絶対に作れないドラマですが、シーズン3の制作も決定したようです。たぶん反トランプドラマなんて多すぎて、政権もいちいち圧力をかけてもいられないのでしょう。

それにトランプには「キリスト教福音派」という「恐ろしい岩盤支持層」がいます。私はトランプ自身よりこっちの「福音派」のほうがずっと恐ろしいと思うのですが、それについてはまた他で書きます。4つの福音書は対立的な関係にあるとか、そもそも全部筆写だから聖書のオリジナルは絶対に確定できないとか、そういう「聖書学の常識」が全く通用しない人たちです。トランプ自身は、大統領になるまで、この「福音派」のことはあまり知らなかったようです。まあ4つが対立的というのは常識とは言えませんが、日本語版を読むだけでも、4つの福音書の内容に「大きな違い」があることは明確です。あの滅茶苦茶なトランプ政権がなかなか倒れないのはこの「キリスト教福音派」という人々の「責任」です。

さて

この「グッドファイト」はドラマ「グッドワイフ」のスピンオフということになっています。出演者も重なります。「グッドワイフ」も法廷もので、シーズン4ぐらいまでは面白かったのですが、だんだんと主人公のアリシアが嫌な女になっていき、主人公の一人が意味なく死んだり(ドラマ上です)とドラマも迷走して、シーズン7で終わります。誰も幸福にならないという変な終わり方をするドラマです。グッドワイフの後半に比べたら、「グッドファイト」は「戦う対象と意味」が明確なので、ずっと理解しやすく、面白いドラマになっていると感じます。

当初はエリズベスタシオニが主人公という情報もあったようですが、結局はロックハートとルッカが主人公になっています。あとマイヤ(影が薄い)。エリズベス・タシオニが主人公の一人だったら、さらに面白くなっていたでしょう。

エリズベス・タシオニなんて書いてもドラマを見ていない方は全く分からないでしょうが、見ている方はすぐに分かります。あの赤毛の「天才過ぎる変人」弁護士です。主人公ではないけれども、グッドワイフにもグッドファイトにも出ています。NCISのアビーシュートにも匹敵するようなキャラです。

お名前はキャーリープレストンという方のようです。で、調べると「パーソンオブインタレスト」にも出演しています。さぞ「面白い犯罪者」として登場しているとおもいきや、フィンチの「思い出の人」です。というわけで、シーズン5の最終話を確かめてみました。間違いなく出演しています。いつも絵を描いているあの静かな「フィンチが愛する想い出の人」です。最後の最後にフィンチが帰っていく女性でもあります。間違いなく彼女です。あの赤毛も同じです。エリズベス・タシオニ。実生活ではフィンチ役のエマーソンさんとは本当の夫婦のようです。いろいろ驚きです。