散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

岡田准一主演・映画関ヶ原・わかりにくいで正解 

2019年05月28日 | 徳川家康
映画関ヶ原。岡田准一主演。監督原田眞人。感想をみると「おずおずと」わかりにくいと書いている方が多いのが分かります。

関ヶ原という小説を読んでいないから、という遠慮もあるようです。そんな遠慮はいらない。つまらない映画はつまらない。

十回以上読んでいる私が見ても、わかりにくい。何描いているのか分からない。それが正解だと思います。

司馬さんの設定を変えた所、つまり初芽の扱い、小早川秀秋の扱い。まったくなっていない。

初芽が忍者になっていて、出来の悪い忍者ものに変わっていたり。小早川秀秋が苦悩して騒いでいるが、何騒いでいるのか全然わからない。

そもそも司馬さんが避けて絶対描かなかった「秀吉の老害」シーンから始まるわけです。

関白秀次関係者の虐殺。

こっから始めたのでは、秀吉は残虐なる独裁者になるし、事実しつこいほど秀吉の残虐さを描いています。

なんのために? 

残虐な秀吉から始めたのでは、石田三成の義もなにもあったもんじゃありません。悪の独裁者に義を貫く義の主人公、三成では、わけが分かりません。

重要な人物である本多正信、黒田長政、加藤清正、福島正則、細川忠興、、、、役者が無名過ぎる上に、誰が誰を演じているのかちっとも分からない。

金かけて、男たちと忍者が、ただギャーギャー騒いでいるだけの映画になっています。

「おずおずと批判」しなくてもいいと思います。関ヶ原なら二年に一度ぐらい読み返している私が見ても分からない。「ひどいな」と思うのみです。

司馬遼太郎さん「覇王の家」再読・ノストラダムスの大予言

2019年04月02日 | 徳川家康
「覇王の家」司馬遼太郎さん作。徳川家康が主人公です。久々に再読しました。ノストラダムスの大予言は最後の最後に触れます。

 書きたくないって感じが伝わってくる本です。司馬さんは、豊臣秀吉「新史太閤記」は喜んで書いているように思います。でも信長と家康はそうではない。信長に関しては「書く気がなかった」とはっきり言っています。「国盗り物語、後編」です。前編の斎藤道三で終了させるつもりが、諸事情で信長編を書いたと書いています。「後編」は信長単独主人公ではなく、明智光秀も主人公です。小説「功名が辻」にも信長は一切登場しません。

 家康は「関が原」にも登場しますが、あくまで主人公は石田光成です。大阪の陣を描いた「城塞」は主人公がいない小説ですが、家康について多量の叙述があります。がまあ批判的叙述の方が多いかなと思います。 

さて「覇王の家」

 徳川家康を「ただ一点においてのみ」評価しています。 

「徳川家康というのは虚空の中にいる。地上にいるなまの人間と思えないほど、この男は自分の存在を抽象的なものにしようとしていた。中略。この男のこの精神をあらわす適当な既成の言葉がなさそうで、無私といえば哲学的でありすぎる。かれは俗流の人物で、とうてい無私という透明度の高いことばはあてはまらない。」 

ほめているのか、けなしているのか分かりません。

「自分の存在を抽象的なものとする」「でも俗な人間」、、読み終わっても司馬さんの言いたいことは私には3割も理解できなかったような気がします。 

どこまでも自分を客観視し、「自分の怒りも悲しみも喜び」も政治に利用した。自分を平凡な人間ととらえ、「殿様」「天下様」である自分を「まるで他人を教育するように」作り上げていった。 たぶんこの理解では駄目かなと思いますが、わたしはそんな風に受け取りました。

 司馬さんは「例」を挙げています。自分が天才ではないと分かっていた家康は、武田を滅ぼすや、それまでの自分の「軍法」をすべて捨て、「武田家の軍法」を「まるまる採用」した。史実かはまだ調べていません。そういう風に「今までの自分を平気で切り捨てられる」「そうして天下様の自分を作り上げていく」ことなどを「例」としてあげています。 

さて話題転換。 

「書きたくないのでは」と私は書きました。前に読んだ時も不思議に感じたのですが、ほぼ秀吉との「小牧長久手の戦い時点」で終わっているのです。関が原も大阪の陣もなし。小田原攻めもなし。いきなり「家康の最期」に移行します。 

司馬さんは秀吉の家康臣従後の歴史を描きません。これは「新史太閤記」も同じで、「家康の上洛・臣従」時点で終わっています。「覇王の家」は「さらにその前」で終わりです。 四国征伐、九州征伐、小田原攻め、そして無論朝鮮の役も描きません。「播磨灘物語」(黒田如水)はどうであったか。今手元にないので、この作品がどこまで描いていたかは記憶にありません。 そして「関が原」「城塞」(大阪の陣)に「飛ぶ」のです。 

「覇王の家」は意外にも「アクが強い作品」で、どっちかというと家康を批判している感じすら受けます。「三河武士」もほめているのか、けなしているのか、わからない作品です。 

まとまりなく書いてきましたが、最後に「ノストラダムスの大予言」

 ノストラダムスは1999年に世界が滅びるなんて予言してません。その解釈は五島勉氏のもので日本だけの解釈です。紀元後3000年以上まで予言すると本人は言っているのです。 勝手に「予言したこと」にされ、勝手に「当たらなかった」と言われては、ノストラダムスも迷惑でしょう。わたし自身はもう予言を信じるほど純粋ではないですが。 

信長は「中世の破壊者だ」と司馬さんは書いたことにされています。実際書いてはいます。でも最初に書いたように、「信長のことはほとんど書いていない」のです。「国盗り物語」信長編があるのみです。これは編集部に要請されて書いたもので、さほど積極的ではなかったことは本人も言っている通りです。 

それが「司馬は中世の破壊者だと書いたが、あれはウソだ」と言われ「本当はこうだった本」が量産されています。

ノストラダムスと違って「書いてはいる」ので仕方ない面もありますが。 そもそも「虚構」でありましょう。

だって「小説だから」です。編集部に要請され小説を書いたらウソつき扱い。「国民作家」とはつらいものです。

山岡荘八原作・大河「徳川家康」は嘘ばっかりで面白い。「真田丸」と比較してみる。

2019年03月16日 | 徳川家康
PCに向かいながら、BGMとして大河「徳川家康」を聴いていました。画面はあまり見てません。もう数回見た作品ですし。

「とことん徳川家康を聖人君子として描く」作品です。山岡荘八原作だからそうなるわけです。

嘘ばっかりですが、そこが結構面白いのです。ウソもここまで一貫すればたいしたもんだ、というところです。脚本の小山内美江子さんの「才能」も感じました。

1、嫡男・松平信康の切腹・ちなみに、今の学説では「家康と信康の対立」が原因とされることが多い事件です。

これは「真田丸」にはありません。
とにかく正妻の築山殿が「浮気はするわ、武田とは通じるわ」という悪女です。その築山殿に連座して、切腹させたとなっています。
きっかけは徳川の強大化を恐れる信長が、築山殿や信康の「ご乱行」をつかんだこととされています。信長は信康の妻(徳姫)が「昔つい書いてしまった」、信康乱行への文句の手紙を「利用する」という設定です。徳姫は実は信康を深く愛していたとされています。

けれど「信長に命令されたから殺す」とはなっていません。家康は「あくまで自分が調べ、自分の判断で処罰するのだ」と言います。つまり「あの徳川家康が信長に命令されて嫡男を殺すなんて不甲斐ないことはしない」という設定です。

で、築山殿の武田内通を信康も「なんとなく知っていた」という感じにして切腹を命じます。しかしそれでは「家康は冷酷だ」となるといけないと考えたのか、「なんとか逃がそう」とするのです。しかし信康は逃げません。家康の長男だから「立派な人」なわけです。「逃げれば自分の罪を認めることになる。だったら死ぬ。」と言って切腹します。家康は「なぜ逃げないのだ」と悲しみつつも、やはり立派な男であったと考えます。

ちなみにこの事件、司馬さんは「徳川家康は冷酷な人間だから長男や妻を殺してもさして気にもしなかった」と書いています。山岡さんの家康によほど違和感を感じていたのでしょう。「おんな城主直虎」だと「まさに魔王のような海老蔵の信長」から「じゃあ、三河殿の好きになされよ。その代わり、このわしも好きにするがな。」と脅され、阿部サダヲ演じる家康は震えあがります。

2、石川数正の豊臣への出奔

なんだか理屈が通らないのですが「徳川家の団結のために出奔した」となっています。
「豊臣と和を結ぶためには誰かがその仕事をしないといけない。しかしそれをすれば徳川家内で恨まれる。しかし恨まれても、徳川家康への忠義のため、石川数正はそれをやりとげた。彼こそ真の忠臣である」となっています。出奔すれば軍事機密がばれ、徳川家内が緊張する、引き締まる。家内の秩序の「見直し」もできる。そこまで「読んで」、家康の暗黙の了解のもと、石川数正は豊臣へ出奔したとされます。ちょっとわけがわかりません。

「真田丸」だと真田家に騙されて「魔が差してつい出奔した」とされ、石川数正は、大坂城で真田信繁に「ぐちぐち」と文句を言います。そして「最後に決断したのは自分じゃないですか。ぐち言ってないで前を向きましょう」と信繁に慰められます。

3、神君伊賀越え

何度も危機に陥りますが、落人狩りの農民も「最後はあまりに大きな家康の人徳に感化され」、ついには協力者となって家康を逃すとされています。
そこに何故か師である太原雪斎の「幻」が現れ、「お前はまだまだ民の心を知らない」とか説教します。きわめて道徳的な流れです。

「真田丸」だと、ほぼコントです。顔に泥を塗りながら、ワーワー言って「押しとおる」というお笑いシーンになっています。

4、豊臣秀頼を殺す

「真田丸」では「ちょっとあいまい」です。どうやら生かすつもりはないらしいのですが、「生かしてもいいかな」とか考えています。そこに秀忠が出てきて「生かすなんてありえない」と言います。家康は「おっそろしい息子だなー」と驚きます。

大河「徳川家康」では「絶対に生かす」です。「秀頼も淀殿も絶対生かす」が方針です。でも「秀忠が親に逆らって勝手に殺した」とされ、家康は「激怒」します。

なお、これは「成り立たない」のです。何故なら戦後、徳川家は秀頼の息子である「国松」を斬首しているからです。国松の斬首まで「秀忠が勝手にやった」は成り立ちません。秀頼を殺して家康に激怒された、けど秀頼の子供まで探しだして8歳の子の首を斬った、なんてありえない話です。

同じ山岡荘八原作の大河「春の坂道」でも「秀頼を生かそうとする家康」が描かれたそうですが、その時は出演者から「おかしいじゃない」という声がでて、山岡荘八が自ら出向いて「家康は生かそうとしたんだ」という弁舌をふるったようです。

「真田丸」の家康は人間的で面白いけれど、ちょっと「世俗的」過ぎます。大河「徳川家康」の家康は聖人君子にもほどがあり、嘘がバレバレです。私としては「真田太平記」の家康。あの中村梅之助の家康が「非常にバランスがとれていて」素晴らしいと思います。でも大河「徳川家康」は嘘を一貫して突き通したという点においては、逆に面白いとも思います。