散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

安定感のある谷口広克さんの「織田信長論」

2020年06月13日 | 織田信長
六月になってから17冊ほどの「織田信長関連本」を「読みなおしたり」、「初めて読んだり」しました。

そのうちの10冊ぐらいは「みんな同じことを言っている」という印象でした。TVにも出ている学者さんの本で、一次史料を駆使して信長がいかに「革命児でも天才でもないか」「信長のイメージがいかに虚像か」を書いているだけです。あまり生産性というものを感じませんでした。ダメ出しみたいな感じの本です。つまらない、と思いました。

そのなかで谷口克広さんの本は、「さすがだな」と感じさせてくれました。読み直したのは「信長の政略」、初めて読んだのは「織田信長の外交」です。

ここでは「織田信長の外交」の「はじめに」から、「共感した部分」を引用します。

(2014年)中世近世の各分野で顕著な実績のある研究者が、あえて信長を取り上げ、一般の読者向けにそれぞれ見解を披歴している。一冊一冊が立派な啓蒙書なのである。このような現象は、中略、私にも記憶がない。

数多くの「信長本」のなかで紹介されている信長は、それぞれ違った顔をしている。しかし、全体を通じて言えるのは、昔から評価されてきた「革命児」とかけ離れているだけでなく、「英雄」のイメージさえ薄れた地味な姿が描かれていることである。これは真実の信長像として受け入れるべきであろうか。

☆そして「学者」が「インパクトの強い説」を啓蒙書の形でだすことである種の「幻惑」が生まれはしないかと危惧しているとした上

私は、信長を革命児としても極端な英雄としても扱っていないけれど、彼の資質が他の戦国大名に比べて抜きんでていたことを認めてはいる。彼の天才的なひらめき、果敢な行動力については、信ぴょう性の高い史料からも読み取ることはできるからである。

そして、彼の行動を追って特に感じることは、彼がこの時代には珍しいほどの合理主義者だったことである。この合理主義こそが信長をして全国統一へ向けた原動力となったと考えてよいだろう。


こっからは私の意見ですが、非常に強い共感を覚えます。私が「みな同じ」と思った信長論は、おそらく関西系の流れをくむものであり、「多数派」なのでしょう。谷口広克さんは「大学の学者」ではなく、中学教諭出身の「信長の大家」です。だからこそ「党派にかかわりなく」、まっとうな意見を披歴できるのだと思います。多数派は正しいことが多いけれど、いつも正しいわけではない。特に信長関連ではそうです。「信長関連本、ドラマ好き」の私としては「大きな多数派の声」に惑わされることなく、「自分の頭で考えていこう」と思うのみです。

織田信長の天下布武の本当の意味・そもそも印章通りに行動しないといけないのか?

2020年01月01日 | 織田信長
織田信長の天下布武は

・天下=畿内の武力闘争を止めること、天下を武力でもって統一するという意味ではない。天下とは畿内、五畿内だ。
・ここでいう武とは七徳の武のこと、それは徳目であって武力という意味ではない。天下泰平の世を作りたいという信長の願いが込められている。
・なお、考えたのは信長の師匠と言われる沢彦だよ。たくひこ、じゃない。たくげんだ。信長協奏曲で、でんでんさんが演じていたのが沢彦だ。

と書けば「少し物知り」という感じが出ます。が、こんなのネットで調べれば「どこにでも書いてあること」です。

できるだけ自分の頭で考えなくてはと思います。

沢彦が考えたというのは「政秀寺古記」にあるのですが、怪しいもんです。ただし捏造とも言えない。大切なのはあまり信用しすぎないことです。

さて「布武」

「布」は「しく」ですね。公布の布。広くいきわたらす。武力をいきわたらす、武家(権門体制論の用語)をいきわたらす、というのはなるほど「少し変」なので、武=天下泰平状態をいきわたらす、の方が日本語としてはしっくりきます。

でもそのために「戦う」以外のどういう方法で「天下泰平が実現」できるのでしょうか。「秀吉のように懐柔策を用いればいい」、なるほど。でも「北条攻め」「島津攻め」「四国攻め」、実際の秀吉はどんだけ「戦っていると思っているのか」という話になってしまいます。

平和とか「天下静謐」とか「天下布武=平和」と言っても、武力の後ろ盾なしに、武威による相手の服属なしに、実現されるものではありません。「畿内平和=天下静謐」と言えば皆が従うなんてことはないのです。

というか「これが最も言いたいこと」なんですが、「そもそも信長は印章通りに行動しないといけない」のでしょうか。もうちょっと正確に書くと「印章にどんな理想を込めたにせよ、その通りに行動しないといけないのか。いやその通りに行動することを現実が許すのか」ということです。例えば徳川家康の印には「忠恕」とあります。「恕」とは許すことです。家康は秀頼も、そして自分の子供の忠輝さえも許したりしません。

さて、信長が足利義昭を奉じて上洛するのは1568年の9月です。その1年半後には「畿内ではない越前の朝倉」を攻めます。

もしこれを「足利義昭が命じたのだ」としましょう。そして信長が「印章に込めた理想通りに行動する変な武将」だとしましょう。すると「こういう風になるはずです」。

足利義昭「朝倉義景が若狭の武田元明を連れ去って、若狭を実質支配している。武藤友益を攻め、朝倉も攻めてくれ」
織田信長「駄目ですよ。越前は天下の領域じゃないし、私のモットーは布武ですから、平和的解決。印章にそう彫ってしまいましたからね。そもそも京都に攻めてこない朝倉をどうしてこっちから攻めるんですか。ついこの間まで朝倉の世話になっていたくせに、よくそんなこと言えますね」

信長が「ひたすら畿内だけの静謐を願わなくてはいけない武将」なら、こうなるはずです。

でも実際は信長は「おそらく」自分の意志で(上意と勅をもらって)さっさと朝倉を攻めて大失敗し、浅井に裏切られて金ケ崎で窮地に陥り、一旦退却ということになります。そして本当の危機が訪れます。この「畿内ではない越前朝倉への攻撃」で、信長はその後、まさに窮地に陥っていきます。戦略的には本当に大失敗でした。「天下静謐」「天下布武=平和」を守っていればいいものを。

「天下布武に信長がどんな理想を込めたか」なんて「現実の前には何の関係もないし」、「信長が印鑑に縛られる理由もない」わけです。

「天下布武の本当の意味」を「古い漢籍に遡って」、いろいろ解釈するのは自由ですが、それをもって「信長の現実の行動まで説明できる」なんてことはありません。

そもそも「印章通りに行動しないといけない理由」がないからです。「印鑑縛りで行動する武将なんていない」という、「当然のこと」に思いをはせるべきでしょう。

なお最近よく言われる「天下静謐」についても、既に批判的な意見が学者さんから若干ですが出ています。なにより提唱者の一人である金子拓さんが「あくまで信長の一面であり、私が提示した像で塗りつぶさない方がいい」とおっしゃっています。立派な方ですね。

織田信長・天下静謐論・わかりにくさ・徒然感想

2019年06月27日 | 織田信長
「織田信長天下静謐論」というのは金子拓氏が主張しているもので、同系列には神田千里氏や松下浩氏がいます。

「天皇から足利将軍に委任された京都を中心とする五畿内の天下を静謐に保つことを理想とし、天下の外にいる大名とはゆるやかな連合を目指していた、将軍追放後は天皇から信長本人が委任されたという形をとった」とされます。

本郷和人氏は神田氏の名を挙げて「資料の裏を読む作業がない」と批判しています。ちなみに本郷氏は金子氏とは同じ東京大学史料編纂所の同僚です。本郷さんが教授、金子さんが准教授。

なんで金子氏の意見は読みにくいのだろうと考えてみると「ちょっと常識で考えればおかしい」ことが多いわけです。信長の「高邁な理想」と書かれている「天下静謐」ですが、信長が生まれた時、将軍はすでに京都を離れて朽木谷あたりに逃げている事が多く、「畿内を将軍がおさめ、大名とゆるやかな連合を組む」なんて「理想とも言えない非現実的なあり方」だったわけです。

非現実だから「高邁な理想」なんでしょうが、信長がよほど観念的な非現実的夢想家じゃない限り成立しません。

ところが信長公記の記述をみると「大蛇がいないことを確認するため池の水を抜いた」とか「実証的な人物」であることを証明することが色々記載されているわけです。

革命家とか天才という評価を否定しようとすることはいいのです。でも小和田氏がやっているように「ここは革新的」「ここは前例主義」「ここは独創」「ここはオリジナルじゃない」とバランスよくやってほしいと思います。

で、なんで読みにくいかというと「形を変えた皇国史観」だからかなと思います。読みやすいという人がいる理由もそれで分かります。

金子氏のいう「天下」とはかなり抽象的な概念です。天皇・朝廷・将軍の上に「天下概念」があるわけです。天皇・将軍も天下の一部だから「信長は時には将軍や天皇を叱責した」とされます。

天皇すら越えているのですが、それはあくまで京都五畿内ともされます。「国体の護持」の国体みたいです。天皇といえど「天下静謐に背いたらいけない」らしいのです。

非常に観念的な概念で、わかりにくいのです。読めば読むほど矛盾が多く、わからなくなります。

金ヶ崎の戦い・本郷和人氏の素朴な疑問・信長が特別じゃなければ「天下統一」はないでしょ?

2019年06月27日 | 織田信長
本郷和人氏は書いています。産経の歴史ナナメ読みです。

いま学界の主流は「織田信長は、特別な戦国大名では『ない』」という評価です。それはおかしい、信長が特別じゃなければ「天下統一」はないでしょ? と反論すると、いや、彼にとっての「天下」とは近畿地方を意味するんだ、とくる。いやいや、天下が日本全体を指している用例は鎌倉時代から普通にあるじゃないか、と反論しても、戦国時代に限れば、天下=畿内ですよ、と返される。まあ、信長株はどう見ても下落しているわけですね。学界のつまはじきであるぼくは、それはおかしいでしょう、と言い続けています。分裂していた日本が一つにまとまる、という大きな変化に、ともかくも注目しようよ。その動きの中心にいた信長が、「特別でない」はずはないでしょ? と。

引用終わり。

学問的反論じゃなくて「素朴な疑問」です。信長は特別な大名ではないという人は、実に細かく資料や先行研究(同じ意見の)を引用して論を構成しますが、どうにも「最初に結論ありき」なわけです。

天正11年1568年に義昭を戴いて上洛した信長は、その一年半後には朝倉攻めをして失敗します。金ヶ崎の戦いで有名ないくさです。浅井長政が裏切った戦いです。

天下静謐論というものがあります。金子拓氏などが主張して賛同者もいます。それによると信長は「中世的要素を濃厚に残した人物」で、「天皇から足利将軍に委任された京都を中心とする五畿内の天下を静謐に保つことを理想とし、天下の外にいる大名とはゆるやかな連合を目指していた」とされます。

すると、この朝倉攻めは色々おかしいわけです。中世的要素を残していたことは否定しませんが、ひたすら天下静謐というのはおかしい。

・朝倉攻めに対する足利義昭の命令はあったのか。勅許はどうなのかが気になるところです。

これについては「若狭の武藤を討てという義昭の命令があった」とされますが、それは毛利元就あての信長の書状や朱印状で「信長が言っているだけ」の話です。

仮に若桜攻めの命令があったとしても、若狭の武藤はあっという間に降伏したのに、どうして「五畿内」にはおらず、「上洛しなかっただけで特に畿内の静謐を犯そうとしていない朝倉」に攻め入ったのでしょう。

さらに何故足利義昭が先頭にいないのでしょう。先頭じゃなくても出陣していてもいいはずですが、そのような証拠はありません。姉川の合戦でも義昭は出陣していません。

むろん金子氏や神田千里氏は「その理由」を一応は書いています。

「武藤攻めが労せず終わったため、(武藤の背後にいる朝倉を攻めるため・わたしの注)余力を持って越前に攻め入った。そう考えたほうがいいだろう」「不器用すぎる天下人」

なるほど、余力ね。

足利義昭の命令があったというのは信長が自ら出した手紙や朱印状でしか確認できないことですが、もし義昭の命令書があったなら、それを堂々と「浅井長政に」示すのが普通でしょう。
そうすれば浅井は従うか、積極的に従わないまでも邪魔はしない可能性がある。

信長が将軍の命令と書くのは当然で、命令はなかったが勝手にやったと書くわけがありません。実際若狭攻めの許可ぐらいは受けていたでしょう。しかし朝倉は話が違います。「余力で」なんて簡単に書かれても困ります。

まあ色々おかしいのですが、一種の流行があって、こういう無理な論理も受容されているようです。

今の所、公然と反論しているのは金子氏の同僚というか上司の本郷和人氏、反論というか「おかしいよ」ぐらい。それと白峰旬氏。論文をPDFで公表しているので分かります。イエズス会の報告書を用いて異議を唱えています。

松下浩「織田信長その虚像と実像」・信長の敵はみんな朝敵という暴論

2019年06月26日 | 織田信長
松下浩「織田信長その虚像と実像」

内容は「虚像と虚像」というべきものです。

151ページ

1、信長は将軍からの委任を受けて天皇の平和を実現するために、天皇の敵を敵を倒すために戦いを繰り広げているのである。
2、信長にとって天下統一とは天皇のもとに信長自身を執政者とする政権を確立することにあった。
3、天皇制を打倒して自らが名実ともに権力の頂点に上り詰めるような国家を構想することは論理的にありえない。

1、信長は楠木正成なんでしょうか。そうすると浅井・朝倉・本願寺・延暦寺・武田信玄などは全部「朝敵」ということになります。
延暦寺の当時の主は正親町天皇の弟で、延暦寺の寺領を返せという綸旨が信長にあったのですが「無視」しています。

2、天皇のもとにの具体的意味が分かりません。

3、天皇権威を利用しているのですから、打倒なんかしません。徳川幕府を見れば分かります。表向きは尊重、でも法度を出して朝廷権力を削いでいきます。

こういうこと、本気で書いているのでしょうか。怖いという感じすらします。

本能寺四国説は要因の一つに過ぎない・計画性のない明智光秀・本能寺の変は突発的出来事

2019年06月26日 | 織田信長
わけあって同じ文章を違う題名で2つ挙げていることをお詫びします。内容は同じです。

藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は「論理が飛躍しすぎてついていけない本」だとわたしは思います。

1、光秀と家臣である斎藤利三は四国の長曾我部と関係が深かった。
2、光秀たち(これを光秀派閥というそうです)は、長曾我部氏を介して(介してって何?)、西国支配への影響力を行使しようとしていた。(どうやら長曾我部・毛利→毛利にいた義昭ラインというのがあるという前提みたいです)
3、とにかく光秀派閥は四国の長曾我部と関係が深かった。しかも長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹(異母?)なので特に関係が深かった。
4、最初信長は長曾我部は殲滅しないつもりだった。光秀派閥は長曾我部とともに四国に勢力を伸ばし、西国へ影響力を行使しようとした。
5、ところが「子供たちへの土地分配=相続問題」に悩んでいた信長?は、四国を殲滅しようとした。
6、そこで光秀派閥は本能寺の変を起こした。「四国討伐」が決まったとしても、光秀が担当するなら「まだ良かった」が?、四国征伐は織田信孝・丹羽長秀の担当となった。全国平定が終わったら光秀派閥は遠国にとばされる。(四国も遠国では?)これではもう織田信長を討つより光秀派閥には進む道がなかった。(なぜ?)それを主導したのは石谷家文章を読む限り、光秀というよりむしろ斎藤利三だ。つまり「光秀派閥だ」。だから「単独犯行説」も「直前に光秀が謀反を利三に打ち明けた」という説も、まったく成り立たなくなったのだ。(そんなことはない、利三にさえ言わなかったほうが自然)
7、今までもこのことを筆者は指摘してきた。しかし江戸時代に書かれた資料(2次資料)を基にしたので検討されることが少なかった。ところが新しく石谷家文章という「1次資料」が2014年に公開された。これを読めば、「四国説」が「検討に値するものである」ことは明らか。光秀派閥が本能寺の変を起こしたのだ。織田家は血みどろの「派閥抗争の場」だったのだ。だから偶然ではなく、本能寺の変は派閥抗争の必然の結果なのだ。(どうして必然という言葉がでてくる?)

たぶん、7割程度は藤田さんの書いていることを「それなりに藤田さんの言う通りにまとめている」と思うのですが、このようにまとめても、何言いたいのかあまり正しくは理解できません。

取次としての面目を潰されたということと、「だから本能寺の変を起こすしかなかった」ということが、すんなりツナガルとは到底思えないからです。

☆四国政策の変換を一因として認めるとしても、あくまで突発的な出来事だったというのが真相だと思います。

石谷家文書とやらも、私の知る限り、本能寺に直接関わるような記述はありません。

さらに長宗我部元親の妻は、家来である斎藤利三の「親戚」に過ぎません。遠いのです。利三の兄貴の義理の弟の娘が元親婦人。家臣の遠い親戚の為に家の存亡を賭けるとも思えません。
ちなみに長宗我部元親の嫡男は信親、その信親の妻は斎藤利三の「めい」です。こっちはやや近い。

そもそも「四国征伐回避」という事態になったのは「たまたま」です。

織田信忠が京都にいて、しかも「たまたま逃げないで」戦ってくれて、死んでくれた。織田有楽も一緒にいましたが逃げています。信忠にも逃げるチャンスはありました。信忠は既に織田家家督でしたから、彼が生き延びていれば長宗我部なんか守っている場合ではありません。ただしなるほど四国派遣は信忠が生きていても一旦中止はされたでしょう。私が言いたいのは信忠が生きていたら「織田家の方針は変わらない」可能性が高いということです。信忠は武田攻めでわかるように、血気盛んな武者です。親父が「ゆっくりでいい」と言っているのに、無視して速攻をかけ、武田を滅ぼしました。戦闘的。いずれは四国征伐です。

さらに大事なのは、四国派遣軍である織田信孝の兵が逃げたことです。「逃げると予想できるわけない」のです。

光秀にとっては「渡海して長宗我部と戦っていてくれたほうが都合がいい」わけです。織田信孝と丹羽長秀が摂津の大名を集め光秀に向かってきたら、秀吉の大返しを待たずして光秀軍は弱体化します。そこに越前から柴田勝家が帰ってきたら、戦いようもありません。

四国派遣軍が消えたことで、光秀はやや延命をしました。

摂津に織田信孝と丹羽長秀が大兵力を抱えていたことは、いつも何故か「無視」されます。前述のように「むしろ四国派遣が始まっていたほうが」光秀にとっては幸いだったはずです。四国征伐を止めても、その四国派遣軍が光秀に向かってきたらどうするのでしょう。

光秀は兵が逃げること読んでいた?本能寺後の大名の動きをことごとくはずした光秀が、この事態だけを読んでいたというのは都合の良すぎる解釈です。

光秀が「明智家は滅んでもいい。とにかく面目を潰されたことが我慢ならない。四国征伐さえ止めれば、自分は死んでもいい。四国派遣軍は自分が迎え撃つ」と考えていたなら成り立ちますが、それはつまり「暴発説」ということで、特に新説というほどのこともありません。あくまで本能寺は偶発的というか突発的な出来事でした。光秀にはいくつかの動機、機会があれば討ってやろうという動機はあったと思いますが、四国もいくつか考えられる動機のたった一つに過ぎない。動機なんかないという見方もできます。状況をみて突然その気になった。つまりたまたまあの機会にチャンスが巡ってきたので突発的に行動したとも言える。それぐらいずさんです。だから織田信孝の四国派遣軍も頭に入っていないし、信忠の存在すら当初は重視していなかったのです。信忠のいる妙覚寺はきちんと包囲されておらず、だからそこ二条新御所に移動できました。きちんと計算された計画ではなく、暴発・偶発・突発。だから数日の天下で終わりました。

「長篠の戦い」・「鉄砲三千挺の三段撃ち」・「藤本正行氏の悲惨な戦い」

2019年06月25日 | 織田信長
藤本正行氏、「長篠の戦い・信長の勝因・勝頼の敗因」(歴史新書y)を読んでみました。「勝頼側の敗因は情勢分析の失敗であり、信長の勝因は、鉄砲だけでなく、総合的な戦力差を利用した作戦勝ちだった」という説明が、表紙裏についています。

難しくはないのです。でも最初「何が言いたいのか」が分かりませんでした。

何故かというと、

藤本氏は
1、信長が多数(千挺以上の鉄砲)を使って、武田を敗ったことを否定していない。
2、長篠の戦いの結果、武田家の名将が多く死んだこと。その原因が鉄砲であったことも否定していない。

のです。つまり「長篠の戦いにおいて、信長徳川軍が多数の鉄砲を投入し、その結果、武田は敗れた」と言っているわけです。無論鉄砲だけでなく「柵」とか「弓矢」の効果も認めています。「鉄砲だけで勝ったのではなく、追撃戦においても多くの敵の首を奪った」と書いてもいます。

でも、鉄砲が大きな力を発揮したこと自体は否定しません。なぜなら氏が信奉する「信長公記」にそう書いてあるからです。

にもかかわらず「鉄砲三千挺の三段撃ち」ということになると、言葉を尽くして「否定」します。「鉄砲三千挺の三段撃ち」という「信仰を持った人がいる」とまで書きます。

つまり本書を通じて「三千挺という数字」と「三段撃ちという戦術」を「ひたすら否定」するのです。
61ページには不思議な記述もあります。「(織田側が)一人でも撃たれれば、それだけで通説のような千人ずつの交代射撃を連続して行うことが不可能になるわけだ」という記述です。
?????。つまり1000人が999人になるから、「千人ずつの交代射撃は不可能」という理屈なのでしょうか。そんな馬鹿な。(私は三千挺支持者ではありませんが)

何故に「そこ」をそこまで否定する必要があろうかと私などは思います。旧日本陸軍参謀部の「日本戦史」が憎いのか。大河ドラマの「演出」が憎いのか。例によって「通説」の源泉として「司馬遼太郎氏」の名前をさりげなく挙げています。結局そこか、という感じがします。

まあ「ライフワークだから執念をもってやっている」わけで、そこは理解できるのですが、、、。

さて、最近の「いろんな学者の見方」を「なんとなくまとめてみると」、こうなると思います。

1、信長は「千挺ばかりの鉄砲」(信長公記)+予備の鉄砲隊を用意していた。まあ1500挺ばかりであろう。

2、三段撃ちは「最初の1クールだけは、350挺×3段撃ちで成立する」が、その後は各自が自分のタイミングで撃った。玉込めの時間差を考えると、自然とそうなる。つまり、戦闘を通して、ほとんどの時間は、各自が「自分のタイミングで撃っていた」。

3、それでも1500挺の鉄砲があれば、100~200発程度の弾丸が絶えずとびかっていた。

4、武田も鉄砲隊は用意していたが、玉と火薬が不足しており、撃ち続けることはできなかった。ので、「突進」した。で、鉄砲でやられてしまった。ちなみに関西では騎馬武将は「下りて戦う」が、関東では「馬上のまま戦う」ことも多かった。騎馬隊はないとしても、騎馬で戦う武将はいた。

5、追撃戦もあった。武田は追撃戦において多数の死者を出した。全員が鉄砲で死んだわけではない。

となるでしょう。「この程度の理解でいいのでは」と思うのです。「完全に史実を確定する」ことは不可能です。

ただし「鉄砲三千挺の三段撃ち」を小説家や大河ドラマが採用するのは「自由」でしょう。なぜならフィクションだからです。三千挺の三段撃ちを描いても、それで「死ぬほど迷惑を受ける人」はあまりいないはずです。

そもそも、藤本氏は「鉄砲三千挺の三段撃ち」を「信仰のように信じている人が沢山いる」と思っているらしいのですが、ほとんどの日本人は「長篠の戦いのことなんか考えてもいない」わけです。

藤本氏のやっていることは「不毛」とまでは言いませんが「悲惨な戦い」(なぎらけんいち)のような気がします。藤本氏自身「数は実はわからない」と書いています。信長公記には「千挺ばかり」とあるが、予備の鉄砲数が「わからない」ので「わからない」わけです。

だったら3000挺かも知れません。それを「各自が自分のタイミングで撃つ」としたら、「三段撃ちに似たような状況になるかも」しれません。

私は鉄砲三千挺の三段撃ちという「整然とした戦術はなかった」と思います。でも「沢山の鉄砲と玉と火薬を用意して、敵の名将を沢山倒した」わけです。で「追撃戦が可能になって」、そこでも槍刀弓で多くの敵を倒した。

それぐらいでいいのでは、それ以上にこだわるべき問題ではないのでは、と思えてなりません。

藤本氏が「歴史家ではなく小説家である司馬遼太郎氏」と「フィクションである大河ドラマ」によって、「間違った戦国史観を多くの国民が持ってしまった」ことに「憤激」しているのは分かるのですが、、、、。

私も大河ドラマが「露骨に史実と違うことを描く」ことに不快を感じることはあります。しかしそれは「西郷どん」のような近代史の場合です。戦国史においては、ある程度フィクションが入るのは当然ですし、「演出の面白さ」を考えるのも、視聴率との関係を考えると、仕方ないことだと思います。そもそも資料が少なくて「史実の完全なる確定」は「ほぼ無理」なのです。

補足
「鉄砲三千挺の三段撃ち」を極めて「濃密に」描いたのは、大河「信長、キングオブジバング」、緒方直人さん主演です。新説も入ってましたが、長篠は見事なまでの三段撃ちでした。(三千挺なのかは不明)
最初、お諏訪太鼓が鳴り響く。そして柵の彼方から「武田の騎馬隊の第一陣」が現れます。太鼓の音も小さくなり、静寂の中、騎馬隊が押し寄せてきます。
ここで、第一段の千挺が火を吹きます。武田の騎馬隊はことごとく倒れます。また「静寂」がおとずれます。すると「武田の騎馬隊第二陣」が押し寄せてきます。
鉄砲隊第二段が銃撃します。第二陣の騎馬隊もことごとく倒れます。そしてまた静寂。
武田は整然と押し寄せ、織田徳川はそれを「整然」となぎ倒していきます。

やがて柴俊夫さん演じる滝川一益が「撃つのをやめよ」と叫びます。

なぜ「やめよ」なのかの説明は番組内では「ない」のですが、私なりにこの滝川一益の「叫び」を解釈するなら、
「これは自分が知っている、いくさ、というものではない。ただの大量虐殺ではないか。」ということになろうかと思います。

見事なまでの「鉄砲三千挺の三段撃ち」です。この作品全体はさほど面白くはないのですが、このシーンは実に印象的でした。史実かどうかではありません。印象に強く残るシーンだったというお話です。

英雄たちの選択・「新視点!信長はなぜ本能寺に泊まったのか?」

2019年06月21日 | 織田信長
信長はなぜ本能寺に泊まったのか

・本能寺には四回程度しか泊まっていない。定宿は妙覚寺であった。
・しかし当日妙覚寺には織田信忠が泊まっていたので、本能寺を選んだ。

というだけのお話でした。

信忠に注目したのが「新視点」らしいのですが、わたしをも含めて、歴史ブログを書く人間なら「なんで信忠まで京都にいたのか」を考えたことはない人間は少ないと思います。

その答えが微秒です。

・信長は自分の官位を信忠に譲ろうとしていたんじゃないか。

というもの、官位は右大将です。「なんじゃないか」という感じです。磯田道史さんの言い方も「そうかも知れない」という感じでした。

この「右大将を譲る」というのは「兼見卿記」にあるわけです。しかしこれは本能寺の変があった天正10年の6月までの記述を、正月から遡って「まるまる書き直した」代物ですから、これを資料として断定するのは無理があると思ったのかも知れません。「そういう資料もある」という感じでした。

ちなみになんで書き直したかというと、吉田兼見は光秀に協力したので、しかも交際も深かったので、害を恐れて書き直しているわけです。裏を読まないといけない資料です。

一方で「三河物語」の「信長が信忠の謀反かと言った」という記述も紹介しています。

これ、資料価値の薄い資料ですが、紹介するだけで否定しないと、「信忠を右大将にしようとした」が成立しなくなります。全てを譲ろうとしていたという前提だと、謀反を起こす理由がなくなるからです。

で、「どうして信忠まで京都にいたのか」に対する番組の結論はあいまいです。「右大将にしようとしたという人もいるよ」程度です。

そして後は「信忠は戦うべきだったか。逃げるべきだったか」の「選択話」をやっていました。

4人ぐらいの歴史学者を呼んで、違う意見を述べさせ、ガチで討論させて欲しいわけですが、それは難しいようです。

歴史秘話ヒストリア・三好長慶は最初の天下人か

2019年06月20日 | 織田信長
歴史秘話ヒストリア「信長より20年早かった男 最初の「天下人」三好長慶」

三好長慶は革新的な男で、信長以前に鉄砲なども駆使し、天下つまり畿内を支配した。って信長は「世にもマジメな魔王」だったはずでは。まあそれはいいのですが。

天下は戦国時代は京都周辺・畿内のこと、なんでしょうかね。源頼朝は「天下の草創」という言葉を使っていますが、これは全国を指します。「将軍が支配する地域が天下」とすると、足利義輝が近江朽木谷に避難していた時期は「朽木谷が天下」ということになります。

信長が天下という言葉を京都という意味で使った例は知っています。しかし「いつも二重の意味があった」と考えるべきでしょう。狭義には畿内・広義には日本全土。それを強引に「畿内だけだ」と言う人がいるから、「はいそうですか」とは言いたくないわけです。

三好長慶が最初の天下人という場合、1553年から1558年まで将軍不在の京都を支配したからということが根拠となります。

どれだけ実質が伴っていたのかによりますね。例えば正親町天皇は三好長慶が京都を支配していた1557年に践祚していますが、困窮していて1560年まで即位の礼は行えませんでした。

「朝廷なんぞより京都の治安対策をしっかりやっていた」のかも知れませんが、天下人がいたなら、朝廷もそれなりに保護していないと天下人とは言えない気もします。

それに将軍不在時もあったけど、義輝が形ながらもいた時期も多いわけです。

信長の最初の上洛時、上杉謙信の上洛時。京には将軍がいました。彼らは将軍には拝謁していますが、三好長慶には会っていないようです。

天下人(畿内の支配者)並みの実力は有していたのでしょう。ただ天下人というよりあくまで「幕府執権」という感じが強くします。

そう言えば、武士で最初に京都周辺を支配というか管理したのは「六波羅探題」で、初代長官は北条泰時・北条時房でした。彼らは天下人とは言われてません。

三好長慶が最初の天下人でも別にかまいませんが、どれほどの実質を持っていたのか。それは疑問だと思います。

「いだてん」「西郷どん」の陰謀説・本能寺の陰謀説

2019年06月19日 | 織田信長
陰謀論が嫌いです。世の中に陰謀はあると思いますが、簡単にバレるようなものは陰謀とも言えないでしょう。

坂本龍馬暗殺、大久保示唆説、、、大久保が幕府見廻組に龍馬の居所を教えた?龍馬の居所なんて見廻組の探索力でも十分に見つけられるというのが定説です。大久保なら悪者にしても構わないというドラマ製作者の甘い考えが露呈しています。

本能寺陰謀説、、、あの光秀に起こせるかという論です。織田家に四人しかいない地域方面司令官なのに、失礼です。

呉座勇一氏は言います。
☆本能寺の変の黒幕説や共犯者説は、学界では全然信じられていません。ところが、世間では「黒幕がいたんでしょ」という話がまことしやかに囁かれ、実際にその説を唱えた本がベストセラーにもなっている。そうしたギャップが、近年は放置できないほどに深刻化しているように見えます。テレビや出版社が無責任に珍説を紹介するのが最大の要因だと思いますが、学界の人間がこれまで陰謀論、特に前近代のそれを黙殺し、問題点を指摘してこなかったことにも原因があるのではないでしょうか。


でも陰謀論が「大嫌いなわたしが」ふと考えるのは、大河「いだてん」と「西郷どん」は陰謀なんじゃないかということです。

むろん真剣には言ってません。

「西郷どん」はなんであんなにつまらなかったのだろう。

籾井会長時代に決まったかと思います。現総理のゴリ押しで「薩長もの」になったのかも知れません。なら「つまらなく作ってやる」という製作サイドの陰謀かも知れません。もはや「薩長同盟」とか「維新の元勲」とかでは人は飛びつきませんよということです。

「いだてん」、、、クドカンの脚本は時代考証によってかなり変更されたようです。見てないので分かりませんが面白いという人もいます。ただ「落語のくだり」がダメダメみたいです。

明治末期、大正、昭和初期、昭和40年までを「美しく描く」、、、現総理と手下の籾井が好きそうなやり口です。さらに国威発揚的でもある。

「そんなの誰も見ないよ」、、、とNHK制作班は証明したかったのかも知れません。これもまた陰謀です。

むろん全て冗談です。「いだてん」はともかく「西郷どん」は「陰謀としか思えないほど、下らない作品」でした。

本能寺四国説は主因とは言えない。本能寺はあくまで突発的な出来事。

2019年06月19日 | 織田信長
藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は「論理が飛躍しすぎてついていけない本」だとわたしは思います。

1、光秀と家臣である斎藤利三は四国の長曾我部と関係が深かった。
2、光秀たち(これを光秀派閥というそうです)は、長曾我部氏を介して(介してって何?)、西国支配への影響力を行使しようとしていた。(どうやら長曾我部・毛利→毛利にいた義昭ラインというのがあるという前提みたいです)
3、とにかく光秀派閥は四国の長曾我部と関係が深かった。しかも長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹(異母?)なので特に関係が深かった。
4、最初信長は長曾我部は殲滅しないつもりだった。光秀派閥は長曾我部とともに四国に勢力を伸ばし、西国へ影響力を行使しようとした。
5、ところが「子供たちへの土地分配=相続問題」に悩んでいた信長?は、四国を殲滅しようとした。
6、そこで光秀派閥は本能寺の変を起こした。「四国討伐」が決まったとしても、光秀が担当するなら「まだ良かった」が?、四国征伐は織田信孝・丹羽長秀の担当となった。全国平定が終わったら光秀派閥は遠国にとばされる。(四国も遠国では?)これではもう織田信長を討つより光秀派閥には進む道がなかった。(なぜ?)それを主導したのは石谷家文章を読む限り、光秀というよりむしろ斎藤利三だ。つまり「光秀派閥だ」。だから「単独犯行説」も「直前に光秀が謀反を利三に打ち明けた」という説も、まったく成り立たなくなったのだ。(そんなことはない、利三にさえ言わなかったほうが自然)
7、今までもこのことを筆者は指摘してきた。しかし江戸時代に書かれた資料(2次資料)を基にしたので検討されることが少なかった。ところが新しく石谷家文章という「1次資料」が2014年に公開された。これを読めば、「四国説」が「検討に値するものである」ことは明らか。光秀派閥が本能寺の変を起こしたのだ。織田家は血みどろの「派閥抗争の場」だったのだ。だから偶然ではなく、本能寺の変は派閥抗争の必然の結果なのだ。(どうして必然という言葉がでてくる?)

たぶん、7割程度は藤田さんの書いていることを「それなりに藤田さんの言う通りにまとめている」と思うのですが、このようにまとめても、何言いたいのかあまり正しくは理解できません。

取次としての面目を潰されたということと、「だから本能寺の変を起こすしかなかった」ということが、すんなりツナガルとは到底思えないからです。

☆四国政策の変換を一因として認めるとしても、あくまで突発的な出来事だったというのが真相だと思います。

石谷家文書とやらも、私の知る限り、本能寺に直接関わるような記述はありません。

さらに長宗我部元親の妻は、家来である斎藤利三の「親戚」に過ぎません。遠いのです。利三の兄貴の義理の弟の娘が元親婦人。家臣の遠い親戚の為に家の存亡を賭けるとも思えません。
ちなみに長宗我部元親の嫡男は信親、その信親の妻は斎藤利三の「めい」です。こっちはやや近い。

そもそも「四国征伐回避」という事態になったのは「たまたま」です。

織田信忠が京都にいて、しかも「たまたま逃げないで」戦ってくれて、死んでくれた。織田有楽も一緒にいましたが逃げています。信忠にも逃げるチャンスはありました。信忠は既に織田家家督でしたから、彼が生き延びていれば長宗我部なんか守っている場合ではありません。ただしなるほど四国派遣は信忠が生きていても一旦中止はされたでしょう。私が言いたいのは信忠が生きていたら「織田家の方針は変わらない」可能性が高いということです。信忠は武田攻めでわかるように、血気盛んな武者です。親父が「ゆっくりでいい」と言っているのに、無視して速攻をかけ、武田を滅ぼしました。戦闘的。いずれは四国征伐です。

さらに大事なのは、四国派遣軍である織田信孝の兵が逃げたことです。「逃げると予想できるわけない」のです。

光秀にとっては「渡海して長宗我部と戦っていてくれたほうが都合がいい」わけです。織田信孝と丹羽長秀が摂津の大名を集め光秀に向かってきたら、秀吉の大返しを待たずして光秀軍は弱体化します。そこに越前から柴田勝家が帰ってきたら、戦いようもありません。

四国派遣軍が消えたことで、光秀はやや延命をしました。

摂津に織田信孝と丹羽長秀が大兵力を抱えていたことは、いつも何故か「無視」されます。前述のように「むしろ四国派遣が始まっていたほうが」光秀にとっては幸いだったはずです。四国征伐を止めても、その四国派遣軍が光秀に向かってきたらどうするのでしょう。

光秀は兵が逃げること読んでいた?本能寺後の大名の動きをことごとくはずした光秀が、この事態だけを読んでいたというのは都合の良すぎる解釈です。

光秀が「明智家は滅んでもいい。とにかく面目を潰されたことが我慢ならない。四国征伐さえ止めれば、自分は死んでもいい。四国派遣軍は自分が迎え撃つ」と考えていたなら成り立ちますが、それはつまり「暴発説」ということで、特に新説というほどのこともありません。あくまで本能寺は偶発的というか突発的な出来事でした。光秀にはいくつかの動機、機会があれば討ってやろうという動機はあったと思いますが、四国もいくつか考えられる動機のたった一つに過ぎない。動機なんかないという見方もできます。状況をみて突然その気になった。つまりたまたまあの機会にチャンスが巡ってきたので突発的に行動したとも言える。それぐらいずさんです。だから織田信孝の四国派遣軍も頭に入っていないし、信忠の存在すら当初は重視していなかったのです。信忠のいる妙覚寺はきちんと包囲されておらず、だからそこ二条新御所に移動できました。きちんと計算された計画ではなく、暴発・偶発・突発。だから数日の天下で終わりました。

天下布武・織田信長・日本全土の統一

2019年05月23日 | 織田信長
信長の「天下布武」には「日本全土を統一する」という意味が込められている。と書けば、天下とは畿内だとか、武は七徳の武だとかいう「言葉遊び」がはじまります。
しかし実際の「行動」を見ずに「天下布武の解釈」だけしていても「なんの意味も」ありません。

七徳の武とは、
1.暴を禁じる 2.戦をやめる 3.大を保つ 4.功を定める 5.民を安んじる 6.衆を和す 7.財を豊かにする
であり、天下布武とは織田信長による「天下に七徳の武を布く」という思い、天下泰平の世界を築くという強い意志の表れだ、、、そうです。

また「布武」には「武を布く」なんて意味はなく、「歩く」「行動する」ぐらいの意味だという方もいます。天下布武とは天道に従って行動するという意味だということです。

じゃあ実際はどうだったのかという話です。

天下布武の印章を使い始めたのが、永禄10年の末です。そして足利義昭を奉じての上洛。

それから信長は畿内の勢力とずっと抗争を続けます。和をもって懐柔しようとした勢力もいます。浅井や松永。しかし浅井とはすぐに対立し、結局は、朝倉、浅井、延暦寺、伊勢、本願寺を敵に回して、ずっと戦い続けます。松永だって最後は敵に回ります。「どこが七徳の武なんだ」というが実際の行動です。「一時朝廷や義昭に仲介させて和を求める」ことはあっても、戦略であり、すぐに戦闘状態にもどります。

特に和を求めた大勢力は武田と上杉ですが、それも「今は敵にできないから」という戦略上の方便です。

やがて信玄が死ぬと、信長は義昭を追放し、元号を天正と改めさせます。

天正に入ると、死ぬまでの10年間、畿内だけでなく武田、上杉、毛利、長宗我部も敵に回し、戦い続けます。これを秀吉の行動と比べてみれば「和をもって」などという思考が信長になかったことは歴然としています。

アメリカは戦争ばかりしていますが、戦争が好きだと言ったことは一度もありません。あくまで「平和のために戦争をしている」のです。タテマエとしてはそうなります。「天下布武」には「平和への願いが込められている」のかも知れません。しかし信長も「平和のために戦争ばかりしている」のです。

「天下布武」の解釈を中国の古文書まで遡って、いくらいじくりまわしても、それは単なる「言葉遊び」に過ぎないでしょう。

すべての戦国武将のうち、日本全土の大名を敵に回して戦おうとした勢力はほかに一つもありません。謙信には上洛する気なぞさらさらありませんし、毛利もそうです。かろうじて信玄がいますが、すでに病に侵されており、どこまでやる気だったかには疑問が残ります。

この「信長の行動の特異性」は「歴然」としているのに、「新しいことを言うために」、天下布武の意味とかをこまごまと解釈しても意味はない。実際の行動をみて考えるべきです。

武将たちの死に様(ドラマのお話)・舞いを舞わない本能寺

2019年04月24日 | 織田信長
死の美化」、例えば現代戦争ものなどでそれをやられると、私の体は生理的にそれを拒否します。ですから以下は「時代劇での死に様」の話です。

☆「真田丸」の北条氏政

高嶋家の弟さんです。家康が「ここまででござるか」と問います。家康としては秀吉に詫びをいれて生きて欲しいのです。
氏政は答えます「ここまででござる」、凄くカッコ良かった。今まで北条氏政の描かれ方はそりゃひどいものでしたが、三谷さんは見事に「救済」しました。

☆「真田丸」の真田信繁(幸村)

何も言いません。人々の様子が回想的に流れます。「翔ぶが如く」の西郷の死のシーンに似ています。

☆「真田太平記」の真田信繁(幸村)

演者は草刈さんです。「左衛門佐、かくあいなりました。父上、これでよろしゅうござるな」と言います。
とても素晴らしいシーンです。

☆「しゅんけい尼、これでよろしいか」

これだけで「太平記」における北条高時だと分かったら、相当なマニアでしょう。北条高時の切腹です。たしかフランキー堺さん演じる長崎円喜に向かって「円喜、これでよいか」とも問います。円喜は大きくうなづきます。それから「一族全員自刃」です。「鎌倉北条氏の最期」はすさまじい。北条への復讐を生きがいにしてきた一色右馬介も、悲しい顔してたたずむのみです。足利側には「喜ぶ」者はおらず、ずっと「共に鎌倉を支えてきた北条の最期」を悼みます。脚本の池端さんは、来年の大河「麒麟がくる」の脚本担当です。

☆「われは執権である。なんで足利づれに救いを求めようか。北条家の戦いぶり、とくとご覧なされ」

これは「太平記」における北条守時です。守時は足利に同情的であり、彼の妹は足利尊氏の正室です。「足利づれ」とか言ってますが、本当は足利尊氏を同志だと思っていました。妹を逃がして「北条の滅亡」に手を貸した部分もあります。それだけに「最後の執権」として北条氏の雄姿を見せたいという決意をしていました。最後の執権ですが、彼に権力そのものはありません。権力はあくまで「北条得宗家、北条高時とその家宰である長崎円喜」にありました。

☆本能寺の織田信長

「是非に及ばす」、これは信長公記にあります。おそらく史実でしょう。本能寺の生き残りもいますから。史実にしては見事なセリフになっています。短いので解釈の余地が沢山あります。
よく考えてみると、本能寺では「人間五十年」を舞ったりしません。舞った作品もあるでしょうが、記憶にはありません。信長公記にも「舞った」とは書いてなかったはずです。「人間五十年」を舞うのは「桶狭間」の前です。空想大河ドラマ「小田信夫」では舞います。ホリケンが演じました。



戦国大名とストレスを考える。

2019年04月18日 | 織田信長
ストレスに戦国大名はどう対処していたのでしょうか。

戦国時代は「ひどい時代」です。「ドラマで見るよりずっとひどい時代」です。明日の命も分からない。人買いや奴隷もいた。「みな殺し」もあった。飢饉もある。災害もある。医学も発達していない。そして「神仏への畏怖」もある。

織田信長が沢山の人間の命を奪ったことは有名ですが、豊臣秀吉や徳川家康だって変わりはありません。

織田信長というと「迷いがない」イメージがありますが、どうなんでしょう。比叡山焼き討ち、一向一揆の殲滅、「神仏のたたり」への恐怖は全くなかったのでしょうか。「なかった」としたら、やはり異常人でしょう。我々現代人だって、たとえば仏像を焼いたりしたら、あまり気持ちのいいものではない。中世人である彼が、それを全く恐れなかったとするなら、ストレスはない代わりに、人間とも言えないような気がします。

豊臣秀吉も随分と人を殺しました。しかし「死霊への恐怖」「たたり」を恐れたという話はあまり聞きません。晩年の彼は弱気な面を見せました。これは極めて現実的で、老い、衰弱への恐怖、ストレスです。ただし自分が死ぬのは、秀次のたたりとか思っていた様子はありません。やはりストレスにはだいぶ強い人間だったように思えます。

徳川家康はちょっと違います。いわゆる健康オタクでした。程度は分かりませんが、病気へのストレスはあったでしょう。ただし死の手前まで「大病」はさほど患っていません。彼は運動が体にいいことを知っていて、晩年になっても鷹狩りをしています。本来はストレスフルな性格だったように思いますが、うまく乗り切っていたのでしょう。74歳まで生きます。当時としては長寿です。

武田信玄が「上洛」を志した時、彼は既に重篤な病気に侵されてたとされています。肺もしくは胃の病です。それでも戦場に臨みました。勇気があるというより無謀です。しかしそれでもやった。そして死んでしまう。やらなくてもどうせ死んでいたのかも知れませんが、彼などもストレスに強い人間の一人でしょう。ちなみに謙信は急死だったので、そういう逸話はあまり聞きません。

小早川秀秋、関ケ原で裏切り、そのストレスで酒乱となり、若くして死んだと言われます。ただ最近の学説というか「もはや定説じみた考え」では、「関ケ原開戦直後に裏切った」とされます。三成も分かっていたと。それは正しいのかも知れませんが、そうなると「小早川秀秋の1万5千が裏切る」ことを前提に、三成は「それでも野戦をした」ことになってしまいます。関ケ原の「定説」は「ころころ変わり」ます。

戦国時代はあれほどひどい時代なのに「不安やストレスで悩んでいた武将」の話はあまり伝わっていません。ごく普通に「あるがまま」を実践していたのかも知れません。

比叡山焼き討ちのこと・歴史秘話ヒストリアの新説?

2019年04月04日 | 織田信長
後白河法皇は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたとされています。この3つは自由にならないということです。

山法師が比叡山延暦寺の僧兵です。延暦寺は山王社の暴れ神輿を盾にして、「強訴」を繰り返していました。平清盛はこの僧兵と小競り合いになり、神輿に矢があたります。で、大騒動になり、しばらく清盛の昇進は止められます。

積極的に矢を打ち「どうだ、神罰が下ったか。このおれが血反吐を吐いてしんだか!」とドラマでは叫びます。それを民が応援します。

歴史秘話ヒストリアでは「信長は延暦寺に中立を要請して待ったが、聞き入れないので、天下静謐のため仕方なく焼き討ちをした」として「新説」と銘打ちました。どこが新説なのか?「天下静謐のため仕方なく」の部分のみです。

「仕方なく」やったのだが、児童、智慧者、上人も殺したわけです。「信長公記」にはそうあります。「仕方なく」やったわりには、虐殺となっています。仕方なくは通りません。ウソです。

虐殺というと「聞こえ」は悪いですが、比叡山の山法師は冒頭に書いたように、好き勝手(彼らにも言い分はあるが)やっていたわけです。なにより「戦国時代の話」です。信長はもっとひどいこともしています。

「(悪人とは)叡山の坊主どもよ。僧でありながら、僧刀を携えて殺生を好み、女人を近づけ、学問はぜず、寺の本尊を拝まず、仏の宝前に供華灯明さえあげずに、破戒三昧の暮らしをしている。そういうやつらの国家鎮護に何の験があるか。」

「うぬが事ごとに好みたがる、古き化け物どもを叩き壊し、すり潰して新しい世を招き入れることこそ、この信長の大仕事よ。その為には仏も死ね。」

これが「ザ信長」とでも言うべきセリフです。それを「やりたくないのだが、仕方なくやるのだ」と「麒麟がくる」では言わせるつもりなのでしょう。俳優は染谷将太くんです。

信長好きの小泉純一郎が「自民党をぶっつぶす」と言った時、国民は喝采を送りました。できるわけないと思われていたことを「やる」(やらなかったが)と言ったからです。後白河法皇さえ「自由にならぬ」と嘆いた延暦寺(僧兵武装集団)を本当に「ぶっつぶした」のが信長で、しかも400年以上前のことです。なにか問題があるのでしょうか。

なんなのだろう?「お茶の間向けじゃない」からなのか。「守旧的な若者を取り込む作戦」なのか。たしか「お江」でもみっともなく「言い訳ばかりしている信長」が描かれました。それからも変な解釈ばかり。で、唯一、私が途中で見るのをやめた作品になりました。


誰がそんな信長を「望んでいるのか」「史実とも言い難いし。別に大河は史実を描いてこなかったし。ドラマだし。」、、、、不思議です。

補足
大河「平清盛」で「王の犬」というセリフを使ったら、批判が一部の人から起きました。天皇は中国の冊封を受けてないから王ではなく「帝だ」というわけです。平安文学を「王朝文学」というように、天皇を王と呼ぶのは普通のことです。まあ、騒いだ人たちは「皇室をいやしめた」と言いたいわけではなく、「中国の冊封を受けてないから王じゃない」と言いたかったのです。どうもあれ以来、大河は「皇室」「伝統的存在」を忖度し過ぎるような気がします。「西郷どん」ではしきりと「天子様」という言葉が出てきました。でも視聴率は最低ラインです。延暦寺=仏教=日本の伝統だから、その破壊者を描いてはまずいとでも勘違いしているのか。誰に忖度しているのか。全くもって奇々怪々です。