散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

核DNA解析でたどる日本人の源流

2018年06月30日 | 歴史
「核DNA解析でたどる日本人の源流」は、国立遺伝学研究所の斎藤成也さんが2017年の9月に出版した本です。

独特な言葉遣いと、独特な論理構成がある本で、決して「読みやすい」とは言えません。ただし科学的です。一般人と学者の中間ぐらいに向けた本かなと思います。「単純に結論に飛びつこう」とすれば、それを拒否されるような「科学論文特有の難しさ」があります。

今回は2度ほど読んでみました。で私なりに「興味を持ったこと」を羅列すると以下のようになります。

1、「核DNA」という言葉がきわめて重要である。日本列島人の成立に関する今までの論は「ミトコンドリアDNA」解析で語られることが多かった。情報量としては貧しいが、それが限界であった。「核DNA」そのものが分析できるようになったことにより、分析の正確さは格段に進歩した。

2、福島の三貫地貝塚から出た人骨によって、三貫地縄文人の核DNA解析が決定された。それは2016年のことである。

3、核DNA解析によれば、縄文人のDNAはきわめて特異である。東ユーラシア人および南米人に分岐する「以前に」分岐したグループと考えられる。従って現代ヤマト人や中国人、東南アジア人からは「遠い集団」に位置している。

4、核DNA分析によれば、縄文人の遺伝子情報のうち現代ヤマト人に受け継がれたのは12%である。今まではもっと高い数値が言われていたが、より正確な分析によってその数値は12%程度と結論づけられた。

5、アイヌ人は縄文人と比較的近い位置にいるが、それでもかなり離れている。まして現代ヤマト人は縄文人とはもっと離れた位置にいる。

6、現代ヤマト人と近縁なのは、南部、北部中国人である。

7、これらの分析により、数回におよび渡来した「大陸、北方、南方からの渡来人」が「縄文人」と混血し、現代ヤマト人が形成されたことは間違いない。ただし現代ヤマト人の遺伝子は圧倒的に渡来人と近く、縄文人由来の遺伝情報は12%程度と低い。

私が読み取った内容は以上ですが、核DNA解析は今後もますます進化するようで、さらに正確な分析ができるようになるようです。

なぜ大阪城の石垣を作ったのは宇宙人ではないのか。

2018年06月29日 | 歴史
史実とは何か、、と時々考えます。多少哲学的です。

事実とは何か、という言い方もできます。今日は2018年の6月29日で、サッカーWカップのことがしきりと話題になっています。

2018年ワールドカップ

A、日本は頭脳的な作戦を使って決勝トーナメントに進出した。

B、日本は勝つことを放棄し、ブーイングを浴びながらも、決勝トーナメントに進出した。

どっちも「事実」です。今日の出来事すら解釈でだいぶ違ったものとなってしまう。だから「史実とは」と私は考えてしまうのです。

とは言うものの「大阪城の石垣を作ったのは宇宙人ではない」ことは確実のようです。誰もそんなことは言いません。

なぜって「記録」が残っていて、といってもそんなに詳細な記録はないようですが、とにかく「人間が作った」ことは「確実」のようだからです。

これが「記録がない」「記録がいい加減」となると、何言ってもいいという感じになります。ピラミッドは宇宙人が作った、と言っても一応は「信じる人もいる」という状態にはなるようです。

ただし最近は「ピラミッドを作った労働者たちの遺構」が発見されて、「二日酔いで休みたい」とか「人間的な証拠」が沢山でているようです。

どうも「ピラミッドは宇宙人が作ったのではない」こともまた明らかと言ってもいい感じにはなっています。

中学生ぐらいまでは「古代ロマン」ということで「邪馬台国はどこにあった」に興味もありました。松本清張さんの本も読みました。

でも「記録」に従うなら、「記録に忠実に」従うなら、日本を通り越して太平洋の「とんでもない場所」に邪馬台国はあったことになります。

つまり「記録がいい加減」なわけです。「いい加減」なのをいいことに「様々に解釈」する人が出てきます。ただしその中の多くの方は「それなりに真剣」です。

そういう「真剣な取り組み」を茶化す気にはならないのですが、でもやっぱり「どこまでいっても結論はでない」とは思います。

結論が出なくても、研究自体が大切なのだ、と言われると「そうかな」とも思うのですが、

考古学的証拠を「自分に都合がいいように解釈して」、「解釈の上の解釈を加え、最初から用意してある結論に合わせているだけ」と思えるような「自称研究」も多いのです。

「〇〇と自分はそう考えるが、他にこう考える余地もある」というような本当に真面目な学者さんの態度には尊敬を覚えます。

しかしながら、そういう人は少ない。「〇〇だ」と言い切って、自分の結論に酔っているような人間は、どうも苦手です。まあ自分も時々そういう態度をとりますが(笑)。

平将門は現在「朝敵」であるのか。

2018年06月28日 | ドラマ
平将門について「史実を語る」ことは、ほとんど不可能に近い作業のようです。生まれた年すらはっきりとはしません。死んだのは940年の2月です。

桓武天皇の5代後ぐらいの子孫とされますので、平氏の中でも桓武平氏の一族です。平清盛のご先祖さんではありません。平清盛のご先祖さんは、平将門を討ち取った平貞盛です。

平将門の乱は上記のように940年ごろに起きます。関東を独立国家にして「新皇」を名乗ったとされますが、異論もあるようです。ただ反乱を起こしたことそのものは、「事実」のようです。

「新皇」を本当に名乗ったのかについては諸説がある、ということです。

この頃の戦いは3000人程度のぶつかり合いのようです。将門には勢いがありました。でも結局のところ追い詰められ、藤原秀郷と平貞盛によって討ち取られます。貞盛と将門は「いとこ」の関係です。藤原秀郷は俵藤太という別名もあります。関東の多くの氏族が、この藤原秀郷を祖と仰いでいます。

この10世紀段階においては、むろん平将門は「朝敵」でした。

鎌倉幕府が成立する頃までには、将門を関東の英雄とする考えが広まっていたようです。一方で「たたり神」としても敬われていたようです。

そうした中で北条時宗の時代の1309年、神田明神に「神」として合祀されます。

ただどうもこの時点でも「朝敵」の解除は特に行われていないようです。といって「朝敵」として憎まれていたわけでもなく、既に武士の守り神でしたから、朝敵という認識は特になかったと思われます。

正式に「朝敵でなくなる」のは徳川三代目家光の時代です。幕府の働きかけによって朝廷が朝敵の指名を解除しました。

ところが明治維新後、再び朝敵論議がでてきます。で「逆賊」とされて、神田明神の神から「はずされて」しまいます。「朝敵」というより「逆賊」とされたわけです。

日中太平洋戦争後の皇室は、もう「逆賊か逆賊ではないか」を決めることなどしなくなります。戦後内閣も「逆賊か否か」を決めるなんてことはしません。

ということで、なんとなくあいまいなまま、それでも神田明神の神からは「はずされたまま」でした。が、民衆意識としてはやはり将門は「祭神」でした。

1976年に平将門を主人公にした大河ドラマ「風と雲と虹と」が放映されます。私もむろん見ていますが、「庶民の英雄」として「おおやけの横暴」に抵抗する英雄として将門が描かれました。

で、また将門復権の動きが強まります。そして1984年になってやっと「再び祭神として神田明神に合祀」されます。「それまでも神であったが」、「正式に合祀された」わけです。

つまり現在においては「たぶん将門は朝敵ではない」が正解になります。朝敵を解除する組織も、指定する組織もないからです。

将門というと首塚の「たたり都市伝説」が有名で、「帝都物語」などでは日本最強の「怨霊」として描かれました。

が、将門保存会の会長である平野徳子氏によれば(NHKの番組にて発言)、そういう「怨霊伝説」は都市伝説に過ぎず、そうした事実はないそうです。平野氏によれば将門は「怨霊」ではなく、「守り神」で、だから自分たちは「大切に」している。自分たちが「大切にしている神」が、「事実誤認」(首塚を撤去しようとすると人が死んだなんて事実はない)によって「怨霊」とされるのは、どうにも納得できない、そんな感じのことをおっしゃっていました。



北条時宗、重時、政村のこと

2018年06月28日 | ドラマ
北条時宗。2001年には大河ドラマの主人公にもなりました。演じたのは和泉元彌さんです。近年の作としては武蔵とともに「DVDになっていない」作品です。

鎌倉幕府は1180年から1333年まで続きます。約150年です。

北条時宗は1251年に生まれ、1284年に亡くなっています。34年の短い生涯です。

執権としては「8代目」です。ただし「得宗」(義時本流)としては7代目です。得宗は全部で9人ですが、執権は全部で16人です。時宗以降、執権は8人も出ますが、得宗は2人です。得宗への権力集中は、こんな数からも分かります。

大河ドラマ「北条時宗」を見て、「おもしろいな」と思った点は、北条重時や北条政村が登場する点です。この二人は北条泰時の「兄弟」です。つまり父親は北条義時です。

このうち北条政村は1205年に生まれ、1273年に亡くなります。北条時宗の死が1284年ですから死没年は10年しか違いません。北条政村は第7代執権ですが、得宗ではありません。

時宗は泰時の「ひ孫」ですが、彼が執権になった時点でもまだ「泰時の兄弟」が存命しているわけです。鎌倉幕府は「短かったんだな」と改めて思いました。

時宗はフビライハンを退けた名執権ということになっていますが、そのために無理に無理を重ねました。その結果自分が死んでしまいますし、なにより財政が悪化します。さらに北条氏(得宗)の権力が強くなりすぎ、各地で反北条の意識が芽生えます。

その結果、鎌倉幕府は時宗の孫の代で滅亡します。時宗の子が貞時、その貞時の子が高時。この高時が30歳ぐらいの時に鎌倉幕府は滅亡します。

北条重時は平幹次朗さんが演じました。北条義時の3男です。鎌倉は北条だらけなので、北条ではなく、極楽寺重時とも呼ばれます。幕府最後の執権は赤橋(北条)守時ですが、この赤橋家も極楽寺流の家です。

彼は時宗の父である北条時頼を補佐しました。執権にはなりませんでしたが、幕府の「重し」として北条執権制の安定に寄与した人物です。1261年に死没しています。つまり時宗が10歳の時までは存命していました。彼の子である長時は第6代執権ですが、得宗ではありません。

北条政村には「時」の字がありません。大河ドラマでは伊東四郎さんが演じました。北条義時が死没した時は、20歳前ぐらいで、母の伊賀氏が政村を執権にしようと画策したことになっています。「なっています」と書いているのは疑問を唱える学者もいるからです。まあ、通説ではその「伊賀氏の変」を北条政子が鎮圧し、泰時が無事執権についたことになっています。伊賀氏は伊豆に流されますが、政村には塁は及びませんでした。「伊賀氏の変などなかった」から、または「泰時が度量の広い人物だったから」とされます。

北条氏得宗(義時本流)への権力集中は時頼のころから始まり、時宗の代に顕著化します。そもそも得宗という言葉自体、時宗の代に作られたという説もあります。

鎌倉幕府というのは、いわば「土地争いの調停役」で、中央集権性は薄い幕府です。しかし得宗の権力が強まったことにより、中央集権性が強くなります。「土地争いの調停役」でなく、得宗が権力の中心になったことが、鎌倉幕府の滅亡を早めた。私はそう考えます。

北条義時の「ひ孫」が北条時頼で、北条時頼の「ひ孫」が北条高時です。その高時の代には幕府は滅亡します。150年ありますが、短い感じを受けます。



鎌倉北条氏のこと 得宗ってなんだ。

2018年06月27日 | ドラマ
鎌倉北条氏はよく「北条九代」と言われます。北条執権は時政から守時まで「16人」います。じゃあどうして「9代」かというと、北条氏直系というか本流が9人とされているからです。

その9人は「得宗」と呼ばれます。時政、義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9人です。

そういえば大河ドラマ「太平記」などでは初回ぐらいに、フランキー堺さん演じる長崎円喜(御内人)が、「北条得宗の名代ぞー」とか叫んで、足利貞氏を脅かしていました。

「得宗」ってなんだ、は実は「よくわからない」みたいです。学者によって言うことが違うというか、定説はない、みたいです。

一致しているのは「義時関連の言葉だ」ということぐらいです。義時の法名とか言われますが、法名は観阿で、どうも得宗ではないようです。

義時関連の言葉なのに、時政も含まれるのはおかしな話ですが、まあ誰が考えても北条氏は時政の代から飛躍しますから、これは納得すべきなのでしょう。

得宗とは義時の「別称」「法名」「追号」とか言われますが、こうしたバラバラな言われ方自体、「得宗とはなんだ」に関する定説がない証拠と言えましょう。

鎌倉幕府は1180年ぐらいに始まり、1333年に滅亡します。150年ぐらいですね。150年で九代ということは、一代平均17年ぐらいということになります。

得宗は短命です。泰時までは60歳以上生きますが、時氏27歳、経時23歳、時頼37歳、時宗34歳、貞時40歳、高時31歳です。高時以外は病死です。

「北条氏と鎌倉幕府」(細川重男)は、時頼から得宗と言う言葉が始まったのではという説を立てています。追号説です。得宗のもとは「徳崇」で、時頼が徳崇という追号を送って義時を顕彰した時から、得宗という言葉が始まった。そのような説を立てています。

北条義時というと、まさに武士の政治を開いた人間であり、いい意味での「ワル」の代表みたいな感じがありますが、細川氏の解釈は違っていて、もともと庶子であり、江間という家を継いだだけの男である。運命に翻弄され、思ってもいなかった人生を歩み、いつの間にか「武家政治を開いた凄いやつ」にされてしまった男、と書いています。

大河ドラマでは「草燃える」に登場しました。青年時代は純粋な人物。ところが次第に権力の魔力に引き付けられ、最後は権力の権化のようになっていく。そういう義時を松平健さんが演じました。あの義時は衝撃的でした。クロスするように滝田栄さん演じる伊東某がワルから琵琶法師に変わっていく。二人の人生がクロスするさまが、中学生ぐらいだった僕の心に衝撃を与えました。

あれ以来わたしは北条義時といえば「悪くて凄いやつ」と思っていたのですが、学者さんの中には「そうじゃないんだ」という人もいて参考になります。

最後は官職を全て辞し、無官であったようです。そういえば「承久の乱」においても義時は「ぶるぶると震えていた」という指摘は、いくつもの本に書かれています。

そういう義時を励まし、「上皇恐れるに足らず」と言ってふるいたたせたのは大江広元のようです。「草燃える」でも、そういえば大江広元が「私は都の怖さも、都の愚かさも知っている。自分が鎌倉に下った時、すでにこの時(承久の乱)を予想していた。わたしはこのため(都と戦うため)、鎌倉に下ったようなものです」と義時を励ましていました。

本当の「悪くて凄いやつ」は大江広元なのかも知れません。どうでもいい話ですが、毛利氏は一応、系譜上は大江広元の子孫とされています。



天皇に関するメモ書き程度のもの

2018年06月27日 | 歴史
あれ、そもそも天皇号の使用はいつからだっけ?がこの文章を書く動機です。政治性は全くありません。

1、最初の天皇は誰か。

天皇号の使用は7世紀後半です。私は最初の天皇は天武天皇だと思っていたのですが、推古天皇説もあるようです。誰が推古天皇を主張?と思って調べる外人さんのようです。どうやらやはり最初に天皇号を使用したのは天武天皇であるってのが「今のところの定説」みたいです。670年ぐらいです。それ以前の「天皇」は少なくとも「天皇と呼ばれてはいなかった」ということになります。

2、実在の「大王」は誰からか。

大王って号も使用された、いないの説があるみたいですが、

私は実在した大王は、崇神天皇(大王)(3世紀末)だと思っていたのですが、どうやら最近の学説では雄略天皇(大王)(5世紀半ば)みたいです。まあ考えてみれば3世紀は卑弥呼の時代ですから、そんな時代に大王がいたってのも変な話です。私が変な話だと思うだけで、政治性はありません。こういうこと書かないといけないのが、面倒です。まあヤマト政権3世紀成立説もありますから、そんなに変ではないのかも知れません。

本当の本当に確実なのは「継体天皇(大王)」からみたいです。確実なわりには在位年代が確定していません。5世紀末、あるいは6世紀初めのようです。この継体天皇(大王)は面白いですね。なにしろ「記紀」によると「応神天皇(大王)の5世の孫」だからです。しかも越前出身です。応神の5代後の傍流の子孫です。なんでそんな遠い親戚を?血つながってるのか?ということで万世一系とかを巡って色々騒がしいようですが、私はあまり興味はありません。

3、13世紀から18世紀末まで「天皇号は使用されていなかった」らしい。

具体的には13世紀初めの順徳天皇で一回使用がなくなり、18世紀末の光格天皇で復活したようです。なるほどね。
18世紀末というと将軍は徳川家斉です。

この徳川家斉は11代将軍で、40年も将軍をやってました。後半生は「ぜいたくで有名」です。幕末、幕府に金がなかったのも、この将軍の責任が大きいですね。でも不思議なことに、この将軍、ドラマにでたことはほとんどありません。大塩平八郎の乱の時代です。

ドラマの中の朝鮮王朝 龍の涙

2018年06月27日 | ドラマ
朝鮮王朝は1392年から1910年まで続きました。(最後の十五年ぐらいは大韓帝国)

実に500年です。日本で言えば室町初期から明治末年まで。

私は、朝鮮王朝の歴史に詳しいわけでもありませんが、この「長さ」には圧倒されます。

李成桂という「高麗王朝」の軍人が作りました。が、「高麗を滅ぼした」ということで、李成桂には迷いがあり、自分が作った朝鮮王朝をどこかで「放棄してしまう」感じがありました。

そこで登場するのが「側近たち」で、チョンドジョン=三峰先生などが有名です。がこの側近たちはやがて李成桂の「五男」によって粛清されます。

この李成桂の五男とはイ・バンオンで、朝鮮王朝の「本当の建国者」と言ってよいでしょう。世子に決まっていた「八男」を殺し、次男を王位につけ、やがて自分が即位します。3代目王です。

その強烈な政治力によってまず、王権を確立。そして私兵の解体、軍隊の整備といった中央集権化をなしとげました。

破壊者にして創造者ですね。日本史で言うと信長風でしょうか。外戚をことごとく殺し、それもあってか、正規の皇太子(世子)であったヤンニョン大君が世子の座を放棄したほどです。

ヤンニョン大君が世子でなくなった為、急遽世子になったのは三男坊です。

これが大王世宗。ハングルのもとを作った人物。聖君扱いされているせいか、あまりドラマにならないのですが、むろんいくつかのドラマには登場してきます。

ドラマ「大王世宗」はほとんどフィクションで「創作ばかり」ですが、一応は大王世宗の一生はたどれます。

「根の深い木」は「大王世宗」以上にフィクション性が強い作品ですが、「人間イド」を描きたいという脚本家の意図は伝わってきます。イドは世宗の名前です。

ハングルを守る為に闘い、わめき、時に策謀をめぐらす。「聖君だって人間だ」という作者の声がよく聞こえてくる作品です。

「なめるな、オレはあのイヴァンオンの息子だぞ」というセリフがあったと思います。面白いセリフです。

話をイ・バンオンに戻します。「龍の涙」は韓国における「初期の時代劇」で画面も昔の「四角い」画面です。韓国の初期時代劇は「朝鮮王朝実録」に基づいており、史実風です。

「龍の涙」は朝鮮王朝史を学ぶ上で参考になりました。

でも「龍の涙」は180話以上あります。長い。「龍」とはイ・バンオンのことです。大王世宗は脇役です。「全ての罪は自分が背負って死んでいく。だから(世宗は)聖君になれ」というイ・バンオンのセリフが印象的です。

朝鮮の王は絶対権力者ではないのですが、イ・バンオンは王権の拡張に努めました。が、やがて王権と臣下たちの勢力は拮抗し、王はその「バランスの上に」立つことになります。

世宗は「大王」ですが、跡継ぎ選びに失敗したと言えなくもないでしょう。病弱の長男を5代目にしてしまいます。で、この5代目文宗は若くして死に、6代目が幼い端宗です。

端宗では王がつとまるはずもなく、世宗の次男であるスヤン大君、スヤンテグンが王権を奪取します。世祖(セジョ)です。これが儒教道徳に反するということで、スヤン大君は何かとドラマになります。「王と妃」など多数。スヤン大君は15世紀半ばの人です。

で、長男が亡くなっていたため、次男が次の王になりますが、この人は若くして死んでしまいます。

そこで世祖の「長男の息子」である成宗を王位につけようとして「インス大妃」(インステビ)や家臣たちが「暗躍?」します。

で、この成宗の跡継ぎが「とんでもない王」であったため、王位をとりあげられ、燕山君という身分に落とされ遠流となります。この辺りもドラマになりやすい。

その後が中宗で、「宮廷女官チャングムの誓い」はたしかこの中宗時代が舞台であるはずです。中宗は16世紀初頭の人です。

と書いていくと、きりがなく、「イ・サン」あたりまでいってしまうのですが、長くなるのでやめます。


日本人のルーツ

2018年06月26日 | 歴史
日本史ブログのランキング欄なぞを見ていると、やたらと「日本人のルーツ」とか言う言葉が目立ちます。

僕はまず「ホモサビエンスの誕生」に興味があって、その流れで「日本人の成立、形成」に関する本も随分と読んできました。

本当は「日本語の成立」にはもっと興味があるのですが、それを扱った「まともな本」は「ほとんどない」と言っていいほど少ないのが現状です。

で、日本人を成立を考えてみるならば、

1、現代日本人は全てホモサビエンスである。ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)の遺伝子もほんの少し交じっているが、それを含めてホモサビエンスと言う。

2、ホモサピエンス以外の人類が東アジアにいたのは確かであろうが、その人類がホモサビエンスに変化したわけではない。

3、ホモサビエンスは5~7万年前にアフリカを出て、4万年前には東アジアに到達していた。

4、東アジアと書いているのは、日本列島が「島」になったのは1万年ぐらい前であって、それまでは陸地や氷で大陸と「つながっていた」からである。1万5千年ほど前「までに」バイカル湖あたりの北方、それから東南アジア付近の南方、さらに中国チベット朝鮮などの「大陸」からホモサピエンスが移動してきて、縄文人が形成された。DNA的には縄文人と現代日本人の間には距離があり、縄文人が我々日本人の「直接の祖先とはいえない」。ただし「文化的」には「祖先である」と言っても間違いとは言えない。

6、縄文文化を担ったのはむろんホモサビエンスである。縄文時代早期、1万2千年前ぐらいに日本は「列島」になり大陸から切り離される。切り離されても、北方からも南方からも大陸からも、人は様々な手段で日本列島にやってきていた。

7、中国方面から水田稲作技術を持った人々が日本列島にやってくる。特に中国が春秋戦国時代を迎えると、日本への流入が多くなる。紀元前8世紀から紀元後3世紀にかけてである。この水田稲作民と縄文人が交じり合い、弥生人が形成される。この弥生人が現代日本人の直接のルーツである。現代日本人のDNAには縄文人のDNAが12%ほど(他に説あり)含まれている。

8、当然ながら我々日本人とDNAが一番近接しているのは弥生人のルーツである中国人である。

「中国人がルーツだと思いたくない」「縄文人が直接の祖先だと思いたい」「日本人は単一民族だと思いたい」という「願望」や「幻想」、というか、つまりは「情熱」を持つ人がいるのは分かりますが、違います。全く違います。

ただし「日本語は孤立した言語」というのはその通りで、だから私は日本語に興味があるのですが、何の資料もないので、本格的に日本語の成立(縄文以前の)に取り組んでいる学者さんは、ほとんどいません。資料がないから研究しようがない、わけです。DNAを調べても、言語のことは分かりません。

ブラックペアン 最終回の感想

2018年06月25日 | ドラマ
私はずっとこのブログで、「ドクターX」とは「本質的に違う作品」と書いてきました。

それは「終わり方」が分かっていたからです。原作は読んだことがないのですが、「終わり方」はちょっと調べれば分かります。

「ペアンを取り出さなかったのでない。取り出せなかったのだ。それ以来、カーボン製のレントゲンには映らないブラックペアンを用いている」ということは分かっていました。

つまりこの作品は「人間は失敗をする」が前提になっています。「失敗するんです」が前提です。だから「失敗しないんです」という作品とは完全にベクトルが逆方向なのです。

最後は渡海が「失敗することを学んで」終わります。

ペアンを残すほかなかった。そのあとアフリカに医療支援に行った。渡海の父はペアンを残した佐伯の責任を全て背負って死んだ。患者を助けるため、自分は医者をやめるわけにはいかなかった。

という佐伯、内野聖陽の説明は「ちょっと何言ってるか分からない」ほど、矛盾というか、変な点が多すぎます。

でもそれはどうでもいいことです。「要するに人間は失敗する」ということを佐伯が学び、そして渡海が学ぶという点が重要なのであり、「無理過ぎる説明」には、この際目をつぶるべきだと思います。

最終回は、原作通りというか、特に「ひねった」部分はありませんでした。「想定の範囲内」というやつです。

どうして佐伯が理事長にこだわるのか、が最大の疑問だったのですが、一応世良くんのナレーションで「組織改革をやったのち、すぐに理事長の椅子を譲った」とされていて、「組織改革をしたかったのだ」ということが分かりました。

猿之助は理事長戦にやぶれたのち「医者だから研究をする」と反省したようにも見えたのですが、最後の最後でも「インパクトファクター」とかにこだわっていて、全く反省していない。それでいい、と思います。全員が成長したのでは「予定調和」でありすぎることになります。

猫ちゃんは大学に残ったようですが、どうするんだろう。そこが一番気になります。

「ブラックペアン」の中のオマージュ、パロディ、小ネタ

2018年06月25日 | ドラマ


「ドラマの中に過去のドラマをぶち込む」という手法があります。堤幸彦監督あたりが多用して広まった気がします。

オマージュ、リスペクト、パロディ、小ネタ、パクリなどと呼ばれます。オマージュ(フランス語)とリスペクト(英語)は尊敬という意味です。

ブラックペアンの中にも「数々のオマージュ」があります。が、、、日本のドラマを最近あまり見ていない僕には、それを全て指摘することはできません。

思いあたるものだけを少しだけ書きます。

1、必殺仕事人の歩き方 または「オペンジャーズ」

第5回ですね。小さな女の子の手術が失敗しかける。小泉が廊下に飛び出し、二宮を探す。二宮と猫田が廊下を向こうから並んで歩いてくる。すぐに小泉もそこに加わり、三人で横になって歩いて手術室を目指す。そのシーンが「スロー」になります。人間が横になって並んで目的地に向かって歩く。完全に「必殺仕事人」だと思います。

二宮、猫田は手術職人であり、つまりは「仕事人」です。この二人が「職人」であることを明確に表したシーンです。小泉くん(タカシナ)が「仕事人」になりつつある、といことも表しているでしょう。

もっとも調べると元は「アベンジャーズ」らしいのです。あんな歩き方をアベンジャーズはしなかったと思うけど?

2、手術シーンの「戻ってこい」

最終回です。佐伯教授に対して、手術室にいる全員が叫びます。ただこれは「あまりに多く使用される手法」なので、何のオマージュかは分かりません。
わたしが最初にこの言葉を聞いたのは、たぶん「振り返ればヤツがいる」です。三谷さんの初期作ですね。

3、助けてください。

あまりに有名な「世界の中心で愛を叫ぶ」の「助けてください」。佐伯教授の第二回目の手術(三回あるのですが)で黒崎准教授が叫びます。執刀医は小泉くんです。がその後遠隔操作によって二宮が教授を助けます。

「助けてください」は「助けられない状況における絶望の言葉」だとは思いますが、このドラマの場合、二宮くんは「本当に助けて」しまいます。

4、できちゃうんだよ。東城大はできるんだ。

二宮君のセリフです。

何のオマージュかは分からないし、俺はできるんだ、を二宮くんがその場で「東城大はできるんだ」に変えた、らしいのです。でもオマージュっぽい言葉です。

5、論文の小ネタ   ネットで調べると論文に小ネタが沢山あると書いてあります。


徳川慶喜のこと

2018年06月25日 | 歴史
徳川慶喜は水戸の人間です。水戸から一橋家に入り、将軍になりました。水戸学は尊王主義の源ですから、彼は「朝敵」になることを非常に恐れていました。また徳川家を朝敵をしないことは基本的な政治姿勢でした。

彼は大阪城から逃げ、江戸では主戦論を退けて謹慎します。彼が「逃げ、謹慎し、負ける」ことによって、維新は成った、これは明治政府でも密かに言われていたことのようです。「維新最大の功労者の一人ではないか」という話すらあったということです。

鳥羽伏見に負けて江戸に帰った時、小栗上野介は主戦論を展開します。箱根の関で官軍をくい止め、東洋一の幕府海軍が官軍を砲撃する。どう考えても戦術的には幕府の勝ちです。

もっと簡単に、江戸に兵が出払った京都に海軍を使って乗り込む。(大阪湾経由で)そして玉(天皇)を奪回する。そうすれば官軍はあっという間に「賊軍」に変わってしまいます。

小栗が慶喜の裾か袴をつかんで止めた、のは当然で、幕府は戦術的には勝てたのです。

が、慶喜はそれをしませんでした。一時戦術的に勝てたとしても、制度疲労を起こしていた幕府は、長期的にみれば必ず敗れる。官軍が天皇を残して、京を逃げるはずもない。必ず天皇を連れていく、まあそういうことが「見えて」しまったのだと思います。「自分の名が足利尊氏と並んで歴史に残る」、慶喜にとって、それに勝る恐怖はなかったのです。

長州は江戸に兵を出すことに反対でした。幕府が上記の作戦できたら、とても勝てないからです。だた薩摩が、というより西郷が江戸出兵を強く主張しました。革命家としての西郷の眼力が最も光彩を放ったのはこの時でしょう。理屈では勝てないが、勝てる。そして結果は、西郷の言う通りになりました。(だたし西郷は江戸鎮撫には、まあ失敗します。江戸を鎮撫したのは長州の大村です)

さて、慶喜ですが、その後もずっと謹慎をします。ただし趣味には深く没頭し、困窮する旧幕臣などからは「貴人情を知らず」などと言われます。

明治も半ばになって、やっと天皇と対面し爵位をもらいました。たしか大正まで生きたと思います。

最近の大河での慶喜の扱いは、「ひどいものだな」と私などは思います。八重の桜もひどいし、篤姫ではもう「最低の扱い」でした。慶喜の行動のみ描写して、内面描写が浅いためにそうなるのです。この「内面描写の浅さ」、もっと単純に言えば「心の声を一切流さない」という演出は、最近の大河に共通していますが、一体どうしてだろうか、まあ「慶喜が可哀相じゃないかい」とか思いながら、最近の幕末ものを私は見ています。

西郷どんは、実はよく見ていなくて、なんか「遊び人の金さんみたいな慶喜」が出ていることはなんとなく知っています。

リメイク大河ドラマを制作してほしい。

2018年06月24日 | ドラマ
大河ドラマ、準大河ドラマ。もう「絵になりそうな人物」は全て描き切ったように思います。

信長、秀吉、家康、信玄、平清盛は複数回にわたり主役になっています。

龍馬も二回。真田幸村も現在二回目。

あと思いつくままに主役を書くと、平将門(藤原純友)、北条政子(源頼朝、北条義時)、源義経、足利尊氏、日野富子(足利義政)、伊達政宗、徳川吉宗、徳川慶喜、井伊直弼、大石内蔵助、原田甲斐、勝海舟、西郷隆盛、奥州藤原氏、毛利元就、宮本武蔵、新選組、山本勘助、山内千代、前田利家とまつ、直江兼続、黒田官兵衛。

絵にはならなかったですが、江、篤姫。

残っているのは、戦国時代限定だと、えーと、石田三成、淀君、北政所(ねね)その他でしょう。でも彼らは歴代の大河で何回も登場していて、十分に描かれていると言ってもいい存在です。

また、朝倉、浅井、本願寺、島津ではちょっと主役になりそうもありません。長曾我部もどんなもんでしょう。

絵になりそうな人物だと、あとは北条早雲ぐらいだと思います。北条早雲はたぶん少しも描かれてはいません。あと「尻くらえ孫一」、ほぼ架空の人物ですが、戦国時代における鉄砲の威力をテーマにすれば、主役にできそうです。それから足利義満なども残っていますが、彼らを除いては、描き切った、だからこそ西郷などが二度も描かれる事態が出てくるのです。

ということで、「もう描き切った」という前提で、「リメイク大河」も「大いにあり」だと私は思います。

むろん脚本を現代風にしても構いません。

じゃあどの作品をリメイクするか。まずは、「録画が総集編しかない名作」でありましょう。

となると、「国盗り物語」「天と地と」「花神」「新平家物語」ということになります。一応録画はあるが、録画状態が劣化している作品として「草燃える」もあります。「草燃える」は素晴らしい作品ですから、是非リメイクしてもらいたいものです。

「国盗り物語」がリメイクされれば「明智光秀のイメージ」はひっくりかえるでしょう。「花神」は視聴率はとれないでしょうが、個人的には最高の作品だと思っています。「天と地と」、以外と知られていない謙信の半生が分かります。

リメイク大河を放送してほしい。私のひそやかな願望です。

大河ドラマ「花燃ゆ」について

2018年06月24日 | ドラマ
明治という時代をどうとらえるか。おおざっぱに言うと、サヨク的に見るか、司馬さん的にみるか、で大きな違いが生じます。つまり「女工哀史の時代」として見るか、「坂の上の雲の時代」として見るかですね。

前者では明治はとてつもなく暗い時代になりますし、後者では「楽天家たちの時代」となる。

私個人は明治時代にタイムスリップしたい、そして生きたい、とはとても思えません。が、司馬さんの見方も気になることは確かです。

「確かに国権はあまりに重く、民権はあまりに軽かった。が被害者意識だけをもって歴史を見てはいけない。明治は誰にでも可能性があり、それゆえにみな、明るく楽天的であった」

たしかドラマ版の坂の上の雲にそんなナレーションがありました。

実際はどうなんだろう?と疑問は湧きますが、そういう見方もある、ということは知っていて損はないように思います。

さて、花燃ゆ。大河ドラマ、さほど面白い作品ではありませんでした。後半では舞台が群馬に移って、時代は明治、そして「富岡製糸場」が登場します。富岡製糸場は「希望の光」みたいに描かれていましたが、それは官営時代のお話で、民営になった明治20年代からは「女工哀史的な部分」が出てくる。その辺りがどうしても気になります。

ただ本当に気になるのは、歴史上の出来事の描き方の「浅さ」ですね。たとえば「前原一誠の萩の乱」が描かれます。しかし、前原は主人公的存在ではなく、脇役そのものです。そして描き方は限りなく浅い。乱そのものは描きません。萩の乱を知って、主人公の井上真央が悲しむ、ぐらいの描き方です。「萩の乱なんて、全然描かれたことがないのに、描いたからいいだろ」と意見もありましょうが、私には同意できません。

たとえば「翔ぶが如く」における「佐賀の乱」の描かれ方と比較してみてほしいのです。江藤新平はこの作品では脇役ですが、佐賀の乱に至る過程は実に丁寧に描かれており、佐賀の乱の段階だけを見れば、堂々たる主役となっています。さらにこの佐賀の乱が発端となって堤真一演じる宮崎八郎らしき人物(作品中では別名、矢崎八郎太)が、自由民権的活動に目覚め、西南戦争に熊本士族として参加し、死に至るという過程も丁寧に描かれます。

花燃ゆ、は何故つまらなかったのだろう。まあ「とても真剣に」考えているわけではありませんが、一つ目は歴史上の出来事の描き方が粗雑であったこと、二つめは作品がモノローグで対立する諸見解が混在しておらず、ゆえに視聴者に「考える」ことを要求しなかったこと、そんなことが言えそうな気がします。

男女交際としての「肝試し」、稲川さんの「怪談芸」

2018年06月23日 | 日記
20才前後の時の「きもだめし」はなかなか興味深い儀式です。

定番としては男女が組になります。それで男は女の子が抱きついたりしてくれないかと期待するわけです。たいていは抱きついたりはしません。
抱きつかれるだけでも、20歳であれば楽しいのです。そこから何かが「発展すれば」もっと楽しい。でも普通は発展しません。

でもなにかと抱きつく子もいました。脅かし役の男がその子のことが好きで、自分で脅かしておいて、別に男に抱きつくのを見て、本気で怒っていました。「やってられるか」とか言っていた。「やらなきゃいいじゃん」と思っていました。とにかく本気で妬いていたわけです。若い頃は「マジ」が多い。楽しい思い出です。

O君は不思議な友人でした。ある研修施設で男だけの肝試しをしたことがあります。。男だけだから本格的なのです。ずらっとならんだ無人の研修室の一番奥の部屋に「わら人形もどき」を置いて帰ってくる。次の人はそれを持ってくる。無人の研修室は40もあったでしょうか。あの廊下は本当に怖く感じました。

ところがO君が帰ってこない。でみんなで探したのです。

結局O君は研修室のひとつの部屋にいました。

「物音がした。怖いから原因を探して、ひとつひとつ部屋を見ていた」と言います。

O君の方がよほど怖い。どういう精神構造していたのでしょう。あの怖い無人部屋をひとつひとつ探索して回るなんて、ありえない話です。

と思うとK君も凄い。

2,3日大学に来なかったので、「何してたのか」と聞きました。

「僕は臆病なので、臆病を治すため、首吊りのあった木の下に行って、寝袋で2日泊まった」と平然と言っていました。

狂人の領域です。存在がオカルトです。

私は、 オカルト系は一切信じませんが、「怪談」は好きです。稲川さんの限定で好きです。

「あれは落語的な高等話術で、芸なのだ」と僕は思っているのですが、さほど賛同してくれる人はいません。寡黙な賛同者は大いにいるに違いないと密かに思っています。

落語の怪談が「芸」なら、「それに匹敵するほどの話芸だ」と私には思えてならないのです。

ヤマトを「大和」と書くのは何故か。

2018年06月23日 | 歴史
きわめて初歩的な話なんですが、自分の頭を整理するために書きます。

ある時期から日本列島に住む人々は、自分たちの国が中国で「倭」と呼ばれていることを知ります。

そして自分たちも「倭」の国号を使います。発音は「ワ」に近い音だと思われます。

訓読みして「ヤマト」です。

そして「大」を冠します。「大日本」とか「大韓帝国」と同じ感覚です。

すると「大倭」になります。「大倭」、これも訓読みはヤマトです。

ところが「倭」は悪い意味を持つ言葉だと気が付いてしまいます。

そこで「倭」を音が似ている「和」に変えます。そうすると「大和」になります。

「倭」「大倭」「和」「大和」、、これらは全て「今の日本にあたる領域」を指しますから全て「ヤマト」と発音していい言葉です。

「やまと」は最初はヤマト政権ができた一地方を指していましたが、ヤマト政権の拡張につれ、日本の多くの部分が「ヤマト」となりました。

ヤマトという言葉そのものの語源については諸説があります。

ちなみに大和という文字が表記として広がっていったのは8世紀頃だと思われます。