散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

大河「花神」の主人公・村田蔵六・大村益次郎のこと

2019年03月31日 | 花神
靖国神社には村田蔵六(大村益次郎)の銅像があります。山田市之允(いちのじょう)あたりが作ったのだろうなと思って調べたら、やっぱり山田顕義でした。日本大学の創始者です。

大村(以下は本名の村田で表記します)も山田も長州の人間で、師弟関係にあります。村田も山田も軍略の天才といわれた人間で、特に村田は、彼がいなければ、戊辰の勝利はなかったといわれる人物です。幕末から維新にかけて、長州、そして明治政府の軍事作戦を「主導」します。もともとは適塾の塾頭ですから、オランダ学者、医者です。靖国の「もと」を作ったのも、村田です。最初の靖国の名前は、たしか東京招魂社です。あくまで内乱で死んだ政府側の兵隊の魂を鎮めるために作られました。外国まで出て行って戦争をすることは、村田は想定もしていませんでした。

明治維新の完成者、という見方があり、その観点から書かれたのが「花神」という小説で、大河ドラマにもなりました。幕末ものですから、視聴率はよくなかったようです。ただし、視聴率と内容は別。幕末ものとしては最高の作品です。三谷さんなぞも「大好き」ということで、へえーとちょっと驚きです。花神とは「花咲かじいさん」のことです。

幕末、彼の学問はひくてあまたで、大藩、そして幕府の「学者」として活躍していました。今なら大学教授です。収入も相当なものでした。

が、彼は結局、長州にもどります。最初は100石にも満たず、扱いは軽いものでした。東大教授が田舎の中学の平先生になったようなものです。それでも、彼は長州に属し、やがて長州の軍政を一手に握ります。ただし、政治は極めて苦手で、桂小五郎の「保護」のもとに活躍します。明治維新後も政治は苦手だったようで、西郷は無視ですし、大久保とはたびたび衝突します。大久保との衝突はいいのですが、西郷無視というのは当時極めて危険な行為で、結局明治のはじめ、「西郷信者」(海江田と言われます)の暗殺教唆によって暗殺されます。実際の犯人は過激な攘夷派です。

村田蔵六が暗殺されなければ、「兵制改革」は山縣有朋ではなく、村田が当然のごとく担ったはずです。そうすると日本近代史はどう変わっていたのか。

それは誰にも分かりませんが、「陸軍のドンである山縣有朋が出現しなかった可能性」も出てきます。

そう考えると、随分と違った方向に動いていただろうな、ぐらいは言ってもいいかと思います。

元号は「時代の雰囲気を反映」するのか・西暦に直すのが面倒だ

2019年03月31日 | 歴史
元亀3年は西暦では何年?

これにぱっと1573年と答えられる人は「戦国史学者」「よほどの元号好き」「気合の入った戦国史ファン」ぐらいかなと思います。

今、私が「ウソ」を書いたのにお気づきでしょうか。元亀3年は1573年ではなく、1572年です。

司馬さんの作品には、元号の横に西暦が入っていません。だから「天正三年のことである」と書かれても、「西暦何年だ?」といつも思ってました。

私もブログで元号を使うことが多い。特に使うのが永禄、天正かなと思います。文禄とか慶長と書いた記憶はあまりありません。

永禄10年が信長の実質的な上洛作戦の始まりです。上洛そのものは永禄11年です。

本能寺の変が天正10年で、これは1582年と覚えています。永禄10年はその「15年前」と覚えています。だから引き算して1567年です。たぶん。

そうして元号を使って書きながら、実際は「あーめんどくさい」と思っています。

今から100年前はどうやら「大正8年」です。でもぱっと計算なんてできません。大正15年は昭和元年でもあるからです。

元号はめんどくさい。これが書いている時の私の実感です。

「それでもある程度時代の雰囲気を反映しているのだ」という意見もあるでしょう。

昭和生まれ
平成生まれ

なるほど「ある程度はイメージが湧きます」

平成元年生まれの人は多分今、30歳(29歳)です。でも1989年の1月7日生まれだと「昭和64年1月7日生まれ」、1日違って1月8日生まれだと「平成元年1月8日生まれ」です。

「平成生まれ」と言われても、30歳の人も0歳の子もいます。30歳では「凄く若い」とは言えません。

昭和生まれでも、昭和64年ならまだ30歳ですから比較的若い。計算合ってるかな。とにかく「面倒」です。ちなみに昭和64年は「7日間」しかありません。

「昭和生まれ」は90過ぎの人から30歳の人までいます。よくよく考えると「時代のイメージを反映」してもいません。

昭和と言っても、戦前、戦後すぐ、高度成長期、バブル時代では、全く違った時代と言ってもいい。同じ昭和でも、時代の雰囲気が全く違うのです。

元号を廃止しよう、とか「面倒な政治談議」をしているつもりはないのです。

ただただひたすら「計算が面倒」「西暦に直せない」と、いつもいつも思ってます。つまり戦国、安土桃山時代だけでも「元号が多すぎて西暦に直せない!」と「ハズキルーペ」のCMにおける渡辺謙さんのように「叫びたくなる」ということです。

補足
といって、歴史小説でいきなり「1615年のことである」と書かれても「興ざめ」なのは確かです。
「夜空には雲ひとつなく、十六夜の月の光がまぶしいほどに明るい。元和元年(1615)十月のことである」と、小さい西暦表示を是非お願いしたいものです。
ちなみに今「たまたま手にした、岡田秀文さんの本、海道竜一朗さんの本」にはちゃんと元号とともに西暦が明示されていました。最近の作家は親切です。

日本の近代化と西洋化・伊藤博文・大久保利通・西郷隆盛・夏目漱石

2019年03月31日 | 歴史
日本は「アヘン戦争がなければ」、太平の眠りの中に「たたずんでいたかった」国です。ところがアヘン戦争=列強の侵略を見てしまった。黒船が来た。そこから倒幕→明治維新→近代化、西洋化に突き進みます。

近代化、西洋化など、武士階級は、できればやりたくはなかったでしょう。でもやらないわけにはいかなかったのです。

近代化、西洋化は「軍隊の近代化」を主に意味します。しかしそのためには「教育の近代化」「生活の近代化」などあらゆる面に渡る近代化、西洋化が必要となりました。

西郷隆盛は、陽明学の徒で、保守的な人間でした。明治維新など起こさなければよかったと愚痴を言ってもいました。しかし山縣有朋が汚職事件を起こした時、彼をかばいました。山縣は長州ですから、かばう義理はなく、しかも西郷が最も嫌った汚職です。しかしかばった。何故なら「軍隊の近代化は山縣なしではできない」と思っていたからです。本来は村田蔵六の仕事ですが、彼は明治初頭に暗殺されています。

西郷すら「近代化は嫌いだが、やらないわけにはいかない」と考えていたのです。

大久保利通はさらにリアリストで、「やらなければいけないからやる」という立場でした。が、暗殺されます。

その仕事を受け継いだのが、大久保死後の内務卿(実質首相)である伊藤博文です。彼は芸者好きで有名ですが、生活は質素で、大久保を見倣って「蓄財」をしませんでした。明治天皇が彼を憐れんで、お金を送ったほどです。

伊藤もまた「近代化はやらないといけない」と考えていたでしょう。感情の問題ではなく、やらなければ亡国の危機があったからです。

夏目漱石は明治44年の講演で、近代化がいくら「上滑り」で「西洋の真似」であっても、やらなければ「どうしようもない」のだから、仕方なくてやったのだと述べています。

その結果が日露戦争の「勝利というか引き分け」です。「引き分け」としても奇跡的なことでした。その後日本は自己肥大を起こし、おかしくはなりますが。

明治の日本の政治家、知識人の多くは、西洋化に伴う「きしみ」「無理」を十分認識していました。しかし「それでもやらないといけない」ところに「日本が置かれた目の前の現実」、つまり帝国主義の時代という現実があったのです。

天野純希の小説「有楽斎の戦い」・戦国武将の「わたくし小説」

2019年03月31日 | 歴史小説
1人称の「歴史小説」があります。戦国武将の「わたくし小説」ということです。

わたし、織田有楽は、いくさが嫌いだ。血を見るとぞっとする。兄の信長などは血が大好きなようだ。家臣の森可成なども血を見ると興奮する体質のようだ。一体どういう精神を持っているのか。わけがわからない。あーゆっくりと茶でもたてたい。

という感じで進んでいきます。

天野純希の小説「有楽斎の戦い」はこの「ジャンル」に属する小説です。

最初はものすごい違和感を感じました。昔はこういう「戦国武将のわたくし小説」はほぼ皆無でしたでしょう。(歴史小説を全部読んでいないから断言はできません)

でも今は結構あるのです。

「違和感」は今でも感じます。特に「へたな小説」となると大きく感じます。

でも「有楽斎の戦い」には感じませんでした。

ただし「マイナー武将」だと成立するのですが、メジャー武将だと成立しないような「気が」します。

おれ、信長は血が好きと言うわけではない。ただ反抗してくるやつを見ると無性に腹が立つ。殺してもなんとも思わない。特に一向宗徒なぞがそうだ。死ねば極楽とか言って、殺しても殺しても立ち向かってくる。一体どういう精神をしているのだ。死ぬのが好きなら、さっさと自殺でもすればいいのだ。

「こんな小説はありません」が、あっても心情的に同調できません。織田有楽のような「へたれ武将」だと、「わたくし小説は成立する」ような「気が」します。

天皇が神武天皇にお祈りしても、個人的迷惑は受けないのだが。

2019年03月31日 | 天皇
平成も終わるようです。で、天皇が神武天皇陵、四条ミサンザイ(古墳)に参拝したそうですが、なんともいえぬ「違和感」「変な感じ」を覚えます。

たぶん「皇室の行事」であって、「政府の行事ではない」のでいいのですが。心情的には「違和感」です。

だって神武天皇なんていません。いないのだから墓はありません。「一体誰に参拝しているのだ?」ということです。

紀元二千六百年という歌があります。戦争中の1940年に作られました。「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」を祝して創作された国民歌、だそうです。

それから79年が経っています。今なら「紀元は2679年」ということになります。

つまり即位したのは2679年前です。西暦なら紀元前660年。

「縄文時代になってしまうではないか!縄文時代の天皇なのか!」ということです。

これでは「あまりに苦しい」ということなのか。神武天皇は4世紀の人だという方もいるようです。4世紀は便利です。「空白の4世紀」で資料がないので、なんとでも言えます。

天皇号の使用は7世紀後半です。私は最初の天皇は天武天皇だと思っていたのですが、推古天皇説もあるようです。誰が推古天皇を主張?と思って調べる外人さんのようです。どうやらやはり最初に天皇号を使用したのは天武天皇であるってのが「今のところの定説」みたいです。紀元後670年ぐらいです。それ以前の「天皇」は少なくとも「天皇と呼ばれてはいなかった」ということになります。その後も天皇という「文字の使用」は長く中断したことが分かっています。

では、実在の「大王」は誰からか。

大王って号も使用された、いないの説があるみたいですが、

私は実在した大王は、崇神天皇(大王)(3世紀末)だと思っていたのですが、どうやら最近の学説では雄略天皇(大王)(5世紀半ば)みたいです。まあ考えてみれば3世紀は卑弥呼の時代ですから、そんな時代に大王がいたってのも変な話です。

本当の本当に確実なのは「継体天皇(大王)」からみたいです。確実なわりには在位年代が確定していません。5世紀末、あるいは6世紀初めのようです。この継体天皇(大王)は面白いですね。なにしろ「記紀」によると「応神天皇(大王)の5世の孫」だからです。相当な「遠い親戚」です。

つまり「神武天皇は大王レベルで4世紀に実在した」としても「最近の学説に照らせば」、無理があります。崇神大王より後の4世紀の大王とすると「最初の天皇」という「建前」が崩れます。

長く書く必要はないのです。いるわけない。つまり神武天皇陵、四条ミサンザイ(古墳)は「誰の墓なのかもわからない」わけです。

「皇室の儀式だから、やめるわけにはいかない」ことは分かってはいるのです。でも違和感を感じます。また「本当にやめられないか」とも思います。

私は憲法に規定された「象徴天皇制」「立憲君主制」に反対はしていません。でも昭和天皇の「いわゆる人間宣言」の精神が重要だと思う人間の一人です。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ

これは別に「天皇家の儀式を否定したものではない」ので、天皇が神武天皇にお祈りするのは自由です。でも自由だからと言って堂々とやられ、それが大々的に報道されると、「神話と伝説」「架空なる観念」と「また天皇制がつながってしまう」という危惧を覚えます。それは「象徴天皇制の危機」を意味します。というわけで「迷惑は受けないが」、違和感は大きく感じます。

小田原征伐・北条氏政の戦い・戦国北条氏は滅んではいない

2019年03月30日 | 戦国北条氏
小田原征伐によって戦国北条氏は滅んだ。「正確に言うなら」間違いです。北条氏の5代目当主は氏直。4代目は氏政です。なるほど氏政は切腹でした。

でも氏政の実母兄弟に「北条氏規」(うじのり)という人がいます。甥の氏直と共に高野山追放でしたが、やがて許され、豊臣政権下で禄を得ています。この時、氏直も許され1万石ほど貰っています。だから「1万石の大名として生き残った」わけです。でも「氏直は死んで」しまいます。しかし彼には氏盛という養子がいました。北条氏の名跡は彼が継ぎますが、1万石以下でした。

面倒なんですが、この氏盛の実父は北条氏規です。やがて北条氏規も亡くなります。で北条氏盛は実父の遺領も継ぐのです。つまり「北条氏直と北条氏規」の遺領を北条氏盛が継いだのです。北条氏の名跡も「少ないが遺領」も継いだ人間がいるわけです。1万石ほどです。彼が藩祖となったのが河内狭山藩で、明治維新まで続きます。

戦国北条氏は一時滅んだように見えるが、1万石の狭山藩として明治維新まで続いた、が正解です。しかも藩祖の氏盛は氏政の実弟の子ですから、血筋もまさに「北条」です。氏直から名跡も継いでいます。最後の藩主は北条氏恭で、後に「子爵」です。

戦国北条氏は滅んではいないのです。

比較的どうでもいい話に行を使ってしまいました。

北条氏政は何を読み間違ったのか。どうして秀吉政権に参入しなかったのか。

これはどうにも不思議な話です。「織田信長には比較的簡単に臣従している」からです。もし「小田原城が難攻不落なら、秀吉より勢力が弱い段階の信長になぜ臣従したのか」という疑問が残ります。
で「ゆるーく」考えてみます。私は歴史学者ではないので、「ゆるさ」は勘弁してください。

1、まずは上杉謙信がいけない。

上杉謙信がさして計画性もなく、10万の「同志」を集めて小田原城を囲んだことがありました。小田原城はびくともしませんでした。謙信の10万の内実も、国衆たちの集まりです。計画性も集団の結束も弱いのです。「食料の都合」とか「農業の都合」があるので、上杉連合軍は、結局一か月で退陣です。国衆寄せ集めの10万の兵も解体解消。「上杉謙信はどうも計画性がない」ということで、関東での評判は良くなかったようです。

この上杉謙信の行動が北条氏政に「変な自信」をつけたのは確かでしょう。「小田原城は謙信でも落とせない」。でもこれだけでは「じゃあなんで信長には臣従したのだ」という疑問は消えません。

2、次に関東管領、滝川一益がいけない。

滝川一益が「関東管領」になった時、北条氏政は「ほっとした」と思います。つまり織田家が「管領を置く政権」だと分かったからです。地方の自治をある程度認める。中央政府から全ての命令は出さないと思ったことでしょう。だとすれば臣従したとしても「関東の王」としての北条氏の立場はある程度尊重されるはずです。

「だったら臣従しても、北条家の政治は否定されないだろうし、関東の王的な立場も存続するだろう。信長はあまり関東などに興味はなさそうだ。」と考えたのかも知れません。

そして信長が本能寺で倒れると、滝川一益の勢いは全くなくなってしまいます。結局北条に敗れ、伊勢に逃げます。「中央政権=信長系統の政権、恐るるに足らず」、北条氏政がそう思ったとしても当然です。

3、もっともいけないのは「いわゆる惣無事令」

惣無事令は色々と批判のある概念です。しかし「秀吉が中央政権の命を関東にも徹底しようとした」のは確かでしょう。

これには「北条家としては従えない」という気概があったと思います。

北条氏は「地方の王」として独自の「民政」を行っていました。そしてそれは当時としては比較的「民思いのもの」で、四公六民であったと言われます。調べると、早雲以来「善政の志向」があったことは確かです。実際どこまで達成したかは分かりませんが、志向としては「善政」だったわけです。

惣無事令はいいとしても「秀吉の政策」に従わないといけない。秀吉が地方の政治(民政)にまで口を出すとすると、関東の王として善政を目指した北条氏そのものが否定されるわけです。

これは北条氏としては従えないものだったでしょう。秀吉はどう見ても善政志向ではありません。朝鮮の役など見ると悪政そのものです。

この政治に対する姿勢の違いが、北条氏が豊臣政権に加入しなかった「大きな理由」なのではないか。それに上記の「1」と「2」が加わり、北条氏は関東の王ではなくなり、1万石の大名として生きる結果に至ったのでは、とわたしはそう考えています。北条氏政は民を守ろうとしたなんて言う気はありません。「善政を志向した早雲以来の北条氏の伝統、プライドを守ろうとした」と言いたいのです。実際に善政を行っていたかはともかく「ずっと善政を志向してきた地方の王のプライド」です。北条氏政の戦いは「北条氏の民政を守る戦いではなかったか」と思えてならないのです。


私は本能寺の変の黒幕ではない・豊臣秀吉・足利義昭・正親町天皇・徳川家康

2019年03月30日 | 織田信長
歴史小説では「本能寺の変」は一大イベントです。よくもまあ色んな「黒幕」とか「謀略」を考えるものだと「あきれて感心して」います。私は小学生の時から明智光秀が好きなので、「そんな愚かな武将じゃないよ」と言いたくてたまらなくなります。

一番「あきれた」のは

池宮彰一郎「本能寺」。びっくりします。黒幕の中心は細川幽斎です。細川幽斎が中国地方にいる秀吉の陣に「ふらっとあらわれて」、秀吉に「信長さんが秀吉さんを排除しようとしてますよ」と告げます。すると秀吉は「なら信長を殺そう」と思います。なんでだ?明智光秀は信長が大好きというか畏敬を持っているのですが、この秀吉の変心を知り、それを「防ごう」とするわけです。なら、信長に告げて、秀吉を殺させればいいだけです。しかし「秀吉が信長を殺して勢力を伸ばす。それを防ぐ方法は、信長を殺させないことだ。信長を殺させない為には、わたしが先に殺せばいいのだ」と考えます。もう「頭がおかしくなりそうな論理」です。故人をこれ以上鞭打ちませんが、「びっくりする」小説というか、途中で「小説と言う形態すら捨てて、作者の意見の披露」に変わっていきます。とにかく奇妙奇天烈な本です。

秀吉黒幕説は成り立たない。

何故かと言うと「畿内で一番兵を持っていたのは織田信孝・丹羽長秀」だったからです。四国攻めに備えて1万ほど持っていました。これに摂津勢が加われば二万。親の仇を討つという大義もあります。ところが兵の把握力が弱く、逃げてしまったのです。で三千から六千(諸説あり)ぐらいになってしまう。仕方なく秀吉を待ちました。秀吉は「信孝の兵が逃げることまで計算していた」。秀吉は「信孝の兵が逃げるよう調略した」とでもいうのでしょうが、「もし逃げなかったら」、秀吉がいくら早く返ってきても間に合わなかったはずです。

「畿内で一番兵を持っていたのは織田信孝・丹羽長秀」は「あらゆる他の黒幕論」の「反論」としても使えます。

さらに言うと、秀吉の謀略を裏付けるような「一次資料は一切ない」のです。「一番得した秀吉」と言いますが、清須会議後も「三法師の後見」の座も得てないし、柴田勝家だって「負けるべくして負けた」わけではありません。三法師の後見役ができなかったので、秀吉は清須会議後「織田信雄を家督」としているのです。「一番得した」と思えるのは、結果論です。

足利義昭

足利義昭と光秀が組んでいるなら、何故細川幽斎にそういう手紙を書かないのでしょう。細川忠興のために起こしたとか変な手紙は残ってますが、そんな嘘つくほど「追いつめられていた光秀」が何故足利義昭の名を出さないのでしょう。高山右近、中川清秀、筒井順慶にも「足利義昭が裏にいる」と書けばいいのです。むろん朝廷にもそう奏上すればいい。光秀はそんな行動はとりません。義昭は黒幕ではないからです。

徳川家康

これは簡単で、だったら堺からすぐに船で帰って、兵を集め、光秀と合流しているよ、または、光秀を騙して、合流するふりして打倒しているよ、で終わりです。

朝廷、正親町天皇、近衛前久

そもそも「貧乏公家」「貧乏朝廷」を立て直したのは誰か、信長(と義昭)ではないか、という話です。「国盗り物語」の冒頭は「コジキ同然の天皇になりたいとは思わぬが、できれば将軍、それが無理なら一国一城の主になりたい」というセリフから始まります。正親町帝自身、貧乏で即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったわけです。

天下静謐を願う朝廷が、やっと信長によって鎮まった京都を「なんでわざわざ戦乱に巻き込む」真似をするのか。「朝廷の力」を重く見過ぎです。または「朝廷や公家をアホだと」思いすぎです。ちょっと前まで「金銭的に困窮していた」人々です。しかも「保身」と「平和」が大好き。信長と足利義昭がやってきて「あー助かった」と思っていた人々です。正確には「あー助かった」と思ったら、信長と義昭が戦争を始め、上京は焼け野原。でも義昭が追放されて戦争も集結。で「あー助かった」と思っているわけです。収入源も一部認めてもらって金も入るようになった。それなのに、自らの危機を招くような「アホ」ではないのです。

以上は「小説の話」ですが、学者の「四国説」もわけわかりません。信長の四国政策が変わった。そこで光秀は面目も、未来の希望も全て失った。なんでそうなる。藤田さんの本も読みましたが「論理が綱渡り状態」で、説得力はまるでないものでした。

じゃあお前の意見はどうなんだ?と思われるかも知れません。私の意見は多くの人?と同じです。「たまたま機会がめぐってきた」からです。信長も信忠も小人数しか連れずに京都にいる。こんな機会、二度とないでしょう。それにしても信長親子も「粗忽」です。なんで兵も持たずに二人して京都にいたのか。この「不用心さ」はいかにも不思議です。

補足

最近読んだ小説の話です。「織田信忠殺人事件きっかけ」でした、信忠が信長と「取っ組み合いの喧嘩をしていたら」、信長死んでしまった。で織田信忠は「光秀を呼び寄せて」、「織田信忠の殺人」を隠蔽するために「自分を殺させた」と書いてありました。なんでだ?小説だから何書いてもいいのですが、「誰も救われないような下らない話」は困ったものです。

呉座勇一「応仁の乱」と市川森一「花の乱」・足利義政・日野富子

2019年03月30日 | 花の乱
室町時代を描いた最もポピュラーなTV作品は「一休さん」です。つまり「室町時代」は「ほぼ全くドラマに描かれない」のです。

実写版の「一休さん」もあるようで東山紀之が「足利義満」を演じたみたいです。再現VTR以外で「足利義満」を演じた俳優は東山さんぐらいでしょう。

少なくとも「大河ドラマ」には「足利義満」は1秒たりとも登場しません。「太平記」には初代足利尊氏、二代足利義詮が登場しますが、義満はいません。ナレーションで「やがて義満によって南北朝の分裂が統一された」とあるのみです。

ドラマから歴史を学ぶ、ドラマを見る→本を読む→史実を知るという「過程」が「ない」わけです。だから多くの日本人は「戦国時代はよく知っている」「幕末も知っている」けど、「平安時代は知らない」「室町時代は知らない」となるのかなと思います。むろん全ての人間が「ドラマ経由で歴史を学ぶ」わけではないでしょうが、多くの人はドラマきっかけで「史実も学ぶ」のではないでしょうか。

大河他が「室町時代を描かない」から、日本人の多くは室町時代を知りません。私の中においても「知識が薄い部分」です。「日本文化の源泉」はこの時代にあるのに、深くは知らないのです。

だから、呉座勇一「応仁の乱」は売れたのかなと思ったりします。さっきも少し読んでいたのですが、相変わらず「知らない名前のオンパレード」です。

呉座さんも、応仁の乱を描いた大河「花の乱」は「ドラマとしてはよくできていた」のに、視聴率が低く残念だったと書いています。

さて呉座さんのご本。知らない名前ばかりなので数回読まないと頭に入りません。「花の乱」を見ていたので知ってるかなと思ったのですが、みんな「細川」「畠山」「山名」等で、「同じ名字が多すぎる」のです。今回は「足利義政と日野富子の評価」だけに注目して読んでみたのですが、「意外と登場しない」のです。あくまで応仁の乱の主体は山名宗全と細川勝元という立場であり、この二人と、それぞれに属した大名たちの行動を追うことが多く、足利義政はともかく、日野富子は意外なほど登場しません。

呉座さんの評価としては、
足利義政は「真に無為」だったわけでない。それなりに少しはやっている。
日野富子の政治には「限界」があった。評判も良くなかった。ただし蓄財は幕府財政の支えにもなった。特に「応仁の乱和平段階」では活躍した。

ということです。従来の評価は「間違ってはいないが、そこまでひどくはなかったよ」ということです。

さてドラマの「花の乱」、

日野富子は三田佳子さんで主役。足利義政は先代市川團十郎、ちなみに「若い義政」は市川海老蔵(現団十郎)です。富子の若い日は松たか子、日野富子の「真の父」は松本幸四郎「現白鸚、市川染五郎)です。松たか子さんのお父さんです。歌舞伎役者総出演です。細川勝元は野村萬斎、山名宗全は萬屋錦之介、日野勝光には草刈正雄。「ザ大河、ザ伝統芸能」という顔ぶれです。さらに一休宗純には奥田瑛二。森侍者(実は本当の日野富子だが失明して資格を失った)は檀ふみです。足利義視は佐野史郎さん。

呉座さんも言うように「ドラマとしては実によくできている」のです。市川森一の才能を感じます。草刈正雄は「クールな二枚目ではなく悪人役」で、いい味だしています。

三田さんの「日野富子」は「鬼の子」という設定です。日野家の女子を酒呑童子(松本幸四郎)がかどわかして、そして生まれた子が日野富子です。(本当の日野富子は檀ふみ、しかしトンデモ性は極めて薄い。むしろ日野富子の行動を理解する上で鬼の子という設定が重要な要素を果たしている。檀ふみとの対比も非常に重厚である。)

日野富子は「主人公」なので当然「善の部分」も持っています。ところがしばしば「鬼の部分」が出てくる。上記の設定が活きてくるのです。

足利義政はトラウマを持った人で、たびたび傷つき、そして政治への関心をなくしていきます。

で、ここが書きたかったのですが、

日野富子は応仁の乱を「金によっておさめ」ます。呉座さんも金の力は大きかったと書いています。

で、荒廃した(または自らが荒廃させた)、京都の町を少しは救いたいと思います。「炊き出し」をしたりするのです。

それに対し足利義政は「無駄だ」と批判するというより、怒るのです。

義政に言わせれば「人間がそんなことで救済できるか。永遠に炊き出しができるのか。なまじ仏心を出すのはかわいそうである。真に救うということを考えよ。そうすればそれはできないという絶望に行きつくはずだ」

とまあ、細部は違うのですが、「義政の心情」が「うまく描かれて」います。むろん史実ということではありません。

救済をしようとしてもできない無常の世、足利義政の「無為」の源泉をそう描いただけでも、この「花の乱」は素晴らしい作品だと思います。ちなみに日野富子の「美化」も「必要最低限」に抑制されています。

近頃の歴史小説家の傾向と対策・天野純希・伊東潤・火坂雅志・海道龍一朗・岡田秀文おすすめ歴史小説

2019年03月30日 | 歴史
天野純希

比較的ポップな作風だが、そういう作風の桃山ビート・トライブなどは、私には合いませんでした。

おすすめは「蝮の孫」(斎藤龍興)・「燕雀の夢」(織田信秀など)・「信長嫌い」(六角承禎など)・「有楽斎の戦」(織田有楽斎)

マイナーな武将に焦点を合わせて、面白く仕上げています。特に「蝮の孫」は良いと思います。あの齋藤龍興が「へたれ」から「たくましく」なって、最後は「己の生き方」を見つけます。歴史小説には珍しいハッピーエンドものです。すがすがしい。家康、秀吉も書いて欲しいのですが、たぶんメジャー過ぎて、興味がないのでしょう。

火坂雅志

わたしが読んだのは「王道もの」ばかりです。「天下家康伝」「真田三代」「天地人」などがおすすめ。「沢彦」はどうかな。

これら「王道もの作品」では「謀略とかトンデモ」をあまり書きません。「安心して読める」作品です。司馬さんの作品を「かみ砕いて易しくした」ような作風です。

伊東潤

短編も多い。「関東ものが大好き」な人です。つまり「北条」「武田」「上杉」です。「虚けの舞」「戦国鬼譚 惨」「北天蒼星――上杉三郎景虎血戦録」などがおすすめ。他、短編ものが多いので、気軽に読めます。多少「トンデモ」を採用する点が難ですが、さほどではありません。「虚けの舞」の主人公はなんと織田三介信雄です。

岡田秀文

「賤ケ岳」「関ケ原」など。特に「賤ケ岳」は本能寺から賤ケ岳までの流れを的確に追っています。初期の「本能寺六夜物語」を読んだら、全ての短編が「陰謀もの」なのに驚きました。「賤ケ岳」には無理な陰謀は出てきません。

海道龍一朗

実はまだ「北條龍虎伝」しか読んでいません。「戦国北条氏に弱い」私にとっては「うんちくが詰まった」作風となっています。主人公は北条氏康と北条氏綱で、早雲うんちくも沢山書いてあります。この作品だけをいうなら「王道もの」で「偉人伝」的な作風です。


私は「偉人伝的」な作風が好きですが、どうも世間は「謀略ブーム」のようです。以上挙げた作品は「王道的歴史小説」で無理な「謀略」は出てきません。ただし天野純希さんは偉い武将を描かないようで、齋藤龍興や織田有楽などの「へたれ武将」がやさしく救済されています。

小田和正音楽特番・風のようにうたが流れていた・YesーYesーYes

2019年03月30日 | 小田和正
TVで小田和正特番をやっていて、久々に「YesーYesーYes」を聴きました。近頃は車でも歴史ドラマのMP4ファイルとかを見ていて、音楽は聴かないのです。

「YesーYesーYes」「貴女を連れて行くよ。手を放さないで」という曲。

大学時代はそりゃ「そのまんま」に「心情同化」をして聴いてました。今考えると「どこに連れていくのだ」という話ですが。

「YesーYesーYes」、「君の嫌いな東京も」というところが好きです。あとアルバム「ネクスト」の中の武道館バージョンが一番いい。絶叫系で歌ってます。

「恋愛が全て」みたいな内容ばかりです。「ばかり」と書いても批判じゃありません。今でも大好きです。でも今は恋愛が全てなんてことは悲しくも「全くなくなって」しまいました。

好きな曲は、わざと「メジャーとはいえない曲」を書くなら「きかせて」と「心はなれて」です。

「窓は開けたままで話を聞かせて、手紙もくれなかったね」「心はなれて、貴女のこと見えなくなる、もうここから、先へは行けないね」

今でも「暗記」で書けます。

でもその数年前、高校生の時には「吉田拓郎」を歌っていて、「オフコースを否定」していました。拓郎ちゃんは闘病中です。あの「自由気まま」だった人が、、、年をとるのは残酷です。わが身のこととして感じます。

しかし考えてみると、高校時代だって大学時代と同じように恋愛の熱に浮かされていた時代です。でもオフコースの「軟弱さ」は否定していました。

初期の「さだまさし」さんもよく聴きました。恋愛歌が多い点ではオフコースに似ています。さださんは7割恋愛歌でしょうか。オフコースは99パーセント恋愛歌です。
でも「風景描写と状況描写」が具体的なので、「オフコース」とはちょっと違います。
オフコースは、今でも大好きですが、要するに「好きだ。愛している」を繰りかえしているだけです。具体的な状況設定がないのです。

さださんの場合、「せめてもの、華向けに、一度だけ、手を振って見せた、後ろ姿を、つつむ紙吹雪、それは僕のふるさと行の、季節はずれの指定券」(指定券)

「水彩画の陽炎のような、君の細い腕がふわりと、僕のかわりに宙を抱く、蛍祭りの夕間ぐれ」(風の篝火)

という風に「駅にいるのだな」「蛍祭りにいるのだな」という状況が分かります。オフコースにはそういう状況設定が極めて少ないように思います。

井上陽水さんは、「まとめ」ができません。「恋愛歌以外」も非常に多い人です。恋愛歌だと、

「声よ、夜の空に、君に届くように、声よ、変わらぬ言葉とこの胸が、はるかな君のもとに届くように」なんて感じです。「招待状のないショー」です。

「あこがれと願望」が多いかなとか思いますが、あまりに多種多様な歌が多く「まとめ」ができません。


日本のフォーク・ニューミュージック系はまずインディーズの時代があり、それから70年代前半「井上陽水」「吉田拓郎」「泉谷しげる」の時代がやってきます。

ちょっと遅れて70年代中頃、初期ユーミンの時代です。そこに「さだまさし」「かぐや姫」「甲斐バンド」「アリス」などが目立った活動を始めます。

オフコースが「売れる」のはちょっと遅れて、70年代後半から80年代初頭です。山下達郎さんは70年代中頃から活動ですが、ヒット曲「RIDE ON TIME」は80年のようです。

そこに「サザンオールスターズ」が現れます。サリエリ風に言うと「今までとは全く違った音楽」でした。でも今聴くと、そこまで革命的ではなかったかも。というより、拓郎、陽水だってさださんだって、オフコースだってユーミンだってそれぞれに「きわめて画期的な音楽」で、だから今でもそれなりに売れているのでしょう。

「オフコース的な心情」「さだまさし的な感情」「甲斐バンド的な感情」「拓郎的な感情」「ユーミン的な感情」「サザン的な感情」というのが、「私の中でははっきりして」いるのですが、「どんな心情だ」と聞かれても表現はできません。高校から大学、大学院にかけて、そういう心情の中で、「なんだか熱にうなされていた」ように感じます。

補足
こういう大物たちとは並べられませんが、今でも好きなのは「久保田早紀」さんと「松原みき」さんです。

上杉謙信・小田原城包囲・近衛前久

2019年03月18日 | 上杉謙信
近衛前久、1554年から1568年まで関白です。上杉謙信と親交があり、織田信長ともあります。信長の甲州征伐に同行したとありますが、本当でしょうか。とにかく「いろんなところへ行く」人です。本能寺の変後は徳川家康とも近くなります。さらに豊臣秀吉を「猶子」にもしています。

本能寺の変の時、明智側は近衛前久の邸宅の上に乗って二条御所を攻撃したといわれており、そのため、「なにかというと本能寺の変の朝廷側の黒幕」とされちゃう人物です。

上杉謙信と気が合って「室町幕府再興」を語り合った、というのは「どうやら本当」みたいです。

謙信のことを書こうと思っているのですが、近衛前久の話が先にきてしまいました。

さて謙信。大河ドラマに「意外と出てこない」人です。主人公になったは1回。石坂浩二さんの「天と地と」、覚えていません。

「武田信玄」だと柴田恭兵さん。「風林火山」だとガクトさん。ガクトさん、たしか最後まで「白頭巾をかぶらなかった」ような気がします。「天地人」にも少し出てきました。阿部寛さんです。

結局何をやりたかったのか、よく分からない武将です。

というより、「自分から能動的に何かをしたい」と思っていなかった「ふし」があります。

兄から越後守護代を譲られた時も、「しぶしぶ引き受けた」ようです。奪い取った説もありますが、実態は「しぶしぶ」だったようです。1548年。満18歳です。

その後「関東管領職」を上杉氏から譲られますが、これもやりたかったのどうか。そもそも越後ですから関東から少し離れています。

で、「関東管領並み」になって北条氏を成敗しようとします。「小田原城包囲」です。1561年、満31歳です。1530年生まれですから年齢計算が楽です。

なんで新潟にいる人間が神奈川の小田原城を囲めるのか。ルートを調べると、新潟から群馬に入り埼玉そして東京、で神奈川に入って小田原包囲みたいです。

「反北条氏感情」を持っていた国衆たちがこぞって参加し。10万を超える軍勢になりましたが、小田原城は落ちません。「食料等」「農作業等」の関係で秀吉みたいな「長期滞在」はできませんから、1か月ほどで退陣します。

この「小田原城包囲」でかなり体調を崩したようです。温泉にばっか行っていたようです。

そうこうしているうちに、武田信玄が騒ぎ出す。で、第四次川中島合戦に突入します。北条との戦いもやめられません。

信長の足利義昭追放までは織田家との関係は良好でした。信長が自分に代わって「幕府を再興してくれる」と信じていたのかも知れません。

それでも足利義昭が「上洛しろ、上洛しろ」と言うので、「義昭追放の前」から上洛には意欲はあったようです。で地図で言えば越後の「左にある」越中に軍を出します。でも一向一揆の抵抗があってなかなかうまくはいきません。

そのうちに義昭は追放されます。で、織田との対立です。柴田勝家がやってきます。これが1577年です。「手取川の戦い」で「大勝利」というのは「ちょっと嘘くさくて」、「七尾城が落ちたので、援軍をやめ引き返そうとした織田軍を追撃した。引き返そうとしているのだから戦闘意欲は薄く、その上、手取川が増水して織田軍がおぼれた」というのが実態みたいです。でも勝利です。

その翌年、たぶん脳溢血で急死します。満だと48歳、一般には49歳とされます。

今のところ「室町幕府を再興して、室町的秩序を回復したかったのかな」と思えます。「かな」です。もう少し調べてみないと、断定的には言えません。



私のフランソワーズ・サイボーグ003

2019年03月18日 | 日記
私のフランソワーズ、、、ユーミンの歌の題名です。今調べて初めて知ったのですが「フランソワーズ・アルディ 」というフランスの歌手のことのようです。

今ここで(たぶん短く)書こうとしている「私のフランソワーズ」はサイボーグ009の003のことです。

大昔のアニメで「一番素敵だった女性は誰だろう」と考えたら、003=フランソワーズ・アルヌールだなと思ったというだけのお話です。

さすがに今はアニメは見ませんが、009の「最新版だけは」、ちょっと興味があって見てみました。3D仕様になってます。

フランソワーズ・アルヌールたちは「争いから離れ」、ひっそり暮らしています。

でも国連から「私設軍隊」として敵視されたり、「新たな敵」が現れて、結局戦うはめになります。

そこで003=フランソワーズ・アルヌールはこう「叫び」ます。

「もう戦いたくない。いつまで戦えばいいの。私たちはもう50年も戦っているのよ」

そう、、50年戦っているのです。

003は「見た目は若い女性」です。でもサイボーグ化したのは18歳ぐらいの時です。

つまり「見た目は少女、若い女性」でも「68歳のおばあちゃん」なのです。なんか面白いなと思いました。あくまで「誕生した50年前からの継続性を維持」しているのです。

外戚の専横を理解していた信長と家康・理解していなかったらしい秀吉

2019年03月17日 | 歴史
「外戚の専横」というのは「王の妻の親族がやたらと政治力を持って政治を乱す」ことです。広くは「亡き王の妻が政治を乱す」ことも含まれます。

亡くなった王の妻や妻の親戚が権力を握って政治を乱す。母親を敬えとする朝鮮などの儒教国家では、王の母が「大妃」として大変な力を持ちます。

この「外戚禍」を織田信長は「知っていて予防した」と思います。彼の妻。帰蝶は早々に歴史から消えます。側室、生駒吉乃の生駒家は大大名にはなっていません。お鍋の方の親族も同じです。そもそも「帰蝶・吉乃・お鍋の方」みんな資料がほとんど残っていないので、実名すらよく分かりません。

吉乃は織田信忠の実母とされていますが、彼女ですら資料がほとんどないのです。早期に死んだのかなと言ったところです。

むろん「政治の表に出て活躍する」なんてこともありません。「外戚の専横」を信長は意識的に防いだのだと思います。

本能寺後、帰蝶が生きていたとしても、政治の表にでてこないのは、そういう織田家の家風を理解すれば納得できます。生きていたかどうか分かりませんが。

それは徳川家康も同じです。彼は信長より本を沢山読んでましたから、一層「外戚の専横」を知っていて、そして防いでいたと思います。

例えば徳川秀忠の母。西郷局ですが、その名も有名ではありませんし、彼女の一族が大大名になったなんてこともありません。

秀吉も「知っていた」かも知れません。正室である「ねね」の一族を優遇はしますが、さほどではありません。浅野長政が「ねねの親類」である程度です。

「ねね」自身は豊臣政権において一定の影響力を持っていましたが、秀吉死後はさっさと大坂城を出て出家します。それでも関ケ原段階では彼女を「母」と慕う加藤清正、福島正則などがいました。
しかし関ケ原後は高台院として比較的静かな余生を送っています。「外戚の専横」とはほど遠い行動です。

淀殿は「外戚の専横」にあてはまる可能性があります。彼女自身が「大阪城の主のように」ふるまいました。親戚は織田家と浅井家です。織田有楽、織田信雄なども大坂城では一定の力を持っていたようです。さらに自分の侍女たちの一族を優遇しました。侍女大蔵卿局の息子が大野修理です。木村重成は宮内卿局という女性の息子です。

徳川幕府において「大奥」は一定の力を持っていたと思われますが、有名な女性はほとんどいません。桂昌院、江島生島ぐらいでしょうか。桂昌院の一族は出世しましたが小大名程度です。歴代「実母の一族」も小大名か旗本程度の出世です。

歴代将軍の「実母」なんて、普通の人はほぼ知りません。徳川吉宗の母なんて「湯殿番」だったとされています。

将軍の正室で「実母」になったのは、お江(秀忠正室)だけのようです。お江の父は浅井長政、母は織田お市。でも彼女の一族が「専横を働いた」なんて史実はありません。
彼女自身が「専横的だった」というのも「伝説のたぐい」みたいです。

ただし、ここに「春日局」という人物が登場します。家光の乳母です。彼女は実際いろいろ政治力を発揮しましたし、縁故によって出世した者も多い。老中になった堀田正盛は彼女の義理の孫です。

徳川家は「春日局はもうこりごりだ」と思っていたような気がします。彼女以降、彼女ほど政治の表にでて勢力をふるう女性は出ませんでした。(大奥内ではいろいろやっていたとしても)

江戸幕府も一応儒教を受容しましたが、「実母には政治力を持たせません」でした。江戸期を通じて「誰でも知っているような悪女」が出てこないのは、そのせいだと思います。

そもそも日本史には「悪女」が少ないのです。北条政子は悪女ではないでしょう。承久の乱においては幕府をしっかり守りました。淀殿は微妙ですね。日野富子は「かばいにくい女性」であることは確かです。ただし大河「花の乱」は面白い作品です。悪い面もいい面ももった女性、つまりは「人間」として日野富子が描かれています。

ただし「お富の方」はどうかな?とは思います。歴代将軍の中で「一番好き勝手やった」将軍は11代の徳川家斉です。なんせ「50年も在位」しているのです。しかも「ぜいたく三昧」で財政を傾けました。「幕末手前」の1837年に亡くなっています。歴代将軍の中でいろんな意味で「一番トンデモナイ」やつです。

このトンデモナイ男の実母が「お富の方」です。家斉だけでなく、実子が「尾張当主」「黒田藩当主」「一橋家当主」に養子として入っています。しかも長生きしたようです。彼女の大奥での「権勢」は非常なるものであったと想像できます。しかしこの「お富の方」すら日本人はほぼ知りませんし、彼女の父である岩本正利のことも、ほぼ誰も知りません。それほどに徳川は外戚を回避していたということでしょう。



山岡荘八原作・大河「徳川家康」は嘘ばっかりで面白い。「真田丸」と比較してみる。

2019年03月16日 | 徳川家康
PCに向かいながら、BGMとして大河「徳川家康」を聴いていました。画面はあまり見てません。もう数回見た作品ですし。

「とことん徳川家康を聖人君子として描く」作品です。山岡荘八原作だからそうなるわけです。

嘘ばっかりですが、そこが結構面白いのです。ウソもここまで一貫すればたいしたもんだ、というところです。脚本の小山内美江子さんの「才能」も感じました。

1、嫡男・松平信康の切腹・ちなみに、今の学説では「家康と信康の対立」が原因とされることが多い事件です。

これは「真田丸」にはありません。
とにかく正妻の築山殿が「浮気はするわ、武田とは通じるわ」という悪女です。その築山殿に連座して、切腹させたとなっています。
きっかけは徳川の強大化を恐れる信長が、築山殿や信康の「ご乱行」をつかんだこととされています。信長は信康の妻(徳姫)が「昔つい書いてしまった」、信康乱行への文句の手紙を「利用する」という設定です。徳姫は実は信康を深く愛していたとされています。

けれど「信長に命令されたから殺す」とはなっていません。家康は「あくまで自分が調べ、自分の判断で処罰するのだ」と言います。つまり「あの徳川家康が信長に命令されて嫡男を殺すなんて不甲斐ないことはしない」という設定です。

で、築山殿の武田内通を信康も「なんとなく知っていた」という感じにして切腹を命じます。しかしそれでは「家康は冷酷だ」となるといけないと考えたのか、「なんとか逃がそう」とするのです。しかし信康は逃げません。家康の長男だから「立派な人」なわけです。「逃げれば自分の罪を認めることになる。だったら死ぬ。」と言って切腹します。家康は「なぜ逃げないのだ」と悲しみつつも、やはり立派な男であったと考えます。

ちなみにこの事件、司馬さんは「徳川家康は冷酷な人間だから長男や妻を殺してもさして気にもしなかった」と書いています。山岡さんの家康によほど違和感を感じていたのでしょう。「おんな城主直虎」だと「まさに魔王のような海老蔵の信長」から「じゃあ、三河殿の好きになされよ。その代わり、このわしも好きにするがな。」と脅され、阿部サダヲ演じる家康は震えあがります。

2、石川数正の豊臣への出奔

なんだか理屈が通らないのですが「徳川家の団結のために出奔した」となっています。
「豊臣と和を結ぶためには誰かがその仕事をしないといけない。しかしそれをすれば徳川家内で恨まれる。しかし恨まれても、徳川家康への忠義のため、石川数正はそれをやりとげた。彼こそ真の忠臣である」となっています。出奔すれば軍事機密がばれ、徳川家内が緊張する、引き締まる。家内の秩序の「見直し」もできる。そこまで「読んで」、家康の暗黙の了解のもと、石川数正は豊臣へ出奔したとされます。ちょっとわけがわかりません。

「真田丸」だと真田家に騙されて「魔が差してつい出奔した」とされ、石川数正は、大坂城で真田信繁に「ぐちぐち」と文句を言います。そして「最後に決断したのは自分じゃないですか。ぐち言ってないで前を向きましょう」と信繁に慰められます。

3、神君伊賀越え

何度も危機に陥りますが、落人狩りの農民も「最後はあまりに大きな家康の人徳に感化され」、ついには協力者となって家康を逃すとされています。
そこに何故か師である太原雪斎の「幻」が現れ、「お前はまだまだ民の心を知らない」とか説教します。きわめて道徳的な流れです。

「真田丸」だと、ほぼコントです。顔に泥を塗りながら、ワーワー言って「押しとおる」というお笑いシーンになっています。

4、豊臣秀頼を殺す

「真田丸」では「ちょっとあいまい」です。どうやら生かすつもりはないらしいのですが、「生かしてもいいかな」とか考えています。そこに秀忠が出てきて「生かすなんてありえない」と言います。家康は「おっそろしい息子だなー」と驚きます。

大河「徳川家康」では「絶対に生かす」です。「秀頼も淀殿も絶対生かす」が方針です。でも「秀忠が親に逆らって勝手に殺した」とされ、家康は「激怒」します。

なお、これは「成り立たない」のです。何故なら戦後、徳川家は秀頼の息子である「国松」を斬首しているからです。国松の斬首まで「秀忠が勝手にやった」は成り立ちません。秀頼を殺して家康に激怒された、けど秀頼の子供まで探しだして8歳の子の首を斬った、なんてありえない話です。

同じ山岡荘八原作の大河「春の坂道」でも「秀頼を生かそうとする家康」が描かれたそうですが、その時は出演者から「おかしいじゃない」という声がでて、山岡荘八が自ら出向いて「家康は生かそうとしたんだ」という弁舌をふるったようです。

「真田丸」の家康は人間的で面白いけれど、ちょっと「世俗的」過ぎます。大河「徳川家康」の家康は聖人君子にもほどがあり、嘘がバレバレです。私としては「真田太平記」の家康。あの中村梅之助の家康が「非常にバランスがとれていて」素晴らしいと思います。でも大河「徳川家康」は嘘を一貫して突き通したという点においては、逆に面白いとも思います。

見直される戦国武将たち・相変わらず見直されない戦国武将たち

2019年03月16日 | 戦国武将
昔は「愚将」と言われていたのに、今は「そうでもないぞ、いや結構名将かも」と言われている人は、考えつく限りでは以下の人たちです。

・今川義元

・武田勝頼

・織田信忠

・浅井長政(信長に抵抗した気骨が評価されることがあります)

・北条氏政(彼はまだ愚将扱いかも、でも見直しは始まっています)

・豊臣秀頼(体が大きく、ナヨナヨしてなくて、普通の人程度に賢かった程度の見直しです)

「それほどひどい武将でもなかったかも」となると、「小早川秀秋」がいます。映画「関ケ原」なんぞはそういう扱いでした。ただし「真田丸」は旧来の扱いでした。個人的には「裏切り金吾」は「裏切り金吾のままでいて欲しい」と思います。

「あまり話題にならなかったのに名将扱いとなっている」のは「大谷吉継」でしょう。真田信繁の義父という点でも「得をして」います。

「普通の人なんだぞ、いやとんだサイコ野郎だぞ」という集中攻撃を受けているのは「織田信長」です。でも彼は「頑丈」です。そういう集中攻撃に負けている感じがありません。

秀吉は、政治がからむと「東アジアの新秩序を建設しようとした」とか言われます。まあ違いますけどね。

政治がからまないと、秀吉には「昔の人気」はありません。「今太閤」なんて言葉も死語になってしまいました。なにかというと「本能寺の黒幕」にされます。いい迷惑でしょう。

次に「見直す」としたら「次の人々」です。

・朝倉義景

・宇喜多秀家

・六角承禎

・毛利輝元

・三好長慶と三好三人衆

・穴山梅雪と木曾義昌

三好長慶は実績がありますから、比較的簡単でしょう。でも他の人々の「名誉回復」は相当難しいでしょう。でも近頃の学者さんは「どんな無理をしても定説を覆す」ことを「出版社から要求されて」いますから、こういう人たちも今に「見直しが始まる」かも知れません。