散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

江戸城無血開城の最終的確定条件

2018年09月20日 | 歴史
江戸城無血開城の「最終的確定条件」

江戸城開城に関して、官軍が最初に出した案はこうです。

1、徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
2、江戸城を明け渡すこと。
3、軍艦をすべて引き渡すこと。
4、武器をすべて引き渡すこと。
5、城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
6、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
7、暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。

では「最終的な確定条件」はどんなものか。ネットで調べる限り、ちょっと分かりにくい感じになっています。がたぶん「こう」だと思います。

1、徳川慶喜の身柄を水戸徳川藩に預けること。
2、江戸城を明け渡すこと。
3、軍艦をすべて引き渡すこと。
4、武器をすべて引き渡すこと。
(ただし武器等に関しては、最低限必要な分だけ、後に徳川家に戻す可能性は残す)
5、城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
6、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物は謝罪謹慎すること。基本的には命は奪わない。ただし会津藩松平容保、桑名藩松平定敬に関しては罪を認め降伏しない限り、厳しく断罪する。
7、暴発の徒は徳川家が鎮撫する。ただし徳川家の手に余る場合、官軍が鎮圧する。

これが「最終的確定7箇条」だと思いますが、さてどうでしょう。徳川慶喜の助命と水戸徳川預けが勝海舟にとってもっとも大切な目標でした。人気のない将軍とはいえ、慶喜を殺したら、というより「主君である将軍を殺したら」「岡山あたりに遠流状態にしたら」旧幕臣の暴発は抑えることができなくなります。「旧幕臣をおとなしくさせるため」には、つまり「内乱の規模を小さくするため」には、慶喜の助命と水戸預けは譲れない一線でした。ちなみに慶喜を助けたのは西郷とは言えないと思います。もともとの西郷は積極的な慶喜切腹論者でした。慶喜助命に積極的に動いたのは長州、特に桂小五郎です。加えてパークス、山内容堂、松平春嶽。それから天璋院あたりでしょうか。むろん西郷も最後は助命に同意してはいます。

「6」に関してです。桑名の松平定敬は五稜郭に行き、それから上海まで逃亡しますが、結局は帰国し新政府に対し降伏します。なんやかんやで桑名藩は討伐の対象になりませんでした。
それに対し会津藩松平容保は藩内の主戦論を受け入れ、結局は徹底抗戦に決します。松平容保は「新政府はどうせ会津を許さない」ことを理解していたと思います。
で、会津戦争になり、最終的には降伏します。松平容保の命は奪われませんでしたが、会津藩は青森に移され、貧困と寒さに苦しみます。松平容保は最終的には日光東照宮の宮司になります。

徳川慶喜がなにかと「悪く」描かれるのは、この会津藩の不幸に対して、徳川慶喜が明治の世を彼なりに謳歌したからかな、と思います。

徳川15代の中の聖君とか名君とか

2018年09月18日 | 歴史
初めに、結論を書くと、徳川将軍に「聖君」などいません。もともと「聖君であることを求められていない」からです。「名君」であることは多少重要でしょうが、「聖君であれ」とは誰も思っていないでしょう。そもそも天皇が存在するわけで、聖君は「天皇の役割」ということかなと思います。

なぜ聖君という言葉を持ち出したかというと、朝鮮王朝では、やたらと聖君であることを求められるからです。少なくともドラマではそうなっています。でも朝鮮王朝にもきっと聖君なんていないでしょう。「王」ですから、現実は聖君でいられるほど甘くないのです。

さて、徳川15代の中の名君は誰か。といっても普通の日本人は15人の名前を暗記で言うことはできないでしょう。私もできません。4代とか6代とか7代とか10代とかあまりに影が薄いのです。

初代徳川家康、、、まあ彼は別格でしょう。創業社長ですから、まあ名君なんでしょうが、いろんな意味で別格です。ちなみに神君とよく言われます。とにかく別格です。

2代徳川秀忠、、、3代家光の功績とされていることの半分以上は、秀忠の功績です。実際に幕政改革行ったのは家光で、しかも秀忠の死後ですが、秀忠が用意した方針のもとに行ったともいえます。秀忠はドラマではよく描かれませんが、きわめて有能な人だと思います。もしくは有能な部下を使いこなした人です。

3代徳川家光、、、いろいろ功績があるとされていますが、半分以上は親父の功績です。というか死んだ親父の作ったレールのうえに成り立った功績だと思います。有名なわりにはドラマの主役になることが少ない人です。「将軍家光忍び旅」とか、古いところでは「家光が行く」がある程度です。大河では「葵 徳川三代」があって、一応主人公の一人です。

4代徳川家綱、、、病弱で早死にしています。影が薄い人です。それでも幕府が成り立ったのは、すでに合議制でうまくいく組織になっていたからでしょう。おじさんの保科正之の補佐があったことも幸いしました。保科さんは秀忠の隠し子です。保科さんは実質的には大老でした。後半は酒井忠清が権勢をふるいます。家綱の時代から「文治政治」が始まったという評価もあります。

5代徳川綱吉、、、ドラマにはよく登場してました。赤穂の討ち入りがあるからです。最近は「忠臣蔵」が流行らないので、あまり登場しません。家光の子で、家綱の弟です。犬公方とかいう別名もあります。いままで馬鹿にされて描かれることが多かったせいで、「実は名君だった」なんて新説も出ています。経済的には徳川の黄金時代です。裏を返せば、彼ぐらいから財政が傾きます。

6代徳川家宣、、、、家光の子で早死にした徳川綱重の息子です。綱吉の「おい」ですね。新井白石を登用しましたが、「在位がわずか3年」です。影が薄い。「いえのぶ」と読みます。

7代徳川家継、、、六代家宣の息子です。7歳で没しています。子供です。

8代徳川吉宗、、、徳川本家の血筋が絶えたので、紀州徳川から将軍になりました。暴れん坊将軍です。中興の祖とされてますが、彼がやった享保の改革はほぼ失敗しています。御三卿(御三家ではありません)の元を作った人です。いろいろやったけど失敗で、まあ名君とは言えないかな、と思います。幕府財政はよくなりましたが、要するに年貢を増やしたからです。商品経済の発達についていけなかった人です。

9代徳川家重、、、八代吉宗の長男です。体が弱い。言語が不明瞭であることなどで「有名?」です。15年在位しましたが、前半6年は吉宗の大御所政治です。

10代徳川家治、、、「いえはる」です。在位が長く26年も将軍をしていました。田沼政治で有名?です。つまり商品経済の発達になんとか対応しようとした政権です。

11代徳川家斉、、「いえなり」です。10代家治の子ではなく、吉宗の四男である徳川(一橋)宗尹(むねただ)の孫です。50年も将軍をしてました。前半は寛政の改革を行いましたが、後半は「無駄遣い老人」となりました。幕末、幕府の財政が傾いていたのはこの人の責任でしょう。50年の将軍在位は「ダントツの1位」ですが、ドラマの主役になった記憶はありません。

12代徳川家慶、、「いえよし」です。天保の改革で財政引き締めを目指しましたが、時すでに遅し、、でした。蛮社の獄はこの人の時代です。1853年にペリー来航、その年の夏に亡くなっています。

13代徳川家定、、、知的障害を持っていたと言われます。篤姫さんの夫です。父親の家慶には30人ぐらい子供がいましたが、この人しか成人しなかったようです。政治は阿部正弘→堀田正睦→井伊直弼が担いました。もっとも多難な安政期に5年ほど在位しました。

14代徳川家茂、、、「いえもち」です。紀州徳川から将軍になりました。12歳ぐらいで将軍になり、20歳で亡くなっています。後半は徳川慶喜が将軍後見職でした。幕末ものには必ず登場しますが、これといった「見せ場」がない人です。若すぎました。

15代徳川慶喜、、、一橋慶喜です。一橋家の始祖は8代吉宗の子の徳川宗尹です。つまり基本は吉宗の血筋なんですが、この人は養子で、水戸家の人です。在位は1年でした。いろいろなドラマで「これでもか」というぐらいひどく描かれます。が、彼がいなければ明治維新はもっと悲惨な内乱になっていたでしょう。維新最大の功労者だと言われることもあります。司馬遼太郎さんはそう思っていたようです。

ということで、名君はまあ「家康、秀忠、慶喜」の3人だと私は考えます。逆に一番トンデモないやつは「11代徳川家斉」でありましょう。