散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

本能寺の変の復習  秀吉は本能寺の変を予見していたか

2018年05月10日 | 歴史
信長の棺

まだ読んでいる人はいるのかな、と思って検索したら、わが自治体では7冊中5冊が「貸し出し中」でした。予想より読まれています。

まあ、なんというか、陰謀ものですね。「ダヴィンチコード」とか「聖書の暗号」のたぐい、だと私はそう思います。

本能寺の地下に「逃げ穴」があったが、秀吉がそれを「ふさいで」しまったために、信長は逃げられなかったとかトンデモない話が骨子です。

信長の遺体は何故見つからないのか、普通なら「大火で焼けたから」と考えますが、それがこの小説の「主題」です。遺体は焼けて判別できないからない、とは筆者は考えないようです。

「信長殺し光秀ではない」からはじまって、「本能寺陰謀もの」は多くありますが、なんというか「つまらない話」ばかりです。

「明智光秀はたいした武将でもないのに、単独で大事を起こすわけない」が前提となっている場合が多いのですが、数人しかいない「方面司令官」である光秀をどんだけ下に見れば気が済むのでしょう。

で、信長の棺なんかもそうですが「秀吉陰謀説」が出てくるわけです。「中国大返しがあんなにうまくいくわけはない。事前に準備していたのだ」という感じの話になっていきます。

さて「秀吉は本能寺を予見していたか」についてです。

〇別に秀吉が本能寺の変の「黒幕」でなくとも、予見していてもおかしくはない。

と思います。

柴田勝家が上杉謙信に敗れた戦に、秀吉は従軍していません。勝家と「喧嘩して帰ってきて」しまったからです。で蟄居です。

ところが松永久秀が裏切るにあたり、秀吉は信長の命のもと、軍勢を率いて織田信忠と合流し、信貴山城の戦いで久秀を爆死させます。

「太閤もの」ですと、秀吉は久秀の裏切りを予見していたのだ、となりますが、そこまで凄くはないでしょう。ただ勝家と意見が違っただけとも言えます。上杉謙信に「上洛の意図」があったかは分かりませんが、謙信のそれまでの行動からみて「天下人になる気はなかった」でしょう。領土拡大の意図がない上杉家と「上杉家の領土内で戦う」のは愚かです。で秀吉は反対したわけです。実際、上杉の領土で戦って散々負けます。

ただ「死ぬ覚悟で帰った」のかと考えると、それもまた愚かです。そういう後世の武士の鑑みたいな人物は乱世にはあまりいません。
そのかわり、秀吉の心のどこかに「畿内の誰かが謀反を起こした場合、織田家には軍事力が足りない」という「読み」はあったと思います。

松永久秀の謀反を「なんとなくありそうなことだ」ぐらいには秀吉は考えていたでしょう。

これを中国攻めの段階に当てはめると、さらに謀反は増加していました。信長の晩年は謀反は増加の一途だったのです。

だから「絶対謀反は起らない」と考える方がむしろ変、です。秀吉は「そういうこともありうる」と考えたでしょう。信長が死ななくても、その時は帰京する必要があります。「帰京することを絶えず考えていた」としてもおかしくありません。

だから中国大返しの奇跡は、奇跡ではあるものの、「だから秀吉が黒幕だ」とはならないと思います。

関ヶ原の復習 三中老とは何か

2018年05月06日 | 日記
豊臣政権はさして体制の整ったものではなく、権力は秀吉に集中していましたが、五奉行、五大老制はよく知られています。もっとも「制度」として確立していたかは疑問のあるところです。

この二者のいわば「仲介役」として「三中老」というものがあったという人もいます。「徳川実記」などにも出てくるようですが、徳川実記は19世紀前半の成立ですからあてにはなりません。

この「三中老」説を「一応信じる」として、それが誰かと言うと、

生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏の三名です。それぞれの生まれ年は、1526年ぐらい、1543年、中村一氏は不明ですが、1540年ぐらいかなと(勝手に)考えます。

五奉行は「彼らより若い」と考えがちですが、浅野長政は1547生まれですから、そんなに違いません。

生駒親正は讃岐高松藩17万石初代藩主です。この藩は4代目でお家騒動を起こし、転封。実質改易です。出羽矢島に移され、生駒氏はやがて旗本寄合となって、明治まで存続します。

堀尾吉晴はドラマでは「茂助」とよく呼ばれています。遠江浜松城主12万石、豊臣姓も下賜されています。堀尾家は東軍だったため、戦後は出雲松江24万石までのぼりつめます。
しかし、三代目に嗣子がいなかったため改易。堀尾氏の一族は生き残りますが、堀尾吉晴直系は三代で終わりです。

中村一氏の幼名は孫平次。駿府付中14万石。がやがて改易される点では堀尾氏と同じです。改易されますが、氏族には人が多く、それぞれ主君を得て氏族そのものは存続します。

堀尾吉晴は「功名が辻」では生瀬勝久さんが演じました。中村一氏はロンハーの敦が演じた。生駒親正は嶋崎伸夫さんが演じたようですが、記憶にありません。あのドラマでは堀尾、中村、山内一豊の3名が「中老格」を演じていたので、生駒親正は出番が少なかったのでしょう。

ドラマ化、小説化の視点でみるならば、

中老という制度は「たぶんなかった」でしょうが、彼らが古くからの秀吉配下であったことはたしかです。それなりの発言権はあったと思います。

一番面白いのは堀尾家でしょう。二代目は堀尾忠氏で、関ヶ原には「この若者」が参戦しました。「家康に城も領地もあけわたす」という有名な山内一豊の発言は、「本当は堀尾吉晴の発案であったが、息子の忠氏が気後れして迷っているうちに、山内一豊にその功績をとって代わられた」とされています。

が、違うでしょう。ともに具申したに違いありません。なぜならさしたる武勲もないにもかかわらず、堀尾忠氏は松江で24万石という大封を与えられているからです。それに対して一豊は土佐一国とされますが、当初の幕府の計算では、その石高はせいぜい十万石に過ぎません。堀尾家が明治まで存続したなら、堀尾家の「功名物語」も作られたでしょうが、江戸初期に無嗣により改易されてしまいます。改易さえなければ、高名な戦国大名の一人になっていただろうし、一部では今でも堀尾茂助は有名な大名です。

ちなみに岩国織田家の出身でもあります。信長に滅ぼされた岩国織田家。その点からもドラマになる家かと思います。