散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

斉藤由貴さんと理趣経

2017年09月12日 | 日記
斉藤由貴さんはモルモン教徒ですから、理趣経は関係ないのですが、日本人だから全く関係ない、とも言えない。

妙適淸淨句是菩薩位 - 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である

これは理趣経の最初の部分です。性は正常なる菩薩の境地なんです。

性のエネルギーというのは、生のエネルギーなんですね。密教では。

50歳過ぎて、同年配の私としては「お盛んで結構」ぐらいな感じです。

おじさんとおばさんの話なんです。

旦那も相手の奥さんも深く傷つくような年齢ではありません。個人差あるけど。

なんで「性というものを夫婦だけの関係に押し込めようとするのか」

キリスト教の悪弊かな、まあ夫婦制度の悪弊です。

私はフリーセックス論者でもないし、「性病が怖いから」誰かれかまわず、は「病気になるからやめたほうがいい」とも思います。

でも理趣経を持ち出すまでもなく、斉藤由貴さんの件は「いいじゃないか」、何故なら「おじさんとおばさんの話だ」という意見です。

円楽だって橋之助だって「いいじゃないか」ぐらいで終わっています。女性だけ責められるのは不公平です。

というか、何度も書くけど、おじさん、おばさん、が青春を思い出しているだけです。断然擁護します。

栗原小巻さんのこと  おんな城主直虎 井伊家最後の日  

2017年09月10日 | ドラマ
井伊家最後の日 元ネタはなんなのだろう、「最後の日」だけでは分かりません。が、おそらく「地球最後の日」でありましょう。

来週は「武田が来りて火を放つ」、これは簡単、横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」です。

正直井伊家なんてどうでもいいし、「最後の日にならない」ことは誰でもわかっているわけですが。

家康の母、於大として栗原小巻さんが出演されていたのには、驚きました。

キャストとか調べたことなかったので知らなかったのです。6月には発表されていたようです。

70年代の大河ドラマにはよく出演されていましたし、「黄金の日々」ではヒロインで準主役でした。

本当は「ひっくり返るほど驚いた」と書きたいところです。そのぐらいの衝撃です。

日本の二大女優。吉永小百合さんと栗原小巻さん。二大女優だということは、70年代には「常識」でした。

その後、吉永さんは「映画のみ」、栗原さんは「舞台のみ」となり、ご両者とも「TVには出ない」のだと思っていました。

むろん70年代、私は子供です。

だからサユリストでもコマキストでもなかったのですが、「黄金の日々」は熱心に見ましたから栗原さんの美しさは子供でも理解できました。

70歳を超えて、むろんお歳はとりました。

ただあの上品な笑顔は健在です。

栗原小巻さんが吹き替えをした「風と共に去りぬ」、あれが聴いてみたいのですが、DVD等になっていないのでしょうか。

とにかくいきなり栗原小巻さんを見て、腰が抜けるほどびっくりしたし、感動しました。

邪馬台国本の数について

2017年09月10日 | 日記
私の住む自治体の図書館で「邪馬台国」と検索してみます。

ヒットする本は2016年度出版で16冊、2017年出版で6冊です。しかもその6冊にうち2冊は天照大御神、竹内文書という文字がタイトルにあるので、まあトンデモ本です。

ちなみに「邪馬壹国」(やまいちこく)で検索すると8冊ぐらい。邪馬壹国説提唱の古田武彦さんの著作は95冊です。ずいぶんと書いている。

僕はずっとなんで「邪馬壹国」(やまいちこく)説が無視されるのだろうと思っていたのですが、「魏志倭人伝」の最古の写本は12世紀ぐらいのもののようです。

だから魏志倭人伝原本には「邪馬壹国」(やまいちこく)と書いてあるという主張はちょっと苦しい。原本ではなく、後世の写本にそう書いてあるのです。もっとも私には全面否定する力はありません。

さて

邪馬台国論争

上記の16冊、今年度まだ6冊という数(図書館にある本の数)からみて「盛り上がってはいない」ようです。

一時は随分と熱い論争があって、本もたくさん出版されました。

一つには政治的意味合いがあったでしょう。天皇制の是非がまだ問題になっていた時代は、邪馬台国と大和王朝の連続性や不連続性が問題であった。

でも今は共産党さえ天皇制打破とか言いません。「やまたいこく」と「やまとこく」の連続性や不連続性にあまり関心が払われなくなりました。

次に纏向遺跡の存在がある。

3世紀の奈良に大きな政治集団があったことは誰もが認めざるえなくなりました。

もっともそれで「纏向があるから邪馬台国は畿内だ」とはなりません。あくまでヤマト王朝が纏向から始まった可能性が高くなっただけです。

でもそうすると、九州説に立つならば、邪馬台国と大和政権が3世紀に併存していたことになります。

と、ここまで書いてきて、自分が恐ろしいぐらい「今まで邪馬台国に興味をもっていなかった」ことに気がつきました。

あれ「やまいちこく」はどうなったんだろう。「九州説だと纏向はどういう風に位置づけられるのだろう」ぐらいの関心からちょっと調べて書いただけです。

で、怒られそうなので、やめにします。知識のある方々、どうぞ笑ってお許しください。

歴史と暗記とエトセトラ

2017年09月10日 | 日記
「歴史は暗記じゃない」という方がいますが、いやいや半ば暗記でしょう、と思います。

勉強というのは「面白い」「楽しい」と思えば成績は必ず伸びます。

ただ私たちのように「歴史がもともと好き」な人間が、「歴史は楽しい」なんていくら強調しても意味ないわけです。楽しくない人は楽しくない。

たとえば私は英語が苦手です。英語が楽しいと言われても「君はそうだろうが僕は楽しくない」と考える。そんなもんです。

だからと言って何もかもを暗記する、のは無駄な作業です。「歴史の節目」だけ一応覚えれば、あとはかなり応用が利きます。

卑弥呼についてまず3世紀と覚える。すると弥生も3世紀まで、と分かります。

次に「空白の4世紀」という言葉を覚える。4世紀は古墳時代であまりよくわからないことが分かります。

次が聖徳太子(厩戸皇子)は6世紀の終わりの人。飛鳥時代のだいたいの時期が分かります。

次にナント見事な平城京。710年 奈良時代の始まり。その後で実は最も大切な年代は701大宝律令と覚えますが、あとでいいと思います。

でナクヨうぐいす平安京。794年

白紙にもどす遣唐使 894年

いい箱作ろう   鎌倉 1185年

次が面倒なんですがうまいことに1333年なんです。 鎌倉滅亡。  1333は3が三つと覚えればいい。

この間室町、戦国時代。

で、関ヶ原が見事なまでにきりがいい。 1600年、数年後に江戸幕府成立。で、徳川260年と覚える。

すると明治維新が大体1860年ごろになる。のち正確に1868年と覚える。

次はもう元号でいくしかない。明治45 大正15  昭和64

これだけで13ですが、明治維新までなら10です。  白紙にもどす遣唐使なんては後でもいい。 すると9つです。

これだけでかなりの応用がきく。たとえば平清盛、当然1185ぐらいの人です。

最澄、空海は桓武天皇時代だから794年ごろの人。

家康、秀吉、信長。まあだいたい1600年以前の人。

足利尊氏 1333年ごろの人。

坂本龍馬、徳川慶喜、西郷隆盛 1860年ごろの人。

むろんこの程度の暗記では網羅はできませんが、とりあえず上記の9つぐらいを覚えておくと、かなりの応用がききます。

歴史が楽しいと思えれば暗記は苦でもないですが、そう思えない人を思えるようにするのは難しい。

本日、フジテレビでやっているような「くだけた歴史番組」はどうなんでしょうか。僕にとっての「歴史の楽しさ」は「ああいう種類の楽しさ」でないことは確かです。

深みというかわびさびというか、お笑い的な面白さとは全く違ったもののように私個人は感じていますが、まあ所詮は個人の好みかも知れません。



坂本龍馬の死と山内一豊

2017年09月06日 | ドラマ
坂本龍馬を殺したのは幕府見廻り組です。例によって様々な「黒幕説」「陰謀論」がありますが、説得力のあるものはありません。

明治期になって、坂本龍馬はほぼ忘れられた存在になっていましたが、日露戦争直前に皇后の夢枕に立ったとかで話題になり、龍馬ブームが起きたようです。

皇后の夢がそう簡単に外に漏れるわけはないので、土佐派の政治的な動きがそこにはあったのでしょう。

司馬さんが竜馬がゆくを書いたのは昭和37年で、そこから今に至るまで龍馬は大人気です。実は私はさほど魅力を感じないのですが。

暗殺は近江屋で起こっています。

相当危ないことは分かっていたでしょうから、藩邸にいればよかったわけです。でも土佐藩邸には色々理由をつけて入りません。薩摩藩邸への誘いも断っています。

理由は色々とつけてはいますが、藩邸は嫌いなのです。龍馬は郷士です。結局それが命取りになりました。

後藤象二郎の依頼で山内容堂の手紙を春嶽に届けているぐらいですから、藩邸が泊めてくれないということはなかったでしょう、脱藩の罪ももう免除されていた。それでも嫌がった。

となると、

初代藩主である山内一豊の苛烈な長曾我部侍圧迫政策が、結局はまわりまわって、龍馬の死をもたらしたということになります。

一豊が海岸で相撲興行を行って、やってきた長曾我部侍のうち有力なものを虐殺した、というのは「史実ではないだろうな」と思っていたのですが、半分ぐらいは本当のようです。

ちゃんとその時の侍の霊を鎮魂する行事も近年行われています。「相撲」の部分は嘘らしいのですが。

小説「功名が辻」ではこの事件が「オチ」となります。千代は一豊を出世させることが面白く、人生かけてそれをやってきて、結局「虐殺か」ということになり、大きな空虚に襲われます。

そして一豊に言うのです。結局のところ、あなたは国主の器ではなかった、無能な人間が人の上にたつのは罪である。

今手元に小説がないので、正確には違いますが、まあ「そんなこと」を言います。

結局この事件をはじめとする、長曾我部侍強権圧迫政策の「名残り」が幕末まで続き、龍馬をして「藩邸なんぞに泊まるものか」という行動をとらせたわけです。

小説「功名が辻」は千代が一豊を評して「あなたはしょせん馬鹿だった」というところでほぼ終わっています。

初めて読んだとき、そこがたまらなく面白く感じました。

大河ドラマの方は「黒田如水が暗躍し、土佐を早く治めないといけないので、仕方なくやった」ことになってました。

まあどっちもフィクションですから、文句をいう筋でもないですが、小説の方には「身に合わない出世をすると、それ自体が悪害をもたらす」という視点が入っていることは強調したいと思います。

平家物語と仏教的無常観

2017年09月06日 | ドラマ
小林秀雄が平家物語は内容としては無常なんて思想が根底にあるわけではないんだ、もっと生き生きした活動的な物語なんだ、てなことを言っています。

まあ軍記ものですからね、いちいち「ああ無常だ」なんて嘆きを挿入はしてないのは確かです。「新平家物語」なんかを見ても、平清盛は実にエネルギッシュです。

無常が強調されるのは壇の浦であって、その他の部分では平家は我が世を謳歌しているわけです。

でも「無常という考えを学ぶ」という視点に立つと、やはり平家は「いい教科書」かなと思います。

大河「平清盛」は実に評判の悪い作品でした。天皇を「王」と表現したら、それでは中華体制に日本が組み込まれていたことになってしまい、国辱だなんて意見もありました。(平安文学を王朝文学というように、天皇を王と表現するのは当然のことです。でも昔の大河では、皇室を忖度して、王家の犬にはならない、ではなく、公家の犬にはならない、と清盛は言ってました)

ただそういう政治的な部分は置くとしても、脚本が見事にダメでした。

最初の最初の方に、源頼朝の「語り」があって、「平清盛は武家政権の礎を作った偉大なる男だ」とか言ってました。その時点で「ひどく嫌な予感」はしたのです。

あり得ないにもほどがあるだろ、という話です。なんで頼朝がそんなことを言うということにしたのだ?

そして物語が始まると、変な友情ドラマが進展し、さらに海賊ものみたいな部分が強調されます。ワンピースか、パイレーツオブカリビアンか、アホらし、の一言です。

清盛と源義朝を「友」とし、その「友情を描いた」時点で、すでに奇妙きわまりなかったのですが、

ついには「諸行無常はじまる」とか信じがたい副題がついたりしました。

諸行無常が「はじまる」わけないだろ、と一斉に突っ込まれてましたが、NHKもそんなことわかっているはずです。

それでもあえてつけたとすると「国民の知識」を馬鹿にしすぎです。時代考証の本郷和人さん、どうして許したのでしょう。

無常というのは、すべては変化すること、これを人間の側から見れば、こだわるからかえって不幸になる、というもので、まあ簡単な思想です。中学生だって分かりますし、実際分かっていました。

「この世のはじまりから終わりまで続く状態」ですから、「はじまる」ことも「終わる」こともないのです。中学生でも分かります。

後白河法皇はいつまでたっても若々しく、法皇というより青年のよう。清盛は若いころは町のあんちゃんみたいな感じで、年をとっても少しも成熟しない。

せめて「仏教的無常観」を小学生が理解する機会ぐらいになれば良かったのですが、「諸行無常はじまる」では、だめだこりゃという話です。

私は大河最低は「江」と「篤姫」と思っていて、これらよりは「まし」だと思いますが、とても見られたもんじゃなかったことは確かです。

仲代さんの「新平家物語」はあんなに素晴らしいのに、どうして大河「平清盛」はあんなにダメなのか。研究されてもいいぐらいの現象です。

時代考証家が「譲れない一線」を譲ってしまって「御用学者」のような仕事した場合、大河は「とても見られたもんじゃなくなる」。これは確かだと思います。

「諸行無常はじまる」なんて表現は成立するわけがない。考証の本郷さんに分からないわけがない。でも「止めない」、ではダメなのです。

蛇足 
大河「平清盛」をひどく書きすぎたかなと思い、録画で最終回を見直してみました。結果「思っていたよりひどい」
清盛が西行にのり移って頼朝と対面し「あとは頼んだ。真の武士の世を見せてみろ」とか言って微笑んだりしています。なんじゃそりゃ。
なんなのだろ、「わび、さび、幽玄」というものが一切ない。記憶していたよりずっとひどい作品でした。

植木等さんに憧れていた学生時代 「植木等とのぼせもん」について

2017年09月04日 | ドラマ
私は植木さんファンになるには、少しばかり年少です。つまり「時代が違う」のです。

ドリフの世代ですね。ただしドリフもすぐに飽きてしまったので、正確には「漫才ブーム、ひょうきん族」世代です。

でも植木等さんは大好きでした。TVで「映画」を観てましたから。あと歌も聴いていた。

映画ならニッポン無責任時代とかニッポン無責任野郎とか。歌はベスト集がありましたから、同時代に聴いてなくても、クレージーキャッツの歌は大体全部わかります。

植木さんと大橋巨泉さん。全く違う性格の二人なんですが、憧れでした。

とにかく私は「真面目にしろ」とか「ふざけるな」とか「責任をもて」という時代に育って、それが重圧だったのです。

植木さんと巨泉さんは「実に軽かったり」「遊びがそのまま仕事になっていたり」、いい人生だなと思っていました。今でもそう思います。

実は植木さんは非常に真面目な方だったようです。「非常に」かどうかは分かりませんが、お寺の住職の息子ですね。

そんなこと知らないものだからか、映画そのまんまが植木さんだと、一時期までは思っていました。

NHKでドラマをやっています。原案は植木さんの弟子の小松政夫さんです。この人も「あんたはエライ」とか「コマツの親分さん」とか沢山ギャクがある方です。俳優としても活躍しています。

ドラマの第一回では、出演自体はしないのですが、番組の紹介を「淀川長治」でやってました。若い人には分かりませんが、ある程度の年齢の人ならみんな知ってます。

映画評論の草分けですね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ、で有名な方。これ、ギャグではありません。

さて、小松政夫さん。関東のお笑いの最年長は内海桂子師匠でしょうが、現役バリバリの人間としてはこの小松さん、そしてさらに年上の伊東四郎(ドラマに植木の父親役で出演)さんだと思います。

伊東さんは古いですね、なにせ「てんぷくトリオ」です。コント55号より前のグループです。いまだに現役、凄いなと思います。

あまり関係ないですが、ちなみに関東お笑い界の「現時点での帝王」は「ウッチャン」だというのが私の意見です。

さて、植木さんというかクレージーキャッツ。

もともとは米軍まわりのバンドですね。英語でクレージーは、誉め言葉にもなるようで、それでクレージーキャッツです。

植木等、はなはじめ、桜井センリ、犬塚弘、谷啓、安田伸、それと途中脱退ですが石橋エータローがメンバーです。

犬塚さん以外はすべて故人です。

犬塚さんは90近い年齢です。時々インタビュー記事なんかが載りますが、音楽に関しては圧倒的な知識をもっているようで、本質的にはこのグループは音楽人なのかなと思います。

あのコメディ歌はほとんど青島、萩原コンビで作られました。青島さんは元都知事の青島さんです。

植木等の時代とはつまり「60年代高度成長期」で、私には昭和幻想がないので、いい時代とは思いませんが、植木さんに関しては超一流のエンターティナーだった、これは間違いないと思います。

浅井長政・あさいながまさ

2017年09月04日 | ドラマ
浅井長政

あさいながまさ

こう書くと勝ち誇ったように「あざい」だという人がいるでしょう。

わからないんです。実際は。

宣教師たちがこぞって「azai」と表記していたなら分かりますが、そういう資料はないようです。

当時の「かな」文章でも「あざい」も「あさい」もある。「あざい」を「あさい」と書くことはあっても、「あさい」なら濁点はつけない、、かな?

にほん、ニッポン、そのあたり適当ですからね。戦国期にはジッポンと日本人自身が発音していた形跡もあります。

アザイ、濁点つきの「あざい」説の

最大の決め手は今現在の地名が「あざい」であること。

でもいつから「あざい」なのか。

江戸時代の中期に変化して「あざい」になったのかも知れません。

仮にそうなら戦国時代は「あさい」かも知れません。

あさいながまさ

の方が「音がいい」のですよね。だから私は「自分の頭の中では、あさいながまさと」発音しています。

公式の場で彼の名を発音することはないので、つまりは私にとってはいつまでも「あさい」です。

それは間違いだ、という確定的な証拠はどこにもない。「あざい」説はまだ「説」の段階なんです。


最後の織田信長

2017年09月02日 | ドラマ
最後の織田信長。

変な題名ですが、大河ドラマで最後に「信長がきちんと描かれたのはいつが最後か」というような意味です。

主人公としては「信長、キングオブジバング」。1992年が最後ですね。25年もたっています。

「真田丸」ではほぼ登場しません。一度だけ出ます。魔王みたいな威圧感満点の信長ですが、登場してすぐ本能寺です。

本能寺のシーンも描かれず、鎧が焼けるというイメージ映像になっていました。

その前は軍師官兵衛。江口洋介さん。あまり存在感はなかった。

その前は「江」で豊川悦司さん。豊川さんは好きですが、いちいち自分の行動を弁解しているだけの(浅井長政の「しゃれこうべ」を金の盃にしたなんてありえないとか)、最低の信長でした。豊川さんのせいではありません。脚本が最低。

その前は天地人。吉川晃司さん。存在感はありましたが、登場に必然性がないというか、ちょくちょく「そのころ信長は」という感じで出てました。

ということで比較的詳しく信長が描かれたのは2006年の「功名が辻」が最後でしょう。舘ひろしさんです。第一回から登場し、本能寺もきちんと描かれました。「きちんと」とは「史実」という意味ではありません。濃姫が「殿は地獄、私は極楽、死んであの世で逢おうにも、逢うことができない」と言って本能寺でともに死ぬのが印象的でした。

「信長、キングオブジバング」。戦いのシーンとはちゃんと描くのですが、なにしろ「登場人物のセリフ回しが全部同じ」なのです。柴田権六も木下藤吉郎も「同じ言葉の使い方」をします。「何々でござりまする」と全員同じ。「あまり助詞を使わずに話すセリフ回し」も全員同じ。役者の個性が全く生きない、非常に残念でした。

この作品では旧説と新説がごちゃごちゃといりまぜになってました。平手のじいは、諫言死ではない。桶狭間は正面攻撃である。ところが長篠の戦は「きっちりと三段撃ち」です。
CGもない時代なので、金かけて作ってました。史実はともかくあの「三段撃ち」は見ごたえがありました。それだけにあの「セリフ全員同じ」はどうにかしてほしかったと思います。

加納随天という占い師がでてきて、平幹二郎さんが演じました。異常なぐらいの存在感。最後は本能寺で死にますが、信長の切腹までの時間を稼ぐため、「何本矢を受けても、何発撃たれても死なない」というシーンがでてきました。あまりに大きな存在感。名優過ぎるのも考えもんです。セリフ回しが同じなのは平さんもそうなのですが、さすがに平幹二郎。それでも個性が生きてました。

ということで大河の歴史において信長が主役になったのは「たった二作」であり、そのうちの一つ「国盗り物語」では斎藤道三、明智光秀とのトリプル主役です。

そろそろ「ザ 織田信長」といったような大河ドラマを作ってもいい時期だと思います。

「ねね」と「まつ」と「千代」について

2017年09月02日 | ドラマ
「ねね」と書いただけで、「おね」だ、とか「ねい」だとか言われそうですが、「ね」なんて一文字名は当時としてもあり得ないので「おね」はどうかと思います。

「お」は接頭語というか敬称です。だから「おね」なら、彼女の本名は「木下ね」か「杉原ね」になります。おかしいでしょ、それは。

それに何十年も「ねね」だったのです。いまさら「おね」とか言われても、、、学説的にも支持できないし。

さて、

戦国期でドラマになりそうなのは、この3人ですね。茶々や江を主人公にしても面白くない、彼女たちが主人公の作品はあるが、実際面白くありません。

ただ「ねね」、「まつ」を主人公にした大河も僕の感想ではあまり面白くはない。「おんな太閤記」と「利家とまつ」ですね。

ひたすら賢女なだけ、なんです。もっと権謀術数をこらすような面白い「ねね」とか「まつ」も見てみたい。

「利家とまつ」、残念ながらもう話題にもなりません。反町隆史とか竹野内豊とかちょっと役者のかっこよさにこだわりすぎて、内容が二の次になってました。

利家も登場した時からただ「まっすぐな男」で少しも成長しません。「変化のない大河」は、一年もやる必要がないのです。

ねね、まつ、千代。

まあ戦国の3賢女ですね。

実子が家を継いだのは「まつ」だけで、しかも3代目は「側室の子」ですから、3名とも彼女たちの血筋は残りませんでした。ねねには子はなく、千代は女子を生みますが早く亡くなります。

ねね、は豊臣家を残すことはできませんでした、というかむしろ家康の側についた感じが否めませんが、「生き方の達人」でありました。大坂の陣後、あらゆる面で豊臣家は抹殺され痕跡を消されましたが、彼女は生き延びています。彼女の寺である高台寺は1万石を超える所領がありました。家康死後も秀忠が彼女を庇護しています。
「天下様としての豊臣家は一代で店じまい。秀頼はそれなりの大名として生きていけばいい。」そう考えていたふしがあります。


まつ、は加賀120万石の礎を作った女性で、利家死後は「加賀は芳春院でもつ」と言われました。芳春院とは「まつ」のことです。
関ヶ原の前、家康の「最初の標的」は前田家でした。
が、「まつ」は長子である前田利家に家康の本意(乱を起こして天下を奪うという本意)を教え、自重させた上、家康の人質要求にも応じ、自ら江戸で人質生活を送ります。
利長が死に、3代目の利常が「側室の子」であったため、利常生母である千代保が人質となり、晩年、まつは金沢に帰ります。その数年後に亡くなりました。


千代、は「どこまでが創作でどこからが史実か」がわからない女性ですが、長く賢女の鑑とされてきました。
たしか墓の大きさが、山内一豊とさほど変わらず、その点からみると、やはり土佐藩を作った女性とみなされていたと考えてもいいかと思います。
土佐藩自体は「山内一豊の弟の子」が継ぎましたが、千代自身は京都に住み、京から二代目を指導したり叱ったり、無心をしたりしています。
その点からみても、やはり「創業者」とみなされていたのは確かでしょう。「馬の話」とかが本当かは分かりませんが。

TBSドラマ「関ヶ原」に出てくる「まつ」は魅力的です。もう尼さんですが。

二代目の「利長」にビシリといいます。

「利長殿には家康と天下を二つに割って戦う器量はない。あなたの器量では家を存続させることが限界。それでいい。母のことは忘れ、あなたは家の存続だけを考えればいいのです。それがあなたの器量です」

加賀藩は利家と自分が作ったという自負があって、初めて成り立つ言葉です。むろん、ドラマのセリフではありますが。

石田三成の勝利 小説の「関ヶ原」

2017年09月02日 | ドラマ
映画「関ヶ原」はさほど好評ではないようです。長い、分かりにくいとか。戦闘シーンは派手で好評なようですが。

難しいですね、主人公が死に、カタキ役である家康が栄えるわけです。へたに描くと「不条理劇」になってしまいます。

小説の方は、なぜ文庫3巻で「長い」のかというと、別に石田三成だけを描いているわけではないからです。

徳川、前田、島津、毛利その他、こういった勢力の動きを丁寧に描いています。むろん「すべてが史実じゃない」のは当然ですが、各勢力の動きは面白いし、史実と比較するのも「一興」なのです。

また「ただ一人、東軍から西軍へ戻った」という「伝説」のある田丸直昌など小大名にも触れています。だから長くなるのです。

さて、映画。

映画のエンディングは「見ていない」から分かりません。見た方のブログをみてもどう終わるのかが分かりません。たぶん初芽で終わるのでしょうが。

なぜかというと小説がそうなっているし、TBSドラマでも「初芽終わり」だからです。

TBSドラマだと最後に尼になった初芽を訪ねるのは本多正信ですが、原作では黒田如水です。

如水は「義なき人」が栄えていいのかという初芽に対し、まともには答えずにこう考えます。

「義」はことを興す大義にはなっても、本当に人の世を動かす原理にはなりえない。

さらに黒田如水は小説の中でこう考えます。

豊臣は既に政権としての魅力を失っており(朝鮮の役によってでしょう)、人々はひそかに豊臣が終わることを希求していた。

続くはずないものを続かせようとしたところに石田三成の根本的な矛盾があり無理がある。

ただ「たった一つのことにおいて三成は成功した」と如水は言うのです。(実際は口に出しては言いません。考えるだけです。)

「豊臣政権の滅びにあたって、三成などの寵臣までもが、家康のもとに走って媚びを売ったとなれば、世の姿は崩れ、人はけじめを失う。かつは置き残していった寵臣からそこまで裏切られれば、秀吉のみじめさは救いがたい。その点からいえば、三成は十分に成功した」

今、現在、この2017年段階において、石田三成の評価は決して高くはありません。「人の世のけじめを作った」と考える人も多くないかも知れません。

だから上記の如水の小説中での意見(ほぼ司馬さんの意見でしょうが)は、通用しないのかも知れません。

ただ江戸時代は違いました。儒教的倫理からすれば三成は「当然のこと」をした家臣だったからです。

もっともそれを公然と言うわけにはいきません。となると家康はどうだ?という話になるからです。

だから石田三成に代わって、島左近の行動と人間が大きく評価されました。史実としては毛利や島津への「根回し」すらできなかった島左近は「たいした武将ではない」と私は考えます。

しかし江戸時代においては武士の鑑とされました。石田三成の行動は賛美すべきものだが、賛美するわけにはいかない。それに代わって島左近の行動が賛美されたのです。

論理的には島左近も家康に逆らったわけですが、それは三成への忠義からであって、あくまで悪いのは三成。島左近は主人に逆らわなかった。そして「関ヶ原」という大事業をなしとげた。

今回の映画でも島左近は大活躍のようですが、この武将が(私的意見では)過大に評価されるのは、三成を公然と評価できなかった江戸時代からの、いわば「伝統」だと思います。

さらに加えれば、私は子供のころから「三成の柿の話」を知っています。少なくとも40年前までは三成もそれなりに高く評価されていたと思います。

蛇足
小説、原作での島左近は「武人」ですね。戦いにはやたらと強い。剣豪でもある。石田三成に対しては「殿と人が同じと思ってはいけない」などと三成の欠陥を指摘はしますが、指摘どまりです。
あまり積極的には動かないし調略等もしない。家康暗殺は企てますが、これも三成の反対でやめます。原作の方でも「素晴らしい武人ではあるが、調略等はできない」人物として描かれています。

宇喜多秀家の運命とドラマ

2017年09月02日 | ドラマ
宇喜多秀家、五大老の一人ですから、当然色々なドラマに登場します。

が、「彼自身が主人公になった」ドラマを知りません。岡山ローカルとかであるかも知れませんが。

前田家から嫁をとったことで、関ヶ原前年にお家騒動が起きています。が前田家から嫁をとったことで「長生き」はできました。

嫁とは「豪姫」で、突然のように映画になったりします。映画「豪姫」、若い日の宮沢りえが主人公です。

あんまり記憶にありません。録画はあるけど見直してもいません。

それから「母親がドラマの主人公」という珍しいドラマもあります。

「愛に燃える戦国の女-豊臣家の人々より-」。三田佳子さんが主演で、宇喜多秀家の母親です。

いかにも石井ふく子的と思っていたら、やっぱり石井ふく子作品でした。

司馬さんの「豊臣家の人々」が原作みたいになってますが、原作の主人公はあくまで「宇喜多秀家その他」であって、原作では当然、母親が主人公ではありません。

内容もなんだかトンデモ風でした。秀家が宇喜多直家の実子ではないってことになってたりしています。

TBSの関ヶ原では三浦友和さんで、それなりに存在感を出しています。

映画「関ヶ原」ではと思って調べると生島翔さんです。「誰やねん」と思って調べると、生島ヒロシさんのご子息のようです。

三浦さんは頑張りましたが、全体としてどうもドラマの世界ではぱっとしない存在です。しかし五大老の中で本気で徳川家康と戦ったのは宇喜多秀家のみです。

上杉景勝は伊達と戦い、東軍を追撃しません。毛利輝元は大坂にいますし、毛利家は動きません。動かないどころか一門の小早川秀秋は決定的な裏切りをします。

前田家では既に利家が亡くなっており、徳川側に立ち、最終的には120万石を安堵されます。

宇喜多秀家は五大老の中では一番石高が少なく60万石弱です。加えて秀吉の寵愛のみによって大大名となったというイメージも強く、さらに加えて「ただ真面目で柔軟性がない」というイメージもあり、ドラマの世界ではぱっとしないのだと思います。

でも普通に考えると西軍の実質的な大将は宇喜多秀家ですね。石田三成なんてのは19万石ぐらいしかありません。毛利は全く戦意なしですし。

関ヶ原後は島津を頼り、最終的には幕府に降ります。正室が前田家の豪姫であることもあり、遠流処分で、死刑にはなりませんでした。

84歳まで生きています。関ヶ原の大名の中では最も長生き、でしょうか。1655年まで八丈島で生きています。

大名ではないが、毛利秀元なんてのは生きてるのじゃないかと思ったのですが、1650年没みたいです。

もっとも真田信之は1658年まで生きていますし、晩年の90過ぎまで現役だったようです。宇喜多秀家より長命です。が、直接関ヶ原には参加しておらず、戸石城の攻略戦をしています。

関ヶ原から55年後まで生きたわけです。1655年没。1651年には将軍家光が40代の半ばで没し、時代は既に、4代徳川家綱の御代になっていました。