散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

本郷和人の本「天皇はなぜ万世一系なのか」

2019年12月29日 | 天皇
この本は「天皇はなぜ万世一系なのか」という題名です。「天皇は万世一系なのか」ではありません。

天皇は万世一系じゃない、、、と書いているわけではありません。一応「万世一系なのかも知れないが」という前提に立っています。

天皇が「万世一系か、そうではないのか」というのは「むなしい議論になっていく」しかないところがあります。天皇が「天皇を名乗る」のは天武あたりからで、7世紀の終わりです。それから1300年の間、「男系で万世一系であったか」は「科学的には確かめようもない」ことです。「一人でも不倫の子がいたら終わりで、性におおらかな日本で、そういう子がいなかったとは思えない」のですが、それも「科学的に証明できる」わけでもありません。古代や中世の天皇の骨が見つかったというニュースは聞いたことがありません。仮にもしそういうものがあったとしても、DNA鑑定なんて宮内庁が許すわけもありません。

だから本郷さんがここで展開しているのは、「どうして万世一系とされているのか」という点です。

話は実は単純です。

日本では「世襲が重要視されてきたから」というものです。

本郷さんの問題提起は「社会のリーダーは世襲であるべきか、才能であるべきか、いやそのどっちでもないのか」ということです。

明治になって世襲が否定されたわけですが、現在の政界や経済界を見れば、いわゆる社会的リーダーに世襲はごろごろいます。一方で「才能でのし上がった」人間もいます。

でも世襲主義にも才能主義にもそれぞれ問題がある。

で、筆者の結論は「世襲でも才能でも、徳を備えることが必要」というものです。ちなみに天皇制に関していえば、女系天皇でも全く問題はなく、「象徴天皇制として続く」のがよいのではないかというものだと思います。つまり「天皇制そのものはまあ、どうでもいいけど」という感じになっています。

筆者が書きたかったのは「日本社会では伝統的に世襲、才能、徳のどれが重んじられてきたか、その歴史」のようです。

男系天皇論議を傍観する

2019年06月15日 | 天皇
学問的には、つまりほぼ全ての歴史学者は、神武天皇は実在しないとしています。ほぼ全てですから例外もいます。安本さんとか。古田さんもそうかな。

元号が変わった時、神武とか男系天皇を巡る論議とかを「傍観」しながら、いろいろ面倒だなーと思っていました。

わたしの感覚だと、

・実在した天皇が6世紀の継体天皇からでも、何も困らない。

・BC660年頃に神武天皇というか天皇など実在するわけないし、実在しなくても何も困らない。

・万世一系じゃなくても別に何も問題はない。

・男系神話もありえないし、男系じゃなくても何も困らない。

わけです。

天皇制というのは法治国家上の役割であって、そこに何も神秘的なものは感じないからです。象徴天皇制に限定するならその歴史はまだ70年程度です。

それなのに「女系天皇が誕生すると日本が滅びる」的な感じで熱くなる方がいます。

そういう人に対して「神武天皇はいない」とか「万世一系は嘘だ」とか「女系でも何の問題もない」とかいうと「大変なことになり」ます。

だからこのブログはそんな主張をしてはいません。いませんから安心してください。「私の感覚」を書いているだけです。

「と学会」の元の会長だった山本弘さんが「南京大虐殺では論争するな」ということを書いています。相手は「無敵くん」なのだから無駄ということです。

万世一系、男系論者も「無敵くん」です。とても論破などできません。まあこっちも自分の感覚を信じているので、ある意味「無敵くん」なのですが。

山本さんは「南京では一万人は殺されたから大虐殺といっていいだろう」としながらも、中国に「謝る必要はない」とも書きます。

その理由は「だって僕は何も悪いことしてないもん!」というものです。

一般市民の私としては「その通り」なわけです。私は政治家ではない。従って自分が生まれてもいない時代に、日本人がやったことに責任をとることはできません。実際責任はないからです。生まれてないのです。

じゃあまた同じことをやるのかと言われれば「やるわけないじゃん」で終わりです。戦後日本人は「戦争では」「直接には」70年以上一人も殺してはいないのです。

もう少し真面目に書くと、私は南京大虐殺に関与していませんし、生まれてもいない、関与していない以上、反省もしないわけです。ただ、反省しないとしても、戦争におけるあらゆる残虐行為には反対だし、「知ることの重要性」は感じます。

さて、現代においても日本人が起こした殺人事件について、責任をとることなどできません。知らないところで知らない人がやったことです。

万世一系についても、別にわたしとは何の関係もないわけです。皇国史観の強制が今もあれば、関係してきますが、現代はそれも目立ってはありません。

つまり日本の天皇制が世界最長でも最長じゃなくても、男系でも女系でも、わたしには何の関係もない。それで私が偉くなるわけでもなく、卑しくなるわけでもありません。

日本の偉人として例えばIPS細胞の山中伸弥教授がいます。ノーベル賞もとりました。彼の研究は偉大です。しかしそれは彼が凄いわけす。同じ日本人だからと言って、私まで凄くはなりません。山中先生に何の協力もしていないし、会ったこともありません。

分けて考えることが必要だと思うのです。

大きな車に乗っていると気が大きくなる人がいますが、実際は車が大きいだけで、人間が大きくなったりはしません。

あくまで私の感覚を書いているだけなので、不快を感じた方はご容赦ください。ただウソは書いていません。

発音しにくい令和・中国排斥・でも万葉集は漢字で書かれている

2019年04月01日 | 天皇

今日は令和について色々書いてきました。本来、このブログは「日本史ブログ」です。政治的なことは書いてきませんでした。

でも令和の出典に関して、「しきりと漢籍排斥」が言われるのは、なんというか「滑稽」で「狭量の極み」という気がして、また少し書きたくなりました。でも「政治のことは書きたくない」のが本音で、「狭隘なナショナリズムと戦おう」なんて「戦意」は私にはありません。

元号は中国では紀元前から使っています。今は使っていません。日本では645年の「大化」が最初の元号です。つまり「元号そのものが中国由来」なのです。「漢籍排斥」に何の意味があるのでしょうか。しかも令和の出典である「万葉集」は「漢字で書かれている」のです。万葉仮名です。全部漢字です。「ひらがな」も「カタカナ」もなかったからです。

漢文ではないのです。まだ漢文を書く力を持った者は少なく、漢字の「音」を利用して書いています。時代が下ると、和製漢文で和歌を記すことが可能となったようです。「変体漢文」と言われます。わたしは詳しくはありません。

私が書いた「日本では大化が最初」も間違いです。「日本」という国名は成立していません。「倭国」です。「ワコク」か「ヤマト」と読みます。「日本」も「天皇」も、使用は早くて7世紀後半からです。これは「日本」で検索すればすぐわかることです。「天皇」で検索すれば、最初にこの「文字を使った」のが7世紀後半の天武天皇か持統天皇だとすぐに分かります。

天武天皇以前の大王は「天皇」と呼ばれてもいなかったし、「日本」という国号も使用されていませんでした。

なお天皇という号は13世紀で廃れ、再び使用されるのは19世紀初頭です。これは「光格天皇」で検索すれば分かります。

さて漢字・漢文について、

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。これは「土佐日記」です。女性が書いてはいません。紀貫之です。でも女性だと嘘をついています。なぜなら「かな」は主に女性が使うものだったからです。では男はどうやって日記をつけていたのか。漢文です。役所の公式文書も漢文です。土佐日記は10世紀の作品。この頃になると、男性は「漢文をつかいこなして」いたわけです。女性でも紫式部などは「漢文をつかいこなした」と言われています。

時代下って戦国武士にとっても漢文は重要でした。家康は大変な読書家で中国の「孫子」「論語」などを読んでいました。日本製の「吾妻鏡」なども「変則的な漢文」で書かれています。ちなみに家康は本当に読書好きで、やがて1万冊を集めた日本一の図書館を作ります。

私は「漢文が大切だ」なんて言ってるわけではありません。日本文化と漢文は「切り離せない」と言っているのです。「科挙」を採用しなかったおかげで、極端な中国化は起きませんでしたが、江戸時代に至っても、漢文は「基本的な教養」だったのです。

ここで韓国の「漢字排斥」に触れます。韓国は「科挙」を採用し、ずっと中国文化の深い影響のもとに政治を運営してきました。15世紀に国王世宗が「ハングルを発明」します。表音文字で日本で言えば「かたかな」です。でもやはり政治の公的場では「漢文」が主流でした。1910年まで。

ところがナショナリズムが台頭し、「中国文化を排除せよ」とばかりに漢字排斥・当然のことながら漢籍排斥(令和におけるような)が唱えられます。朴正煕(逮捕された朴大統領のおやじ)は、1970年に漢字廃止宣言を発表、普通教育での漢字教育を全廃してしまいます。「使用禁止」ではないのです。でも漢字を教えません。だからどんどん読めなくなります。漢字排斥が「文化破壊だった」と気がついた韓国は、今、漢字教育を復活させようともがいていますが、反対運動もあり、混乱しています。企業は漢字が読める人間を求め、だから金に余裕のある家庭は、学校外で漢字を習わせてきました。貧富の差が漢字力の差に連動してしまっています。漢字能力検定試験合格者を優遇する韓国企業が増えてきている、とのことです。娘の朴槿恵大統領が漢字「教育」復活を政策としたのは、「歴史の妙」というものでしょう。

1、歴史を「俯瞰的」に広くみるならば、日本文化と漢籍文化は切り離すことなどできない。
2、万葉集だって漢字で書かれている。
3、漢籍排除・漢字排除、、、韓国が行い、今はそれで困っている「文化破壊」を日本は行ってはならない。

 令和は「初めて漢籍ではなく日本の古典(国書)から選定された」なんて言って「一部の人々が」喜んでいるのは、実に滑稽である、というより交流する文化の本質、文化の複合性と重層性をわかっていない行為だと思えてなりません。

追記 私は知りませんでしたが、この指摘は面白いですね。

「令和」の二文字がとられた序文は中国の有名な文章をふまえて書かれたというのが、研究者の間では定説になっている。
 小島毅・東大教授(中国思想史)によると、(中略)「初春の令月」「風和(やわら)〈ぐ〉」が新元号の典拠(万葉集)だ。この序文(は実は)中国の書家である王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」を下敷きにしている。
 さらに「梅は中国の国花の一つで中国原産ともされ、日本に伝わった。『中国の古典ではなく日本の古典から』ということにこだわった今回の元号選びは、ふたを開けてみれば、日本の伝統が中国文化によって作られたことを実証したといえる」とも指摘する。(引用ですが、勝手に中略をしています)

天皇が神武天皇にお祈りしても、個人的迷惑は受けないのだが。

2019年03月31日 | 天皇
平成も終わるようです。で、天皇が神武天皇陵、四条ミサンザイ(古墳)に参拝したそうですが、なんともいえぬ「違和感」「変な感じ」を覚えます。

たぶん「皇室の行事」であって、「政府の行事ではない」のでいいのですが。心情的には「違和感」です。

だって神武天皇なんていません。いないのだから墓はありません。「一体誰に参拝しているのだ?」ということです。

紀元二千六百年という歌があります。戦争中の1940年に作られました。「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」を祝して創作された国民歌、だそうです。

それから79年が経っています。今なら「紀元は2679年」ということになります。

つまり即位したのは2679年前です。西暦なら紀元前660年。

「縄文時代になってしまうではないか!縄文時代の天皇なのか!」ということです。

これでは「あまりに苦しい」ということなのか。神武天皇は4世紀の人だという方もいるようです。4世紀は便利です。「空白の4世紀」で資料がないので、なんとでも言えます。

天皇号の使用は7世紀後半です。私は最初の天皇は天武天皇だと思っていたのですが、推古天皇説もあるようです。誰が推古天皇を主張?と思って調べる外人さんのようです。どうやらやはり最初に天皇号を使用したのは天武天皇であるってのが「今のところの定説」みたいです。紀元後670年ぐらいです。それ以前の「天皇」は少なくとも「天皇と呼ばれてはいなかった」ということになります。その後も天皇という「文字の使用」は長く中断したことが分かっています。

では、実在の「大王」は誰からか。

大王って号も使用された、いないの説があるみたいですが、

私は実在した大王は、崇神天皇(大王)(3世紀末)だと思っていたのですが、どうやら最近の学説では雄略天皇(大王)(5世紀半ば)みたいです。まあ考えてみれば3世紀は卑弥呼の時代ですから、そんな時代に大王がいたってのも変な話です。

本当の本当に確実なのは「継体天皇(大王)」からみたいです。確実なわりには在位年代が確定していません。5世紀末、あるいは6世紀初めのようです。この継体天皇(大王)は面白いですね。なにしろ「記紀」によると「応神天皇(大王)の5世の孫」だからです。相当な「遠い親戚」です。

つまり「神武天皇は大王レベルで4世紀に実在した」としても「最近の学説に照らせば」、無理があります。崇神大王より後の4世紀の大王とすると「最初の天皇」という「建前」が崩れます。

長く書く必要はないのです。いるわけない。つまり神武天皇陵、四条ミサンザイ(古墳)は「誰の墓なのかもわからない」わけです。

「皇室の儀式だから、やめるわけにはいかない」ことは分かってはいるのです。でも違和感を感じます。また「本当にやめられないか」とも思います。

私は憲法に規定された「象徴天皇制」「立憲君主制」に反対はしていません。でも昭和天皇の「いわゆる人間宣言」の精神が重要だと思う人間の一人です。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ

これは別に「天皇家の儀式を否定したものではない」ので、天皇が神武天皇にお祈りするのは自由です。でも自由だからと言って堂々とやられ、それが大々的に報道されると、「神話と伝説」「架空なる観念」と「また天皇制がつながってしまう」という危惧を覚えます。それは「象徴天皇制の危機」を意味します。というわけで「迷惑は受けないが」、違和感は大きく感じます。