散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

天皇制への雑感

2018年01月27日 | 日記
平成も31年で終わるようです。どうせならキリのいい30年と思いますが、色々難しい側面があるのでしょう。

天皇制というものは、私にとってはかつては好悪の対象でした。が、今はそれほど好悪はありません。あくまで「考える対象」です。

私は学者じゃないので研究対象とは書きませんが、まあそんな位置に天皇制は存在しています。

天皇は「世界で唯一のエンペラー」です。他国に領土を持たないエンペラーなんて存在しえないと思いますが、とにかくエンペラーです。

天皇制ができたのは、うーん、天武朝の時代でしょうか。天武が天皇号を使った最初の人物というのは定説化しつつあるようです。7世紀後半ですね。

6世紀最末期または7世紀前半、推古朝、厩戸王の時代だという説もありますが、証拠になる木簡の信頼性は高くはないようです。

とにかく天皇号ができた7世紀、まあその前から、日本は「小帝国」を目指していました。中国への対抗です。

といっても他国がない。仕方ないのでエミシとかハヤトを日本の外の存在として、彼らを他国として、皇を名乗りました。

それから江戸まで、日本はずっと帝国じゃなかったのですが、それでも天皇でした。

個人的には、かつては存在する必要はない、と思っていましたが、今は「存在してもいいじゃないか」と思っています。

象徴天皇である限りにおいて、実際の政治に対する「一種の重し」にもなっているでしょう。

今のように権力志向が強い人間が総理の場合、その暴走を「暗黙のうちに」多少なりとも抑える役割はあると思います。

「神がかり」的に天皇制を考える人がいますが、彼らの思考も「研究対象」というか「面白いな」と思います。どう育つとそうなるのだろ。

まあ「神がかり」さんの半分ぐらいは商売右翼でしょうが。ネットの場合でも「自分の意見に賛成してもらえる」というメリットがあります。

私なぞは「別に賛成は求めません」という立場なので、商売右翼をする必要は全くないのです。

1980年ぐらいまでは明治大学の前には「天皇制打破」という大きな看板があったように記憶していますが、今は共産党すらそんなことはいいません。

時代は動いていくものです。



西郷どん 西郷隆盛の日本での評価について

2018年01月26日 | ドラマ
韓国に行った時、もう十年以上前ですが、秀吉と西郷が随分と悪人扱いされていました。むろん伊藤博文もです。

北朝鮮情勢とか、敏感な問題がある時に、「日本でも既にほとんど人気がない西郷」をあえて主人公にする必要はあるのかな、と思います。

昭和の40年代ぐらいまでは、西郷も秀吉も随分と人気がありました。が今は秀吉より織田信長、西郷より坂本竜馬というのが、日本の雰囲気です。

朝鮮政策との関連で、戦前戦中は「軍部によって」随分と秀吉と西郷は「実像以上に持ち上げられて」いました。その名残が昭和までは生きていましたが、今はそんなことはない。「西郷隆盛を尊敬しています」なんて小学生はほとんどいないでしょう。

西郷が「無私の人」であった。または無私の人を目指していた、ことは間違いありません。

明治維新に対しても、長州よりは劣りますが、貢献は大きくありました。

が、西郷自身には、近代国家の青写真はほとんどありませんでした。むしろ近代化を嫌っていたと言ってもいい。

彼が幕末期にとった行動の多くは、なくなった主君である「島津斉彬の遺志」に沿ったものでした。むろん軍隊の近代化ぐらいの見識はあったでしょうが、それによって武士の世が終わることに対しては、忸怩たる思いをもっていました。

彼は東洋的漢学の素養しかなく、しかも武士を愛していました。彼に近代的軍隊を動かす力はなく、彼の軍事権は、明治後すぐに、当然のこととして、近代軍隊の専門家である村田蔵六によって奪われます。

明治の世になった時、彼はつくづく自分が「既に無用の人間である」ことを悟ります。それも悟れず、明治の顕官として威張っていた人間より、そこは多少ましですね。ちなみに大久保は違います。大久保は明治になってむしろ彼の本領を発揮していきます。

で、朝鮮に行って死のうとするわけです。いわゆる征韓論です。朝鮮で西郷が死ねば、日本朝鮮の関係は限りなく悪化しますが、それによって「朝鮮にも維新が起きる」と西郷は思っていました。

近代化を嫌いながら、近代化の必要は当然わかっていました。しなければ、列強の植民地となる。

日本、中国、朝鮮が近代化して、東アジア全体で列強に立ち向かう。これが亡き君主島津斉彬のビジョンであり、西郷の行動はこの遺志にどこまでも沿ったものでした。西郷なりの殉死の姿が朝鮮で死ぬことだったでしょう。

あるいは、西南戦争すらそうかも知れません。西郷に対して「ひいきめ」でみるならば、「薩摩武士と共に滅んで武士の世を終わらせる」というビジョンであった可能性もあります。誰にも言わないから、資料なんてありませんが。

明治の高官たちには、西郷が薩摩武士とともに滅んでくれたことに、ひそやかな感謝があったかも知れません。日本最後の内戦を起こした人物の銅像が、上野に堂々と建っていることも、そう考えれば納得がいきます。



西郷どん、を二回みて。

2018年01月19日 | ドラマ
西郷どん

まったく期待していなかったのですが、その考えは今も変わっていません。

「西郷糸」を「運命の女性」とか、、、そんな話聞いたこともありません。

脚本も見事にお粗末。

青年期の西郷は下役人で、たいしたドラマ性もありません。

西郷が西郷になるのは、島津斉彬の薫陶を受けてからです。

それなら、一回目から島津斉彬を登場させようということで、渡辺謙さん演じるところの斉彬が一回目から「薩摩にいる」ことになっています。

「江戸には影武者を置いてきた」とのこと。そんなアホな。

ファンタジー大河か、という感じです。ありえないにもほどがあります。

島津の跡取りが江戸を抜けて薩摩に帰る、いくらなんでもそんなことを幕府が許すわけも、気がつかないわけもありません。跡継ぎは江戸にいること。幕府の根本政策です。

史実じゃないとかいう話ではなく、史実にこだわっているのではなく、リアリティの問題。

「ありえない話すぎてリアリティが全くなくなっている」ということです。

ドラマ「エクソシスト」と映画「エクソシスト」

2018年01月16日 | ドラマ
全くネタバレを気にしないで書きます。つまり海外ドラマ「エクソシスト」のネタバレを含みます。

映画「エクソシスト」。何回もTVで再放送されています。DVDでも見たし、結構な回数観ています。

ほとんど「息抜き」がないのがこの映画の特徴です。徹底的に「シリアス」です。エクソシストであるカラス神父も、メリル神父もほとんど笑いません。全く笑うシーンがないかも知れません。

「シリアス」といっても「現実的」とか「リアル」とかいう意味ではありません。要するに見るものに「余裕を与えない」作りになっているのです。

いい映画だと思います。エクソシスト2も3も見ました。「2」は結構面白い作品です。「エクソシストビギニング」も見ています。

つまり映画のほうはかなり詳細にみているのです。

で、海外ドラマのほうの話。TVシリーズのエクソシスト。たぶん2017年製作です。10話構成です。

こっからネタバレしますよ。

第一話、映画版に似たシーンから始まります。簡単にいうと「犬が吠えて」ます。これ、映画版の最初に出てくる。流石に「イラクから始める」なんてことにはなってません。

で、マーカス神父というベテランエクソシストが登場します。映画だとメリル神父ですね。

うん?と思いました。結構品がないのです。「あらくれ者」みたいな感じ。メリル神父は紳士でしたから、だいぶ違います。

もっとも「エクソシストビギニング」の若き日のメリル神父には似た感じです。というより、若き日のメリルをもとに、マーカスが作られた感じがします。

とにかく老紳士なんかじゃなくて「戦う祈祷師」って感じです。むろん教皇庁とも戦っています。働き盛りで行動的で、多少不良性があります。

で、とある夫婦の二女ケイシーが悪魔につかれるのです。エクソシスト新米のトマス神父はマーカスとともに、戦います。

戦うのは悪魔とだけではなく、政府ともかな。エクソシズムは児童虐待ということで、警察に中止され逮捕されたりもする。こういう点、現代的です。

「とある夫婦」と書きましたが、全然「とある夫婦」なんかじゃない、ことが後半でわかります。ケイシーの母の「アンジェラ」は改名しており、元々の名は「リーガン」です。

つまり映画「エクソシスト」のリーガンが、40年たって改名して「アンジェラ」になっているのです。第一話で「エクソシストのテーマ」が流れますが、音楽だけじゃなく、完全に「映画と連続した話」ということになっているのです。

女優であるリーガンの母も登場します。リーガンとはすっかり縁遠くなっていたのですが、この事件を機に再会です。それは不幸な再会に終わるのですが。。。

まあまあ「見てはいられる作品」かなと思います。映画と比較したら質は落ちますが、そこそこ仕上がってはいます。

マーカス神父はメリルのようなシリアスな存在であって欲しいのですが、ジョークを飛ばしビールを飲むアメリカンで、そこはどーかなと思います。

トマス神父も人妻と付き合ったりしていて、これまた現代的。あのまじめなカラス神父に比べると随分と不真面目です。作品内では「真面目キャラ」という扱いですが。

シリアスな感じが足りない、が私の不満です。シリアスじゃないと怖くないのです。

あと悪魔が人格をもって話したりするのも「どーかな」です。映画だと「悪魔は悪魔」です。バズズはバズス。なんで「とりつく」のかも分からないし、徹底的に不合理な存在です。

でもTVシリーズの方は人格化されていて、演じている役者もいて、悪い意味で人間的になりすぎています。

テーマはなんだろう?神の存在証明ではないですね。キリストの力が悪魔を滅ぼす、はまあ映画と同じく重要テーマです。あとは「家族の絆が悪魔を滅ぼす」でしょうか。家庭向けに家族愛の力が賛美されています。

悪魔の計画みたいのも出てきて、それが教皇暗殺なんですが、ドラマに社会性を持たせようとして手を広げ、失敗している感じもします。

娯楽性をもたせるのか、視聴者を氷つかせるほどシリアスでいくのか。僕は後者の方が良かったと思いますが、そうはなっていません。

それでも見ていられたのは「映画と完全に連続している」ということが後半になってわかるからです。女の子がおかしくなって、エクソシストがそれを祓う、だけではとても10話も見ていることはできなかったでしょう。

そこそこの作品で、見ても大きな損はしません。大きな得もしないけど。