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「ドラマにできる大久保利通」・江藤新平・山内容堂・大村益次郎おまけで麻生太郎

2018年11月06日 | ドラマ
大久保利通という政治家は基本的には公正無私で、生活は質素であり、無口で仕事は厳密にこなす、同時代人で悪くいう人はあまりいないようです。

エピソードも西郷に比べればはるかに少ない人物です。

が、以下のようなシーンならあるいは「ドラマにできる」かも知れませんし、実際「ドラマになったシーン」も含まれます。「ほぼ史実」だと思います。

・大久保に何か言いたくても言えない桐野(半次郎)が、酒の勢いで大久保に意見しようとする、しかし、大久保にちらっと「一瞥」されただけで、あの桐野が委縮して黙り込んでしまった。

・中江兆民が大久保に自分の意見を披露した。大久保は目を閉じていた。眠るとは失礼と中江兆民が不満を述べた。大久保は「よく聴くために目を閉じている。私が見ていては君も話しにくいだろう」と応じた。

・警備を重くしろという周りの忠告を聞かなかった。死ぬとすればすべて天がなすものとして、厳重な警備をしなかった。(もしかすると川路大警視は大久保に警備をしたいと言って、断られたのかも知れません)

・江藤新平の佐賀の乱鎮圧時は強権を発動した。明治後であるのに、江藤を追いつめ「さらし首」にした。これは不満氏族への見せしめと言われているが、必ずしもそれだけではない。江藤新平と大久保は国家観が近く、国家の仕組みを建設する能力が高いことも同じであった。明治初期においてはただ一人「江藤新平」のみが自分と匹敵するような男と思っていたふしがある。

・伊藤は西郷など尊敬していなかったが、大久保を深く尊敬し、それは終生変わらなかった。ちなみに伊藤は木戸も尊敬はしていたが、「口うるさい兄貴」という風にも思っていた。

・慶喜討伐を話題にした御前会議で山内容堂に意見し、「何をいいやがる」とどやされた。(慶喜は領地を返還しないから朝敵というのが大久保の論でしたが、領地返還をまだしていないと言えば、土佐も薩摩も長州も同じでした。そこをとらえて容堂は「何をいいやがる」と叫んだわけです。当時大名はそんな言葉はまず使いませんでした。)

・予期せず暗殺された時、西郷隆盛からの手紙を懐に持っていた。(いつも持っていたということ)

兵制論争
大久保利通は長州の大村益次郎とは兵制改革をめぐって「大喧嘩」をしています。兵制改革とはつまりは国民皆兵で、武士の誇りを奪うものです。大久保は「ソフトランディング」を目指しました。「薩摩の反発と暴発」「島津久光の動向」が頭にあったためでしょう。大村は至急なる「兵制改革」を主張します。論争に敗れた大村は辞表を出しますが、結局大村以外はできないということで、また軍政のトップに戻ります。ただしほどなく暗殺されます。大村暗殺は不平士族の犯行ですが、「黒幕」には大久保ではなく、薩摩の海江田がいたと言われています。
大村にも「久光の影」は見えていたでしょう。しかし長州の出身ですから殿様の意向なぞに重きはおきません。しかも久光は殿様ではなく、殿さまの父親に過ぎません。「薩摩の反発と暴発」は予想していました。「やがて九州から足利尊氏の如きものが現れる」と予感していました。その時こそ薩摩を叩き潰し、武士の世を終わらせる。大村はそう考えていたでしょう。大久保も同じだったでしょうが、「それにはまだ時間がいる」と考えていたのだと思います。


おまけ
麻生太郎氏、どうも彼の政治姿勢というか「傲慢な態度」には下品さしか感じません。経済政策にも賛同はできません。が、一応は大久保利通の「孫の孫」みたいです。
矢印で示すと大久保利通→牧野伸顕→雪子→和子→麻生太郎となるようです。孫の孫ですから玄孫。ちなみにひ孫は「孫の子」です。


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