散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

上杉謙信のイメージ・戦国武将総選挙2位なのはなぜか

2019年12月29日 | 上杉謙信
戦国武将総選挙で「上杉謙信が2位」でした。武田信玄は7位です。

謙信を主人公にして圧倒的に人気のあるマンガでもあるのかなと思ったのですが、そうでもないようです。ただし「雪花の虎」という作品はあるようです。謙信女性説に基づくみたいです。

順位をみると「大河ドラマの影響が強い」ことが分かります。あまり描かれない島津とか長曾我部は20位以内に登場しません。一方、上杉景勝が20位です。真田丸の影響でしょう。

上杉謙信は60年代に「天と地と」で、「一回だけ主人公に」なりました。これは映像がほぼ残っていないので、この作品の影響は大きくはないでしょう。ただし「天と地と」は小説としては読まれていますし、映画にもなりました。海音寺さんです。

その後80年代の終わりに「武田信玄」で準主役となります。柴田恭兵さんでした。

しかし「2位になった理由」としては、何と言っても「風林火山」のガクトさん。そして「天地人」の阿部寛さんの影響が大きいでしょう。とにかくカッコいいのです。

大河「風林火山」をどう評価すべきなのか。「昔の大河ドラマ」を意識して作られています。コメディ要素やホームドラマ要素はかなり減っています。主人公は山本勘助でカッコよくない。最後のほうは隻眼の上に丸禿で、まるで丹下段平のようです。

「シリアスな作り」は評価すべきなのかなと思います。ちなみに武田信玄もカッコよくない。そういう中にあってガクト上杉謙信だけが圧倒的にカッコいいのです。僧形にもなりません。ずっと長い髪です。

阿部寛謙信はラオウのごとき勇者です。ガクトさんとはだいぶ違いますが、軍神そのもので、やはりカッコいい。

その大河の影響に加えて、「公平や義を重んじる」というコンプライアンス遵守の姿勢が、現代に受け入れられているのかも知れません。さらに「あの織田信長に手取川で勝った」ことになっている影響もあるかも知れません。これはたぶん「勝ってはいない」のですが。


ここ以下は蛇足、今までも蛇足みたいなもんですが。


小説の方の「天地人」の冒頭で、直江兼続が「川中島は無駄だった」と思うシーンが出てきます。越後の龍と甲斐の虎が争っている間に、天下は織田のものになってしまったではないか、と考えるわけです。徳川幕府のもとで、家康の終生のライバルだった武田信玄は、その実力がデフォルメされ、信玄のライバルだった謙信もデフォルメされます。織田は、浅井とか朝倉、六角といった「弱い大名と戦った」から勝ったが、神君家康は「武田信玄や謙信を相手にしてたんだぞ」というわけです。そういうカラクリを知ってしまうと、どうもごく普通の感覚で「信玄や謙信をあがめる」気持ちにならなくなります。

謙信は領土拡大の野心を持たなかったと言いますが、これも実に怪しい。「持たなかった」のではなく、それほどの権力がないために「持てなかった」のではと思います。つまり国人の領土安堵が精一杯で、自らの領土するほどの権力は持っていなかったのでは。

このあたり、各学者さんはどういっているのか。少し勉強したいと思います。

上杉謙信というのは「おもしろそうだな」とは思うのです。軍神で越後を強大な権力でまとめていた、なんてことはないようです。「家臣が争いばかりなので逃げ出した」なんてのは有名なエピソードです。「小田原城を囲んだ」わけですが、これも不思議です。越後にいるのです。それが甲斐を迂回して相模に行く。でも小田原城をおとせません。で引き上げてしまう。味方した関東衆は「ふざけんなよ長尾」と思ったようです。気まぐれなのです。ということで色々「人間的弱点が多い人」で、そこは「おもしろそうだな」と思います。

上杉謙信・小田原城包囲・近衛前久

2019年03月18日 | 上杉謙信
近衛前久、1554年から1568年まで関白です。上杉謙信と親交があり、織田信長ともあります。信長の甲州征伐に同行したとありますが、本当でしょうか。とにかく「いろんなところへ行く」人です。本能寺の変後は徳川家康とも近くなります。さらに豊臣秀吉を「猶子」にもしています。

本能寺の変の時、明智側は近衛前久の邸宅の上に乗って二条御所を攻撃したといわれており、そのため、「なにかというと本能寺の変の朝廷側の黒幕」とされちゃう人物です。

上杉謙信と気が合って「室町幕府再興」を語り合った、というのは「どうやら本当」みたいです。

謙信のことを書こうと思っているのですが、近衛前久の話が先にきてしまいました。

さて謙信。大河ドラマに「意外と出てこない」人です。主人公になったは1回。石坂浩二さんの「天と地と」、覚えていません。

「武田信玄」だと柴田恭兵さん。「風林火山」だとガクトさん。ガクトさん、たしか最後まで「白頭巾をかぶらなかった」ような気がします。「天地人」にも少し出てきました。阿部寛さんです。

結局何をやりたかったのか、よく分からない武将です。

というより、「自分から能動的に何かをしたい」と思っていなかった「ふし」があります。

兄から越後守護代を譲られた時も、「しぶしぶ引き受けた」ようです。奪い取った説もありますが、実態は「しぶしぶ」だったようです。1548年。満18歳です。

その後「関東管領職」を上杉氏から譲られますが、これもやりたかったのどうか。そもそも越後ですから関東から少し離れています。

で、「関東管領並み」になって北条氏を成敗しようとします。「小田原城包囲」です。1561年、満31歳です。1530年生まれですから年齢計算が楽です。

なんで新潟にいる人間が神奈川の小田原城を囲めるのか。ルートを調べると、新潟から群馬に入り埼玉そして東京、で神奈川に入って小田原包囲みたいです。

「反北条氏感情」を持っていた国衆たちがこぞって参加し。10万を超える軍勢になりましたが、小田原城は落ちません。「食料等」「農作業等」の関係で秀吉みたいな「長期滞在」はできませんから、1か月ほどで退陣します。

この「小田原城包囲」でかなり体調を崩したようです。温泉にばっか行っていたようです。

そうこうしているうちに、武田信玄が騒ぎ出す。で、第四次川中島合戦に突入します。北条との戦いもやめられません。

信長の足利義昭追放までは織田家との関係は良好でした。信長が自分に代わって「幕府を再興してくれる」と信じていたのかも知れません。

それでも足利義昭が「上洛しろ、上洛しろ」と言うので、「義昭追放の前」から上洛には意欲はあったようです。で地図で言えば越後の「左にある」越中に軍を出します。でも一向一揆の抵抗があってなかなかうまくはいきません。

そのうちに義昭は追放されます。で、織田との対立です。柴田勝家がやってきます。これが1577年です。「手取川の戦い」で「大勝利」というのは「ちょっと嘘くさくて」、「七尾城が落ちたので、援軍をやめ引き返そうとした織田軍を追撃した。引き返そうとしているのだから戦闘意欲は薄く、その上、手取川が増水して織田軍がおぼれた」というのが実態みたいです。でも勝利です。

その翌年、たぶん脳溢血で急死します。満だと48歳、一般には49歳とされます。

今のところ「室町幕府を再興して、室町的秩序を回復したかったのかな」と思えます。「かな」です。もう少し調べてみないと、断定的には言えません。



御館の乱の「描かれ方」・上杉景勝・上杉三郎景虎

2019年03月13日 | 上杉謙信
大河「真田丸」に出てきた上杉景勝・上杉家は「相当衰退して」いました。番組内では説明がなかったのですが、単に「上杉謙信がいないから→衰退した」わけではありません。

謙信死後に内乱があったから衰退したのです。

単純に書くと、

上杉謙信の死→御館の乱(上杉景勝と上杉三郎景虎の戦い)→景勝の勝利→でも上杉家は衰退→信長の侵攻→滅亡寸前→本能寺の変→秀吉の配下へ→会津120万石→関ケ原→米沢30万石→その後15万石

となります。

謙信の死後、越後で「内紛」が起きます。戦ったのは謙信の甥(姉の子)である上杉景勝と謙信の養子である上杉三郎景虎です。景虎は北条氏の息子です。ちなみに景虎は謙信の俗名と同じです。だから三郎景虎と書くのです。

信玄でも謙信でも、「家臣をまとめる」には相当苦労したようです。武田の場合、遺言があり勝頼以外に適当な当主候補がいなかったことと、長篠で宿老が沢山死んだために、「内紛」までは起きませんでした。でも、滅亡段階を見ると武田もバラバラ状態です。勝頼はよくやりましたが、それでも「家臣をまとめる」ことは無理だったようです。

上杉家の場合、「謙信の遺言がどうやらなかった」らしいのです。それで景勝派と景虎派に分かれ、正面衝突です。景虎は北条の出身でしたが、才気に溢れ謙信に気にいられていました。景勝は謙信の姉の子ですが、「親父を殺したのは謙信ではないか」と思っていたふしがあります。その上、才気煥発でもなかった。しかも謙信とは違う流れの長尾氏です。で、「甥だから家督を継ぐ」とは簡単にはなりませんでした。

この点は大河「天地人」でやや詳しく描かれました。

謙信後の上杉家の内紛、これが「御館の乱」です。最初は景虎が有利でしたが、景勝が盛り返し、武田に領土を譲ったり金を払ったりして味方につけ、結局景勝が勝ちます。

この過程で活躍したのが直江兼続です。(活躍なんかしていないという人もいる)

「御館の乱」なんて「天地人」の火坂雅志さんぐらいしか描いていないかと思ってましたが、他に描いた人もいます。

伊東潤「北天蒼星、上杉三郎景虎血戦録」です。

天地人は景勝側から描きました。伊東さんは景虎側から描いています。

面白い小説なんですが、一点だけ「非常に残念な点」があります。

あまりに景虎に肩入れするあまり「上杉謙信を殺したのは上杉景勝・直江兼続である」という「謀略論」を採用してしまっているのです。

必要ないと思います。普通に49歳で脳卒中で死んだでいい。そもそもあの段階で謙信を「暗殺」したりしたら、「上杉家そのものが潰れる」可能性があり、実際本能寺の変がなければ滅亡していました。だから「暗殺」はありえないと思います。

史実が「多少あやふや」だと、なんでもかんでも「謀略・暗殺」にしてしまうのは、小説家の悪いくせです。伊東潤「北天蒼星、上杉三郎景虎血戦録」は悪くない作品なので、謀略論を採用してしまったのは非常に残念。リアリティがぐんと落ちてしまいます。

そもそも景虎の方が後継者候補だった、ぐらいまではいいのです。だからと言って景勝・直江兼続が上杉謙信を殺したとされると、ちょっと「やりすぎ」のような気がします。

それにしても謙信が後継者をはっきりと明示していなかったのは確かで、その点は謎です。そもそも謙信自体が謎だらけの人で、だから「女だった」なんて論も堂々と書かれたりするのです。

さて御館の乱で勝利した上杉景勝と直江兼続。なんとも残念な主従です。関ケ原段階で「上杉には徳川と戦う気があった」という前提で考えると、「どうして東軍を追撃しないのだ」という疑問が残ります。最上や伊達がいたから、徳川秀忠もいたから、などが考えられますが、よくわかりません。

「天地人」(小説)では「敵を後ろから襲うのは上杉の義に反する」とか書いてありますが、そんなアホな。

「上杉にはそもそも東軍と戦う気はなかった。が攻めてきてしまった。ところが三成が挙兵して東軍が西に向かったので安堵した。」と主張する人がいますが、説明としては理にかなっています。

上杉景勝はとてものこと名将とは言えないので、直江兼続がやたらと「持ち上げられ」ますが、やったことと言えば、上杉を30万石にして、その貧乏所帯を支えたことぐらい。あと徳川に取り入るために本多正信の息子を養子にとったりもしている。「武士の鑑」とはとても言えない。

「天地人」は天と地と人に恵まれた直江兼続が主人公なんでしょうが、ちっとも恵まれていない。史実から見れば「天地人」はどう考えても徳川家康・秀忠親子です。

最後に、、、御館の乱を考えると非常に大切なことが一つ分かります。それは上杉謙信と言えど「国衆たちの盟主に過ぎなかった」ということです。国衆に対して絶対的命令権を持っているわけではない。第二世代である謙信の立場はそうなのです。それが第三世代である織田信長(謙信と年の差はほどんどないが)、になると、専制君主的強権を手にしていきます。そしてその「専制君主的姿勢」が、信長の命を奪いました。秀吉の場合も「専制君主的姿勢」が他の大名に忌避されたのだと思います。家康はそこをうまく考え、「盟主みたいな専制君主」という微妙な立場に立ちました。そこが徳川の成功の秘訣だと思います。

大河の中の上杉謙信・上杉景勝・直江兼続・上杉家・米沢藩

2019年01月21日 | 上杉謙信
上杉謙信

これだけ高名で、戦国最強説もありながら、大河ドラマで主役になったのは「たった一回」。それも私も覚えていないほどの昔です。石坂浩二さんの「天と地と」。

正義の人過ぎて面白くないのか。衆道(確証はなし、それに衆道なんて信長だってやっていた)がいけないのか。理由はわかりません。信玄が主人公の場合は副主人公にはなります。柴田恭兵さんとかガクトさんが演じました。

上杉家そのものは大変古い家です。足利尊氏の母が上杉氏です。謙信の若い時代、越後の守護は上杉定実(さだざね)でした。が、跡継ぎなく死んだため、将軍義輝は長尾景虎を守護並みにします。この長尾景虎が上杉謙信です。もっとも守護になる前から権力そのものは長尾家にありました。

上杉謙信は大層な酒好きで、50歳を前に、おそらく脳溢血であっけなく死んでしまいます。西に向かって動き出した時でした。そのあたりは「天地人」で描かれました。役者は阿部寛さんです。

毘沙門天に誓って女色を断っているわけですから、当然子供がいません。しかも悪いことに跡継ぎを指名していませんでした。そもそも越後だって一枚岩ではなく、派閥はありました。で、謙信の甥の上杉景勝を押す一派と、北条家からの養子の上杉景虎を押す一派で跡目争いが起きます。御館の乱です。これによって上杉家の力は相当落ちました。これも「天地人」で詳しく描かれています。どこまで史実かは微妙ですが。

「真田丸」に出てきた上杉景勝(遠藤憲一)は少し情けないところがありました。御館の乱によって謙信時代の上杉家の威光はもはやなくなっていたからです。「真田丸」は描きませんでしたが、織田信長に攻撃され、本能寺がなければ、おそらく滅亡していたでしょう。

重臣の直江兼続が頑張って、本能寺後の動乱をなんとか乗り切ります。豊臣秀吉からは江戸の抑えとしてか、会津120万石をもらいます。その前の越後時代は40万石程度でした。ちなみに謙信時代は最大で150万石程度(計算によって様々、商業収入も多かった)と言われています。

関ヶ原段階での行動は疑問が多いと思います。前田家が回避した家康の挑発を何故回避しなかったのか。直江状は本物なのか。そもそも徳川家と本気で戦うつもりだったなら、何故無理してでも軍勢を西に向けなかったのか。家康を挟み撃ちにするという作戦(存在したか分からないが)は机上のものとなり、結局は伊達と一生懸命に戦うはめになっています。

直江兼続は「天地人」でもなんでもなく、一生懸命上杉家の生き残りを図った人としか言えないような気がします。

それでも生き残りはできて、結局30万石になります。米沢藩です。しかし比較的早期に家督断絶によって改易の危険が生じます。が、徳川家光の弟、保科正之の助けで、なんとか家は存続します。しかし15万石に減封されました。江戸末期は19万石だそうです。

大河に上杉が登場するのは戦国時代だけではありません。徳川綱吉時代の「忠臣蔵もの」でも登場します。吉良の実子が上杉家の養子になって、上杉を継いでいたからです。親父を守ろうとして上杉綱憲は騒ぐが、重臣に止められる。というのがお決まりのシーンです。

もう一人、米沢藩には9代上杉鷹山というスターがいますが、大河に出たことはありません。大河にしても「道徳劇」みたいになってしまうからかも知れません。